your RO's report
今回のテーマ:90's オーディエンスの時代
投稿する

このテーマは終了しました。ありがとうございました。
90年代とかそういうんは抜きにして、自分が主役になることなんて僕的にはありえない。 僕は才能のある人のCDを買いライブに行くことでその人を助けているだけで、普通に考えてまずその人ありきだ。 もし今後「え?俺ら今主役?」 って思う瞬間があったとしてもそれは錯覚だと思うし、自分を戒める瞬間ではないかと思う。 自分のバンドでライブをやってるときは間違いなく主役は俺だけど。 オーディエンス(ぜんっぜんいないけどね) はありがたいけど主役は俺ら。 じゃなけりゃやんね。 WATA Wataru_Sumi@toshibatec.co.jp
結局聞き手の趣味嗜好が多様化したってことじゃない?メディアの発達で聞き手の方が情報持ってますからね、少々のことでは驚かなくなったということでしょう。そういう意味ではアーティストにとっては大変な時代でしたね。とくにギターロック勢にとっては。何かやればすぐに誰それのパクリだとか言われちゃいますからね。でもその分曲の良さで勝負する連中が増えたので、それはそれでいいのかとも思います。 ByTheSea .
「我々は90年代に対して何を恐れていたのだろう」ダイナソーJR「グリーンマインド」の合評として、ROにてこの言葉が書かれていた頃、私にとっての90年代は始まった。悪評高い80年代の歴史への代償として、ロックはどう出るべきなのか、過剰な責任さえ感じられた当時、「無気力賛美」と、ただいい音がそこで鳴り響けばというようなダイナソーのやり方にガツンとやられた。それはグランジ、轟音系、オルタネイティブの先駆けであり、ニルヴァーナという完結を通って現在に至る。同様にローゼスはインディーダンスというやり方で「オーディエンスの時代が来る」などと90年代に対する答えを示したのだろう。自身は訴訟事件などで活動停止のままだったが、そのムーブメントはシャーラタンズやブラーなど、後に重要な存在となるバンドを生んだ。そして後半には「ローゼスを観てロックをやり始めた」というリアム、オアシスというひとつの完成形を残して90年代は終ろうとしている。年代前半はその年代に対しての答えを求め、後半は個人の中の答えを求めた、といえるだろうか。カルチャーとしての動きはフロアへ、というよりは「ただ踊るために機能する」音はカルチャー欠如の腹の虫をおさめるのに十分だった、、、それらを全て含めて「オーディエンス時代」と括るのは難しい。何しろ多すぎた。ゆえにどれもが記号でしかない。記号だらけの孤独ならあったが、むしろここに「時代」は無かった。「君がその中から、何かを強く愛さない限り、時代さえ無いよ」それが、オーディエンスの時代なのかもしれない。私は主役だったか?うーん。少なくとも、愛が足りなかった。まだまだ。 KB enk-lab@cd5.so-net.ne.jp
フジロックフェスに参加して、ベックが歌っていた時、「ベックを知ってて、ほんと良かったなー。ほんと、しあわせだ。」と思わせてくれたので、あの瞬間は、自分が主役になった時だったと言えると思う。コンサートには行かなかったけど、オアシスは自分を主役にさせてくれる歌を歌っていると思う。ロックンロールスターなんかは口ずさんでいると、妙に気持ちが盛り上がってきて、世界は自分のものだ!!と、思いこませてくれるから。 NISHIKINO
僕の90年代は、ストーン・ローゼズで始まりました。当時、高校3年生。レンタルでかりた「薔薇と石」は衝撃的で貧乏だったくせにその後すぐ買ってしまいました。それまでは、JAPANやコクトー・ツインズあたりを好んで聞いてたんだけど、その後の音楽嗜好が完全に変わりました。 そして、ライドでした。「LIKE A DAYDREAM」は、完璧でした。そのころのロッキングオンの音楽評は、「ライドより〜」とか「ライドを〜した感じ」というふうに、ライドはひとつの指標になっていました。解散後、ライドについてあまり話題が出されませんが、僕の中では、いまだにライドはベストのひとつです。 名古屋でのイアン・マッカロク公演はライドのライブの前日で、アンディ以外のメンバーがイアンのライブを見に来ていました。僕は、舞い上がってしまい、握手をし、買ったばかりのジーンズに、マークとローレンスのサインをもらいました。もちろん次の日のライブにはいていったことは言うまでもありません。 ライドの垂れ流すギターノイズは、この世のものとは思えないくらい、気持ちよかったです。僕の学生生活は、ライドと同じ時期に始まって、同じ時期に終わりました。ライドの4人と、蒼い季節を過ごしたんだなあと、今でも思います。結局ライドは、「LIKE A 〜」を超えられなかったけど、それでよかったんだと思います。結局、その6年間は、ライドがいた季節は、僕の学生生活は、「夏」だったんでしょう。 今では結婚もしました。子供も生まれました。いろんなライブにいきました。ストーンローゼズ、ラッシュ、イアン、シルヴィアン&フリップ(笑)、サンデイズ、ETC ETC・・・。いろんな、女の子を好きになりました。いろんな音楽を聴きました。いろんなお芝居をみました。カート・コバーンは死んじゃいました。いろんなことが、たくさん過ぎていきました。とても速く、濃密な時間。 「夏」だったんです。90年代前半は。僕にとって。 仕事をはじめてからもいろんな音楽を聴いていますが、あのころのような、思い入れをもって聞いていないだろうな。この前、少年ナイフにいったけど、「まだ踊れる」とか思って、喜んでた。ノスタルジー?。それでもいいのだ。あのころの「夏」は、戻らない。「LIKE A DAYDREAM」なんだな、きっと。僕の90年代は、「夏」と「夏の終わり」です。ずっと「LIKE A DAYDREAM」です。抱きしめてやまない季節でした。 くまぷー mizuma@kyushu-ns.ac.jp
