音楽誌私観論
私には、最近どうも音楽がぎこちなく聴こえてくるのである。最近では雑誌に頼ってばかりでいるから、自分で思考するといった類のことがおっくうになっているのかもしれない。又私は最近ネットを通して様々な情報を得ているが、しかし自分で新聞を広げようとは全然思わないのである。暇なときはネットを観覧するといったことが私の中で立派な習慣となってしまった。だからどうも最近では全て実際の行動に対しておっくうになっている。立派な習慣となってしまったからには過去に体験していた習慣からはやく抜け出さないといけない。はやく抜け出さないと、やがておっくうがやってきて、住み着かれたりすると、今の私のようにパンクするからである。
そんな私もたまには本屋に寄って音楽雑誌を見比べる。適当に手前にあるものからチラチラと覗き見するのである。どの雑誌も大体同じ音楽家を推奨する。大体、である。これはすなわち個々の雑誌が本来かかげている大義名分、スタイルが大体同じであるということである。なんだこれは。どうなってんだとますます頭までパンクしてしまい、家に帰ってネットの前でまたパンク、ダウンしてしまうのである。私がここで問題としているのは大体、同じということである。音楽雑誌たるもの腐るほどあふれかえる曲群に対してもっとスタイルを貫き通す覚悟はもってもらいたい。米国、英国のどこだかのプレスが「今年を飾るベストアルバム」だの「大絶賛」だのといったことをわざわざここ日本の音楽雑誌を通して書き連ねてもしょうがないのである。「ザストロークス、NMEで大絶賛されて・・・」関係ない、非常に関係ない。ここは日本ですよ、あなた。とくに、音楽などといった芸術において、そんな肩書きなど必要ない。それともここ日本の音楽雑誌はそういった類の肩書きを必要としなければ、ザストロークスを語れないのですか。肩書きミュージックにはもううんざりだ。知識で音楽を聴けという。ジャンルで音楽を聴けという。それは私達が望んでいるから。いやそれは間違っている。私は決して望みませんよ、その類は。じゃあなぜ私が音楽雑誌を立ち読みするのか。買いませんよそんな大体、同じような雑誌なんて。私がなぜ音楽雑誌を読むのか。それは音楽が好きだからであり、目的は音楽家に対して、私達読者との距離を測ることのできるメディアであるからである。
音楽家と読者の距離はとても重要である。必要以上に距離を置き過ぎると、読者になにも伝わらないままであるし、又、必要以上に距離を近づけ過ぎると、読者をパンクさせてしまう。そう、こういった意味において、私には、最近どうも音楽がぎこちなく聴こえてくるのである。この必要以上に先行する音楽家の肩書きイメージをまんまと据え付けられることは私にとっては、おっくうであるに他ならず、また、私をパンクさせる。肩書きなどといったものにポピュラー性を持たせる事が不必要であり、読者にとって最も影響しうる行為である。しかし、そういった事は承知の上で、つまり読者にとって最も影響しうる行為であるが故に、大衆性を与え得る肩書きを行使しているのだとすると、それはビジネス・ミュージックである。もはやポップ・ミュージックの代弁誌としての働きはそこにはないのである。
肩書きミュージックを卒業しない限り、いつまでたってもビジネス・ミュージックの代弁誌でしかない。そんな話題性に対して大衆性を因襲し、そこに読者を巻き込むなどといった事はナンセンスなのである。「海外で大ブレイク」「各各代絶賛」などといった大義名分はここ日本ではたして必要なのであろうか。又この大義名分を掲げて独歩している音楽誌メディアが不必要に多用している「ロック」といった言葉の意味はなんであろう。我かく語りき。ビジネス・ミュージックにおいての、「ロック」は健在だが、ポップ・ミュージックにおいての「ロック」は不健在だ。あまりにも音楽誌メディアの影響が浸透しているおかげで、ポップ・ミュージックすら不透明になっている。だからポップ・ミュージックにおいての「ロック」は不健在である。そして実際はそもそも「ロック」はビジネス・ミュージックが必要とした語であり、そしてそのビジネス・ミュージックに対する抵抗勢力としての、又そんな音楽情勢にたいするカウンターカルチャーとしての「ロック」は存在する。サブカルチャーであるが故の存在感は、ビジネス・ミュージックによって確立するのである。しかし時にビジネス・ミュージックは、カウンターカルチャーとしての「ロック」をも飲み込んでしまうのである。「ロック」が「ロック」を吸収し、故に「ビジネス・ロック」は健在だ。ポップ・ミュージックが失っていくもの、ビジネス・ミュージックが得ていくもの、それぞれ全てに関連性があり、又、この関係が非常に不安定なほどミュージックは魅力的になる。音楽誌と読者には距離が必要であり、この距離こそが各々の音楽誌のスタイルと成り得るのである。そして今の私にとっては各々の音楽誌のスタイルが大体、同じに感じるのである。一方的で不必要な情報によって私のあたまはパンクし、おっくうになっているのである。