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    出会い

    それは、私が高校1年の時でした。「暇だなー」と思ってテレビをつけると、放送していたのが甲子園ボウル。なかなか面白そうなゲームという印象を受けましたが、大学王座決定戦ということはもちろん、アメリカンフットボールだということも知らないまま月日は流れました。

    そして、次の冬、「暇だなー」と思ってテレビをつけると、またまた甲子園ボウル。「そういえば去年も見たなー。なぜ冬だけなんだろう」と思いながら見ていました。この年は、どちらを応援するというのではなく、「なるほど。そういうことか。あれ?なんで???」という調子でルールを理解するのに費やしたと記憶しています。

    そして次の年、冬が近づくと、毎週日曜日の新聞のテレビ欄に注目していました。しかし、肝心の当日だけは忘れていて、気付いたときには第4Qの終盤でした。少しも見ずに終わってしまい、すごく悲しかったのを覚えています。
    そして、このとき大学生になったら冬のデートは「甲子園ボウル」と、心に固く決めたのでした。

    次の年は浪人生活で、さすがに甲子園の記憶はありませんでした。(一心不乱に勉強していました!?)

    そして、念願の大学生。しかし、入ったサークルの最大イベントが年末にあり、とても「甲子園に行ってきまーす」と、言える雰囲気ではありませんでした。虚しく過ぎた3年間はサークル活動に精一杯勤しみました!?。

    そして、待望の4年の冬。行きました!!!甲子園へ!!!!


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    1982年

  • 第37回甲子園ボウル 日本大学65−28京都大学  (現地観戦)

    初めて現場で見たゲームです。当時の私は甲子園に行くことだけが目標で、ルールの詳細を知りませんでした。横にいた彼女が「何か黄色いものがフィールドに落ちてる」と聞いてきたので、「誰かハンカチでも落としたんだろう」と答えたぐらいでした。3塁側アルプススタンドの中段から見たので、西日が目に痛かったのですが、甲子園の芝がきれいでした。

    ところで、この試合は、関西陣営にしてみれば、33回連続出場していた関西学院を退けて京都大学が甲子園に出場するという画期的な試合でした。今思えば歴史的な出来事だったのですが、その重大さには、全く気付いていませんでした。

    さて、試合は、上記スコアが示すとおり日本大学の圧勝に終わりました。差は歴然としていて、日本大学の攻撃が面白いように決まっていました。その中で、京都大学主将RB松田氏のキックオフリターンタッチダウンは、感動ものでした。初めて敗戦チームからMVPが選出されたゲームでした。

    ところで、初めての甲子園観戦に気合いを入れていた私は、阪神梅田駅の集合予定時刻を10時頃に設定していたにもかかわらず、甲子園に着いたのが第3Qでした。それは、当時の彼女とうまくいっていなかったからで、結局、半年も経過しないうちに別れてしまいました。

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    1983年

  • 第38回甲子園ボウル 京都大学30−14日本大学  (現地観戦)

    前年に引き続き、関西は京都大学の出場でした。前評判は当然、日本大学優位で前年の圧勝もあって点数差を何処まで抑えられるかが唯一の焦点でした。

    粉雪がちらつく寒い日でした。私が甲子園に到着したのは試合開始の60分位前。隣の彼女と一緒に座った場所は、バックスクリーン横の上段付近で、アメリカンフットボール観戦の最上級席です。そして、60分前に到着してベストポイントに座れた最後の年です。

    さて、試合開始。日本大学のオフェンスが昨年のように進まない。甲子園全体が京都大学の予想外の健闘にざわつきだしたころに、京都大学DL泉氏が日本大学QB松岡氏の足を掴む。苦し紛れに投げたパスをLB深堀氏がインターセプト。そのまま先制TD。これで、京都大学は完璧に流れを引き込んだ。

    その後も、強固なディフェンスは日本大学オフェンスに次々と迷いを引き起こす。日本大学のQB横瀬氏、松岡氏に対して泉氏、下村氏他の重量ラインが突進する。ショットガンに対するゲームプランが完全に出来上がっていた。結局、流れを掴んだ京都大学が前年の雪辱を果たしたのでした。試合終了後、球場の外ですれちがった、思いも依らない敗戦に呆然としている日本大学の選手が印象的でした。

