大震災に寄せて・・・平成23年3月後半から
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イメージ運動の再起動 -東北関東大震災 復興に向けて- H23,3-4
平成23年3月11日、日本人にとってずっと忘れられないような大災害が起きてしまいました。多くの人たちが当たり前だと思っていた日常から放り出され、いまだに大変な生活を送っています。
心の世界もズタズタになり、これからの生活をどうしたらいいのか、全く考えるゆとりも力も出ない状態になっています。
私が所属している児童の言語生態研究会では長年イメージ運動について研究してきたのですが、その主要なテーマの中に「イメージの裁断と継続」というのがあります。これは主宰であった上原輝男先生ご自身が若い時に広島で被爆された体験に原点があるように思っています。一瞬にして自分をとりまく世界が崩壊した・・・その中から如何に人間は人間としての心や生活を取り戻していったのか・・・その心の働きのカギが「イメージ運動」にあったのだろうということです。
そこでこれからの復興に向け、まず自分の内側から再起動していくためのヒントとして上原語録から言葉をひろってみました。
*現実いっぱいの子ども逹は「壁にぶつかった」そうしたらこの壁を抜けないですよ。だけどイメージ力のあるやつは突き抜けていく。現実の時間・空間とは違う世界に入っていけるんですよ。『ああ、この子は新しいイメージの世界に入ったんだ』と、これでいいんですよ。・・・だから人間ってやつはいつでも時間・空間の継続と裁断を行いながらイメージを展開させているわけ。 (平成七年合宿)
*停滞したときにどう脱出していくか、そういう状態になった時にどうしてもう一度復活させればいいのか・・・なに、簡単なことなんだ。答えを言うと『イメージ運動の復活』なんだよ。つまり『予見』『邂逅』『祈祷』『没我』『瞬起』これがパッと復活すればイメージは再び動き出す(平成5年 合宿より)
これを読んだだけでは今一つ具体的に分からないかもしれません。それは仕方のないことで、「説明を読んで方法を知る」というのはイメージモードではなくて、知識・思考モードが優先して動くわけですから、「頭では分かっても心の奥底には響いていかない」のです。
ただ、みなさんの年齢だと、こうしたことを「理解」しておくこともイメージが素直に動き出すための潤滑油のような働きをするので先ずは説明文っぽい言葉を紹介しました。
大人でも深いトラウマを背負った今回の出来事、大事なことの一つに「我慢しすぎない」というのがあります。それに関係あることを上原先生は次のように話しています。
*トトロがそうだったじゃないか。「もしもお母さんがなくなったら」ってワーって泣き出す。上手につかまえていたよね。だからああいうふうにイメージが展開しだすと、もう押さえがたいのね、子どもは。それは知的な展開よりもイメージ力。あれがイメージ力なのね。子どもにとってあれがバイタリティなんだから。だからそれがいい方向で動き始めるようになればこんな強いものはないってことですよ。
現実対応の仕方ではないんだっていうこと。大事なのはそのイメージ力がどう出るかってことなので、一つのものが出始めたら、誰が何と言おうがダーッと止まらないというのが人間の持っている自分自身のものだから。いのちだもの。
僕自身、正直に告白するとね、弱くなったなぁって気がしているのよ。子どもの時の事思うとイメージ力が弱くなってるなって思う。僕は子どもの頃にはね、笑われるかもしれないけど僕にイメージがわいてくるとね、体が震えたよ。体が震えるのがよくわかった。つまり、何か『もののけ』が乗り移るっていうのがわかる人間だったのよ。(平成六年合宿)
このサツキにシーンに通じる他の宮崎アニメだと「千と千尋の神隠し」や「ハウルの動く城」にもありましたね。一生懸命に我慢していたのが我慢しきれなくなって感情が一気に流れ出す。そうすると自然にイメージ運動が再起動します。
極度の緊張状態で気がはっている時には涙は出ません。
だから次のステップに心を解放させる上で「思う存分涙をながす」のは大事です。
同様に、グチや弱音を遠慮せずに出せる相手を得ておくことも大切です!
