黒田如水の略歴



不世出の軍師、黒田官兵衛孝高(小寺孝高)のちの黒田如水の波瀾の生涯



黒田如水(官兵衛)の生涯を語るうえで、曾祖父、祖父達の
辛苦の生涯を見逃せない、




★永正八年(1511年)

曾祖父、高政は近江の守護職だった
佐々木氏について、岡山で戦ったが
軍令違反が有ったかどで、将軍足利義稙の怒りに触れる、

近江国を逐われ流浪の末、
備前国邑久郡福岡郷(岡山県邑久郡)に落ち着く
この地に黒田氏の一族が住んでいたからだ

★大永三年(1523年)

高政は黒田家伝承の目薬(玲珠膏)を販売して
細々、生計を立てていた中
時運に恵まれる事無く、世を去る

高政亡き後、祖父重隆も家伝薬で
どうにか暮らしをたてていたが
豪族、浦上則宗の侵入で
福岡郷を逐われ、播磨の姫路へのがれる

ここで館野(竜野)の、赤松晴政に仕えるも、
晴政に失望し牢人(浪人)となる

しかし、土地の大百姓、竹森新右衛門や
広宗(広峰)大明神の神主、井口太夫の知遇により
目薬(玲珠膏)が大いに売れ
金貸し業を経て豪族への道を歩んでいく

★天文十二年(1543年)

重隆は、嫡男甚四郎(後の職隆)19才に、家臣団を与え
豪族、香山重道を襲わせ首尾良く首を取る
当時、香山氏と敵対していた御着城主、
小寺政職の許へ出向き、
甚四郎は客将として迎えられる

★天文十四年(1545年)

甚四郎は明石城主、明石正風の娘を娶り家老となり
黒田甚四郎を小寺職隆と改め
姫路城の守将と成る

黒田氏は職隆によって、ようやく一城の主と成る

高政が近江を逐われてから、32年後の事である



★天文十五年(1546年)

11月29日 姫路城で如水(官兵衛)[幼名を万吉]が生まれる

『黒田如水(官兵衛)の治世学はどこで身に付けたか』

姫路城の内曲輪には、百間長屋が有った
父職隆が設けて、職隆はそこに寄宿する旅人、行商人、博労、
牛方、鋳物師、等を使って武具の皮革製品売買
軍馬の元締めとなった。
万吉は、そうした住人達と親しく接する事で
人並みすぐれた治世学を、学んでいった

★永禄四年(1561年)

万吉16才、
御着城主、小寺政職の近習と成る

★永禄五年(1562年)

この年、父職隆に従い近在の土豪を討伐
17才の初陣で官兵衛と称し、名を万吉から孝高(小寺孝高)と改める

★永禄十年(1567年)

22才で政職の姪で有る播磨志方城主、櫛橋氏の娘を正室に迎え
家督を継いで姫路城主と成り、小寺氏の家老に任じられる

★永禄十一年(1568年)

12月 長男松寿丸(後の長政)誕生

★永禄十二年(1569年)

如水(官兵衛)が戦国武将としての名を近隣に、知らしめた年と成る

以前、祖父重隆も仕えた事の有る
播州館野城の赤松氏は、政秀の代に成っていたが
その赤松政秀が三千余の軍を率いて
姫路城に攻め入って来た

対する如水(官兵衛)の兵力三百足らず
それにも関わらず、籠城する事無く
果敢に城を出て戦い、赤松勢を撃退してしまう

これ以後、如水(官兵衛)は小寺氏の家老として頭角を表わす様に成る

★天正三年(1575年)

織田氏と毛利氏の、二大勢力の狭間に有る小寺氏決断の年

御着城に如水(官兵衛)をはじめ重臣達が招集され
織田氏に味方すべきか、毛利氏に従うべきか?

如水(官兵衛)以外の重臣達は、当然のごとく
毛利氏に従うべきと進言
しかし如水(官兵衛)は、毛利氏の保守性に比べ
信長の雄大な気性を、幾つか例を上げて
褒めちぎった、
そんな如水(官兵衛)に、他の重臣達は
反論出来なかったと言う。

織田氏に味方する事と成り、如水(官兵衛)自身が
羽柴秀吉の周旋で、信長に対面する

★天正五年(1577年)

10月 中国征伐のため、播磨に下って来た秀吉を迎え
姫路城を提供する

11月 秀吉に従い佐用・上月両城を攻略

★天正六年(1578年)

この年は、如水(官兵衛)にとって苦々しい年と成る

荒木村重が、石山本願寺の誘いに乗り背いた上に
如水(官兵衛)の主人小寺政職も荒木村重の
誘いに乗り毛利方と成っていた

11月 如水(官兵衛)は、翻意を促すために
単身、御着城の小寺政職
そして荒木村重の許へ出向くが
村重に捕らえられ、有岡城の牢に幽閉されてしまう

★天正七年(1579年)

