黒田如水の素顔


『中国大返し』での策略


天正10年(1582年)秀吉軍が、備中高松城の水攻めの囲みを解いて戻る、
『中国大返し』の時のことである。

秀吉軍の隊列の中に、敵方の毛利軍、宇喜多軍の旗が混じっていたと言う、
如水は、講和交渉の時に敵方の旗を数本借りておき、
それを手下に持たせていたので有る。

それまで去就を決め兼ねていた武将達は、この状況を目にして明智光秀には、
勝ち目が無いと判断したものと思われる。

現実に、山崎の戦いの時には、秀吉陣営には多くの武将が集まり、
光秀陣営には、あまり集まらなかったと言う。




何故、脇役に徹して居たのか


1)如水が頭角をあらわし始めるのが、天正3年(1575年)頃である〔当年30歳〕、
天下を狙うには、時期が遅すぎた。

(秀吉の家臣にすぎなかった如水が、秀吉、信長を
乗り越えて天下を望むこと事態、夢のようなことであった)

2)秀吉が如水をかなり警戒していた、戦国を生き抜いた男の直感で、
秀吉は如水を「油断ならぬ知謀の策士」と警戒していたと思われる。

(常に最大の功労者である如水より、他の家臣に、より多くの恩賞を与えていた、
高い恩賞をもって、権力を握るような事を警戒していた)

上記2点の理由から脇役に徹っさざるをえなかった。




仏教者であり、キリシタンでも有った。


如水は、キリシタン大名で有名な高山右近の勧めで、天正11年(1583年)に、
クリスチャンネ−ム(ドン・シメオン)を受けている、
その他、曲型的なキリシタン大名の、小西行長とも親交が有り、
キリシタンが迫害された時には、その保護に動いたと言われる。

如水の子、長政もキリシタンに成っている。



一夫一婦を貫いた如水


古来、英雄は色を好むと言われ、
戦国時代には勢力増強を口実に、多くの武将が複数の妻妾を抱えた。

そんな時代に、如水は生涯側妻を置かず幸圓ただ一人を妻とした、
それは妻幸圓に、それなりの魅力が有ったからである。

黒田家の『家譜』には幸圓について、
容色うるわしく「才徳兼備」と書かれている、
幸圓には才色の上に「徳」も備わっていたと言う、
まさに幸圓は理想に近い女性で有ったのだろう。



無類の碁好きで有った。


文録2年(1593年)、二度めの渡鮮の折り、
如水は浅野長政と碁に興じていて、
石田三成ら三奉行との対面を後回しにした事で、
秀吉に割腹を命じられた経緯がある。

この時、如水は剃髪して世捨て人と成る、
如水(円清)とはその時の法号で有る。

(後に黒田長政の功により、如水の罪は許される)



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