「大丈夫と思いたい心」を再点検 H23,3-5
3月26日の朝日新聞投書欄に次のようなものがありました。
『小学生の疑問の方が科学的とは』
福島第一原発関係者の「想定外」という言葉を聞き、10年ほど前の東京電力運営の「電力館」(東京渋谷)での出来事を思い出した。
たまたま立ち寄ったのだが、小学生が10人ほど見学に来ていた。その中の一人が案内役の女性の「質問ありますか」の声に元気に手を挙げ、災害時の原発の多重の安全対策について質問した。小学生「これが壊れたら?」
女性「その場合はこれが働くので大丈夫です」
小学生「じゃあ、もしそれも壊れたらどうするんですか?」
女性「その場合にもこれが働くので大丈夫です」
小学生「それも壊れたら?」
女性「そんな事ありません!」
説明に窮した案内役の女性はとうとう怒り出してしまった。
しかし、今にして思えば、この小学生の素朴な指摘の方が科学的だったのだ。
科学に想定外はつきものだが、小学生に想定できたことがなぜ安全を売り物にする原発の専門家に想定できなかったのだろう。
この小学生の疑問は多くの人が以前から薄々は感じてきたことです。そして今回、それがこんなにも大変な形で現実のこととなり、いまなお被害は深刻化しています。原子力発電所という最も安全対策を万全にしていたハズの「発電施設」で、「電気がないから冷却も制御も不能になった」というのは洒落にもなりません。
この投書に載っている小学生たちは、今どのような気持ちでこの日々の報道をみつめているか、案内役の女性は当時のことを思いだしているか分かりませんが、会社側の「想定外」の連発に対して「本当に想定外だったの?想定したくなかった事情があったから想定しなかっただけなんじゃないの?」という問いかけの一つもしたくなろうというものです。
無論、「心配していたらキリがない。前進も出来ない」というのも事実です。とことん注意は必要ですが、だからといって原発に限らず例えば「事故が起きるかもしれない」と心配しすぎたら車の運転など出来ないし、「火事になるかもしれない」と心配しすぎたらガスコンロも使えないし、ストーブもダメとなってしまいます。「絶対ゼロは不可能」と開き直って行動すしなければならない場面があることはその通りです。
だからこの小学生の言うように「じゃあそれが壊れたら」と遡っていたら何も出来なくなるという理屈は一見最もなようにも思えます。
でも注意しなければならないのは、こうした東北の沿岸には過去の歴史を振り返れば当たり前にみんな知っているように巨大な津波が押し寄せてきたことが何度もあるわけです。そうした立地条件の中に建設するにしては、何十年に一度というような巨大津波のは恐らく起きないだろうから、多分この程度の対策をとればかなりの確率で大丈夫だろう・・・という判断が「甘い想定」を基準になされたのではないかと思われます。あくまでも私個人の想像ですが・・・。
ただ、私は今ここで、そうした企業の姿勢を批判したいわけではありません。私たちにとって大切なのは客観的に自分を振り返ってみることです。この「大丈夫と思いたい」として「甘い基準で想定し対策をたてる」という気持ちが自分の中にはないのか?それは私の中には多かれ少なかれ確かにある心です。
皆さんの中にはどうですか?そうした心の点検をしながら、この春休みに今年度一年間の総括をし、しっかりお過ごしください。
人間の一生は人に囲まれてこそ H23,4-1
恩師である上原先生の語録から「おうち意識」についてのものです。ちにみにこの発言が出たのはあの石巻での合宿です。
日本語としての『夢』や『家』何故(そう)呼んだか。『夢』のユ、今でこそ現代語の発音ではユと言っているけれどもユも家のイも同じなんですよ。元来の発音では神秘力そのものを示すのがユ・イこの音なんですね。それを夢の場合にはその神秘力を見る事が『ユめ』と日本人はどっかでつかまえている、ということだと思うし、家の問題はその神秘力に対する、その神秘力それ自体を『え(へ)』という言葉を補うことによって何か限定しようとしているものがある。
『え(へ)』というのは囲いですよ。神秘力を囲ってみたということなんです。神秘力の確保、それを家といっていいでしょうね。それを今や日本民族は家を崩壊させようとしているんだから、阿呆としか言い様がないわね。家を単なるねぐらとしか考えようとしていない。
しかし、ねぐらっていうような言い方をすること自体も家のひとつの真理をいってるんだと思いますよ。だから家は休む場所なんですね。日本語の休むというのは『寝る』ことなんです。・・・先程、誰かが安心と言ったけれど安らぎなんです。安らぎと言うのは、やっぱり『いやすらぎ』なんですよ。『い』の問題を静かな状態に保存していく、それが『やすらぎ』なんですよ。・・・休憩するってことではないんです。『ねぐら』とは素晴らしい言葉だ。『くら』っていうのは大事なものが入っている、そういう言葉なんだね。建物ではなくて。・・・
(夜を怖がる子どもが明りをつけて安心する、ということに関して)その安心が逆なんだって。家というのは安らぎを得る所だろ。明りをつけたら生命体が安らぎを失うことなんだよ。だから皆あべこべになっているんだよ。感覚的にね。明りをつけて現実空間に戻ってそして安心するなんて『自分』はもぬけのカラになっているんだ。暗闇になった時、初めて自己にかえって生命体が活躍しているんだ。その躍動を止めちゃうってことだね。
家っていうものは子どもの生命体としての感性が息づいている。(子ども)という生命体が生まれ出るところが家なんだよ。その生命体を包んでいるものが家なんだよ。野っ原に生み落とすわけではないんだよ。今度は視力がついた時にその生命体はどんな反応をするのだろうか。奇妙なことだと思うのよ、僕は。顔が見える。家族の顔が見える。皆の顔がのぞき込むんだから。ところがどれ一つとして同じ顔はしていないんだもの。
