よりぬき
天体と生き方の接点


どんより雲の上にもきれいな星空はある
「荒れる子供も本当は子供」
平成10年4月第1週号より

 このところずっと空の状態がよくありません。連日の曇りや雨、そしてたとえ晴れていたとしても空一面が薄い雲に覆われていてあのオリオン座でさえ肉眼では何とか見えるかな?という具合です。丁度3月28日は天文ファンにとっては「メシエマラソン絶好日(代表的な星雲星団の1年分が一晩で見える)」ということだったのですが、原宿の望遠鏡ショップの店員さんの話では日本各地どこも薄雲が高層にかかっていて空のきれいな場所に高速をとばして遠征したもののみなさんあきらめム−ドだったそうです。

いくら春先は空がかすみがちだといってもこんなにひどい条件の年はそうないそうです。 ちなみに私は夕方は雲が多かったので夜中に隣町に行きました。雲はいくらか取れていましたが、霧がどんどん出てきてしまいました。それで何を思ったか行ったことのない山の方にどんどん車をとばしました。数年前に来たことのある村をすぎて知らない道をどんどん行きました。山道に入りとうとう栃木県との県境(美和村と馬頭の間)まで来ました。

そこで初めて車を降りると、木々の間から見えていた星空は丁度隣町で小型双眼鏡を使って見たのと同じくらいの星々が見えたので驚きました。ただ場所が場所だけに望遠鏡をセットするわけにもいかずしばらくながめた後帰ってきました。

 いつも天体観測をしていながらも教育問題とだぶらせて考えてしまうのは一種の職業病かもしれませんが、何だかこうした空の状態は今の日本や世界の子供達(教育問題)さらには現代社会の乱れを象徴しているようです。

 昔からの宗教で問題になっていたことに「人間はもともと悪なのか、善なのか」ということがあります。例えば同じキリスト教であっても「罪深きもの」とする立場と「神の作ったものに悪いものがあるわけがない。だから人間も本来は良きものである」という立場があります。

日本人が古来からとってきた立場は「もともと善」という立場でしょう。ただ現実の世の中に生きていると必ずニセモノ」が心を覆ってしまうだから定期的に「みそぎ」を行い、純粋な自分を取り戻す、ということを生活としてずっと行ってきたわけです。

*毎朝顔を洗ってさっぱりするのも、除夜の鐘に続いて初もうでをするのもそうした背景があると言われています。


 何もここで宗教世界にみなさんをお誘いしようとしているわけではありません。ただ、子供に限ったことではありませんが、相手と接する時に「この人間はどうしようもない」と思って接するのと「今の問題を起こしている姿は本当の姿ではない。絶対素晴らしい心を持っている」と心から信じて接するのとでは、結果は大きく変わってくるでしょう。

 大人としての問題は「ではどうしたら心から子供達を信用できるか」です。今の少年法の改正問題を持ち出すのは大袈裟かもしれませんが、本質としては同じ部分があると思います。「何度注意しても困ったことばかりをする。」「ちっとも言う事を聞かない」「いくら言っても勉強しない」・・・そうした毎日が繰り返されれば「信用することが大切、と言われても無理!」となるのも無理からぬことでしょう。

 ただ素朴に感じるのは、自然の世界だって「きれいな星空をみたい」という願いもむなしく何日もこんな天気が続いたり、台風や地震などの天災が起きたりします。それが自然といえば最も自然な姿です。

だから「どうしてこの子は思い通りにならないんだろう」とイライラするよりも「人間だから他人の思い通りにならない、時には困ったこともしてしまうのも当然だ」という立場に最初からたつべきだと思うんです。 その上で雲の向こうの星空を何とか見ようとするように、子供の中に秘められた良さや可能性をより多く発見しようと思っていくのがいいのではないでしょうか。


苦労と遊び心
レベルが上がるとボロが出る 
         
 「それがまた喜ばしいこと」 H,9,12-1

 9月から突如始めた天体観測ですが、現在うちには写真を撮るための望遠鏡が2種類あります。月、木星、土星などに適した口径10センチの屈折望遠鏡と星雲・星団などに適した口径20センチの反射望遠鏡です。初めの頃はほとんど屈折の方で写真を撮っていました。多少慣れてきたので、いよいよ本命の星雲・星団の写真に本格的に挑戦しました。それが11月のことでした。

