__________@西宮



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西スタお別れ会

投稿者:名もない選手
投稿日:12月24日14時59分

行ってきました。関西連盟全校いたのかな?
本当にお別れですね。
残念な気持ちでいっぱいです。
 
 
 
懐かしいですよね

投稿者:アメフトにはまっているおばさん
投稿日:12月17日14時43分

まあくんさん
本当に、あのシーンは何が起こったのか呆然としましたよね。丁度見ていた目前だったのですが・・・・。
とにかく審判のタッチダウンコールを見て、そして京大の応援歌を聴いて、まだ呆然としてた事が昨日のように思い出されます。思い出多いニシスタです。

 
 
 
恐らく最後ではないでしょうか?

投稿者:タッチフッター
投稿日:12月17日08時09分

12月22・23日にタッチフットの全国大会が行われます。一般の方がスタジアムに入れる最後の日ではないでしょうか?(違ったら申し訳ない)
スタジアムの思い出作りにどうでしょうか?
 
 
 
西宮死すともアメフトは死さず

投稿者:まあくん
投稿日:12月16日19時42分

はっきりとは覚えていませんが、西宮でアメフト観戦をはじめたのは、京大が初めて甲子園ボウルに出場(このときは日大に大敗)した年あたりからです。

やるのも見るのもスポーツは大好きだったのですが、野球、サッカー、ラグビーなどで頂点を極めるのはスポーツ推薦等で有力選手を集めている私学ばかり。
そんな中、”素人集団”でも頂点にたてる可能性がある(翌年、京大は日大を下して学生日本一になる)アメフトというスポーツはどんなものなんだろう、と子供心に非常に判官贔屓的な興味を持って西宮に通い、どんどんハマっていったのを覚えています。
西宮球技場はスタンドが低くてボールがゴールライン付近まで行くとよく見えないので、スタンド最上段のフェンスみたいな柵にのぼって2試合ぶっ続けで「立ち見」してたことも懐かしく思い出しています。

印象に残っている試合を1つだけあげるとすると、92年の関京戦でしょうか(京大QBが背後からタックルを受けてファンブルしたかに見えたボールが前を行くWRの胸にすっぽり納まってそのままTD)。

現在は東京在住のためスタンド観戦する機会が非常に少なくなってしまいましたが、これからも関西学生アメフトの動向にはずっと関心を持ち続けていくつもりです。
また、このサイトを運営されているAKさんに改めて感謝の意を表すとともに、このサイトのますますの発展を祈念致します。



 
 
 
サヨナラ西球

投稿者:現役選手
投稿日:12月10日02時16分

西スタ、西球ともになくなるのは切ないです。
勝った思い出よりも負けた思い出の方が多いけど。

 
 
 
西スタ、西球ありがとう。

投稿者:エリナ
投稿日:12月4日03時00分

デビルズの応援をしてます。おととしの入れ替えという不本意なシーズンから、去年は東さん、太郎さんという有名選手がいたシーズン。そして、今年、関学、京大を破って見せてくれたあの、感動は西宮からうまれたんです。みんなの、悔し泣き、うれし泣きを見たのが西宮だったんです。ぜったいに、忘れません
 
 
 
西スタ・西球 forever

投稿者:taki
投稿日:11月29日03時02分

私が初めて西スタでフットボールを観戦したのは、確か最後のIVYボウルだったと思います。大学1回生の時にアメフトを始めて、ALL JAPANを見てみたいという一心で名古屋から遠征しました。元IBMのWR天谷選手が筑波のTEとして出場していた気がします。その後、大学4回生の時に西宮ボウルで初めてフィールドに立ったときは感動したものでした。あの傾斜が何となく嬉しかった気がします。
西球は関西遠征のときに何度か訪れ、どしゃ降りの中どろどろになって前が見えない状態でプレーした記憶があります。
勝利の喜びも、敗北の悔しさも、全てを受け止めてくれた西スタ・西球。ありがとう。
川崎球場みたいにグランドだけでも残らないのかな・・・
 
 
 
