黒田二十四騎



如水は秀吉の『賎ヶ岳七本槍』に倣い、
家臣達を鼓舞するため、一騎当千の勇者を二十五人選んでいた。
はじめは長政も入れて二十五人だったが、長政が家督を継いでから二十四騎となった。



★黒田兵庫助(1554〜96)

黒田八虎の一人。黒田職隆の二男で、姫路で生まれ、
孝高に従って播磨国各地を転戦。
やがて弟たちと一緒に、秀吉の馬廻りとなる。
岸和田陣、四国陣に独立した武将として参戦した後、
孝高付属として黒田家にもどる。
日向陣では先手をつとめて長政を助け、
豊前入国後は一万石を領して、
高森城を預かる。

性格は実直で長政の後見役をこなし
家中の諸士末々に至るまでに慕われていたという。

宮本武蔵の父、新免無二之助を招いて藩士に剣を学ばせてもいる。



★黒田修理助(1561〜1612)

黒田八虎の一人。黒田職隆の三男で、姫路で生まれ、
賎ヶ岳の合戦に高名し、羽柴秀長に転仕
その居城大和国郡山に住む。
やがて孝高が豊前国を拝領すると、
呼び返されて二000石を支給される。
筑前入国後は、一万二000石を拝領



★黒田図書助(1564〜1609)

黒田八虎の一人。黒田職隆の四男で、姫路で生まれ、
修理助と同じく、秀長に仕え郡山城下では、
筆頭重臣藤堂高虎と親交があった。
筑前入国後、秋月の地で一万二000石を領した。

なお、図書助はクリスチャンネ−ムをミゲルと言い、
2000人の信者を保護したという。

秋月には、今も天主堂跡とキリシタン橋がある。



★栗山四郎右衛門(1551〜1631)

黒田八虎の一人。姫路近郊栗山の生まれ
十五歳にして自ら志し、孝高に仕う、
永禄十年(1567)青山の戦いに初陣して首二つを取り
二年後、禄八三石を賜う

孝高が有岡城に幽閉された際は、
何度も忍び込んで励まし、
落城時には炎の中を救出した。

その後の軍功も数知れず、豊前においては一ッ戸城を預かり
六000石を領した。

筑前入国後、左右良城を預かり
一万五000石を拝領、
生涯であげた首数57級。



★久野四兵衛(1545〜92)

久野氏は、代々播磨国加東郡久野村金釣瓶城主であった、
しかし領地を支えきれず、父重誠は黒田職隆に、
四兵衛は小姓として孝高に仕えた

天正十四年(1586年)、小早川隆景らが筑前国高祖城を囲んだ際
目付として参加し、月毛の馬に乗って大手門まで一番駆けをした。
その勇気に驚いた城主原田信種は降伏し、
秀吉の感状をいただく。

豊前入国後、五000石を拝領



★井上九郎右衛門(1554〜1634)

黒田八虎の一人。姫路近郊松原(白浜)の生まれ
黒田職隆に仕えて重きをなす
職隆の隠居後も、それに従ったため
人望はあるが、戦功には恵まれていない
しかし、孝高は父の遺命によって
高禄で召し抱え、豊前入国後六000石を給した。

筑前入国後、黒崎城を預かり
一万六000石を拝領



★母里太兵衛(1556〜1615)

黒田八虎の一人。父の名は曽我一信、妻鹿の地侍であり
小寺の付家老として職隆に仕えた。
永禄十二年孝高に出仕、母方の姓をとって母里姓を名乗る
天正元年(1573)、印南野合戦に初陣
常に黒田軍の先鋒をつとめ
負ける事を知らず、栗山同様武功は数えきれない

筑前入国後、一万八000石を領して
鷹取城を預かった

生涯であげた首数76級で
藩内の首取ナンバ−ワンである

黒田節の主人公としても有名である



★後藤又兵衛(1560〜1615)