 最初は使い慣れた屈折の方を使って11月8日に行いました。月は以前この塾だよりにも載せたように結構きちんと写っていましたが、プレアデス星団は星の姿が流れてしまいました。原因は望遠鏡をきちんと北極星に合わせていなかったためです。シャッタ−スピードが1秒以内である月などはだいたい合っていればOKですが長い時間シャターを開く星雲などの撮影ではボロが出てしまう、ごまかしがきかなくなるんです。


 それで翌日は、今まで以上にしっかりと北極星に合わせて挑戦しました。望遠鏡は反射の方を使ってみました。この夜はかなり寒かったのですが、一枚に2〜3分、36枚撮るのに夜明け近くまでねばって撮りました。今までよりはずっといい成果だろうと期待して写真屋さんに出しました。で、出来上がったのが大量の大失敗写真でした。


目の前が真っ暗になる思いがしました。ピントはかなり時間をかけてしっかりと合わせたつもりです。屈折で撮っていた時にはちゃんとそれで写っていたのに・・・(ただ、ぼけた光がずれていないので、北極星に合わせたのはOKだったことはわかりましす)

そこで望遠鏡を買った店に電話をして聞いてみました。すると私の購入した反射望遠鏡は星雲の写真がより明るく写るように設計されている分、ピント合わせが大変にシビアで、ほんのわずかなズレでごまかしがきかなくなる、ということでした。だから肉眼でピントがあっているように見えてもダメで、最も手軽な方法でも、フィルムを入れる前に曇りガラスを張り付けたル−ペを使って合わせるのだと助言されました。屈折の方は多少ぼけていてもそれと気付かない仕上がりになるんだそうです。

 本格的に星雲の写真を撮るにはそれだけ暗い場所、より厳密なピント合わせ、そして今以上の正確な北極星の位置調整が要求されることがだんだんわかってきました。今は3〜5分前後で撮っていますが、それでも多少星の像がずれてしまっています。これがきちんと天体写真を撮っている人は一枚撮るのに数十分〜数時間もかけるにはガイド望遠鏡をじっと覗きながら星がずれないかずっと監視するそうです。(オートガイダーなるものもあるそうですが)

 さて、現在ワニワニ学級学習会で天体観測に燃えている4年生のNさんと5年生のSさん。11月30日にも挑戦しました。 Nさんは前回に通りがかった車のライトをよける時に望遠鏡に触れ、ぶれてしまって失敗したアンドロメダ銀河に再挑戦、そしてSさんは先生の助手としてではなく「自分が撮った写真」ということでピント合わせをル−ペを使ってやるところから「自分でやりたい」と言って行いました。(のぞく位置が高いのでその間Nさんがずっと馬になって耐えてくれていました)

そして画面の構図も自分でセットしシャッター板まで一人でやりました。先週と同じプレアデス星団ですが、その意味合いは前回とは大きく違います。セットからこの2枚を撮るまでで7時から準備を始めて9時になってしまいましたが、反射望遠鏡による難しい写真の撮影にも果敢に立ち向かうこの子供達の姿にある種のたくましさを感じています。

ここから勉強とのつながりに入りますが、最近は大学生でも受験的なマニュアル勉強に毒されていて、安易に解答を得ようとする姿勢に教授たちが悩んでいるそうです。かといっていくら文部省が「考える力」と強調しても、マスコミが学校の姿勢を非難しても、しょせん「きれいごとを捨てなければ勝てない」という風潮が世間にある以上は学校も世の中も変わりません。しかし、その現実に迎合した教育がもう末期状態であるのも現実なのです。

 もともと人間は「わからない事がわかるようになる」「進歩する」ことを喜ぶ心を持っています。小さい頃盛んに「どうして?」「なんで?」と聞きたがり、「自分の名前が書けるようになった!」「字が読めるんだぞ!」と得意になっていた経験は誰にでもあることでしょう。その喜びが今の時代はうんと早くからなくなってしまいます。新しい単元に入る時に「ワクワクした顔」よりも「え−、面倒臭そう・・・」と嫌な顔をする子は年々増えています。

素直に「わかることが増えた」と喜びながら勉強する子は、大人が「勉強しなさい」なんて言わなくてもやるんです。そして無理をしなくてもどんどん吸収するんです。例えば盛んに天体観測をしている小学生も暗記しようと意識しなくてもすぐに「あれがプレアデス星団だ」とか見分けがつくようになるし、天文用語や機材の扱いを覚えてしまいます。「どうして暗記が苦手なの!」と注意されるような子でも、ポケモンのたくさんのキャラクタ−の名前、特徴をスラスラ言える子は日本中にあふれています。

