(2000年特別企画)大胆予測シミュレーション!
2015年のインターネット社会

めまぐるしく変化するインターネット社会。第一線の専門知識をもってしてもその未来を予測するのはほとんど無謀、ということを承知の上で、それならば何の知識も持たない者が半ば無責任に大胆予測をしてみてもいいのではないか・・・そんな思いで、15年後、2015年のインターネット社会を空想シミュレーションしてみました。




2015年5月30日(土) 晴れ 東京近郊のワンルームマンション



久しぶりの休日。朝目覚めると壁のテレビモニタに「メールが1件届いています」と表示されている。故郷の妹からである。今ではEメールはすべて家のパーソナルサーバに直接届く。プロバイダのホストコンピュータにメールチェックのためアクセスしたのは昔の話だ。もちろん家のサーバはインターネットに直接常時接続されている。転送速度数Tbpsという高速通信ケーブルが世界中に普及したおかげだ。すべてのコンピュータがネット上で「平等に」つながっているというインターネット本来の姿が実現したのである。

画面に触れると、妹の姿が映し出された。

「兄さん?来週のわたしの結婚式、ちゃんと覚えてる?出席とお祝いよろしくね!じゃね♪」

やれやれ、しっかりしてるよなと思いつつ、やっぱりお祝いくらい買わなければならないな、と思い直す。そう言えば最近はほとんど外で買い物をしていない。たまには都心のデパートにでかけるとするか・・・冷蔵庫から牛乳パックを取り出しつつそんなことを考える。その冷蔵庫上部で、ランプが点滅している。大容量ハードディスクを搭載した冷蔵庫が、我が家のサーバである。電源が常時オンになっていることが必要なサーバマシンの役割を与えられた家電品が、冷蔵庫であった。もうだいぶ一般的になってきている。

  

今日も五月晴れのよい天気だ。途中、品川駅のホームで、制服姿の外国人高校生たちを見かけた。東南アジアから来た修学旅行中の女子高生たちのようだ。これから向かうらしいディズニーランドの話に夢中になっている。その姿は今どきの日本の女の子たちとまったく変わらず、言葉さえ聞かなければ日本の高校生と区別がつかないほどだ。そのうち一人が携帯電話を取りだし、またお喋り。家の両親におみやげのリクエストでも聞いているのかもしれない。

新宿で買い物を済ませ、カフェスペースで休憩する。小銭を持っていないので、携帯電話でこのカフェの注文画面を呼び出し、アイスコーヒーを注文して決済する。ほどなくアイスコーヒーが運ばれてきた。それを飲みつつ、来週帰省する故郷のことを考える。そう言えばもうずいぶん帰っていない。ふと思いたって、携帯で故郷のローカルテレビ局を呼び出してみると、地元のニュース番組が映し出された。久しぶりに聞く地名が次々と出てくる番組に、しばし懐かしい思いで見入ってしまう。画面を切り替えて新幹線チケットの予約を済ませ、カフェを出た。

それにしてもずいぶん蒸し暑くなってきた。携帯から家のサーバに接続して、エアコンの除湿スイッチを入れておこう。

  

部屋に帰り、テレビをつける。チャンネル数は多いが、これらのテレビ番組はすべてケーブル局による配信だ。一部を除いて、地上波によるテレビ放送はほとんど姿を消してしまった。電波放送は携帯などのモバイル型無線端末への配信に特化されたためである。放送事業分野の大規模な再編があったのはここ数年のことだ。しかし結局、それにより無線周波数帯が有効利用されるようになり、テレビ局も不必要な設備投資をせずに、良質なコンテンツの制作に力を入れることができるようになったといわれている。

冷蔵庫の小さなランプがチロチロと明滅する。誰かがディスクにアクセスしているのかもしれない。あるいは新着メールだろうか。個人では使いきれないような記憶容量をもつハードディスクが普及したことによって、そうしたディスク領域の一部をインターネットの為にいわば「公共空間」として開放する、という動きが最近見られるようになった。もちろんセキュリティ技術とハード的な信頼性の飛躍的向上があって初めて可能になったことである。

インターネットとは、トラフィックとストレージが相補的な役割を果たすメディアであると考えることができる。あるときは通信を記憶領域で代替し、またあるときは逆にストレージがトラフィックの代わりとなる。こうして、ネット上にある何らかのコンテンツを利用する際に、「その本来の供給元までアクセスした上で自分のコンピュータにダウンロードする」といった従来のスタイルでなく、「ネット上の手近な領域にあるコピーにアクセスし、これを直接利用する」というやり方をとるのだ。もちろん、そのアクセス先がたまたま自分のサーバの「公共空間」領域だった、ということも理論的にはありうる。ともあれユーザーが手元にダウンロードするのはそのコンテンツまでの経路情報だけで、ギャランティはその経路情報取得の際に支払われる。こうすれば原理的に違法コピーは存在しないので、著作権も保護される。いわば、インターネットそのものをまるで一つの巨大コンピュータのように使おうという発想である。

  

深夜のテレビニュースが、国勢調査を前に民間の研究機関が行った統計で、日本の人口が本格的な減少傾向に入ったことが確認された、と伝えている。いったいこの国の未来はどうなるのだろうか。

インターネットは、大量生産・大量消費という社会を確実に終焉に向かわせている。2014年、経済成長率が4%を超える国は地球上に存在しなくなった。人々はもはやそうした指標では計れない、新しい価値を求めつつあるのだ。

ふと今朝見かけた、東南アジア人の少女たちのことを思った。彼女たちの目に、東京は、日本はどう映っただろう?たぶん、遠く離れた異国ではなく、日常生活の少し先にある街というふうに捉えたに違いない。そんなまなざしが、「一つにつながった世界」の新しい価値を見つけてくれることになるのだろうか。

とりとめのない思いをよそに、夜は更けていった。

おしまい。

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