Visitor's Review

血に飢えた蝿
やす mail

先日、久し振りに読み返した漫画に衝撃を覚えた。
「人間なんてもともとお互いを殺したがってる生き物だろ?大騒ぎしすぎなんだよ。
みんな血に飢えてるくせしやがって…」
主人公の敵(大量殺人犯)に当たる彼のこの言葉。絶対否定する事しか頭になかった。…それを読み返す時までは。ところがその時の私は「これこそが本能なのではないか?」と考える様になっていたのだ。
「俺も殺人鬼!?」「俺が明日の三面を飾るのか!?」…頭を抱え込んだ。
一般道徳の世界では目を逸らしがちだが、それは本能であると思う。故にそのカタルシスとしてホラー映画が撮られるし、「怖いもの見たさ」という言葉が生まれたのだろう。トレント・レズナーも「人間とはいつも日常とはズレたもの、できれば血を見たいと思っている。」と言った。「血を見たい」この生理的欲求を満たしてくれるのが自分にとってNIN、マリリン・マンソン、そしてCoccoだったりする。
衝撃のデビューシングル「カウントダウン」。これ程禁断チックな臭みを引っ提げて登場したアーティストを私は他に知らない。私はこの曲で何度も殺された。そして同時に救われていた事に気が付いた。「怖いもの見たさ」で回してきた「ブーケンビリア」、その正体は「血を見たい」という本能の衝動によるものだったのだ。死にたくても死ねない、自分を傷つける勇気もない…そんな我々に彼女は余りにも自虐的な自分を曝け出す事で、我々よりも重く過剰な「痛み」を見せつける事で、我々の身代わりとなってくれる。尤も、彼女自身「身代わり」になろうという意志はなく、あくまで我々が勝手に都合よく「身代わり」に祭り上げているだけなのだが。
彼女が売れる現代社会が真っ当だとは決して思えない。が、だからって何を責められよう。大人達?自分の運命?このやり場のない怒り、ブツけたところで空虚しか待っていない。結局、現状と自分(現状から逃げ出せない弱さ)からは逃れられないらしい。そんな事も手伝ってかどうかは解らないが最近、少年を中心に凶悪犯罪が増えている。
マリマンが「少年達に悪影響を及ぼす」とマスコミに叩かれた事があったが、自分には未だにそれが正当であるとは思えない。むしろ真逆だ。彼の非日常的な活動によってリスナーは辛い現状から離れられ、癒され、そして再び引き戻される日常に「生きる」という活力を補給する事ができる。つまり、多くの少年犯罪等を促進するどころか、むしろ抑制しているのではないだろうか。そしてスタイルこそ違えど、Coccoも同様であると思う。きっと彼女によって多くの自殺や犯罪が食い止められたに違いない。「何を証拠に…」それは私だ。少なくとも私は彼女によって変えられた。そして、これを読んでいる人の中にも共感できる人がいる筈だ…と思う。
JAPAN8月号に彼女の姿を見た。正直、裏切られた気分だった。そこには自分の中に存在する「こっこ像」「こっこらしさ」が感じられなかったからだ。そりゃ自分の希望が勝手なものである事は自覚しているけど、自分は本音を殺せる程器用な人間でもない。しかし、インタヴューを読んで納得できた。「クムイウタ」後、2年間での彼女の成長は大きく、ある意味「悟り」が開けたと言っても良いのではないか。それ故の終始はちきれんばかりの笑顔。それは過去にない彼女の新しいスタートを意味しているのかもしれない。今作「ラプンツェル」の多くを形成している、いわゆる「癒し」の歌。今の彼女にはそれらを歌う事ができる。否、彼女の全ての曲は本能に呼びかけ、抑制させる「癒し歌」だったのだろう。
「ラプンツェル」や8月号のインタヴュー、テレビでの活動等によって、いつも圧倒される程遠くにいる筈だった彼女を今、少しだけ近くに感じている。しかし、我々が彼女に追いつく日は彼女が歌い続ける限り、絶対に来ないのだろう。
「誰もあっちゃんにはなれないし…願っても、別の人にはなれない。」
人は常に成長している。例えそれが思わしくない変化だとしても。今のこっこは昔のこっこではない。誰もこっこにはなれない。誰もこっこには追いつけないのだ。…私の中のイメージを言えば、モーリス・グリーン並の脚力を持ってして裸で浜辺を走り続けている…そんな感じだ。…追いつけねえよ。所詮、我々は彼女の落としていく「うんこ」に群がる五月蝿いハエなのだから。
最近、ファンのあるべき姿について考える事があるが、特に彼女の場合、彼女自身ファンクラブを作りたがらない事も踏まえて、存在しないものだと思う。おそらく彼女も我々にそれ程興味は無いだろう。唯、私は破格の才能としての彼女の姿をこの眼に焼き付けておきたい。移ろいやすくとも彼女を愛する者の一人として。

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