興味をもっている事、「やらされている」ではなく「やろう」と思っている事なら、どんどん吸収し、時には大人以上の能力を発揮するのが本来の子どもの姿です 私はこの学習会でもそんな「子ども本来の姿」を取り戻して欲しいと願って指導方針を考えています。

小学校に勤務していた頃もそうでしたが、具体的にそうした姿勢そのものを育てようとするためにいわゆる普通の先生方とは違う方法もだいぶとります。そのため初めは子どもたちもだいぶとまどいますが、一旦本音を出して勉強することに目覚めると一気に進歩を始めるし、押しつけられた学習でない分、学んだことも忘れない。世間が重視している「得点力」という面での学力も長い目でみれば並以上につくのです。


 ただ、勉強が深まってくればくるほど、時には今まで「自分は出来るようになった」「わかった」と思っていた事が、実はそうではなかったと思いしらされます。しかし逆に考えれば。それは「より自分がレベルアップできる前兆、きっかけ」でもあるわけです。双葉が落ちる時期があって次に本葉が伸びるのですし、花が散る段階があるからいよいよ次は実り、収穫がくる・・・それが自然だとも思うのです。

今の教育をとりまく世界では、子どもたちにそうした「一見力が落ちて見える段階」すら許さない風潮がありすぎます。自然の理にさからっているから苦しいし嫌に感じるのです。 今まで出来ていたことが出来なくなった、伸び悩む時期がきた、それが実は「進歩のきっかけだ」とみんなが受け止めることができるようになれば、もっと勉強は面白くなると思います。

「さすが高学年の勉強」「難しい方が中学校らしい気分になれるファイトがわく!」「よ−し、わかるようになってみせるぞー!」と困難を楽しめる雰囲気をみんなで作りませんか?



  勉強と遊び心      平成10年1月−3
 先日、月の写真を冗談のように加工して遊ぶことを中1がやっていました。小学生たちも前回のオリオン座の写真から発展して「自分の考えた星座」にイメージを走らせました。きっと大昔の人たちもそんな風にして星をながめながらイメージ遊びをしていたんだと思います。

 星座にまつわるギリシャ神話も人間臭い話がたくさんありますが、それがひとたび「理科の勉強としての天体」となると、とたんに無味乾燥なものになってしまいます。本来ならば「楽しいこと」「ロマンチックなこと」「きれいだな!すごいな!」という「感動をともなうこと」であるはずの星の世界が「難しい嫌な勉強」となってしまうのはとても残念なことです。(私自身がずっとそうだったわけですが)


 だいたい学者とよばれる人達の多くは「嫌な勉強」なんて思って学問の研究をしているわけではありません。「世の中のことがもっと知りたい」「謎を解きたい」という気持ちがベースにあって取り組んでいるのです。

あの幼年時代の「どうして・・・なるの?」という質問連発の姿勢を大きくなっても持ち続けられれば、どれだけ勉強の力が伸びるかわかりません。「勉強しなさい」なんて言われなくてもきっと夢中になって取り組むでしょう。どうしてそんな「もともと持っている態度」が大きくなるにつれて消えていってしまうのでしょう?それを我々大人は真剣に考えなければならないと思っています。

 月の写真をどうするか考えている時の中1メンバーは、それはそれは楽しげでした。ついこの間までは、天体観測をしている私に「何がそんなに面白いの?」と冷ややかな視線をとばしていたこのメンバーから、さらに難しい「星雲星団の写真にも挑戦したい」という声さえ出ていました。

そんな活動を今後も続ければ中1で習う天体の学習内容はいつの間にか身に付くし忘れもしません。一見おふざけに見えても純粋に自分達のイメージ世界に教材が引き込まれた時、本当の勉強への道に実は入っていると思うのです。

数学や科学の勉強のような何だかわからない形のものほど、そのベースとして実生活とつなげる遊び心・イメージ力を養う必要があると思うのです。・・・それが本当は小学校の役目なんでしょうね!