黒田八虎の一人。後藤氏は、姫路の北東に位置する
春日山城(神崎郡)に数代栄えた地侍。
又兵衛はその一族で、麓の山田村に生まれる
父を早くに失い、孝高に養育された

しかし、孝高が有岡城に幽閉された時、
その伯父が反逆したため、仙石秀久に仕えた

筑前入国後、大隈城を預かり一万六000石を拝領。

しかし、隣国に対する押さえであったにもかかわらず
細川氏と音信を交わしたために叱責を受け
黒田家を去った。

のちに、秀頼の大坂城に迎えられ
華々しい最期をとげるのは、あまりにも有名



★黒田三左衛門(1571〜1656)

黒田八虎の一人。本姓は加藤氏
摂津国伊丹に生まれる。

父加藤重徳は荒木村重の臣、
天正六年(1578)孝高が有岡城に幽閉された際
獄舎の看守であった
孝高はその庇護の恩に報いるため
二男、三左衛門を養子に譲り受けた。

初陣は岸和田の陣、四国攻めにも加わり
日向の陣で首二つを取る
豊前入国後八三石を拝領、その後どんどん加増され
四五00石となる

城井攻めで敗走の時、長政の影武者になることを欲し
その志を賞される

慶長五年、関ヶ原の役では長政に従い
合渡川で予告した相手を倒し、功名をする
また、本戦では石田三成の重臣蒲生将監(安藤守就の弟)
を討ち取った

筑前入国後、下座郡三奈木に居館を構え
一万六000石を領す



★野村太郎兵衛(1560〜97)

母里太兵衛の弟で、姫路に生まれる。
天正元年(1573)兄と共に初陣
野村伊予守(太郎兵衛)の娘を娶るも
天正三年、野村城の陥落により、その姓を受け継ぐ

豊前入国後、二九六0石を拝領
城井鎮房暗殺の時は、父曽我大隅に譲り受けた短刀で
一の太刀を浴びせる



★吉田六郎太夫(1547〜1623)

本姓は八代氏。赤松家に仕え、代々姫路近郊の地侍
17歳で出仕、孝高より吉田の姓を賜う
永禄十年(1567)龍野赤松氏との戦いで適切な物見をし
翌年別所氏との戦いで首4つを取る
同十二年、青山の戦いに一番槍、首3つを取る

筑前入国後、隠居領一五00石を拝領

生涯で取った首数50級



★桐山孫兵衛(1554〜1625)

桐山氏は、近江国坂田郡の地侍であったが
播磨国に移住し、黒田家に仕える
英保山合戦に初陣、武勇に優れていたというが
職隆に仕えていたので、具体的な戦功は伝わっていない

豊前入国後、九六五石を拝領



★小河伝右衛門(1554〜92)

小河氏(三河守)の時には、小寺政職の家老であった
その弟の伝右衛門は、小寺氏没落後、孝高に仕え
日向の陣に高名。

豊前入国後、五000石を拝領



★菅六之助(1567〜1625)

菅氏は美作国の名族。
菅正元は領地をうしなって、六之助を孝高に出仕させた
初陣は賎ヶ岳で首2つを取る

豊前入国後は二00石を賜い、城井攻めに敗走した時は
長政を大いに助ける

関ヶ原の役では、小早川秀秋の裏切りを勧める使者となる
本戦では二人を瞬時に斬り、
鉄砲隊を指揮して、島左近を倒した

筑前入国後、高祖古城を預かり三000石を拝領



★三宅山太夫(1552〜1623)

姫路近郊三宅の地侍。孝高に求められ家臣となる
播磨において三00石。上方、九州の陣で高名する

筑前入国後、三六00石と代官領一万石を預けられ
船手頭を任される



★野口佐助(1559〜1643)