ありがとう西宮のフットボールファン

投稿者:豹でなかった頃のへたくそOB
投稿日:11月27日01時12分

立命館が最初に西宮球場でゲームをしたのは1986年10月26日、対戦相手は関西学院大学。結果は20−24で立命館の敗戦でした。
立命館3勝1敗、関学4戦全勝で迎えたリーグ戦第5節、今のように後援会もなく、一般のファンがほとんどいなかった当時のチームは、熱戦を終えて関学の応援団で埋められた球場の片隅ほんの一握りの仲間のもとへかけより、悔しさをこらえて挨拶をしました。
そのとき、思いもかけない程たくさんの拍手を頂いたことを、昨日のように覚えています。
その当時の立命館は一部リーグの中堅から上位進出を伺うところで、米国の学術提携校であるピッツバーグ大学やワシントン大学と、コーチや選手が短期留学などによる国際交流を始めた時代でした。
その年は、打倒関学に燃え、選手起用もシステムもそのためだけに備え、結果は敗戦でしたが、あと一歩の所まで関学を追いつめ、チーム飛躍の礎を築いたと言う意味で、非常に重要なシーズンだったと思います。
私にとっては、1980年9月6日、一部復帰初戦、対関学戦24-28で惜敗した西宮球技場でのゲーム、
1981年12月6日、同じく西宮球技場で行なった、選手最後のゲームである岡山大学との入替戦敗戦と共に、フットボールの聖地西宮は、一生忘れることのできない場所です。
敵味方の隔てなく、ナイスゲームに拍手を送ってくれた西宮のファンに感謝します。ありがとう
 
 
 
土まみれのユニフォーム

投稿者:GB
投稿日:11月26日01時15分

私が西宮球場でフットボールのゲームを最初に見たのは1975年11月15日、高校2年生の時「関学対京大」。
西宮で小中高とすごしたのだが、西宮球場は、競輪ファンのおっちゃんたちが大群で押し寄せる怖いところ、という印象で、当時サンTVで放映されたUSCやペンステイトUCLAのゲームを視て、にわかファンになっていなければ、おおよそ足を踏み入れる場所ではなかった。
午後2時キックオフ、小雨交じりの外野特設フィールドで行なわれたゲームは関学のファーストプレイTDに対して京大が次のキックオフをリターンTDするという波乱の幕開け。
最終的には第四Qに逆転した関学が24-14と勝利を収めたのだが、いたいけな小僧にとって、フットボールの神様に魅せられた瞬間だった。
もちろん人工芝などではなく、真っ黒けの土のフィールドでプレイしているもんやから選手のユニフォームも真っ黒け、これがまたかっこよかったのよ。
ゲーム前にスターティングメンバーがアナウンスされるんやけど、出身高校を言ってもらえてね、あれっていつから無くなったのかね、それともあのゲームだけやったのかな。
スタンドで肩を組んで「紅もゆる」を歌ったのも今は良い思い出です。(後に大学でフットボールを始めたのですが京大には行けなかったので、最初で最後の経験でした)
選手時代は、お隣の西宮球技場止まりでしたが、後にコーチとして西宮デビューを果たし、審判で西宮スタジアムの風呂には随分とお世話になりました。
一度だけですが西宮ボウラー(審判で)にもさせていただき本当にありがとうございました。
こんなことなら、あの時「土」をこっそり持って帰っとくんやったな。
そしたら、ずーと一緒に眠れたのに。
 
 
 
最終観戦が初観戦

投稿者:もろきう
投稿日:11月25日20時54分

これまで、私にとって西宮スタジアムは「近くて遠い存在」だった。立命に在学しながら、惜しいところで優勝を逃し続けていた80〜90年代。いつも行きたいと思いつつ、実際に足を運ばせる何かが欠けていた。
94年は就職直後でフットボール観戦どころではなく、98年はCSで歓喜のるつぼと化したスタンドを見ながら「あの中に混じって校歌を、応援歌を歌いたい」と思った。それ年の甲子園には行ったものの、「西スタ行きたい病」は、この辺りから発症し始めた。
そして今年。実際に足を運んだのは…何年ぶりだろう。阪急ブレーブスの最終戦・上田監督、山田、福本の引退試合以来。ついに最初で最後の西スタフットボール観戦となってしまった。
遠く故郷・福岡の地に住んで、はや12年。母校の優勝で、祈念すべき観戦を飾ることができた。うれしかった。最高だった。
拙い写真の腕で、最後の日を記録したスナップを公開しています。よろしかったらご覧ください。
http://album.nikon-image.com/nk/NAlbumPage.asp?key=70244&un=17753&m=2&s=0
 
 
 
最初の関京戦は90年

投稿者:西宮に感謝
投稿日:11月24日15時58分

関京戦がはじめて西宮にきたのは90年からだったと思います。
試合結果は皆さんご承知のことでしょう。関学は試練の年でした。

初めて西宮で、人口芝で関京戦が行われた時の
記憶は今でもとても鮮明です。
そして関学のおひざ元に京大が乗り込んでくるという「いかにも」の構図が面白いと思っておりました。