10月 有岡城陥落、幽閉されていた如水(官兵衛)は
栗山善助に救い出されるも
陽も射さない暗い牢内で、悶々の日を過ごした如水(官兵衛)は
両膝は曲がり、立つ事も出来なかったと言う

これ以後、歩行困難となった如水(官兵衛)は
秀吉の授けた、陣輿に乗っての行動と成る

如水(官兵衛)の才知を必要とする秀吉は、
隠居を許さなかったのだ

★天正八年(1580年)

1月 三木城陥落させる

9月 如水(官兵衛)は一万石を賜り、大名となる
それに伴い山崎城に移る

★天正九年(1581年)

7月 秀吉の命により阿波・淡路を経略

★天正十年(1582年)

4月 秀吉に従い、備中遠征
高松城を水攻めにする

5月 本能寺の変(信長自刃)

如水(官兵衛)は、
かの有名な、中国大返しの時の殿軍(シンガリ)を努める

この年、一万石加増される

★天正十一年(1583年)

4月 秀吉は、信長亡き後我こそ後継者と、自負する
柴田勝家を、越前北ノ庄に追い詰め自決させる

秀吉はこの勝利により、
天下人としての道を、着実に歩みはじめる

如水(官兵衛)は、このとき
小寺政職から許されていた小寺の姓を捨て
黒田姓に復す、ときに39歳

★天正十二年(1584年)

如水(官兵衛)は、秀吉の命で毛利氏との
領国境界の交渉
にあたり成功する

毛利氏も秀吉の傘下になったも同然と成る


如水(官兵衛)のこれまでの働きは
当然一国の恩賞に値するものであったが
与えられたものは、
一万石の加増(三万石の大名に成る)にすぎなかった


秀吉は、あまりに頭の切れすぎる如水(官兵衛)に恐れをいだき
手強い敵とすら思っていた
その事を知っていた如水(官兵衛)は
冷遇に甘んじていた


★天正十三年(1585年)

四国征伐において、如水(官兵衛)は軍監として参加し、
知才を発揮した如水(官兵衛)の作戦は
大成功に終わる

この戦での恩賞も、他の重臣には充分与えながら
如水(官兵衛)には、なんらの恩賞もなかった
そのかわりに秀吉は、九州平定後に一国を与えると告げる

この夏、如水(官兵衛)の父職隆が
世を去った。62歳

★天正十五年(1587年)

(九州平定)
この年、秀吉の北軍10万、弟秀長の南軍15万
如水(官兵衛)は軍監として、南軍に配される
このとき、如水(官兵衛)の長男長政も
如水(官兵衛)に従っていた

島津軍の抵抗に悩まされ
士気の落ちていた南軍は、長政の働きで
士気を取り戻し
さしもの島津軍も秀吉の軍門に降った

秀吉は如水(官兵衛)に対して、九州平定後
一国を与える事を約束していながら、
如水(官兵衛)に与えたのは、
豊前の内六郡で、12万3000石にすぎなかった

佐々成政の50万石
小早川隆景の70万石に比べ
勲功一番とみなされる如水(官兵衛)の
論功行賞は、あまりににも少なすぎた


秀吉はやはり、如水(官兵衛)に天下取りの
野望を見ていたのだろうか。

家康も秀吉同様に、如水(官兵衛)を警戒して
心を許そうとしなかったと言う。


★天正十七年(1589年)

『秀吉が伽衆(オトギシュウ)に問い掛けたと伝わる話』

「わしが死んだ後、天下を取る者は誰か」の問いに
徳川、前田、上杉、毛利といった名が、
それぞれの口から出たが
秀吉は笑って別の名を上げたと言う
「みんな違う、おそらく黒田官兵衛孝高であろう」


5月 如水(官兵衛)は、この話を、親しい僧侶から聞かされ
いよいよ隠居を決意したと言う。

このとき家督を長政(21歳)に譲り、
黒田官兵衛孝高を黒田如水軒と改める
如水(官兵衛)このとき44歳
しかし秀吉は、如水(官兵衛)の隠居を許さなかった、
秀吉は、まだまだ如水(官兵衛)の知才を必要としていた




★★ 如水(官兵衛)の波瀾の生涯はまだまだ続く ★★

★文禄元年(1592年)

4月(文禄の役)始まる

★文禄二年(1593年)

7月 如水(官兵衛)は、剃髪し如水円清と号する

★慶長三年(1598年)

8月 秀吉、伏見城にて世を去る

★慶長六年(1601年)

この年、博多の西方の福崎の地を
黒田氏発展の地・備前福岡
(現・岡山県邑久郡長船町福岡)に因んで福岡と改称

★慶長八年(1603年)

11月 如水は、湯治のため有馬温泉へ赴き、越年する

★慶長九年(1604年)

3月 黒田如水、伏見の藩邸にて世を去る。享年59歳



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