この生命体は驚くと思うよ。・・・そういう環境の中に生まれているんだよ。同じ自分を包んでくれる人間でありながら、どうして顔がこんなに違うんだろうかと思う筈だと思うんだよ。どうしてって言うのはその理由を求めているわけではないけれども、生命体は生命体の何を勉強していかなくちゃならないかというのは、その生命体を守っているその集団の研究をしていかなくちゃならない筈ですよ。それに名称がついていくわけよ。お父っつあん、おっかさん、じいちゃん、ばぁちゃんっていうのはそうだろ。
だから現代人は本当にバカになってると思うんだ。この生命体を育てるこの組織があるにもかかわらず極めて薄い薄い層の中で生命体を育てようとしている。その家の組織が人間が生きて行く活力を学んでいく材料なんだものな。・・・
人間がこの家を忘れたら人間は秩序を失って行きますよ。どんなに生命の尊さを教えようとしたって家が崩れたら生命の尊さを学ぶ理由がなくなってしまう。愛情豊かな家に育ったものほど豊かな人間が育つに決まっているんだから。子どもは絶対に大事に育てなくちゃうそですよ。
家の問題は生命を包んでいるその環境状況・・・具体的には人間関係であるということだね。だから時間観・空間観を引っ張り出すという事は、同時に人間関係を引っ張り出すことでもあるってことだね。人と会う、人と別れる、っていうのはそれは家ということによって代表されている生命体の変動、必ずその生命体に変動をもたらしている問題であることでしょうね。(平成2年 石巻合宿にて)
都会をはじめとして日本中に「個人情報」という名の結界がはられ、悪用されないためのものだったのが、時に煩わしい人間関係をさけるために一人歩きしすぎた感があります。お互いに干渉し合わないで無関心であることが個人を尊重しているかのような風潮さえあたりまえのようになりつつありました。
避難所の生活が日々報道されていますが、その中で子ども達と地域の方々、特に年輩の方々との触れあいも報道されています。新たに子が生まれてみんなが喜んだとか卒業式が避難所みんなの祝福の中で行われたとかも・・。生まれた時から世を去るまで、改めて人間は人間との触れあいあってこそ人間らしく成長していけるんだなと思い知らされます。
こんな時だから意識しなおしてみたいこと 上原語録 H23,4-2
本当は私なりに消化して私の言葉でこの便りを書きたいところなのですが、余震等々によるダメージで頭がボーッとしてしまっているので、素直に上原先生の語録に頼っています。
さて、昨日(4月11日)は平成8年に他界された先生の命日・・・強い余震が起きてすごい一日でしたが、その先生の語録を整理しているうちの「ア」で始まる項目からこんな時期だからこそ振り返ってみたいものを取り上げてみました。
『あいづち』
教師ほど大事なあいづちって打てるようにしなきゃならない。先生の方が本当に適切なあいづちを打ってやる。そうすると子どもがパッとこうなってくる。そうしたら子どもがよくみえるようになってくるね。やめなさい、なんて言うよりも上手なあいづちを打つべきだと思うよね。
『相手に先手を取らせる。こちらが先手を取らない。』って剣道の極意といっしょだよ。先手必勝なんてガキのけんかだよ。相手に先手を取らせてやる。譲る。つまり、相手が先手を打つだろうという情勢を作ってやる。だから先手はどこで打ってくるかわかるんだよ。だから上手なあいづちが必要なんだ。 (平成四年女川合宿)
『あきらめ』
日本人の意識では『明らかにする』『究極の真相を知る』ということ。 (「児童言語の研究」講義より)
『遊び』
子ども達を迷わせてはいけない。本来の姿にもどしてやる。そうして自分のイメージを確認すれば十分一人で遊べる。・・・自分の世界を作り囲いに入れるから。
(平成六年新年会)
「能力で何かしよう。」ではなく『持っている能力で遊ぼう。』とさせる。好き勝手な事をしないと本当の能力は出てこない。 (平成二年十月例会)
『遊び心』
郡司先生のいう『遊び心』と『子ども心』、それと藤岡先生のいう『最も根源的なイメージの追及』の接点、関連を考えたい。郡司先生は「これが失われるから人間は年をとると寂しくなる。」なんて言っているけど、自分を生かしめているのは『幼い頃の遊び心』なんでしょうね・・・。 (平成三年二月例会)
『あれこれ』
あれこれ考えている子は『自分の落ち着く場所』をみつけている。あれこれの中で自分のイメージを確定させようとしている。
いろいろの中から「コレ!」となった瞬間、イメージが確定して落ち着く。 (平成八年三月例会)
『合わせ』
我々のイメージは合わせられている。日本文化っていうのは『合わせの文化』だと僕は思っている。取り合わせっていう。取り合わせが狂っているとイメージが崩れるんです。だけど、取り合わせがうまく取り合わされている時に、我々のイメージは固定されたものになる。安定してなお強烈になる。 (平成四年女川合宿)
今回の地震は日本の歴史の中でも大きな出来事として記録され続けるほどのものであることは間違いありません。そのくらいの大変な出来事に遭遇しているのです。
それは別の言い方をすれば、日常の当たり前と思っていたことまでもが一気に崩れて「合わせ」のイメージ界を根源から組み立て直さなければならない状況になっているとも言えます。
まだまだ大きな余震が続いているので心の再起動に気を向けるのは難しいですが、目先の「想定」にこだわらず、そして江戸庶民の安政大震災での鯰絵にあやかる心境も出来ればふまえて皆さんそれぞれに「あれこれ」してみましょう。
『ぼんやり』のススメ -究極のぼんやりを目指す- H23,4-3
とかく「情報化社会」「競争原理・成果主義」などと言われている今の世の中で「ぼんやりのススメ」なんてことを言い出すと「そんな呑気なことをしていたらアットいう間に取り残されて負け組になってしまう」「最初から諦めてしまうようなものだ」と批判されそうです。
しかし前回紹介した上原先生の語録の中の「あきらめ」が本来は全く違う発想の言葉であったように、「究極的なぼんやり」は「ただのぼんやり」ではなく、まさに「今までの自分からさらなる自分へ転換させてくれる」「そんな自分が無意識の中にあったなんて知らなかった」等々の境地へ導いてくれるもののようです。