    ところで、この試合がアメリカンフットボールを最初から最後まで見た初めての試合でした。ルールは、まだ良く解からなかったのですが、イエローフラッグは説明できたように思います。

    京都大学は、この年から設定された日本選手権ライスボウルに出場、社会人代表のレナウンと接戦を演じ29−28の僅差で優勝しました。私立大学が優勢な学生スポーツの中で、国立大学が日本一となったことで新聞には、国立大学の雄とか奇蹟という見出しが踊りました。

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    1984年

  • 第39回甲子園ボウル 日本大学42−42関西学院  (現地観戦)

    実は、試合の詳細について全く記憶に残っていないのです。その理由は簡単で、ルールを理解していなかったためです。

    逆転逆転の好試合で、第4Q残り数分から始まった関西学院の攻撃。この時点で、日本大学42−34関西学院だったのでしょう。関西学院はランパス織り混ぜて日本大学のエンドゾーンに迫る。残り4秒を残してTD。日本大学42−関西学院40。

    ここで関西学院はトライフォーポイントを、キックでなく2ポイントを選択した。当然である。しかし、ルールがわからなかった私は、トライフォーポイントでキックをするものと決め込み、さらに悪いことに、フィールドゴールと勘違いして3点で関西学院の逆転と思ってしまった。

    キックをするであろうと予想していて始まったプレーはランであった。そのため、ボールを見失っていた私には、何が起こったのかわからなかった。しかし、フィールドも周囲のお客さんも、みんな喜んだ。みんなが喜んでいるので、「ボールは見失ったけどもキックが成功して関西学院が逆転した。さて、日本大学の皆さん、逆転できるかな?」と思ってフィールドを眺めていた。しかし、キックオフのための体型をとるでもなく、両チームがフィールド内で入り交じってしまっている。

    「さて?」何故かわからないが、試合が終了してしまったらしい。

    事の詳細がわかったのは、その日の夜、大阪駅で早刷りのスポーツ新聞を3紙ほど買い込んときである。

    いくつもの勘違いで狐につままれた私は、それまでの手に汗握るシーンをすべて忘れてしまったのである。この年から数年間は、1塁側アルプススタンド上段が私たちの定位置となったのですが、関西学院最後のTDが3塁側エンドゾーンでなく1塁側だったら、もう少し違った印象の残った試合であったかもしれない。

    さて、前年に引き続いて来ていた彼女は、私がルールを説明しなければ何もわからない人である。肝心の私が何もわからずに終わってしまった試合をどのように見ていたのであろうか。

    (1996 Sep. 27 at 00:45 JST.追記:上記でキックオフされなかったと記述したが、誤りである。トライフォーポイントでは時間は経過しないため、2ポイントが成功して同点になった段階でも、時間は4秒残っている。したがって、関西学院のキックオフ、日本大学のリターンは行われているはずである。そして、スペシャルチームがベンチに下がって、オフェンスディフェンスが出てくるべきところで、時間0となって試合終了である。
    私は、オフェンスディフェンスが出てくるべきところを、両軍が入り交じってしまって体型を取らないことを不思議に思ったことになります。)

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    1985年

  • 関西学院20−18京都大学  (現地観戦)

    前年の彼女を連れて初めて見に行った関西学生リーグの試合。関西学院は、QB芝川氏、RB真弓氏、三浦氏、WR堀古氏、牧野氏に対し、計算からすれば、京都大学のQBは、あの東海氏ではなかったか。印象に残ってはいないが。

    試合内容もよく覚えていないが、神戸ユニバー記念競技場の緑の芝がきれいであった。


  • 第40回甲子園ボウル 関西学院48−46明治大学  (現地観戦)