関学側スタンド、定番の1塁側は神戸系の素敵な華やかな雰囲気。 
京大側スタンドは3塁側のぐちゃぐちゃっとした印象

その好対照さがちょうど関京戦にうってつけだったような気がします。

来期からはどこでやる予定なのでしょうか?関東のスタジアム事情は大変に苦しい感じです。大井はテニスコートでフットボールやっている感じ・・・。 

ぜひともスタジアムに向かう人が、「うってつけ」と「定番感」と、そしてそれを裏切るかのようなドラマティックなゲーム内容を期待しまくれるようなスタジアムでやっていただきたいと思います。
 
 
 
西宮球場取り壊しに思う

投稿者:hid
投稿日:11月23日21時58分

まだ、阪急ブレーブスがいて、内野が土だった頃、フィールドは、甲子園ボウルのように、外野に横にセッティングされていました。その当時は「見にくいなぁ」でした。90年か91年頃、内野にも芝が張られて、フィールドが縦に取られるようになり、初めて2階席から観戦した時の第一印象は「遠いなぁ」でした。
91年のプレーオフ、92年の最終戦、第1回平成ボウルなど、札止めの大観衆を集めた球場が無くなるのは、寂しい限りです。
何しろ4万人以上入る球場でしたから、少々の大観衆では多く見えないという欠点(?)も有りましたが。
 
 
 
関西アメフトのメッカ消失に思う。

投稿者:3156
投稿日:11月20日18時30分

西宮球場(当時)で最初にアメリカンを観戦したのは,1975年前後の西宮ボウルだったと思います。関京戦では,ファーストプレイでのTDや京大の関学戦初勝利などいくつかの印象的な試合が思い出されます。関西を離れてからは,生観戦は少なくなりましたが,西宮スタジアムが関西アメフトのメッカとなり,今後も続くことを疑うことなく過ごしてきました。残念の一言です。
 
 
 
西宮球場 プロ野球観戦

AK.HIRO
投稿日:11月21日2時00分

 始めて西宮球場を訪れたのは、私がまだ小学生だった1971年、プロ野球日本シリーズ阪急対巨人だった。しかし、それ以前もそれ以後もあまりプロ野球に興味はないので、なぜこの試合を観に行ったのか理由が判らない。単純にミーハーで6連覇中の巨人を見たかっただけなのかもしれません。一塁側上層の屋根の下から観戦していた見ていたのですが、途中で飽きてしまい上層スタンド裏のスペースから秋の夕日に照らされる西宮の町を眺めていたのを覚えています。

 その次に西宮球場へプロ野球観戦に行ったのは大学生の時でした。麻雀明けの朝食を箕面高校前のミスタードーナッツで食べていたときに、近鉄ファンの友人の一声で決まった観戦だった。当時のパリーグは前後期制を採用していて、プレーオフの阪急対近鉄を3塁側から見たように記憶している。なかば強引に連れられていったので、試合内容は全く覚えていないが、大学のつまらない授業をサボって先輩の車で171号を西下したという、学生時代の思い出の一つです。
 
 
 
_______@西宮

投稿者:sumi
投稿日:11月18日20時22分

 当時、アメフトとは縁の無い私は、西スタでの阪急ブレーブス戦が、5回を終了すると外野席は無料で入場できたので、ビール片手に子守をかねて、たびたび観戦に行っていました。何せ家から徒歩1分、踏み切りを渡れば西スタでした。その後西宮を離れ、地震と北口の再開発で当時の偲ぶものは西スタのみとなりました。
 こんな思い出のある西宮に再び足を向けさせたのは、アメフトでした。西宮の記憶のまったく無い息子が、チームメートとともに西スタのグラウンドに立ったのです。昨年は、ユニホームも着れずにいました。今年やっと、ボールを持って走りました。3ヤード・5ヤード・10ヤードファーストダウンだ、もっと走れ、走れ。と思った瞬間タックル。起き上がりません。負傷退場。
私にとっても、息子にとってもいつまでも記憶に残る西スタになるでしょう。
 
 
 
