AK's@西宮



野球観戦


 始めて西宮球場を訪れたのは、私がまだ小学生だった1971年、プロ野球日本シリーズ阪急対巨人だった。しかし、それ以前もそれ以後もあまりプロ野球に興味はないので、なぜこの試合を観に行ったのか理由が判らない。単純にミーハーで6連覇中の巨人を見たかっただけなのかもしれません。一塁側上層の屋根の下から観戦していた見ていたのですが、途中で飽きてしまい上層スタンド裏のスペースから秋の夕日に照らされる西宮の町を眺めていたのを覚えています。

 その次に西宮球場へプロ野球観戦に行ったのは大学生の時でした。麻雀明けの朝食を箕面高校前のミスタードーナッツで食べていたときに、近鉄ファンの友人の一声で決まった観戦だった。当時のパリーグは前後期制を採用していて、プレーオフの阪急対近鉄を3塁側から見たように記憶している。なかば強引に連れられていったので、試合内容は全く覚えていないが、大学のつまらない授業をサボって先輩の車で171号を西下したという、学生時代の思い出の一つです。

 
 
 
別の顔 吹奏楽編


 西宮スタジアムは、野球やアメリカンフットボール以外にもいろいろなイベントに使われていた。私はコンサート会場としての西宮には行ったことはないが、毎年6月に行われる2000人の吹奏楽(=当時の名称。現在の名称は3000人の吹奏楽)だけは高校〜大学時代によく見にいっていた
 中学高校時代に吹奏楽をやっていて西宮・尼崎などの阪神地区や北摂地域に住んでいた方ならば、もしかしたら「2000人の吹奏楽」で西宮スタジアムのフィールドに立ったことがあるのではないだろうか。私も高校時代は吹奏楽部に所属していたのだが、幸か不幸か私が通っていた高校はそのような地域ではなかったのでフィールドに立ったことはない。

 私が高校1年の時には先輩に連れられてプロ野球観戦以来久々にスタンドへ足を踏み入れることになった。そして高校2年の時は「アメリカ200年・コカコーラ90年」をテーマにしてドボルザークの新世界第4楽章がフィナーレだった。と、この年だけを鮮明に覚えているのは、若かりし頃のムフフな出来事があったからです。

 
 
 
別の顔 競輪編


 ところで、競輪場としての西宮スタジアムへは行ったことがない。競馬は阪神・京都・園田の経験があるが、競輪・ボートは専門紙に使われている言葉が意味不明だったので、なかなか行く気にならなかった。初心者にとって言葉の壁というのは大きくて、これはアメリカンフットボールでも同じことが言える、という話の続きは今回は省略しておく。

 大学時代は阪急を利用していたので競輪帰りのオッチャンとは西宮北口の駅でよく遭遇していた。私が車内で熟睡していると大挙乗り込んできて、車内の色がガラリと変わる。人が多くなる分にはいっこうにかまわないのだがうるさくなるのが困る。
 饒舌に話す人、適当に相槌を打つ人。羽振りの良さそうな人というのは流石に見ただけでは判らないが、元気のない人は何となく判ってしまう。という観察をしていたのだが、それも最初の間だけ。それにも次第に飽きてくると、仕方ないので競輪ラッシュが始まる前の直前の時間帯の電車に乗って登校(下校ではない・・。)するように心がけていた。もちろんこんな時間に行っても講義などしているわけがないのだが・・・。

 
 
 



 子供の頃から地元に住んでいたこともあって、野球・吹奏楽・コンサート会場、そして、競輪場・アメリカンフットボールの試合会場と、多くの西宮スタジアムに触れることができた。
 吹奏楽は6月という季節もあって白っぽい色でスタンドが埋まるのだが、年齢層も半数以上が高校生までだろう。アメリカンフットボールでは大学生から御年配の方まで幅広いお客さんが来る。コンサート会場になればアーチストの色によって大きく変わるのだろう。プロ野球阪急ファンの色は知らないが、競輪開催時のスタンドは園田競馬場の雰囲気からなんとなく想像は出来る。コンサートではないが、ハーフタイムショウに西城秀樹が登場した平成ボウルでは異様に御婦人の観客が多かった。多くのイベント会場として使用され、さまざまな色を放ち続けたスタジアムだった。