    この年の関西学院は永久欠番の予定であった背番号12を付けたQB芝川氏を中心にパスオフェンスを完成。ランパスが脅威のオフェンスチームになった。
    一方の明治大学も、QB2年生渡辺氏、RB3年生吉村氏を中心とした強力ランオフェンスチームであった。両校ともオフェンス主体のチームのため、上記のような大量得点の試合となったが、その内容は決して見劣りのするものではなかった。

    全てのシリーズがTDまたはFGに結びつくようなゲームで、点の入らないシリーズが珍しかった。それだけにディフェンスがパントに追い込むと、相手側のディフェンスも抑えようとする。相手のオフェンスが強力なだけに、点を入れられると突き放されるという一種の恐怖心が、互いのディフェンス陣を支えている様子であった。

    第4Q序盤、明治大学の攻撃は、エンドゾーンまで数ヤード。ここで明治大学はRB吉村氏にボールを持たせた。しかし、関西学院DE田原氏の強力なブロックで、脳浸透で倒れてしまった。以後、吉村氏は第4Q後半まで出場できず、その間、明治大学のシリーズは得点を上げることはもちろん、FDもとることも出来なかった。

    試合は、第4Q残り2分32秒から始まった関西学院オフェンスが逆転のTDをあげた。この時点で関西学院48−46明治大学。激しい点の取り合いの試合もこれで決まったかと思った残り時間32秒からの明治大学のオフェンス。QB渡辺氏のロングパスが決まり、関西学院エンドゾーン前約3ヤード。残り時間6秒で選択した明治大学の攻撃は、RB吉村氏のFGであった。しかしゴールならず、そのままゲームセットとなった。両校ともに、あそこで、あのようにしていたらと言う場面のあったスリリングな試合だった。

    MVPは明治大学の吉村氏。終了後の「吉村コール」に私は感激したが、明治大学の選手にはいい印象を与えなかったようだ。確かに甲子園では関西中心の応援になってしまい、関東のチームにはプレーコールのオーディブルが届かない等の不利があったかも知れない。

    吉村氏と田原氏の衝突や最後のFGが1塁側エンドゾーン近くのプレーだったため、昨年に引き続き1塁側アルプス上段から観戦していた私たちにはラッキーだった。前年とおなじ彼女は、帰りに阪神甲子園の駅でコンタクトレンズを落とした。


    関西学院は甲子園ボウルの次の日曜日、雨の神戸ユニバー記念競技場で米国の大学生と試合を行なった(TV観戦)。勝敗は度外視だが、関西学院のキックオフリターンTDが忘れられない。リターン中に苦し紛れに放り投げたボールがマウンテンパスの如く味方選手にスッポリ。そのままTDとなった。関西学院はこの後、数年米国との交流が続いた。


    第39回ライスボウル レナウン45−42関西学院  (TV観戦)
    その年のライスボウル、関西学院の相手は、社会人敵なしのレナウン。第3Q中盤までレナウン45−7関西学院と、完全に子供扱いされた関西学院だったが、ここから怒涛の5連続TD。最後は時間切れとなってしまったが、強力オフェンスが最初から波に乗れなかったのは連戦の疲れか。

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    1986年

  • 第41回甲子園ボウル 京都大学49−28日本大学  (現地観戦)

    京都大学はQB東海氏をはじめとして屋敷氏、福島氏、若林氏等オフェンスディフェンスともアスリートが揃った。対する日本大学は、昨年の甲子園不出場の鬱憤を晴らし、2年前の思いも寄らぬ対京都大学敗戦の雪辱を期した注目のカードとなった。
    前評判は京都大学有利という声もあったが、戦って見ないとわからないという見方が大勢を占めていたと思う。

    試合は、予想通り第3Q中盤まで京都大学28−28日本大学であったが、第3Q終盤から大差がついた。前半のもたつきは、相手をじっくりと見るというアスリートの戦略だったのかと思うほど無難な勝利だった。


  • 第40回ライスボウル 京都大学35−34レナウン  (現地観戦)

    このカードは、前回の1点差で京都大学の勝利に対して、雪辱なるかレナウンというカードであった。試合は逆転の連続でレナウンのFGが外れたところでタイムオーバーとなったが、私にとっては、試合の流れが悪く、あまり興の乗る試合ではなかった。