初めてのアメフト、刻まれたもの

投稿者:アメフト娘
投稿日:11月15日23時54分

私が生まれてはじめてアメフトを見たのは西スタでした。四年前の話になります。私はそれまでスポーツとじかに触れ合うことは全くありませんでした。もちろん西スタがアメフト選手にとって聖地と呼ばれていることなど知りもしなかった。でも、私に真剣に戦う人の姿を、負けた者の涙の意味を、勝者の誇りに満ちた表情を教えてくれたのがまさに西スタでした。たった四年しか私は西スタと触れ合うことはできなかった。でも西スタは私に一生残るかけがえのないものを与えてくれました。選手だけじゃない。私にとっても西スタは「聖地」でした。
 きっとカレッジアメフトの選手なら、誰もが一度は立ってみたいと思う場所だったと思います。私は西スタで自分の大学のチームを応援できて本当に幸せだったと思います。最後に西スタの壁に観客、選手、みんなで何か残したいですよね。。無理なのかなあ。。。
 
 
 
'76関京戦

投稿者:関西学生リーグOB
投稿日:11月6日21時04分

滋賀県の田舎で、アメリカンフットボール一色にそまっていた高校2年の秋、フットボール部の仲間と土曜日の授業をサボって遠路はるばる観戦にいったのが、あの歴史的な関京戦(21-0で京大が関学に初勝利、関学の連勝記録をストップした)でした。
京大にフットボール部の先輩がいたこともあり、京大を応援していた我々は宅田のオプション、津島のランに魅了され、ますますフットボールにのめりこんでいったのでした。
 
 
 
思い出の西宮スタジアム

投稿者:たけし
投稿日:11月5日23時39分

私が西宮スタジアムに行きましたのは、1988年、そう近鉄がロッテとの10・19で涙を飲んだ年。この数日前の阪急対近鉄で近鉄が負けた試合でした。そして、10年後の98年の母校立命館大学と関学。前半10対0でリードされた後半に里見選手のキックオフリターン。そして杉山選手のラン。川嵜選手のパスでじりじりと追い上げ、最後は大逆転。祝杯を挙げました。それから、何度か行きましたが、KGには負けています。
ほろ苦い思い出、うれしい思い出様々です。昨年一緒に行った方と、事情あって別れ、今年は孤独の近大戦、関学戦観戦に行きます。でも、アニマルリッツの最後の西スタ対戦を見て再起を私もがんばります。西宮スタジアム本当にありがとう。出来れば、店とは言わず、沿道の屋台・おでんや復活してほしいと思います。最後には。ローソン(近く)だけでは物足りないですね。みなさん、24日は、アメフトファンみんなお別れに行きましょう。
 
 
 
寂し過ぎる(観客としてver)

投稿者:アメフット好きのおっさん
投稿日:11月5日14時20分

私は兵庫県出身で親が「神戸新聞」というローカル紙(関係者の方すいません)を購読していたこともあって小学生の頃からKGファンでした。親からは「絶対国立しか行かせてやれない(金銭的に)」と言われ続けてましたが、「関学にだけ合格したらファイターズに入れるかな?」という野望(?)を抱いていたのも事実でした。結局は関学は見事に不合格(入試の時に小野選手を見つけてメッチャ喜んでたのに)で、野望はついえてしまいましたが・・・。当然、大学入学後は選手証なる打ち出の小槌(?)を手にしたこともあり、KGの試合を見まくりました。間近で見る当たりの激しさにビックリした(自分たちとのあまりの違いにもビックリした)のを覚えています。ただ、球技場で一番印象に残っているシーンは、KGのものではなく、京大の東海選手のトリプル・オプションの凄さです。深堀選手がRBだったのですが、ライドする時間の長さ、外から見てても「絶対入れた」と思ってもそこから抜いてキープで独走するというシーンに唖然としました。あまりの切れ味に、確か一度、審判が誤って笛を吹いてしまっことがあったんじゃないかと思います。また、何年のゲームかは忘れましたが、近大-京大の試合で不利と見られていた近大がチーム一丸となった魂のフットボールで京大に勝った(確かそうだったはず・・・)試合での近大の佐野選手のリーダーシップに感銘を受けたことも忘れられません。来年からはあれだけ間近で観戦できる機会が減るというのは寂しい限りです。
 
 
 
寂し過ぎます(選手としてver)