「おうち意識」の観点から言えば「外」でしっかり過ごせるようになるために「内(うち)」でじっくりと休めることが必要、という点に「ぼんやりの意義」を見いだせますが、今回はそれにもっと違った意義を再確認ということです。
きっかけは今年大学に進学した子とのやりとりでした。日常の中で「ぼんやりと過ごした」という時間が、時がたった後になって「違った形で豊かな体感と共に甦ってくる」という話です。旅行していても旅行の最中は対して感情も動かないでぼんやりと過ごしている・・・でも、それは「自分の感覚をオフにしている」というわけではないことが分かります。
むしろ「第六感まで含めて様々な感覚をオンにしている」のかもしれません。自分の心身の扉を全開している・・・陽気のいい日に家じゅうの窓やベランダ、はては玄関まで開けて風通しをよくしているような状態です。
意識世界を持っている我々人間は意識がはっきりとしている時ほど「感覚器の感度を調整」したり「感覚器にフイルター」をかけたりします。「先入観」や「好み」によって脳まで届くものと届かないものがあったり、届いた先でさまざまに加工して頭や心に受け止めしまい込みます。それは皆さんも日常の中で日々体験されていると思います。自分の興味・関心のあることなら他人が気が付かないようなことにも鋭く目がいったり、サッと聞いたことでも忘れなかったり。逆に全校朝会での校長先生の長い話を覚えていないことによく例えられるように「完全スルー」ということだって起こります。
受け止め方のゆがみを言い表した「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」「あばたもエクボ」「たで食う虫も好きずき」等々のことわざが生まれるのもこうした人間の特徴を示しています。「前向きに受け止める」とか、「なんでそんなに悪い方へ悪い方へ考えるの?」というやりとりもそうです。
「ぼんやり」とは、そうした意識レベルが低下した状態ですから、通常だったら排除してしまうことや歪めて受け止めてしまう事柄でも割と「ありのまま」の形で受け入れ、いつもとは違う受け止め方が起きています。「究極のぼんやり」であるほど今までの自分の発想では解釈しかねる場合が多い。それを無理矢理今までの発想で解釈しようとするのではなく、さらにそれも自然に取り込めるように「自分の意識世界を再構成する」という風にする人はそれだけ熟成する時間が必要になるのでしょう。
それが「さらなる自分に目覚めていける」ということです。
先ほどの旅行の話で言えば、意識を全開にすればするほどガイドブックやインターネットで下調べを十分にして無駄なく効率的に時間を使うという旅行の仕方になります。それはそれで大事ですが、日常で何でもすべてそれ式でやってしまうと、自分の意識で想定した以外のことはキャッチすらされないことになります。
いい意味で「想定外体験」が増えれば増えるほど自分の「器」が大きくなります。「究極のぼんやり」は自分の人間としての器そのものをどんどん大きくしてくれるものだとも言えそうです。
(つづく)
「知識」と「生き様」 -「ぼんやり」と純粋経験- H23,4-4
社会人クラスで「千と千尋の神隠し」で「目の漬物樽」の話を出した時に「目が知識の象徴でそれが漬かっている」という意見が出たのですが、それも「究極のぼんやり」と深い関連がありそうです。
そもそも「究極のぼんやり」について話が出た大学生には別の時に書いた文も読ませて頂いたのですが、そこに書いてあった内容も「知識」とより高次元な生き方への関連を直観しているものでした。
知識に限ったことではないですが、物事には必ず両面以上・・・つまり二つ以上の受け止め方や解釈の仕方などがあります。それを普通人間は自分の今までの経験で積み重ねてきた「基準」に合わせて価値判断をします。それが「自分の考えをしっかりと持っている」というような責任ある生き方にもなっていくのですが、それは同時に「受け止め方の偏り(感覚の感度を調節したり、強力なフィルターをかけてしまう)が第一歩の段階から大きく生じてくること」にもなります。
そしてそれが「他人も同様に自分の価値基準で生きているんだな」と他人の世界は他人の世界として尊重しながら・・・そして自分を絶対視しない謙虚さも持ち合わせていければいいのですが、これが人間にはなかなか難しい。「信念があるほど」「自分が正しい。正義だ」と思っていればいるほどそうです。だから戦争だって民族紛争だって起きる・・・どちらもそれぞれにとって正しい、あるいは「我こそが神の意志そのもの」という想いがあるから余計にこじれます。
そんな人間だという自覚があればこそ、信念を貫き通すと同時に、相手や周囲の立場で考え直してみるという姿勢も持っていないと自分にとっても相手にとっても不幸になります。
「そんな矛盾したことを両立などできるわけない」と主張される方、しかもそれを「論理的でない」「矛盾しているうちはダメ」と頭から否定し、それを科学的で迷信に惑わされない生き方をしているんだという自負をされる方も割といらっしゃいます。
そんな時にも、ちょっと「科学」の世界で実例をあげたら「矛盾であっても矛盾のまま」ということを認めなければ自然界の根源から崩れてしまう・・・という程度の知識は持っていらっしゃると思うのですがね・・・。
相対性理論や量子論などという大袈裟なものをもちださなくても、例えば理科で習う「作用・反作用」や「原子の構造」や「自然界のつながり」等々でもいくらでも実例があります。
もう生きていませんが日本を代表する哲学者に西田幾多郎という先生がいらっしゃいました。「純粋経験」や「絶対矛盾的自己同一」等々のキーワードでも有名です。
『個々の持つイメージ世界によって感覚器も偏ってしまうのだから「純粋経験」というのは不可能なのではないか?』と私はずっと思ってきました。それが完全に解消したわけではないのですが、もしかすると「究極のぼんやり」というのがこれとつながるのかな・・・という想いもしています。(もともと西田先生は「禅」の境地から純粋経験というのを導入されたようですから)