    世間では、相変わらず国立大学の日本一という見方がされていたが、戦略システムで運動能力不足を補おうとする京都大学の方向性が注目されだした。

    私たちにとっては、初めて国立競技場で見たアメリカンフットボールの試合である。以前に、ここでラグビーの大学選手権と社会人選手権の決勝戦を見たことがあるが、当時はラグビーと違って観客も少なかったため、特等席も余裕で座れた。聖火台の下に座ると、全体を見渡せられるという点で見やすい競技場であった。


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    1987年

  • 第42回甲子園ボウル 京都大学41−17日本大学  (現地観戦)

    昨年の中心メンバーがそのまま残った京都大学優位の前評判通り、京都大学が圧勝した。予想通りだったためか、あまり印象に残っていない。


  • 第41回ライスボウル 京都大学42− 8レナウン  (現地観戦)

    昨年に引き続き同一カードとなった。しかし、レベル差は歴然で京都大学の圧勝に終わった。

    第4Qになると、QB東海氏は、サイドラインで戦況を見つめるだけで、フィールドには当時3年のQB藤田氏が出場していた。観客の「東海コール」が渦巻く中で、何を考えていたのだろうか。この2年間、対関西学院、甲子園ボウル、ライスボウルと自由奔放にプレーした京都大学のフットボールが終了するという寂しさを感じた。

    「日本でアメリカンフットボールをするのに、京都大学以上の恵まれた環境のチームは存在しない。したがって、もうフィールドには立たない。」これは、後に、雑誌か新聞に東海氏のコメントとして掲載された内容である。

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    1988年

  • 第43回甲子園ボウル 日本大学35−28関西学院  (現地観戦)

    甲子園ボウルといえば日本大学対関西学院と決まっていたが、京都大学の台頭などで久しぶりの実現となった。関西学院にもRBやWRにアスリートが揃い、日本大学に見劣るようなメンバーではなかったのだが。日本大学黄金時代の最初の年。ここから甲子園ボウルとライスボウルの3連覇が始まる。


  • 第42回ライスボウル 日本大学47− 7レナウン  (現地観戦)

    日本大学は前半で24−7の大差をつけた。後半になると低学年の若い選手が出てきたが勢いは止まらず、日本大学の圧勝に終わった。ここ数年ライスボウルのために上京しているが、結果が予想できただけに1年の締めくくりとしては少々残念であった。

    この近辺から、社会人レベルが学生レベルに劣ると言われ出した。学生側は選手層が厚くなり、有能な選手が増えた。さらにリーグ戦で接戦が続き、常連校が勝利できなくなって、各校ともさらなる工夫が必要になった結果と思われる。


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    1989年

  • 関西学院3−3京都大学  (現地観戦)

    この結果、京都大学は3勝3敗1分の5位でリーグ戦を終了。関西学院は6勝1分でリーグ優勝したが、3敗もしている京都大学相手にTDをあげることができなかった。京都大学の最終戦にかけた意地も素晴しかったが、関西学院の腑甲斐なさにスタンドもしらけムードが漂っていたが、私たちの周囲だけだっただろうか。

    なお、この関京戦は甲子園で行われた。それもフィールドをホーム−センター方向に取ったもので、甲子園ボウルのための試験的な面もあったように思う。


  • 第44回甲子園ボウル(1989年) 日本大学45−14関西学院  (現地観戦)

    日大黄金時代の2年目である。観戦していて素晴しい安定感に脱帽した。
    この試合で賛否両論になったプレーが第2Qだったかにあった。日本大学陣約30ヤードからの関西学院の攻撃。QBはCのスナップしたボールを受けてドロップバックしてレシーバーを探した。この時、彼の左サイドには、走り抜ければFDはもとよりTDさえも奪えそうな大きな空間が出来た。しかし、QBはその空間に入ってきたレシーバーを見つけてパスを投じた。両者ともディフェンスがいないので気が緩んだのだろうか、レシーバーはボールをファンブルしてパス失敗となった。この時点では大きな点数差がなっかたし、走れるQBだったので、TDしていれば流れが変わったに違いない。
    夜のスポーツ新聞早刷りにもこのプレーは取り上げられていた。しかし、新聞か雑誌か忘れたが、次のようにコメントしていたものがあった。「今年の関西学院の基本プレーはパスである。たとえ目の前に走れる大きな空間が空いたとしても、そこにレシーバーが来れば投げるのは当然である。」