投稿者:アメフット好きのおっさん
投稿日:11月5日13時59分

20年前、2部リーグの選手にとっては西宮球技場といえば「憧れの場所」「どうしてもプレーしたい場所」でした。私が始めて球技場でプレーしたのは西日本選手権の時だったと記憶してますが、それまでは大学のグラウンドでしかしたことがなかったので、もの凄く興奮したのを覚えています。しかもそんな試合でパンターの蹴ったボールが私の尻に当たってしまうという「珍しい」(場内アナウンスでこう言われてしまった)反則までやらかしてしまい、今でも忘れられない試合です。その年は春のシーズンで4試合、秋のシーズンでも1試合(?)することができましたが、客席との距離の無さがなんとも言えず嬉しかったのを覚えています。また、球技場での一番の思い出といえば、2年続けて戦った中京大との試合です。1年目は4点差で敗れてしまい、自分も途中で何度も足がつってしまう(それでも試合に出続けた)という踏んだり蹴ったりの試合でしたが、その経験が翌年のチームにプラスに働き、秋のリーグ戦・トーナメントとも苦しい試合を切り抜けられたのだと思います。2年目の対戦では前年のリベンジができ、後輩たちに胴上げしてもらいましたが、その時の光景は17年経った今でも忘れられません。近年は協会の皆さんの努力のおかげもあり、2部のチームでも球技場や西宮スタジアム・長居球技場といった恵まれた環境で試合することができるようになりましたが、選手の皆さんにはそういう環境で試合できることは非常に恵まれているんだということを是非、知っていただきたいと思います。先日、私の母校の西宮での最後の試合がありましたが、残念ながら勝利することが出来ませんでした(その結果最後になってしまったのですが)。後輩たちが笑顔で西宮を後に出来なかったことに悔いは残りますが、来年からは新たなステージで活躍してくれることを願っています。我が家にある西宮でのVTRは宝物として取っておこうと思います。
 
 
 
思い出

投稿者:一神戸市民
投稿日:11月4日23時57分

私と西宮ST、アメフトとの関係はプレ−していたわけではないが今までの人生の大きな部分を占めます。
@京都で産湯をつかり、小学低学年まで尼崎で育ちましたが、周囲には関学中等部を目指す友人がたくさんおり、父の勤務先の人の子弟が確か中等部でフッボ−ルをしていました。
A小学高学年で引っ越した大阪では、阪急電車の要、十三が近かったせいもあり、阪急ブレ−ブス子供会に入り、土曜日のデ−ゲ−ムを西STへ見に行っていました。この子供会は大変お得なもので、確か年間300円ほどの会費で、西STの内野自由席がタダ(甲子園では考えられないが空いているのでベンチ裏のボックス席に座っても怒られない)、宝塚ファミリ−ランドのこどもクリスマスには確か前売り1000円で、乗り放題、たくさんのお土産つきというもの。こどもクリスマスに誰と行くかで仲間はずれや喧嘩がおきたりと大変な騒ぎでした。30年ぐらい前の話です。
宝塚ファミリ−ランドも閉鎖ときき先日家族でお別れに行きました。(子供に大人形館の感動を味わわせてやりました)
B北摂の府立高校に進学し、そこにアメフト部がありました。当時はアメフト部はどこの高校にもあるものと思っていましたが、実は伝統ある貴重なクラブだったのを知ったのは卒業後でした。そういえば体育でタッチフットボ−ルの授業がありました。
C大学に進学。クラスにアメフト部員もいたが全く興味なし。就職後、母校のリ−グでの旋風が話題となり京大との国立大決戦を観戦。ここでアメフトに目覚め、以後、12年、西宮通いが始まる。
と、ざっと以上のようなものです。
西宮ST・球技場がなくなるのは本当に寂しく、30年来の友を失うような気分ですが、一方、近所のユニバ−、ウィングスタジアム、王子公園での試合が増えることも密かに楽しみにしている私です。
西宮は消えても関西学生アメフトは続く。
 
 
 
球技場の思い出

投稿者:96907
投稿日:11月4日22時48分

初めての観戦が球技場で、80年代の前半だったと思います。
当時は改装前で、スタンドが低くて、中央辺に座ると両端のゴールライン付近のプレーはよく見えませんでした。それでも、「そのうちに帰ってくるやろ…」と周りと雑談しながら気ながに待っているという、ごくのどかな雰囲気でした。
確か、関学―大体大戦を見にいったのですが、ゲームのことは何も覚えていません。
ただ、次の京大―甲南大戦での京大のQBは、鮮明な印象があります。彼はパスもピッチもせず、ひたすらスニークばかりで4〜5ヤードほど進んでいました。
そのQBは一年生で、名前を東海クンといっていました。

 
 