先週書いたように「究極のぼんやり」はすべての感覚が研ぎ澄まされている状態・・・偏らずありのまま外界を受け入れる・・・少しでも思考やイメージを動かし出したら「自分好み」「自分の納得するもの」ばかりを追い求めてしまいますから、ただ思考もイメージ運動もストップさせてボーッとしている・・・。
せっかくの新学期なのですから、今までの先入観などもなるべくオフにして人間関係にも勉強の内容にも向き合ってみてください。もしかすると自分が最も苦手とか嫌いとか思っている教科の知識が日々の生活や今後の人生にとって最も必要なメッセージを示唆してくれるかもしれませんよ。
『落ち着き』の本義 上原語録 H23,5-1
余震への不安、放射能への不安・・・その他日常でもいろいろなことが起きて「落ち着き」という状態から久しく離れている人たちが極端に多いのが今の日本の現状です。上原先生語録の中に「落ち着き」に関するものもあったのでまとめてみました。
民俗学の視点からの言い回しが多いので現代の感覚で読むとよく分からない部分もあると思いますが、これが古代からずっと行ってきた心の生活です。
*日本人の一番安定した状態を探ることにつながる。・・・「落ち」は当て字で、結局、力のある魂が、体にピタッとつくことからきてるんです。
*その子なりを生かしめている、その根本的なもの・・・それを意識のベースっていう風に僕は言ったつもりなんですよね。
だから別の言葉を使うならば、ある種の安心感がなければ我々は片時も存在できない。
「落ち着きを失う」っていう。『落ち着き』なんだね。で、「落ち着き」っていうのは、ごく簡単に我々使っているんだけれども、『落ち』を『つかせているもの』なんで、正しく言うと『落ち』っていうのは。
『落下』の『落』と書いているけれども、そうではないんで、本来は。「落ち」というのは『いのち』なんですよね。だから「命」をその体にどう住まわせているか、それが「おちがついた」って言うんです。
*日本人の正月は『オチ水』を汲んでくるんわけですよね。『わかみず』を汲むって言うの。水を汲み上げる事によって、それを「おちみず」という。・・・「オチ」がつくべき所について、初めて『落ち着く』なんだね。
*(おうち作文について)
・・・だから「おうち」と言って思い付く事を書きましょう、って現実感として思い付くのはいらないんだってこと。「先生があなたに聞きたいのは、あなたに不思議な意識がくっついてくる。それを書いてほしいんだ。」と、こういう事なんだね。
本当の日本語の思い付く、先程言った『オチがついた』それを書いてほしいんだ、って事なんだけどね。
・・・「おうち」っていうのは、いつでも『いつも』なんだよ。と言うのは子どもの意識活動と言うのは、「うちの方が活発だ」っていうのが当然だって・・・それが日常性なんだよ。
(それで『いつも』がある子は『落ち着いている』から安定しているんだ、と会員が納得)*(すぐに友達に物を貸す子ども、の話題で)
・・・「気が弱い」って親は受け取ってすぐに叱るだろ。でもそれは子どもなりに見通しを持って、自分の位置付けをはかっているんじゃないかね。 自分の落ち着く場所を見つけているんだよ。
*(武芸家の話題)
一秒の何十分の一か何百分の一かわからんような、そういう事が見えてくるのね。相手がかなり速いスピードで打って来ている。それが何て言う事はない、スローモーション映画のように見える。見えて来る様になるんだね。
それを現実世界の言葉で言うならば『落ち着けばいい』んだよね。慌てちゃいけないんだよ。
「今、大変なスピードだ。」と思うとそのスピードはスローモーションに変わってくれない。ところが、それは「時間のひとつの流れなんだ。」と思うと、えらくゆっくりするんだね。
この最後の武芸の話題などは、案外今の時代の大きなヒントになるかもしれません私は武道の心得がないから想像もつかない世界ですが、ホンモノの真剣勝負、つまり武士の時代のような本物の刀での勝負はまさに命のやりとりで、ギリギリの現実対応が求められるわけです。
そんな時にこそ「落ち着き」の本義通りの境地になると、意識の枠で自分を狭めず、人知を越えた領域から困難に立ち向かえる力が湧いてくるということなのだと思います。
「気になった」ことで世界が変わる H23,5-2
このことも今まで「意識世界は一人一人違う」「意識が変われば(意識の転換=トランスフォーメーションが起きれば)周囲の世界が変わる」という形で何度も取り上げてきました。気にしたことだけがキャッチされて意識世界を形作っていきます。
もちろんこれには無意識にキャッチして、無意識に強烈に刻印されて、いつのまにか我々の生活を転換させているものも含みます。むしろ多くの場合はそちらの方が「自己暗示や無意識の縛り」となって人生を変化させる力が強いです。
ちなみに自分の内面との対話をきちっとやっていると、この無意識にキャッチできていたこともより有効に使うコントロール能力がアップしていきます。
意識世界だけではなく、無意識世界との対話の試みを続けていると人間は「心の中に軸や足場」を見いだせて、仮に現実的な生活が安定していなくても自分の内側から耐える力、乗り越える力が湧いてきます。
それが今回の大震災後の大変な状況の中で多くの被災者たちが自ら秩序を守り、他人に対する思いやりを忘れずに・・・というよりも、現代社会で忘れかけていた精神性を甦らせて、物質的に豊かな生活をしていた時以上に「他を思いやる」という態度をとっているという形で具現化し海外の人たちを驚嘆させています。
ところが今回の震災ではっきりと形になってしまった「気になったことで世界が変わる」の実例は世界の人たちに感心して頂けるような側面ばかりではありませんでした。
その最たるものが「風評問題」です。農作物や魚から始まってついには「人間」に対してまでひどい態度をとってしまう・・・今までは全く気にしていなかった「○○県」という言葉が非常にマイナスイメージで気にされるようになってしまった結果です。