結局、一時的なものだった、気がする。「オーディエンス」っていうひとくくりが、主役になれたのは。何にも、かわってないと思う、けっきょく。もちろん、主役になれた時もあった(と、思いたい)。けど、今も、メディアの先導は続いてると思うし。(新しいシーン創ろうとして、つくれないメディア、って感じかな?)一部で、メディアが「仲間」意識を植えつけて、「先導」から逃れようとしてるようには見えるけど。わたしはそれに、共感できないだけで、別に悪いとは思わないけど、でも、だまされてるような気がするよ、それって。それだけ。なんかメディアの批判になっちゃった。わたしとしては、「オーディエンス」として、主役でいられたと、思ってる。それは、ほんと、個人的なものだけど。 ヴィヴィアンゆうこ notoknot@anet.ne.jp
私はミュージシャンも観客もすべてが主役だったと思います、両方いなければ、音楽はなりたたないし。ライブのときなんてライブをやってる人なんてもちろん、曲に酔っている私達もそれぞれがそれぞれの場所や気持ちで主役だって思えるんじゃないかなと思います。 しげえ .
いいえ。それほどライヴに行っていませんので。数少ない中で、レディオヘッドはとてつもなく良かった。場所が良かったのかもしれない。その後行ったU2は心底がっかりさせられた。演奏も大事だけど場所も大切。フェスなんてとんでもないって感じ。ガンガン宣伝して、人を集めて、一回の興行で儲ける。そんな効率主義に抵抗をおぼえます。踊らされたくない。 まりー .
俺は主役じゃなかった。東京に来て2年、いくらでもライブに行く時間はあるのにのに、1度も行ってない。レディオヘッドが来たときは試験のため欠席、マッシヴアタックが来たときは重度のうつ病のため欠席。試験やうつ病をふっとばすくらいの勢いのあるアーティストがいない。 .
最近思うことを聞いてやってください。最近、privatization(私事化)がやたらと進んでしまいました。私事化とは「人に迷惑かけなきゃ何をやってもいい」という考え、あるいは、「私はあなたに干渉しないから、あなたも私に干渉しないでくれ」という態度です。とか何とか言いながら、結局はみんな寂しいわけです。人に干渉しないと言いながら、実は人のことがたいへん気になるのです。今のテレビ番組を見よ。他人の数奇なあるいは悲劇的な人生をはたから眺めて弄ぶような番組の多いこと多いこと。たしかに覗き見趣味は昔からあったが、最近この風潮はさらに強くなってしまった感があります。ああ、私もあなたもみんな寂しかった。これが90年代のような気がします。 ナカノ nakano@orange.ocn.ne.jp
私達はいつの時代も主役であるべきです。 私達あっての音楽社会。 私達がいるからアーティストの存在価値がある 私達がプロデュースしているのです。 もしもしー
へんみっち?
.
10年という長い期間を一くくりに出来るのかどうか分かりませんが、オーディエンスの音楽に対するスタンスが非常に自由になったという点で、お題に賛同します。雑誌でよく見る台詞として、ロックは悪魔の音楽だったとかいうのがありますよね(60年代でしたっけ)。その後、グラムロック時代には逃避世界として(だと思うんですけど)、80年代には商業の一部として、また聴くものとして扱われた(と思い込んでいます)ようです。音楽は聴くものだろう、と思う人もいらっしゃるでしょうが、厳密にはそうでしょうが、90年代に入って様々な捉え方をされるようになった(そしてそれが非常に大きくなった)ことが、90年代をオーディエンスの時代にしたのだと思います。例えば、クラブ。ここでは、音楽は踊るためのもの・盛り上げるためのもので、じっと座って聴いてる人は場違いですよね。例えば、カラオケ。ビジネスとして巨大になりましたが、その人の、ある曲に対する思い入れなりが歌い方で分かるほどです。要は、90年代に入るまで、このような捉え方がオーディエンスの大半に意識されていたかどうか、だと思うんです。音楽はここにきていっそう身近なものになり、捉え方は十人十色。いわば、音楽という概念すら、私たちにはその範疇を決めることが出来るのです。言葉が違っているかもしれませんが、その辺はうまく解釈していただければ幸いです。 S.Watanabe syu@peach.ocn.ne.jp
音楽は、コンサートより、ラジオで聴いてきました。オーディエンスというより、リスナーです。リスナーが局地的でなくオーディエンスに変わってきた時代、という意味では、やはりフジロックやクラブシーンのわき起こってきているこの90年代はオーディエンスの時代、ともいえると思います。ただ!オーディエンスの時代=フォークジャンボリーの時代を考えると、90年代のオーディエンスが年をとれば、やはりフォーク親父と同じ道をたどるのだと思います。思いこみの激しい親父になるはいやですが、それもまたよいかとも思います。 昌史 m-yoda@dp.u-netsurf.ne.jp
screamadelicaの頃はオーディエンスという言葉を信じることができたなぁー。 ぼさつ .
