地球外生命論

特集・地球外生命論

地球外知的生命探査(SETI)と文明論

 映画「インデペンデンス・デイ」や「マーズ・アタック」の大ヒットに見られるように、宇宙人の存在は今なお我々にとってきわめて人気のある問題の一つである。最近では米軍が「ロズウェルUFO墜落事件」の噂を完全否定する声明を発表する(この発表内容については当局がUFOにかこつけて軍事情報セキュリティを守ろうとする意図が見え見えだが)など、「宇宙人ブーム」は終わる兆しを見せない。

 この「宇宙人ブーム」(そう呼ぶことが許されるなら)は、決して我々の時代だけのものではない。かの大哲カントも『星辰の居住者について』と題した著作で他の星にすむ人の存在を論じていたりと、我々人類の精神史の中に一つの流れを形成しているのである。

 宇宙人はいるのだろうか?もしいるのならば、我々に向けてメッセージを送っているのではないだろうか?現代において、そうした考え方から試みられたのが、地球外文明からの電波をとらえようとする「SETI計画」である。

 しかしこのSETI計画も資金不足でとん挫寸前となってしまった。SETIは、当然のことながらその活動による直接的な効果が望めない。SETI関係者らは、今も資金獲得のため一般からの寄付を呼びかけるなどの活動を行っている。

 時折、SETIが成功すれば、地球よりはるかに進んだ地球外文明からの情報によって人類の科学技術や文化に飛躍的な発展がもたらされる可能性があるとしてSETIの実質的利益を宣伝するような議論が見られる。しかし我々は、たとえSETIが成功してもそのような実質的利益の恩恵に浴すことのできる可能性は極めて低いということを心に留めておかねばならない。様々な可能性を考慮すると地球外知的文明から地球文明に何らかの直接的効果がもたらされる希望は現実的にはほぼ皆無である。とにかく、地球外知的生命探査の成功によって何らかのセンセーショナルな変革がもたらされるという未来像には、慎重に疑問符を付さねばならないだろう。

 技術面における本質的な問題も指摘できよう。すなわち、電波による通信が、星間通信として普遍的かつ最適なメディアであるかということにも疑問が残る。例えばニュートリノ通信など、いずれも現在の地球人の技術力では手に負えない媒体であるが、電波よりも実用性が高い可能性はある。レーザーの発明でノーベル賞を受賞したタウンズは、宇宙文明間の通信にはレーザーが最適なのではないかと主張しているという。これらの選択肢を考慮すると、電磁波一辺倒の現在のSETIは方法論的に致命的な見当違いをしている、という可能性すら残される。

 しかしそれでもなお、わずかな希望の中、限られた技術力をもってでも地球外知的生命を探す意義とは一体何なのであろうか。

 SETI主唱者の一人であったアメリカの天文学者、故C.セーガンの著した地球外文明との遭遇を描くSF小説『コンタクト』(池央耿・高見浩訳、新潮社)の中に次のような一節がある。

「探査が成功するか否かは、たしかに、だれも保証はできない。しかし、(中略)はるかな星に住む連中が、けんめいに我々にメッセージを送っているのに、この地上のだれ一人として耳を傾けていない、という図を想像してみたまえ。そいつはとんでもない醜態、茶番だと思わないか?耳を傾ける能力はあるのに、それを実行する勇気を持ち合わせないとしたら、君はそういう文明の一員であることを恥ずかしいと思わないか?」

 これはSETIが地球外文明の問題というより、すぐれて地球文明の価値観の問題であることを示している。自らの文明と関係づけられるような形での地球外の文明を想定して、そのようなものを実際に探そうとする、そうした価値を許容する文明、許容できる文明として、人類のそれに価値を見出す視点の獲得。この視点の獲得こそ最大の意識変革ではなかったか。言い換えるならば、SETIによる最大の意識変革は、現実的には、人類が地球外文明を想定して宇宙にアンテナを向けたときにすでに起こっていたと考えることもあながち的外れとは言えないのではないだろうか。

 社会における科学的活動という観点から見ると、SETIの目的は非常にはっきりしており、その持つ意味も一般の人々に理解されやすい。多少皮肉な言い方をすればSETIによってもたらされる経済的利益の望みの薄さも、一般市民には理解しやすいであろう。しかし逆に考えるならば、納税者である一般市民、すなわち科学研究への資金提供者と科学研究との関係におけるこうした明瞭性は、SETIの持つ大きな特徴であると言える。実質的、経済的な利益を生む可能性の低さにも関わらず、例えば1981年にW.ベインブリッジが行った大学生を対象にした「我々は他の惑星にいる知的生物と交信を試みるべきだろうか」との問いに対して実に42%がイエスと答えている。(E.ダブースト著・野本陽代訳『地球外文明をさがす』岩波書店)SETIが支援者からの直接的資金援助を主体に運営されるようになれば、この明瞭性はさらに鮮明なものとなろう。

 しかしながらもちろん、例えば先に述べたような、科学技術の知識などにおける飛躍的発展といった直接的利益が得られる可能性の低さなどについてもっと現実を一般にしっかりと伝えなければならない、といった課題は残されていることを強く指摘しておくべきであろう。