実は私もそういったイメージにそまりかけていたなと実感することがつい先日ありました。急用があって福島県に車ででかけたのですが、途中休憩をとったサービスエリアで車を停めて降りると、すぐ隣の車が某電力会社の車で「ん!」と反射的に思ってしまいました。今回のような地震後のことがなければ、きっとその車が停まっていても気にもとめなかったでしょう。それは恐らく私だけではなく、多くの日本人がああいったことさえなければスルーしたでしょう。ところがこうなってしまっていると、場合によってはその車の運転手に今回の事故の責任はなくても暴言をはいたり、その車に落書きをする、蹴飛ばす等々の物的被害をあたえたりする人が出てきてしまう。
こうした風評などというのも、周囲で騒いでいることや噂を鵜呑みにしてしまう姿勢に大きな原因があります。それでテレビなどでも「正しい知識と理解を」と盛んに繰り返し、自分で情報を吟味・判断することを求めているのも、皆さん周知の通りです。 では今までそうした様々な「知識」は教えられてこなかったのか・・・というとそうではありません。学校教育でも情報があふれすぎているという言われるこの世の中でも、過剰なくらいに「知識中心」の教育や生活は続いています。
それでもそうした知識が自分の生き様を豊かにする方向に活かされないのは、やはりその「与えられた知識」が一方的に頭ごなしに与えられ続けているだけに「意識されずにスルーしてしまう」対象にしかなっていないことに大きな原因があると思います。
「すぐに生活に役に立つ」という事が強調されすぎた結果、よけいに「自分には関係ない・興味が持てない知識はいらない」という風潮を生み、ますます豊かな生き様につねげていけない事態になっています。そうやって育った人生の先輩が「学校での知識なんて何の役にもたたないよ」と言うからますます子ども達は幅広い知識を拒絶する・・・全くの悪循環です。
豊かな感情のための多角的知識 H23,5-3
人間性を豊かにする上で「知識」も大切な要素であることは、つい最近も書きましたが、今回はもう少し観点をかえて述べてみたいと思います。
宮崎アニメ「天空の城ラピュタ」で王家の血をひく少女シータが子どもの頃の思い出を語る場面があります。
『わたし、ほかにもたくさんおまじないを教わったわ。物さがしや病気をなおすのや・・・絶対使っちゃいけない言葉だってあるの。滅びのまじない。いいまじないに力を与えるには悪い言葉も知らなければいけない、って。でも決して使うな、って。教わった時、恐くて眠れなかった』
こうした発想は特に「陰陽思想」などで東洋には古くから多く伝わっています。西洋はどちらかというと「善か悪か」「プラスかマイナスか」等々と二つに一つを選ぶという発想に立ちがちなのですが、東洋では「どちらも必要」という発想・・・その一つが「太極図」というマークにも現われていて、そのマークに強烈に惹かれたという西洋の学者が物理学や精神科学の分野でもいることが知られています。
実際に国語の反対言葉の問題でも皆さんだって知っているように、多くの言葉は反対の意味の言葉と対になっています。「上と下」「右と左」「男と女」・・・・自然科学の分野でも「力の作用と反作用「陽子と電子」などのように「二つが一つ」で成り立つというのが自然界の理であることが次々と明らかになっています。それをアニメにすると「千と千尋の神隠し」になるのかもしれません。
ただ、実際にはなかなかこの「反対のものを一つに」というのは頭で分かっていても難しい・・・その苦難をアニメにすると「もののけ姫」になるのでしょう。
頭で答えを考えるのではなくて、今を精一杯生きる中から自然にある境地に到達する、となると「ハウルの動く城」や「崖の上のポニョ」という感じになっていきます。
日本人が古来から大事にしていたのは単に「正反対」だけではなくてもっと細かく考えた「様々な違い」も一つにすること。それが「重ね合わせ」や「包み込む」という発想です。「万葉集」や「御霊信仰」などをみると本当にそれが生活の中に生きていたことが分かります。(それが外来思想が入れば入るほどもともとの考えではなくて、封建的な思想や軍国主義的な思想となって変質してしまいました。)そうした歴史の過程を事実として知ることも、自分自身の生き様に本当は反映していきます。
もう一つ大事な観点は、「多様なもので一つの世界が出来ている」という観点とは別に「同じものでも見方によって多様なものを含んでいる」という観点です。この観点も持っているとさらに多様で深い発想ができるようになります。 知的にこれを会得するのにつながっている勉強の一つが算数の図形でやった「見る方向によって同じ立体が違う図形にみえる」というあれです。お茶筒のようなものは真下や真上からみたら「円」、真横からみたら「長方形」・・・という具合。
これを物体だけではなく、人間をみるときや心を考える時、世の中をみる時にも意識して適用してみると単に「常識」「当たり前」と思われていることがそうではないのか気が付くことができます。自分が「こうしたい」と心から思ったことが世間から「非常識」とされたり、友達から「信じらんない!!!」と誹謗中傷されるのは今も昔も変わりません。むしろ友達関係なんかでは以前よりも窮屈になっているかもしれません。
そんな時も、まず感情が納得するか、興味がわくかどうかは別にして「いろいろと多角的に知ってみる」のがはじめの一歩です。その知識が深まり「理解」が伴ってくると、自然に感情の流れ方も変化します。違った「自分」との出会いも増えてきます。
上原語録「生き方の教育」 H23,5-4
教師に対して話していますが、万人に通じる内容です。
☆夢の世界とつながっていると、途切れる事がなくいくらでも生きる力がわいてくるんだよ。 (時期不明)
☆夢の世界を持っているから捉われる。イメージが偏向する。個性の強い子どもほど偏向している。平均的に豊かなイメージなんてない。この偏りの修正が『生き方』の指導だ。だから子どもの偏向性をつかまえてやる。 (平成七年五月例会)
☆『現実適応派』は生きる上で磨り減らされた。だから個性などない、ただの類型なんです。その人なりの味わいなんかない。 (昭和六十三年六月例会)
☆ 世の中の構えが狂っている。生きる姿勢が狂ってるんです。人間が思い上がっている。私個人が生きている、私が幸せをつかむ、なんて言っているが、そんなに個人だけで生きていけるか? (平成七年新年会)