 
 
 
西宮スタジアム アメリカンフットボール初観戦


 私が西宮スタジアムで観戦したアメリカンフットボールの最初の試合を思い出せない。

 覚えている試合をいくつか列挙してみると・・・、まず、交流戦として5月(?)にナイターで行われた京都大学VSアサヒビールシルバースターを観戦している。まだQB東海がチームに参加していない時代だったと思うが、はっきりとした年を覚えていない。1991年の関西学院大学−日本大学の定期戦も観戦した。この試合が今まで唯一の裏口入場した試合である。
 90年、91年に超満員の中で行われた関京戦以外にも何試合か観戦している。1992年の秋リーグ戦・立命館大学VS神戸大学のRB堀口とRB井場の対決も観戦している。これは関京が絡まない最初の現地観戦の試合だったかもしれない。他にも最後のFGで決した関西学院大学VS立命館大学の試合も観戦した。しかし、95年の京都大学VS立命館大学、第4Q最後1分間のQB東野によるドライブは現地観戦をしていないしテレビ中継も見ていない。

 90年代前半も試合を観にいっているのだが、どちらかというと私事中心の生活だったこともあって、80年代後半の甲子園ボウルやライスボウルほど試合内容を記憶していない。

 そして、1996年のHP開設をきっかけとして、観戦数が飛躍的に増えていくのであった。

 なお、西宮球場から西宮スタジアムに改称して、関西アメリカンフットボール協会が移ってきたのが1991年春である。しかし、HPへ投稿いただいた方の文面からもわかるように、もっと以前から西宮球場で熱戦が繰り広げられてきている。関西のアメリカンフットボールの長い歴史に改めて敬意を表する次第です。

 
 
 
外野フィールド


 HPへ投稿していただいた方の内容にあるように、アメリカンフットボールのフィールドを外野のライト〜レフトに配置していたことがある。私もこの配置の試合を観戦したことがある。
 特等席は外野の中央付近になるのだが甲子園のようにはスタンドが高くない。柵もあってかなり見にくかった。結局、私のベストポジションはライト側の上の方の席、となってフィールド縦方向から観戦することになった。この中で記憶に残っている試合が89年の松下電工VSミキハウスレッドベアーズで、今までに生観戦した唯一の100点ゲーム(実際の得点は98(28-28-14-28)対0)である。なお、このミキハウスレッドベアーズは現在のアサヒ飲料チャレンジャーズの前身である。

 当時の社会人の試合では何回か100点ゲームがあったのだが、私には1Q12分で100点を取るのオフェンスの力だけで可能なのだろうか、という疑問があった。
 100点ゲームには1Q4TD必要で全シリーズTDに結びつけても相手オフェンスも4回ある。つまり1シリーズあたり自軍1分・相手2分ぐらいの時間配分になるのだが、ランプレーならば1回で1分ぐらいはすぐに経過してしまう。特に相手のランプレーはたとえマイナスゲインであっても成立することは多いだろう、それを2分平均で抑えこむことは不可能に近いはず・・・・。ファンブルロストやパスインターセプトも毎シリーズは起き得ない?・・・。となると、他に何があるのだろうか。
 結論は、やはりオフェンスの一発ロングゲインだけでは無理っぽくて、かと言って、ディフェンス側が相手攻撃をFDなしで終わらせても時間が足りない。つまり、得点後のキックオフでの自軍のボール確保(リターン側がボールキャッチできなくて転がっているフリーボールの確保)や、キックオフ/パントでのリターンファンブルロストによって敵陣深くから攻撃権を得るというシチュエーションもかなりの回数が必要だということだった。