播磨国加古郡野口村の出身、
父は孝高の囲碁仲間で、浄金と言う僧。
17歳で出仕したが、謙信流の使い手として知られる

天正五年、佐用郡高倉山城攻めで高名
三木城攻めでは首2つを取る
天正十四年、障子ヶ岳城に一人抜け駆けし
槍一本で城を押さえたと話題になった。

筑前入国後、三000石を領し
猛者ばかりを集めた百人組を預けられた



★益田与助(1542〜1611)

与助は、台所の水汲みであった
孝高は、下男、中間、草履取りからも人材を登用した
その代表がこの与助であった

農家出身のせいか、足軽の扱いがうまく
関ヶ原の役で、足軽を良く誘導し、自身も首3つを挙げた

筑前入国後、三000石を領し鉄砲組頭となる
戦場での働きは一万石にも匹敵したが
読み書きが出来ないことで
三000石に留められたという



★竹森新右衛門(1550〜1621)

本姓は、清原氏。
父新兵衛は、姫路近郊大野村日岡八幡の宮司であった
永禄三年(1560)黒田職隆の下僕となる

天正三年(1575)初陣し兜首をあげる
さらに同五年、佐用郡高倉山城攻めに
城主兄弟と家老の3首を取って高名
秀吉から直々に羽織をいただく

天正六年(1578)三木城攻めにて
一番首をあげるが、この時左手首を斬られる

天正八年(1580)旗奉行となり
以後、自身の働きは無くなるが
それまでに兜首21級をあげていたという



★林太郎右衛門(1569〜1629)

本姓は松本氏。信濃国軽井沢に生まれる
播磨国に移住して黒田家に仕え
付き人、林大学助の養子になる

天正十二年(1584)岸和田の戦いに初陣

豊前入国後、五一四石を拝領し足軽大将となる
筑前入国後、三000石を領して大組頭の筆頭となる



★原弥左衛門(557〜1639)
本姓は原田氏。筑前国の名族支流で、
代々宝珠山を領していて、それを姓としていた

天正十四年(1586)秀吉に通じて従った
秀吉の命により、黒田家へ仕え五00石を拝領
地理に暗い黒田軍を先導した

孝高の命により、宝珠山を原に改称した

筑前入国後、二000石を拝領



★掘平右衛門(?〜1636)

本姓は明石氏。播磨の生まれ
黒田家臣、住江茂右衛門の従卒であったが
文禄の役にあたり、異例の抜擢を受ける
すなわち直参、百石取りとなる

先手の足軽大将として、敗れることが無かったという

筑前入国後、二六00石を拝領
長政の三男、長興の秋月分封に際し
五000石に加増され、その家老となる



★衣笠久右衛門(1552〜1631)

小寺家に仕えていたが、与力として黒田家臣になる
知謀才覚に秀で、武勇もあり、上方、九州の陣で高名する

筑前入国後、三000石を拝領
中老なみの待遇を受けた



★毛屋主人(1554〜1628)

本姓は田原氏。近江国神崎郡の生まれ
父を失い、書家・建部賢文に養育される

永禄十二年、和田正武に出仕
六角承禎、山崎片家と転じ、ある戦場で蒲生氏郷を救う
また、柴田勝家に仕えて長篠の役に高名
越後平定に従い、毛屋という所で首2つを取る
勝家はそれを賞して、毛屋主人の名を与えた

その後、前田利家、池田信輝、
佐々成政に仕えて物頭となる
渡り奉行も、ここまで徹底しているのは珍しい

佐々成政切腹後、豊前国に移り
黒田家につかえる。禄三00石

筑前入国後、七00石を拝領



★村田兵助(1565〜1621)

本姓は井口氏。
天正八年(1580)初陣する
早く一人前になりたくて、岸和田の陣では
敵の武具、刀槍、馬までも奪い取って
戦いに臨んだという。

関ヶ原の役では孝高に従う、
そして鍋島直茂を訪れた際、
その家臣に無傷の猛将がいると聞き
その姓、村田を譲られた

筑前入国後、二000石を賜い
甘木宿の代官をつとめる



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