☆『何を信じて生きて行けばいいんでしょう』なんていう奴がいるよ。悲しくなっちゃう、それ聞くと。生きようとするからいけないって。生きようとするから『何を頼りに生きて行けばいいのか』って、こうなっちゃうのよ。 (平成五年合宿)
☆(ネアカとネクラを気にする話で) だいたい現象教育ばっかりやっているから、小学校四年生と大学生で意識が同じなんだよ。生きる事の指導、生き方の姿勢の指導をきちんとやらなくちゃ! (昭和六十二年忘年会)
☆人生の送り方には『まんべん型』と『鋭角型』がある。子どもに何でも出来る様にさせようさせよう、としているけれど、そんなにマルチが必要なのか? (平成六年四月例会)
☆刺し子の陣羽織なんていうでしょう。何で刺し子を着るかっていう。呪いがかかっているものを着るので身を守る。だから戦争の時に千人針をみんなにしてもらったでしょ。人間はまだまだ呪術世界に生きているんだよ。呪術世界からきれいに逃れられるわけがない。また、面白くないのよ。もっと呪術世界で有効に生きて行けば面白かった。(平成元年合宿)
☆現代人だって、結構『古代生活』を送っているんだよ。正月とか、身代わりのお守りだとかさ。葬式だって魂送りじゃないか。これを整理して子どもに教えるべきだよ。そうすれば子どもは生き生きするよ。命そのものが活動してくるから・・・。(平成元年九月例会)
☆ 『時間』『空間』のイメージの設定が変化してしまったために教育の歪みがおきている。
意識は作られていくものだから『時間』『空間』のイメージをどう設定するかで『人生』も変わる。それで子どもによって差が出る。人生は時間・空間の絡み合わせで出来るのだから、子どもが『どう設定しようとしているのか』みていなければならないのに、つい大人は『子どもの錯覚』とみてしまう。 (平成六年忘年会)
☆個性研究の目的を個性の言い当て、としてはまずいんです。『人間の生き方』そのものが個性とのかかわりを持つ、そう考えてください。
夢と現実との区別と言っても、しょせん人間は区別できないよ。区別しないで生きていた時の方がむしろ真実に近いと思うな。そこに自分がいるんだよ。「あの世」から「この世」にやってきて、また「あの世」に帰って行くんだから、そんな生き方をこの世において示したい。この世にいながら『冥途からの信号』を聞きつけたいんだよ。だいたい「死んだら終わり。」っていう考えがおそまつなんだよ。
禅の修行で眠りを断つだろ。あれはそうやって現実心を捨てる中から何かをつかもうとしているんだよ。 (平成元年四月例会)
☆(合宿始めの自己紹介の後で)まず、皆さんの挨拶を聞いていて私は腹がたつ。常識が半分以上というふうに聞こえる。せっかくあれ程長い期間イメージの研究をしてきた人にもかかわらず、そういうものをちっとも基盤に置いてくれない。これがまず不満の第一ですね。年をとってきてなんていうことは全く関係がない、と思っているんですね。
・・・現実は厳しいからなんて言ってそんなことは関係ないですよ。私だって現実をかかえていますよ。みなさんより厳しい現実ですよ。でもそんな事は関係ないんですよ。
今やらなくちゃいけないことがあるんですよ。今の現代の子ども達をどうするんだということですよね。
私より若い年齢の人達があまり年寄りくさい生き方をするのは困る。みんな学生さん以外は子どもを持っている。子どもをもっている人達が年寄り臭くなってどうするの。世の中で働いている人と同じ存在に学校の先生がなったらどうなるの。
やっぱり学校の先生は私は若くなくちゃいけないと思う。若くなる、若くある、というのはいつまでも世の中の人間のように若々しくあれというのではなくて、考えている事が、感じ取る事が『何て若いんだろ』という風に子ども達が思ってくれなきゃ。(平成六年合宿)
若さの絶頂にあるみなさん!しっかり生きて下さいよ!!!
年輩者からの「生き様の伝承」 H23,6-1
私が所属している児童の言語生態研究会の平成19年、5月例会でこんな発言をしました。
*次回の学習会だよりでは 年寄り のことについて書こうかなと思っていて・・・
小さな恋のメロディに出てくるやりとりで大人になるっていうのは「知識ばかりで現実に疲れたつまらない人間になる」って。でも日本人が考えていた年をとるっていうのはNHK連ドラの『ちゅらんさん』で主人公の恵理が6年生の時の教室のシーンで、壁にあっためあてに「立派なおばぁになる」と書いていたような理想やあこがれの存在ですよね。
でも年をとるっていうイメージもずれてきてしまっている。「桃太郎の誕生」にも出ていたけど、お年よりだからこそ目先の現実に囚われない発想があるから「最も神に近い存在」として敬われていたのに。
さらに平成21年発行の児言態雑誌に載せた実践記録にはこのようなことを書きました。
*「あれこれ」は「おばあちゃんに包まれる気分」の中で
子どもが失敗をして母親が叱ろうとした時に、脇からおばあちゃんが登場して助け船を出す、というのはドラマなどでもよくみられる場面です。特に現代のように「失敗は悪」「親の想定内で育たないと気が済まない」とされて窒息寸前の子どもにとってそれがどれだけ救いになることでしょうか。
どんなに教師が子ども中心に活動を設定しようとしても意識のベースに「おうち気分」、ここでいうならおばあちゃんに象徴されるような「失敗しても人格を否定しないで包み込んでくれている」「一見どうでもいいような事に夢中になってあれこれ試したり遊んでいる姿を温かく見守ってくれている」感覚がある子なのかどうかの差は計り知れないものです。
ここで庇護する存在を「おじいちゃん」ではなく「おばあちゃん」としたのは、見た目には最も地道でありふれた家庭内の仕事という現実対応を長年経験し、様々な苦労や失敗、喜びや悲しみ等々の裏付けを重ね合わせた上で再び人間として大切な世界に立ち返った存在だからという理由からです。ですから舌切り雀のような世界なら「おじいさん」の方がふさわしいといえるように、絶対に「おばあちゃん」でなければダメというわけでは勿論ありません。