 
大人のタックル

投稿者:クレージーデビルス
投稿日:11月4日20時52分

1984年関西学生秋季リーグ戦 この年近畿大学は関西学院大学と同率優勝するが甲子園出場決定戦で第6Qまでの死闘を演じまたもや関学に敗れるという非常に思いで深い年でした。その年私は近大に入学したばかりの1年坊主でしたが、幸いにもディフェンスのSF(ストロングセイフティ)1本目で試合に出してもらってました。そのリーグ戦で唯一の負け試合「西宮球技場」の大体大戦で私がパントリターン中に受けた強烈なシングルタックルに強く「大人のタックルの印象」を受けました。タックルした直後にその人が「スクッ」と立上がり眼下の私を睨めつけた時「高校上がりの1年坊主め 負けへんぞ」という無言のメッセージを感じ、今でも即蘇ってくるほどの記憶です。その強さは「タックルされた選手がビビル」というイメージであり、「こかされたあ」でなく「倒された」と思わせようと心に近い鍛練したものです。そのお陰で人並みにシングルタックルで倒せるようになったと思います。今は仕事の関係上異国の地におり、西宮最終の年に観戦に行けないのが非常に残念です。しかしこの強烈な思い出が私にとって「西宮球技場のアメリカン」そのものだと思います。大人のタックルをありがとう。
 
 
 
41年の付き合い

投稿者:富山のファン
投稿日:11月4日15時52分

 学生時代4年間、西宮市内に下宿していたこともあり、甲子園球場や西宮球場によく野球を見に行きました。その中で初めてアメリカンフットボールを観戦したのが西宮球場(現在西宮ST)での第15回毎日ボウルでした。

 時は昭和35年12月4日、カードは関学VS立教戦。入場料100円でした。試合は36−16で立教が勝ちました。なぜかこの年だけ東西大学王座決定戦いわゆる甲子園ボウルが西宮STで行われました。これが私のアメフットとの付き合いの始まりです。

 以来、41年間ファンの一人として、いまは北陸の富山から声援を送っています。

 当時は線路を挟んだ球場の向かいに「西宮北口会館」という映画館があり、入場料55円で3本立ての映画をよく楽しんだものでした。

 今月10日の関京戦はぜひ見に行きます。西宮STの光景をしっかりまぶたに焼き付けておきたいと思っています。もちろん関学の応援もしっかりやりますよ。

 
 
 
 
西宮の思い出

投稿者:元GANG
投稿日:11月4日10時53分

西宮は私が京大のプレーヤーだった時、初めてKGに勝った場所です。

試合前の独特の緊張感。
薄暗いロッカールームから通路を抜けると、そこには
グリーンのフィールドが...
今でもはっきりと覚えています。

試合終了のホイッスルが鳴った時に生まれて初めて
嬉しくて泣いた場所です。

最後の関京戦は見に行くつもりです。

西宮スタジアム ありがとう。
 
 
 
西宮の思い出

投稿者:健太
投稿日:11月4日10時35分

とうとう西宮がなくなってしまうねんなーー
今カナダに留学してるねんけど最後に試合あっこでみたかったなー どうにかしてのこしておきたいもんですなーー
 
 
 
95年京立戦

投稿者:BONZOJUN
投稿日:11月4日10時11分

僕がはじめて西スタにいったのは、小学校の時の阪急、広島の日本シリーズです。
それから20年後(くらい?)
アメフトを見出したのは、93年の関学、立命戦、最後のフォールドゴールで関学が逆転した試合からでした。
でも忘れられないのは95年京立戦です。
試合は熱かったけど、スタジアムは寒かった!
最後の東野コール、そしてパス失敗。
おおはしゃぎの京大選手達。
今でも目に映ります。
今は海外に転勤になり、試合のテレビすら見れませんが、西スタには思い出が一杯です。
 
 
 
昭和51年関京戦

投稿者:ヘグラー
投稿日:11月3日17時42分

関学出身です。西宮北口界隈は当に青春の一部です。フットボール観戦歴も30年を超える54歳です。西宮スタジアムには多くの思い出があります。一つ挙げるとすれば京大が関学のリーグ戦146連勝を阻止した試合です。昭和51年曇り空の薄ら寒い日曜日(11月14日or21日?)。当時は確か外野両翼間にフィールドを取っていて、観客席も外野のみだったと思います。
 得点経過ははっきりとは覚えていませんが、結果は21−0で京大の完封、完勝。前半は無得点でも関学応援席にはまだまだ余裕がありました。しかし、関学は後半に入っても一向に突破口を見いだせず、京大の休みない攻撃に翻弄されていました。既に誰もがおかしいと思い始めていました。そして、4Q遂に関学応援席のあちこちで悲鳴にも似た叫び声が挙がっていました。私の耳朶に今もハッキリと残っている叫び声の一つに次のものがあります。「京大さん。もう、かんにんや」。京大が甲子園に駒を進めるには更にもう5年もの試練の期間を要します。この期間は関学の伝統と意地を思わせます。しかし、もはや時代の流れは止めようもありませんでした。当時、2部リーグで低迷していた立命のことを思うと隔世の感があります。
 