    なお、この試合では甲子園のフィールドをセンターホーム方向に設定した。その理由は、「ここ数年の観客増に対して、内野のスタンドからも観戦できるように配慮した」と協会発表にはある。また、この方法によれば、関西関東のサイドの明確な分離も可能であった。しかし、私の感じたところでは内野スタンドからでは、フィールドが遠く感じてしまった。さらに選手には、土と芝の切れ目が不評だったようで、このようなフィールドの取り方は今回限りであった。


  • 第43回ライスボウル(1990年) 日本大学42−14シルバースター  (現地観戦)

    京都大学卒業後はアメリカンフットボールをしないと宣言していた東海氏がシルバースターに入団し、そしてライスボウルに戻ってきた。あの東海氏が出場するということで注目を集めたカードである。私たちもこの点を注目して上京したのだが、システム構築が間に合わなかったのか、黄金時代全盛期の日本大学の前に破れた。

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    1990年

  • オンワード17−17レナウン  (現地観戦)

    オンワードは第4Q残り数分で、自陣エンドゾーン近くからオフェンスを開始した。QB山田氏のランパスでヤードを稼ぎ、残り3秒川上氏のFGで同点となって試合が終了した。実は、その前のレナウンのオフェンスシリーズで、パス不成功かタイムアウトか忘れたが時計を止めるプレーが連続した。その結果、オンワードにFGレンジまで入ってくる時間を残してしまったのである。
    東京スーパーへは、コイントスの結果オンワードの進出が決定したが、この試合が現在のタイブレークシステム導入のきっかけとなった。

    始めて東京DMで観戦した試合である。甲子園でフィールドを縦方向に取った時と同様に、内野スタンドでは満足できる観戦ポイントがないように思う。上階席は入場禁止であったのと、外野でも同じだろうと思い、ホームベースの後方のバックネットの隙間から観戦した。

    1986年の日本リーグ時代に西宮球技場で見たレナウン−松下電工以来の東日本社会人の試合であった。しかし、スピードとパワーは西日本社会人の比べ物にならないほど強烈であった。西日本社会人では松下電工の代表が決定しかけていた(翌日、松下電工49−7イワタニで決定した)。東日本のレベルを知るために出張にあわせて観戦しに行ったのだが、松下電工に勝ち目はないと思った。それだけに東京スーパーボウルで松下電工14−6オンワードで勝利したのは奇蹟に近いか?


  • 京都大学45− 0神戸大学  (現地観戦)

    11月22日の東日本社会人、23日の西日本社会人とパルサーボウルと続いたゴールデンカードの締めくくりは24日の関西学生リーグ事実上の優勝決定戦となったこの試合である。

    当初、この試合は、前年の5位と6位の対決として、ほとんど消化試合の位置付けで西宮球技場で行われる予定であった。しかし、神戸大学が前年優勝の関西学院を破ったあたりから注目され、ついに優勝を争うまでになった。一方の京都大学も前年の不振が嘘のように、序盤戦から優勝候補に名乗りを上げた。結局5勝1敗同士の国立大学決戦として、急遽会場を変更して長居球技場で行われた。

    前評判は京都大学だが、勢いに乗る神戸大学がもしかしたらという状況で試合開始。しかし、この年の神戸大学はRBに素晴しい人材が集まったが、全く走れずに散々の結果になってしまった。そして、苦し紛れのパスを6回もインターセプトされるという展開で、京都大学の完璧の包囲網から抜け出すことが出来なかった。
    なお、前年優勝の関西学院は地盤沈下で入れ替え戦の一歩手前の6位に終わった。