子どもの中でも特に自分の世界に素直な子はどうしても現実対応がうまくいかず、結果として周囲や自らの呪縛でつぶれてしまいがちです。上原先生はそうした「稚児」とも言えるべき子どもに庇護する立場、いわば守護神のような存在がついていたことを説かれていました。そうした存在があればこそ子どもは救われるわけです。
私がよく子ども達に話すドラマやアニメの例でいえば「ちゅらさん」での「おばぁ」、「ちびまる子」での「おじいちゃん」、「がきんちょ」での「じいじ・トト・カカ」です。最近のように核家族で親が忙しすぎたり厳しすぎたりする現実が増えていると教師が子ども達にとっての「庇護」する守護神という側面を持たなければなりません。厳しく現実対応の指導をする面が主でも、どこかに「おばあちゃん」のように自分をまるごと全体を包み込んでくれる存在と子どもが感じられる一面をも持ち合わせている必要があると思います。
そんな「包まれている感覚」がない子どもは携帯依存症に代表されるように「ひとりでいる時間」を恐れがちです。それは純粋にイマジネーションの世界に浸れる時間帯を失い本来もっている活力も低下させることになります。
イメージの動き方は自由自在ではなくそこには偏りが常に生じています。偏りを生じさせている要因の3つは「心意伝承」「個人の経験の蓄積」「常識・思い込みからくる呪縛」で、それぞれに影響された想いが様々に重なり合い交錯しています。その偏りを見つめることで今の自分のありようも分かってきます。
大きな存在に包まれて、安心して一人でイマジネーションの世界に浸っている時には、このうちの深い部分での偏りが自覚されます。それがやがてより深い部分に隠れていた自分との出会いへと導いてくれるきっかけになるのです。
『年輩者』的な存在と関わっていると、それだけで心の奥底にあるものが呼び覚まされて、自然に「人間的に深い生き様」を伝承することになります。それがまさに各地で展開されています。 最近、江戸庶民の生き様についての本を読み返しているのですが、それぞれの年代なりに年輩者の後ろ姿をみて「粋な生き方」という生活を実践していたことが分かります。そうやって伝承された生き様は時代を越えて大切にしたい姿勢・意識です。
「自分の言葉に責任を持つ」-江戸庶民の約束意識- H23,6-2
最近「江戸しぐさ」に関する本を何冊か読んだのですが、そこに江戸庶民の約束意識について「口約束が最も大切な約束とされた」とありました。契約書というか文章で約束をとりかわしてもいい加減にする風潮がある昨今、「口約束」などというのは最も軽い約束とされてしまっています。「そんなこと言ったっけか?」ととぼけた者勝ちという情けない風潮。
しかも国権の最高機関に国民の代表として参加する方々が率先してそれを守らない。かつて「選挙公約」といえば当選したら守らなくて当然なものという意識が公然とありました。それがマニュフェストという考え方が海外から導入されて少しは実行しなければならない約束という意識が高まったようですが、それもかなりギクシャクしています。選挙公約ばかりではありません。国会答弁にも重みがありません。法案が通ってしまえば決める時に話されていたことは次々とねじまげられていきます。
そんな大人たちの姿をみていれば子どもや若者が自然とそれに染まってしまうのは仕方のない部分だとも言えますが、「大人がそうだから自分たちもそんな情けない生き様を堂々とする」というのも寂しい・・・若いからこそ、そんな風潮を自分たちの世代から変えていくという気概が欲しいものです。
「変えていく」際に大事なのは月並みな言い方ですが「相手の立場になって」ということです。ところがこれもこのところは想像力の欠如というか・・・「俺は平気だよ」という言葉や「それぐらいで嫌に思う方がどうかしている」という言葉が平然と口に出てきます。だから「相手の身になって考える」ということを本人はしたつもりになっていても、実際には全くそうなっていない。
それが端的に現われているのが携帯電話などの発達した現代によく見られる「連絡しただろ!」という言い草です。電車に乗っていてよく「俺。遅れるから」とそれだけで電話を切る。
待ち合わせ場所でよく目撃するのは、待たされた方が「遅かったじゃない!」と不満を口にすると「遅れるってメールしたろ!」と逆ギレしている姿。相手の立場を考えて連絡をきちんととったのだから、それで自分の責任は果たした、というつもりなのでしょう。でも連絡をしようがしまいが、相手を待たせたりして迷惑をかけたのは事実なのですから、「すまない」という気持ちや姿勢は自然に出るのが人間としての姿です。
江戸しぐさの多くは「商人」の間で成立してきたと言います。商売上でのやりとりは「お互いの信頼関係」が基本。それが商人以外の庶民にまで広がって「一人前の人間としての行動」として確立された・・・しかも江戸時代の特徴は「道徳的なきまり」というよりは「生き様の美学」という意識がベースにあったということ。どんなに服装や化粧などで格好良く、あるいは美しく飾っていても、さりげないしぐさが大人として失格であれば信用を失い、評判も落としたと。
時代劇などをみていると時々出てきますが「野暮」という言葉で非難されることは行動を判定される上でかなり威力のあった言葉のようです。あとは「みっともない」・・・これも最近はあまりつかわれなくなった言葉です。生き様が汚かろうと何だろうと自分が損をしなければいい、目先の利益になればいい、という社会ですから。
だから「卑怯」という言葉も死語になりつつあります。昭和の価値観で作られている「ちびまるこ」では藤木君と通したエピソードでよく出てきますが、かつては友達から「卑怯者」というレッテルをはられることは大変恐ろしいことでした。
逆に、きちんとした態度を高いレベルで自然にできる人間は「粋(いき)だね」と言われました。さりげないしぐさや言葉の言い方に大変な神経をつかっていたのですが、その基準が自分の得にあったのでは「粋」にならなかった・・・常に相手を基準にして先ず自分が率先する、というのが基準だったわけです。