 
 
西宮での思い出の試合

投稿者:Fight On
投稿日:11月3日13時19分

 西宮STと西宮球技場が今年限りで閉鎖とのこと、非常に残念です。学生時代から現在に至るまで芦屋、夙川近辺に住んでいるので観戦には非常に便利で有難かったのに・・・。
 私は関学のOBで、鳥内監督の選手時代からフットボールを見てきましたが、学生時代は球技場の試合も多かったのが段々観客が増えてきて関学絡みの試合は西宮STで行われることが多くなりました。
 その中で今も忘れられない試合はSTで行われた91年、92年、93年の計4回の関京戦(91年はプレーオフ含めて2回)です。
 91年リーグ戦は前年6位という屈辱と京大有利の下馬評の中、1年生RB・前島と2年生DB大寺、野村のインターセプト、最後は大寺のFGブロックで勝ちました。また試合中リードされても中筋のFGでこつこつ点を重ねていったのが最後に活きましたが、私は中筋が日本のAF史上最高のK/Pだと今でも思います。
 またプレーオフは眠い目をこすり乍ら早朝から並んだのを覚えています。当時の伊角監督が「レベルの高い試合」と言った、互いの戦術を駆使した激戦でした。試合後歌った「空の翼」は最高に気持ちよかったです。
 92年は関学有利の声の中、里主将の気合が京大に勝利を呼び寄せました。また京大にとってはラッキーなプレーもありました。QB金岡がファンブルしたボールをたまたま前にいた京大の選手が空中でキャッチし、そのままTDになって関学応援団は悔しい思いをしました(LOSを超えていたが故意ではないので前パスではなかった)。
 翌93年は激戦を繰り広げましたが、関学攻撃の攻守全員右サイドへ流れたプレーで、一人アクロスで左に出たTEの新井(だったと思う)にQB東村からパスが通り、激しい雨の中をエンドゾーンへ走り抜けたシーンが思い出されます。
 今にして思えば関京戦が一番面白かった時期で、またこの3年間位が一番観衆が多かったように感じます。特に91年は3万7千、92年は4万人の観客が詰め寄せ、外野や2階席の通路まで正に立錐の余地が無いとはあのことでした。この10年なりふり構わぬリクルーティングなどで体格などは進歩したのでしょうが、観客数や一般への浸透度などは却って後退した感がするのは私だけでしょうか?特に一般学生が減っているように見受けられます。それに不謹慎かもしれませんが、以前は見かけも顔も派手で綺麗なお姉さん方が多数見にきていました。今見に来ている女性が綺麗でないと言ってるのではなく、数が多かった という意味です。
いずれにしてもST前やST内の歓声、また試合前の緊張感や試合後のエール交換など独特の雰囲気を楽しんできた者にとってはそれが来年から無くなるのは本当に寂しい限りです。あと残り少ないリーグ戦を単身赴任先の東京から帰って来て楽しもうと考えております。

 
 
 
私にとっての西宮ST

投稿者:岡田 宏
投稿日:11月3日00時46分

初めて西宮STに行ったのは、92年秋季リーグ立命館vs神戸戦でした。その年の関京戦は満員御礼でバックネット裏で見た記憶があります。その後、毎年、西宮ST通いを続けています。
また西球では高校大会、DIV2、Xリーグの試合等等で手に汗握りました。
その後、自らもフラッグフットボールの試合で、西スタのフィールドに立ち、感激しました。今もタッチフットとアメフットをプレーしており、西スタで活躍した選手たちと一緒にフットボールを楽しんでいる41歳です。今年はタッチフットの全国大会が西スタで行なわれるとのことで、出場を目指しましたが、惜しくも敗れ、出場叶いませんでした。しかし、タッチの全国大会スタッフとして西スタの最後に関わりたいと思っています。
私のこの10年間の人生のかなりの部分を占めてきた西宮に思い入れはとても深いです。これからも関西の、いや日本のフットボールが隆盛を極めていくように願って止みません。
西宮ST&球技場、どうも有り難う!!
 