いろんな場所でいろんな音楽を聴いていろんな感情をいだいているひとりひとりの人間を「オーディエンス」という単語でひとくくりにしてるような感が、なんだかちょっと、というのが僕の率直な思いです。だから「主役」っていう言葉もわかんないなあ。ポップミュージックのシステムはシステムとしてあるべきだと思うし、そのシステムを破壊して俺が俺が!と壇上にあがりたいとも思わないです。 ふなばし funabashi@msj.biglobe.ne.jp
ほんとのとこ、正直言って音楽そのものの前にいるだけでアップアップだし、時代とか周りは見えない。だから個人的な気分だけに限って言えば、自分を主人公として意識するってことは尋常じゃなくしんどいんだなあ、でもそうなんだろうな、ってちょっと重めに思ったのでした。ともあれ「90年代」はペイヴメントに出会えて良かった。 さく .
「オーディエンス」ていう言葉じたいが90年代を象徴しているように思う。それはオアシスが登場して「歌」の再認識がされ、オーディエンスで大合唱ていうのがあったし、prodigyやunderworldのライブにしても、彼等が音世界を創造し、そこで私達が個々の個性でその世界を演出するっていうかんじで、常に私達が主役だったんじゃないかなあと思います。まあ、でも自分達がそう思える時代の音楽ってみんなすばらしい時代だったじゃないですか? nova .
いつの時代も主役はオーディエンスだった思っているので90年代だけが「オーディエンスの時代」だったとは思いません。パフォーマーがどんなに気張ってもオーディエンスがついてこなかったら意味がないですしね。むしろ90年以降「オーディエンスの時代」という言葉をパフォーマーの力量不足やカリスマ性の欠如に対する言い訳として用いる輩が増えた事を考えると、あれは余計な一言だったと思います。 踏切 4real@excite.co.jp
ハイ。主役だったと思います!それは、アーチストの人たちが私達と一体になろうとしたのもあったし、私らオーディエンスもそれに答えようとしました。私はそれを去年のフェスでとても感じました。 りえこ .
オーディエンスといえば、喜納昌吉のライブは凄いですよ。なにしろ客をステージに上げちゃうのです。僕も何度もステージにあがって踊ったし、昌吉のマイクを奪ってがなっている客もいたり(笑)。あまりにも管理されたライブの多い昨今、こういうのは貴重。前に出ないで、席を立たないでというライブも多いけど、どーぞ前へ、どーぞステージへ、とアーティストが客を挑発するんだから。最高ですね。 muraoka .
うーん、、。「あなたは主役でしたか?」と言われると間違いなくNO。チベタンとかフジロックとかあったけどその感じは「共有」だと思うし、、、。音楽は時代を問わずアーティストも含めてみんなのものだと思う(当たり前だけど。)ちなみに90年代を、音楽を通して「共有」できたか?ということなら、個人的にはYES。楽しかったです。 ミミミのおじさん gaff75@selene.dricas.com
僕もはっきり言ってよくわからない。なぜ、90年代がオーディエンスの時代なのか?が。僕は昨年、ケルト音楽を聴いてきて、コンサートにも何回か足を運んでみたが、伝統音楽の中には、一貫して変わらない「一体感」が存在していると強く感じた。少なくとも「オーディエンスの時代」は昔から息づいていたものだ、あるところにはあったのだ、と感じているんだけど、よくまとまらない。増井さんがジョン・スクワイアの名言を広めたのだが、そういう増井さん自身、ジョンを偶像崇拝の対象にしてしまったかんが否めない。 若林 裕司 a1696155@cc.aoyanma.ac.jp
だったと思いますよ。だってU2なんか、あんなド派手なツアーを、自己満足の為にやってるとは思えないもんね。 (軽率な意見ですいません。難しいことは良くわからないんです。) ほんこん .
時代を定義するという行為自体あまり自分には馴染まないせいか、オーディエンスの時代、という言葉もあまりピンとこない。ライブには何度か足を運んだがスターシステムは健在のように思う。だが、僕の知らないどこかでオーディエンスが主役の場があったのならそれは是非話を聞いてみたいと、素直にそう思う。 yah-yaBall sy@olive.plala.or.jp


あなたも投稿しよう!投稿はこちらから!

過去投稿分
to TOP