  • 第45回甲子園ボウル(1990年) 日本大学34− 7京都大学  (現地観戦)

    日本大学にとって公式戦で唯一負け超している相手が京都大学である。前年まで1勝3敗という成績を5分に戻したい日本大学にとっては負けられない試合である。実は、関西での前評判は圧倒的に京都大学有利であった。前年の不振をわずか1年で克服し、神戸大学相手に大量点を取って優勝したというのがその理由であった。しかし、試合が始まると完璧な日本大学ペースであった。日本大学のオフェンスが自由に走り、パスが次々に決まる。ディフェンスも京都大学を1TDに抑えて圧勝した。

    なお、前年は不評だったフィールドの取り方を従来通りに戻し、さらに関東チーム側に特設のスタンドが出来た。関東のチームにとっては、背後に応援団が控えているという位置関係になった。


  • 第44回ライスボウル(1991年) 日本大学35−13松下電工  (現地観戦)

    国立競技場で行われた最後のライスボウルである。ライスボウル2連覇中の日本大学に対して松下電工は初出場であった。
    先制したのは松下電工で、QBのピッチでボールを受け取ったRBが、エンドゾーンへ走り込んだQBにTDパスを投じるというトリックプレーであった。しかし、第2Q以降じわじわと日本大学のオフェンスが進み、日本大学21−7松下電工で前半が終了した。実は、松下電工は、TDを取った次のシリーズも日本大学エンドゾーン近くまで入り込んのだが得点出来なかった。勢いに乗るチャンスだっただけに悔やまれる。

    その後、着実に加点した日本大学の勝利に終わったが、今思えば、QB須永氏、RB山口氏、小林孝氏、WR梶山氏他、関東5連覇、ライスボウル3連覇の中心選手相手に後半を2TDに抑えたのは、さすがディフェンスの松下電工というべきか。

    日本大学は、この年を最後に、シーズン最大イベントのボウルゲーム出場が跡絶えてしまっている。

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    1991年

  • 第46回甲子園ボウル(1991年) 関西学院25−20専修大学  (現地観戦)

    観客人数4万5千人という現在までの最多人数を記録した試合。私たちは3塁側内野スタンド上方という野球観戦のベストポイントに着席せざるを得なかった。さらに、フィールドは、前年に出来た関東側スタンドに隠れて片側エンドゾーンから30ヤード付近までという状態で、ゲーム観戦どころではなかった。実は、日本大学不出場、新顔の専修大学ということで、観客は少ないだろうと予想して開始間際に現場に着いたのだが予想に反して超満員であった。この年の関西学生リーグは、前年6位という屈辱を味わった関西学院の大躍進と、さらに、京都大学と同率優勝でプレーオフを行うという盛り上がりを見せた。その結果がこの大観衆の原因ではなかろうか。

    試合の内容は、残念ながらよく見えなかったので記憶にないが、前半は、関西学院22−0専修大学に対し、後半は3−20である。専修大学が甲子園の雰囲気に呑まれていなければ逆転は可能であっただろう。


  • 第45回ライスボウル(1992年) オンワード28− 6関西学院  (TV観戦)

    この年は、社会人学生ともライスボウルまでの道は大混戦であった。関東学生は、日本大学の57連勝を阻んだ法政大学が一躍優勝候補に名乗りを上げたが、リーグ戦で専修大学に思わぬ敗戦。また、リーグ戦6連覇に挑んだ日本大学はパルサーボウルで専修大学に逆転負けを喫する。関西学生は、前年6位の関西学院が京都大学とのプレーオフの末甲子園ボウル出場を決定した。
    西日本社会人は、本命視された松下電工がサンスターに負け、東日本社会人はタイブレークの結果オンワードの勝利という混戦であった。社会人の各チームのレベルが向上した結果でもあり、この年以降ライスボウルは社会人が連続優勝することになる。

    また、今回から東京ドームでの開催となる。私の全くの個人的意見では、冬の陽があたる広々とした空間の中で のゲームが好きなのだが。

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    1992年

  • 第47回甲子園ボウル(1992年) 京都大学17− 7法政大学  (TV観戦)