 
 
初観戦

投稿者:現関東人
投稿日:11月3日00時20分

西宮球技場の初観戦の試合。
たしか関学対NACL83年
(関学が始めてショットガン導入した年)
記憶があやふやですが同点引き分け?
 
 
 
1995年京立戦

投稿者:ひろのり
投稿日:11月2日20時44分

思い出にこの試合をあげてる方が多いですが、私にとっても格別の試合です。
初めてアメフトを生で見た試合でしたから……

京大サイドの2階席で見ていたので、最後のプレーを目の当たりにすることができました(その後、2階席での観戦が定番になりました)。

アメフトにのめりこむキッカケを与えてくれた場所でした。
故郷がなくなってしまうようで残念ですが、素敵な出会いをありがとう。そして、さようなら。
 
 
 
西宮球場二度目のお別れ

投稿者:smorinaga
投稿日:11月2日18時26分

大学に入るまでは、オリックス(阪急)ファンだったので、学校の帰りに【西宮球場】へ良く寄り道したものです。オールスター戦を見た事もあります。
身売り&神戸移転時はショックでしたし、寂しい思いをしました。

その後、今度はアメフト観戦で【西宮スタジアム】に行くようになりました。
大熱戦・大観衆・大声援に酔う事幾千度。アメフトの思い出の多くが、ここに詰まっています。
が、最初の頃は懐かしいスタンド・スコアボードを見るにつけ、勝手知ったる通路を通るにつけ、複雑な心境でした。

そんなわけで【西宮スタジアム撤退】は、私には二度目のお別れです。二倍の思い出にさようなら。

 
 
 
秋の日

投稿者:名無しさん
投稿日:11月2日14時41分

大学で、初めてタッチダウンしたのは、西宮球技場の北西角でした。
20年ぐらい前の出来事ですが、今でもハッキリと覚えています。
球技場が無くなっても、間違いなく、死ぬまでその風景は頭の中に残っているでしょう。
 
 
 
立命vs京大@西宮

投稿者:ふるのぶ
投稿日:11月2日07時44分

僕は立命館大学出身なので、ひいきのチームはもちろんパンサーズです。

西宮で思い出すは、3−7で京大に負けた試合です。

あの緊張感、あの悔しさ・・・。今から思えば良い思い出です。

無くなるのは、とても寂しいですね。
 
 
 
7−3

投稿者:はみギャン
投稿日:11月2日06時14分

 一番記憶に残る試合はやはり95年の京立戦
あの7−3の試合です。
 後日確か社会人のファンデーの時にフィール
ドに入れる機会があり、まずあの時のゴール前
2ヤードの所へ行き感慨深くその地点の人工芝
を見たものです。
 
 
 
西宮球技場初観戦

AK.HIRO
投稿日:11月2日02時29分

 「初観戦」という題名にしたが、本当のところ西宮球技場や西宮スタジアムで観戦したアメリカンフットボールの最初の試合を覚えていない。
 西宮球技場で観戦した初期の試合として覚えているのは、1986年春の西日本学生選手権決勝関西学院大学VS近畿大学である。スタンドが超満員でグラウンドの中に入って北側エンドゾーンの外側付近で見ていたのだが、突然のTDプレーにボールと選手が私の目前に飛び込んできた。「プレーヤーに近い観客席」を身を持って体験した試合だった。
 秋の試合は、日本社会人リーグ(現在のXとは異なる)1986年の松下電工VSレナウンがたぶん最初の試合である。当時のレナウンは日本大学ショットガンQB鈴木と松岡を擁していて、西宮球技場にレナウンが登場するということで見に行った試合である。
 ところで当時の西宮球技場の入場券売場は現在の球技場東側ではない。球技場西側の歩道橋のスロープを降りた付近に小さな建物があるのですが御存知ですか?

 西宮球技場で行われた試合でもう一つだけ印象に残っている試合がある。1980年代だったが、秋の学生リーグ戦を深夜に録画中継していた。関西学院大学絡みの試合だったと思うが、試合終了間際にどちらかのチームが逆転をして試合終了した。アナウンサーが「大変なことになりました!!」と絶叫したままTDプレーのスロー再生とスコアボードのアップで放送が終了したのだが、対戦校や何が大変だったのかは判りません。この試合を覚えてる方は居られますか??





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