 ところで、フィールドを外野に配置すると見にくいという以外にも、外野裏がスタジアム入場口になって裏口の印象が暗いなどなどと思っているうちに、いつのまにかなくなってしまった。確か、チケット売り場ももっと手前のところに小さな小屋が幾つか並んでいて、阪急の切符の自動販売機も置いてあったような・・。

 もしかしたら、この試合が私が西宮スタジアムで観戦した最初の(日の)試合なのかもしれない。

 
 
 
超満員のスタンド


 西宮スタジアムを大観衆で埋まった光景は今でもはっきりと覚えている。91年の関西学院大学−京都大学のプレーオフ3万7千人の大観衆を集めた試合は外野から観ようとしたことがある。また、投稿していただいた中にある92年の4万人を集めた関京戦、京都大学のファンブルロストボールが偶然にも京都大学の選手の手に入って・・という大観衆を集めた試合も内野上層バックネット裏の階段付近などから立見した。この試合が今までで唯一試合の最後まで立見した試合である。

 しかし、90年代後半になると3強の直接対決でも満員にならない試合が続く。これをアメリカンフットボールの客離れという形で言われているが、ベビーブームによる大学生人口がピークの時代と、その後の少子化による学生人口が激減している時代との入場者数を単純に比較するのもどうかと思うのだが。もっとも、「4万人時代」に限らず現在でも定着率・リピーター率をプラスにしなければならないのは確かである。

 
 
 
観戦位置の変遷


 私の観戦歴の中では西宮スタジアムの試合観戦数がもっとも多いのだが、いつも、どのポジションから観戦しようか悩んでいた。着席する場所ごとにフィールドの見え方が異なり、また、周囲のお客さんの雰囲気や風景も多きく変わる。それぞれの場所に特徴があって優劣をつけがたい。ひとつの試合を、こっちからとあっちからと見てみたいと思いつつ、いつもの場所へ向かうのだった。

 西宮スタジアムで観戦するようになった最初の頃は、3塁側1階内野席が「指定席」だった。これは映画館やコンサートではステージに向かって左側に座るという当時の習慣からだった。その後入場者数が増えてくるにつれてバックネット裏へ移動していくのだが、平面的すぎることとバックネットが邪魔ということもあって、新たな観戦場所を探して上層階へ上がることになった。

 上層階で最初に「指定席」となった場所は、1塁側の屋根のないところ付近、フィールドで言うならばエンドゾーンの横延長線上にあたり、フィールドを斜め45度方向から観る位置である。「背もたれ」を探して微妙に左右にシフトしたが、もっとも観戦期間が長かったのはこの位置だろう。
 その後、初夏の観戦にはさすがに屋根が必要ということで上層1塁側屋根に少しかかったところ30ヤードラインの延長線上へと移動した。屋根を求めて探したポイントだったが、フィールド中央に近く、前後の席間隔も広くてゆったりと座れたこともあって何シーズンかを過ごすことになった。

 その他にも長く留まることはなかったが、いろいろな場所から観戦した。

 2階バックネット裏のスカウティングカメラに並んで観戦したこともある。フィールドを縦方向から見ることになり、OLDLの攻防がはっきりと判る。OLによるランホールの作り方、RBの突っ込み方/LBDBの突っ込み方、オープンプレーに対するディフェンスのコンテインなど、チームのポテンシャルを測定するにはベストのポジションである。
 だが、私はここからではロングパスに対する距離感がまったく掴めなかった。縦パス1本だけで決まる試合があるが、QBの手を離れる瞬間、ボールの軌跡、レシーバーとDBの攻防、そして、最後のひと伸びでボールに届く瞬間を観るためには、どうしても横からの視点が必要になる。同時に2箇所からは観戦できない。そして、サイドからの視点を選び続けた。

 1階応援席のド真ん中に座ったこともある。応援コールのチラシやメンバー表をもらい、某大学応援団にはオレンジのメガホンをほぼ強制的に持たされ、某Xチームフリークの狂乱振りを横目に見つつも、いつのまにかそのチームを応援している自分がいて冷静さには欠けるのだが、パワー溢れる席だった。

