Visitor's Review

えりーと少女@@ちゃん
いちげんKB

、、、全く、身につまされる浅はかさな御時勢に、情報以外の何を語ろうとしてもムダだ。考える理由は、忘れるためだけにある。
掲示板で好きな曲を流せる訳でもない。ギターを鳴らしてみせる事もできない。でも何かそんな風に伝えてはみたい。
それは「ロック系のサイトだから」ってのが理由じゃない。もともとそういう風に表現されてるものが好きな人間だから。

こないだここの掲示板上で騒動があった(99年3月後半あたり)。とっくに色褪せた話題だし、別にこの騒動だけをまつり挙げて、掲示板における普遍的秩序を考察してみても不毛なのは目にみえている。ちょっとアングラなサイトの板でも覗いてみようものなら、、、「私は人からどう思われようとかまいません。あいつのHPをぶっ潰して下さい」といった、五寸釘めいた依頼などがガンガン書き込まれていたりするんだから全く穏やかな井戸端交流ってなもんで、御の字だ。ともあれここでは前述の騒動を、あくまでも発端と捉えて、さらに「ロック村」な姿勢を基準に述べていこうと決めてしまったもんで、よってこの文章はある種自動的に論旨を逸脱する、ってな風に予め断っといてやるさ。「村」ってんじゃねーよ、てめー。

板の正しいコミュニケーションのとり方て何じゃろか?正すべきなのか?インターネットの無限の可能性?そんな理想のための秩序、そんなの設けようなんてヤバいだろ。確かに必要かもしれん、一度ちゃんと考えてはみたい。でも合間に音楽をかけておくれ。気がつまるから。
文章のやりとり、それ自体が有意義なコミュニケーションだろうか? で、そのコミュニケーションをさらに表現するとはどういう事だろう。文章以外で表現しているものをひとつ挙げてみよう。但しロックものは外してみよう。「コミュニケーションの概念を表現してます作品」といえば、きっとアホ程ある。けどここでは有名なやつを挙げて、ていうかホラッ。

ちなみに「魔女の宅急便」のもっとも重要なシーンは、今まで話していた飼い猫が突如ニャーニャーと泣き出すとこだ。過多な演出も無く淡々と過ぎるこの場面には、どちらかといえばハッピー目なラストや数々の出会いのエピソード等に紛れて、受け手の意識を攻撃する。言い方を変えれば他の、より具体的に説明表現のある場面よりも、むしろ赤裸々に語られているのだ(ラストシーンをさらに読み取ると、つまりはひとりの女の子がある種の人間的成長を経て、「例えばこんな風に君は救われたりするんだよ」とでもいえる完結なのだが、この「猫との会話不能」の意味を認識したうえで再通過すれば、「君らは要するにこんな風に現実を肯定化し、甘んじる行く末だ。そこに社会順応の正体がある、でもそれでいい?」的な批判の含みを知る事となる。いずれにせよその猫と再び会話できるような場面は、少なくともここでは用意されてない、つまりこの件に関しては解決されないのだ)。
これは映画館、またビデオでさらりと、例えばこの作品を通過する都市生活の一日、我々のそんないつしか身に付いた特性そのものに危機感をもたらすに及ぶ(そういえば、エヴァ劇場版にあった、スクリーンに観客席を映し「こんなもん観て楽しんでんなよ〜」とか問いかける陳腐なメタ表現とは、似て非なる)効果なのだ。

会話不能。「ことばが通じないから?」そんな、とって付けれるような理由も存在しないだろう。だって今まであんなに話せていたのに。君は変った?それとも僕が変った?じゃあ、どっちが誰より「強く」なったんだろ?君は僕より「弱くなった」と思った?ひょっとして、わざと口を閉ざしるんじゃ?
わからない。どっちにしろ、もうしゃべれない。
これはまるで死だ。死は突如無意味に人を引き離す、話せないどころか、いなくなる訳だけど。
けど「猫」はいるよ、こうして目の前で動いてる。ときには楽しそうに、忙しそうに、生活している。
けどさ、何だかさ、つらいよ。下手すりゃこれは死よりも辛いよ。
誰かに相談してみる。「しゃべれなくなっちゃったよ」、、、。
「何いってんの、あたりまえじゃん、よくある事だよ〜」あるいは「みんな同じだよ」。

