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批評乱発
ヒデ mail HP

 ありとあらゆる人々がありとあらゆる事象を評価し、それを確かな匿名性を保持したままネット上に公開する。評価の種類はまさに多種多様で、諸手を挙げて喜んでいる賛美もあれば、気分をひどく害するような中傷に過ぎない評価も中には存在する。確かにインターネットというのは便利かもしれないが、匿名性というのがここまで人を変化させることができるのだろうか。匿名性を利用してしか個人的で特定的な人物や団体を中傷することができない人間は人格破綻者と同じだ。一般的な感性を持つ人なら、そういう書き込みや投稿を目にした時にある種の寂しさとその投稿者を哀れむ気持ちが込み上げてくるだろう。まるで反抗することしか知らない子供を目にした時のように無邪気とは違う偏った思考の乱れを感じ、憤慨は元よりその投稿の存在すら忘れ、さらに投稿者自体をも消そうとする。
 無論批評というのは対象について深く考察した上で下されるもので、考察のない非難は中傷に過ぎない。そしてそういう中傷自体にも何の評価価値もない。本当はこんなことを書こうとは思ってなかったのだけれど、あまりにも閲覧すればするほど寂しい気分になってきたので敢えて書いてみました。
 人を、音楽を、文章を評価する、というのはひどく難しい作業であり、評価する人自体にも大きな責任が付きまとうことは言うまでもないと思います。本来ならば批評というのは不必要な物でさえあるのかもしれません。読者自身が独自に評価すればそれが一番良いのです。しかし、これだけの供給の細分化と情報の多発化が進むと、需要者にとっては信頼の置ける評論家を頼るという方法が最も合理的になっています。故に評論家自体にも類稀なる感性と一般的、大衆的な感性を併せ持ってなければいけないと思うし、またそれらを表現する能力も携えていないといけない。
 本当はなかなかそんな人いません。けれどこの世の中に表現者と同量のまたは自称を含めるとそれ以上もの評論家が存在しているというのは、対象に評価を下すという行為自体に魅力を憶えるからだと思います。そういう多くの自称評論家にとっての批評とは、他の評論家とのコミュニケーションに過ぎません。評論家としての評価を主観に置いた上で書かれる批評は決して読者に送られたものではなく、他の評論家に示した利己的なものです。表現された対象と大衆を健康的に繋ぐ為だけに存在するはずの批評を評論家同士のコミュニケーションに転化するのは間違っているのではないでしょうか。
 さて何が言いたかったのでしょう。私自身よくわからなくなってきましたが、人を評価するのはとにかく大変な作業なのですということを言いたかった。良いものは良い、悪いものは悪い、という評価は自分で思えば言いわけで、音楽や小説に触れる本来の目的を私は常に意識しています。雑誌自体にはとても幅広いコミュニケーションを持って欲しいのです。ただその中で掲載される批評だけは評論家同士のコミュニケーションとしてではなく、表現者と需要者とを繋ぐ為だけの機能として純粋に存在して欲しいのです。

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