 そんなこんなの変遷を経て最終的にたどりついた場所は、3塁側上層スタンドの端の方だった。フィールドに対する角度は「1塁側屋根のないところ」と同じである。ここは、平日に屋内に閉じこもって私事をしていることもあって太陽の光を求めて行った場所だった。
 秋リーグ戦の第1試合では天気がいいとかなり暖かくて日向ぼっこには最適なポジションだった。不覚にも試合中に何回かウトウトしてしまったことがある。そして第2試合がはじまる頃になると空の色が変わっていく。西宮スタジアムの緑・灰・赤と時々刻々変わっていく空の色がいいバランスを構成していた。

 
 
 
阪神・淡路大震災


 1999年に川崎球場解体の話を聞いたときに、いつかは西宮も・・という思いは、確かに、あった。しかし閉鎖理由が建物老朽化ならば西宮スタジアムの場合はまだまだ先のことだろうと考えていた。まさか、企業の経営状況がきっかけになるとは予想もしていなかった。

 ところで、98年ぐらいからは単にデジタルカメラの物珍しさからの撮影被写体として西宮スタジアムを撮影していたことがある。遠い将来の西宮閉鎖の日のためにというよりも単純にスナップ写真の意味合いのほうが大きかった。この中には解体前の川崎球場の写真もある。


 私はカメラを持つ習慣はないのだが、しかし、いったんカメラを手にすると数10枚を一気に撮影してしまうところがある。デジタルメモリに保存される現在ならば何枚撮影しても関係ないが、フィルムカメラでは費用がバカにならない。そんなことで自重している間に撮影機会を逸してしまった西宮の風景があった。

 それは、阪急西宮北口駅から西宮スタジアムまでの飲み屋&弁当屋さんの列である。関京戦では阪急西宮北口の改札を出たところからからの道路一杯に溢れるたくさんの観客の列と、いろいろな弁当を打っている店の人の列は秋冬の風物詩だった。今年もいよいよ大一番、もうすぐ師走の人の列だった。

 しかし、少子化の影響もあって北口からの太い人の列が普通の列に変わってきたころの95年1月、あの阪神・淡路大震災があった。その春の試合はまだ神戸方面から阪急が開通していなくJR西宮からバスに乗っていったのだが、変わり果てた姿の弁当屋さん通りを見て、改めて地震の瞬間がよみがえってくるとともに、アメリカンフットボールの一つのシーンを記録にとどめていなかったことを後悔した。


 西宮スタジアムの存続についてなんとなく「危機」を感じたのが2001年春だった。カンがはずれたらそれでよし、というつもりでスタジアムの写真を取りまくったのだが、それが役に立ってしまったのは喜んで良いのか複雑な心境である。

 
 
 



 撮影できなかった風景は、まだある。阪急電鉄の発表があと3ヶ月早ければ・・とおもうのは、春になると満開に咲く西宮球技場の桜である。バックスタンドに座れば、試合の合間に目の前を舞う桜吹雪に春を感じ、メインスタンド側では桜が舞うたびに歓声があがる。
 桜満開の頃の西宮球技場では西日本学生選手権大会が行われている。まだ新入生のいないチーム、新幹部になった新しいチーム、そして新規ポジションになって間もない選手ばかりのチームによる試合が繰り広げられている。この初々しさに彩りを添えていた。時には本当にぎこちない試合もあるのだが、この桜の元では、秋にはすばらしい試合ができるようになれよと、応援したくなってくる。

 西宮球技場ではバックスタンド側に座ることが多かった。メインスタンドがきれいになってからは人口密度が高く昼間は暑すぎて夕方になるとまぶしいなどで、私はバックスタンドのハーフラインより南側が指定席になっていた。ただ、アメリカンフットボールの試合を観るというのでなければ、色的にきれいなのはメインスタンドからの眺めだった。秋の試合の風景しかないが、かろうじて写真に収めることが出来た。

 
 
 


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