    この年から数年間はTV観戦が続く。昨年の満員の観衆に閉口したのも理由の一つで、試合開始60分前に特等席に座れた昔が懐かしい。

    この年の関西学生は、優勝候補が、京都、関西学院に加え、立命館、もしかすると神戸という大混戦であった。
    優勝候補同士の注目の一戦、立命館大学RB堀口氏と神戸大学RB井場氏の対決(現地観戦)は、立命館ディフェンスが完璧に井場氏を抑え込み、オフェンスもファンブルやインターセプトで得たチャンスを着実に得点に結び付けた。神戸大学は次の京都大学戦を終始優位に立って勝利するが、関西学院戦(現地観戦)を落とし2敗目を喫する。神戸大学は主戦QBがシーズンを通して怪我で本調子でなかったのが悔やまれる。
    立命館大学は次の同志社大学戦を24−7という思わぬ大差で落とす。そして京都大学との接戦にも破れた後の関西学院を接戦で勝利した。
    ところで、リーグ戦終盤の同志社大学対京都大学の結果によっては、5チームが5勝2敗で同率優勝する可能性があった。完全勝ち点制を採用する関西学生リーグでは甲子園ボウル出場決定戦を行うのだが、5チームの場合はトーナメント形式になるのだろうか。試合後半は完全な同志社ペースだったようだが京都大学の勝利でその可能性がなくなった。

    一方、関東学生もブロック優勝した日本大学、法政大学とも1敗であった。この1敗にいろいろと問題があったようだがパルサーボウルを勝ち抜いた法政大学が20年ぶりの甲子園出場となった。

    この年の甲子園は冬の嵐という悪天候のなかで行われたが、システムの京都大学が無難に抑えて勝利を得た。


  • 第46回ライスボウル(1993年) シルバースター29−20京都大学  (TV観戦)

    ようやくQB東海氏の描くオフェンスが出来上がったのだろう。前半を終了してシルバースター14−13京都大学だったが、点差以上に実力差があり、シルバースターの貫祿勝ちである。

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    1993年

  • 第48回甲子園ボウル(1993年) 関西学院35−10日本体育大学  (TV観戦)


  • 第47回ライスボウル(1994年) シルバースター28−23関西学院  (TV観戦)


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    1994年

  • 第49回甲子園ボウル(1994年) 立命館大24−22法政大学  (TV観戦)



  • 第48回ライスボウル(1995年) 松下電工16−14立命館大  (TV観戦)



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    1995年

  • 松下電工3−0マイカル  (現地観戦)


  • 東京スーパーボウル  松下電工54−20リクルート  (現地観戦)


  • 第50回甲子園ボウル(1995年) 京都大学24−17法政大学  (現地観戦)

    得点上は接戦だが、内容的には京都大学の圧勝という印象を受けた。法政大学は、リーグ戦通りのオプション中心で展開をする。そして、オプションの得意な京都大学がパワーとスピードで法政大学のオプションを打ち砕いた。
    法政大学の敗因は、ランオフェンスに固執したことにあるのではないか。パスもショートが数本通っていたので、もう少しパスの比率を高めれば京都大学のディフェンスを惑わせることが出来たのではないか。ランでヤードを稼げない焦りからファンブルロストを繰り返した。前半終了時点で京都大学21−10法政大学、後半もペースが掴めないまま時間が経過したという印象である。

    久しぶりに現地観戦した甲子園ボウルだったが、観客数が少なく指定席制にもかかわらず自由に席を選べた。良いポジションを探していると、偶然見つけたのが法政大学のオフェンススポッターである。そこで、その前の席に座って観戦した。スポッターとグランドコーチとの会話、スポッターから指示されたプレーがどのように選手に伝わるかなど、全く違った角度からゲームを見ることが出来た。雑誌TouchDownにスポッター席の写真が掲載されているが、そこに私たちも同居している。


  • 第49回ライスボウル(1996年) 京都大学35−21松下電工  (TV観戦)


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