故意とも思える程に、平然と過ぎ去るあのシーンが表わすのは、「コミュニケーションできない、できなくなった」という事のあまりにも嘆かわしい「あたりまえ」さだ。
「猫」と会話もできなくなった。君は確かに成長したのかもしれない、猫とは違うしね。けど、本当にそれでいいの?って事さ。
、、、、、。
「あたりまえ」?ふざけんな。お前みたいな、そんな風貌で、そんな生活で、そんな変な恋人連れやがって。そんな奴の言ってる事なんか、信用するかよ、バカ。

それよりロックのいい曲を見つけたんだ。超いいよ〜、このシングル。
早速ファンサイトでもあたってみるか。ふむふむ。結構知ってる人いるんだな〜。お、レビューか。どれどれ。「この曲の作為意匠における戦略的パクリが、、、」
何だそれ。ふざけんな。
「こんなにきれいな曲が鳴るスピーカーの前で、傲慢じみた批判をぐだぐだと立て並べる」お前。
消えろ。うるさい、、、。少なくとも、この曲の前から消えちまえ。こっちから去ってやる。
「この曲が好きだった」。単にそれだけだったのに、、、。

すでにディスコミュニケーションは成立だ。きっと、この曲が好きになった時、それは始まっていた。そして、好きになればなるほどに、だ。

音の美しさや力は僕のコミュニケーションの手助けになったに違いない。けど知らないうちに、どっかの部分で僕のコミュニケーションを破壊していたのだ。きっと。

で、話を戻せば、とっくにディスコミュニケーション形成済みの「皆さんがた」が、ここのようなロック系サイトでどのようにコミュニケーションを成立させるのか?ってとこだが、、、。
何が必要な情報で、何が不必要?で、不必要なら排除するのか?一体どこまでを悪意と読み取るのさ?
確かに表現は必要、けど文章表現の技を競い合っているだけの世界でもないだろう?

『@@@のこと、全然知らないんですけど、アルバム教えて』、、、もうちょいRO読めよ。
『@@@のチケット10枚余ってて』、、、、、、、、、、、、、、、、、、商売すんなよ。
『悲しいです』、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、悲しいだけかよ。
『いちいち書き込むなよ』、、、「いちいち書き込むなよ」なんて、いちいち書き込むなよ。

要するにコミュニケーションに必要なのは「要求の理解」だ。そしてその要求に応える覚悟も必要だ。
つまり「理解」してるだけじゃダメって事だ。思惟と行動をコントロールするしかない。
「表現の技を競う」のも要求なら、「チケット売買」も要求。「議論」も要求。
そして「単に同族の存在を知るだけ」も、要求。どれもが個人にとってはきっと大切な要求、誰が批判できよう。
そして、あらゆる議論が一対一の「意見以前」の相違で収束されるが、ここでは特に掲示板という空間が存在する、それも意識すべきだ。
「板」という名の空間、その特別な力が何かをつねに左右するのだ。ある哲学者は云った、
「批判をする者とはいつでも、その空間を批判しているのであり、、、」
 ここで重要なのは、何も板だけが空間じゃないという事だ。君がそうしてキーボードの前に座ってる空間も忘れては、いや忘れられやしないはずだ。毎日を取り巻く状況の全ての中、君のせいで、あるいは不可解な理由によって空間は歪んで見えてるだろう(理由は、単に君がそういう人だからだ)。君が何をしてきたかという内容よりむしろ、日々の空間をどんな風に把握していたのか、という部分にこそ批判することの意義さえある、という事なのか。

あぁぁ、あのさ、何か理論っぽくなるのもイヤだし、この辺でやめる事にする。後は自分で考えやがれ。
で、最後に自分のことばを残して去ってやる。

「あのさ〜、ネットの問題ってさ、全部含めて要するに、みんなが俺の事を理解してないのが悪いんだよ。いい加減にしろ。書きたい奴は書け。書きたくないなら書くな。なんかイラつくんだよ、悪いか。理解させるためなら悪態だって使ってやる。いちいち書き込まないで、ぬるい文句だけ吐く奴、お前らを信用しない。何らかの衝動が湧かない奴なんて、所詮音楽の良さも判って無い。ぬるま湯だ。お前らよりも、少なくともこっちは困ってる。弱い云々じゃなくて、単に困ってるだけだ。お前らは平和ボケだか何だか知らないが、そんなに平穏か?そんなボケた連中に、あの曲の良さが判るわけない。そんではっきり云っちゃえば、俺は何にも判ってもらいたくもない。」 以上。

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