 ともあれ、ここで述べてきたような意味では、SETIは科学と一般市民が比較的健全な関係を保っている分野であると考えることができる。先に述べたように、実質的の効果の望めないSETIは、民間からの寄付などによって天文学者が電波天文観測の「片手間に」行っている、というのが実状である。しかしこうした状況が逆に、人間・社会と科学、そしてこれらを仲立ちする知的好奇心と相互的了解という非常にすっきりした図式を生み出す一助となっている、という面も否定できないというのは現代科学の皮肉であろうか。

 文明は歴史上、常に自らの行為の及ぶ、目の届く領域(中心)とその周囲の立ち入り難い領域(周縁)を設定して空間的な非一様性を定め、世界認識と行動規範をそこに求めてきた。ムラとその周囲の精霊の住む森、あるいはヨーロッパと異形の人々の住むアジアといった関係が例として挙げられよう。

 パスカルが『パンセ』の中で「ひとくきの葦」人間を押しつぶす永遠の沈黙として描いた宇宙は、恐怖の闇、完全な周縁であった。今や人間はその宇宙に乗り出し、その彼方にあまつさえ自らと心を通わすことのできる他の「考える葦」の存在を想定するまでになった。周縁たる宇宙はこの意味では中心化され、人類は宇宙と不可分に連関した存在として自らを理解する契機を得ることになった。それは同時に、「地球人」というそれまで抽象的であった、しかし我々にとって非常に重要な概念を具体化する土壌をはぐくんだ。そのような中で実際的な活動として地球外知的生命体探査を行うことは、宇宙を自分達の活動と相互作用するものとしてとらえる有機的なダイナミズムを導入したのである。

 こうした局面を導入した我々の文明について深い示唆を与える可能性を拓いたところに、SETIの大きな現代的意味を見て取ることもできるのではないだろうか。


 宇宙人はいるのだろうか?

 地球外文明論とは、地球文明論に他ならない。この単純な事実を、もっと深く認識しておく必要がありそうだ。


(おまけ)

映画「コンタクト」について


 数年前、前の文にも書いた「コンタクト」が映画化された。初めて「コンタクト」を読んだのは中1の時だった(その年の読書感想文はこれで書きました(笑))。今でも一番好きな小説の一つである。科学少年(?)だった私は、この作品を読んで大いに夢をかき立てられたものだった。

 それから十年の歳月が流れて、私も科学の未来がそれほどバラ色でないことを知らされた。しかしC.セーガンはあくまでも科学の純粋さ、正しさを説く。科学が人類福祉のアンチテーゼとなりつつある現代において、そのピュアな語り口はけなげですらある。 しかし、我々はもはや好むと好まざるとに関わらず科学と共存し、科学に内包されて生きてゆかねばならない。地球を蝕み続けられて取り返しがつかなくなってしまうにせよ、あるいはこの星の再生に成功するにせよ、人類は宇宙へと踏み出して行かねば ならない運命にあるというのも事実だろう。科学を信じられるか否かは、人間を信じられるか否かにかかっている。考えて見ればこれは当然のことだ。地球外知的生命とのコンタクトは、人間の価値観を科学が立証する起死回生の一撃、最後のチャンスなのである。

 ともあれ、C.セーガンの人類への遺言ともいえるこの映画が、近現代科学を輝かしいものとして描いた最後の映画になるかも知れない。

・・・ちょっと悲観的に過ぎたかな?J.フォスターは科学を救う女神になれたのか!?

 みなさんは映画をご覧になりましたか?原作では、映画本編のように明瞭な形で「宗教」と「科学」の接近が示唆されていたわけではなかった。そうした接近を可能ならしめた、この映画の中に潜む一つのモメントは、「アメリカ」という舞台装置である。原作では各国から選出された複数のクルーが「マシーン」に乗り込むが、映画では座席は一つ。当然アメリカ人のエリーが搭乗する。札幌雪まつりの記述まで登場する原作に比べ、日本の描写は極めて少なかった。その北海道で、アメリカ政府の手を離れたはずの2機めのマシーンに搭乗するエリーの肩には、鮮やかな星条旗。ホワイトハウスのシーンでは、クリントン大統領の登場に席を立ち目を輝かすヒロインたち。 ゼメキス監督の言う宗教と科学の接近は、こうした一種のどぎついアメリカナイズの中で決行されているという事実を、我々は認識しなければならない。この意味では私たちは、この映画が暗示する科学と宗教の未来に対して、もっと冷静になるべきであると言えるだろう。ともあれ、映画自体非常に質の高い出来であった。エンディングの「for Carl」に泣きましたね、私は。


パソコンでSETIに参加しよう!

SETI@homeは、インターネットに接続している全世界のパソコンの余力を利用して、電波望遠鏡で受信した恒星からの電波の中に人工のものが混じっていないか解析しようという試みである。(え?人工の電波かなんてどうやってわかるかって?そりゃあなた、その、あの、フ、フーリエ変換して卓越周期が・・・。うう、ごめんなさいよくわかりません。)パソコンで誰でもSETIに参加できるなんて、いい時代になったもの。興味のある方はぜひ下のバナーをクリックしていただきたい。SETI@homeのホームページへジャンプする。アレシボなどで受信したはるかな宇宙からの電波データがインターネットを通してあなたのパソコンに送られ、パソコンの余力を利用して解析を行うのである。データの送受信はインターネットに接続するついでに行うことが可能。宇宙人からの信号を見つけるのは、あなたのパソコンかも!?
[SETI]

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