「便利な機材を子供に与えるか?」 H,10,4-4
 時々行く秋葉原にあるスターベースという望遠鏡ショップでのことです。あるお父さんが息子におねだりされたと言って一人で望遠鏡を買いに来ていました。望遠鏡は初めてというので店員さんに細かく質問をしていました。そのやりとりが耳に入ったのです。その時の店員さんの言葉が印象的でした。

 中学生の息子さんに買うのを、天の動きをモ−タ−で自動的に追いかけるタイプにするか手動で追いかけるタイプにするかで迷っていました。
父「やっぱりモ−ター付きの方がいいでしょうよね。」
店員「まあ、その方がずっと楽なんですが・・・」
ポイントはこの後です。

店員「ただ、私としては中学生のお子さんに初めて与えるのならあえてモ−タ−はつけない事をおすすめしたいんです。というのは、確かに手動で追いかけるのは大変なんですが、逆に言うと、その時初めてお子さんは地球の動きの速さを実感されると思うんです。エー!こんなに地球って速くまわっているのかって。動かさなければあっというまに視野から外れていってしまいますから。

 そうした事に実際に触れて感動したりすることでかえっていろいろな事がわかってくると思うんですよ。モーターは後からでも取り付けられますから、それは慣れてきて例えば天体写真などを撮りたい、とかそういう目標が出来た時で十分だと私は思います。」

 利潤を上げるという点から考えれば、高価なタイプを店としては勧めるのが普通でしょうが、目先の自分達の利益よりも、どうしたら本当に宇宙の素晴らしさをわかってもらえるだろう、という事が判断の基準になっている姿勢には思わず脱帽しました。

 私自身もなかなかうまく写真が撮れずにいたので、そのお父さんの後に弱気な姿勢で相談したのですが「まずはどんどん苦労してみてください。それでいろいろ試されていく中で、きっとお客様なりのコツを御自分でつかまれていきますから。そうした方が上達が早いんですよ。」と助言されました。

その時、なんだか私が算数の時間、子供達に何年間も話してきた事を自分でも言われているような気がして何となく恥ずかしい気持ちになりました。別に「わからない事を相談してはいけない」と言いたいのではありません。

望遠鏡ショップの店員さんだって場合によっては大変丁寧に助言してくれることもあります。初心者に身になって誠意ある姿勢で教えてくれるその気持ちは、パソコン売り場で初心者を軽蔑したような目で見がちの多くの店員に見習ってほしいほどです。

しかし、場合によってはすぐ答えを教わったり、便利な装置を使わない方がいい結果に結び付く事もある。そうした時は素直に苦労をしてみるべきだろう、ということです。(といいつつ楽な方に進んでしまうたぬき先生ですが)

 何だかドラえもんとのび太の関系の様ですね 塾でもいつも判断が迫られるのがまさにこの部分です。2週間前に特集したように「分かりやすく解き方をパッと教える」のが本当に子供のためにはならないこともあるわけです。その見極めがなかなか大変です。簡単に教えてしまったばっかりにかえって伸びない子供にしてしまうこともありますし、依頼心ばかり強くて自分では物事をちっとも考えない子供にしてしまうことさえありますから。

 また、それ以前の問題としていろいろな望遠鏡ショップの店員さんから学んだ姿勢は「自分自身が先ず感動している」という事です。勉強を教えながらもうっかりすると「このままではテストで大変だぞ」となかば脅しめいた言葉をついうっかり言ってしまい内心「しまった!」と思うのですが、本当は「わかる事って面白い。」「できる事って楽しい」「自分の世界が広がる喜びが勉強にはある」なんですよね。他人と比べてどうこうというのも関係ないんです。「星がきれいだな!」には競争も利害もない・・・。それと同じはずなんです・・・。


冷却CCDカメラと教育の姿勢

                      H10,10月第1週号より

 今までもチラリチラリと書いてきたことですが、どうして学習会だよりに天体写真が特集されているのかについてはっきりと書いておきたいと思います。

 天体観測を始めて丁度1年あまりがたったのですが、当時は図鑑や何かで目にするような星雲・星団の写真は夜空のきれいな場所にある大きな天文台の望遠鏡でないと撮れないと信じていました。ところが「冷却CCDカメラを使うと、東京都内、それも最も空気も汚れて余計な光に満ちあふれている新宿でも星雲・星団の写真が撮れる」という事を知りさっそく購入したわけです。

 ところが最初はうまく使いこなせなかった上に、ノートパソコンが故障したため、数か月の間ほこりにまみれていました。その間は感度800の普通のフィルムで数分間撮ったものをパソコンで無理やり画像修整して何とか映像を浮かび上がらせていたわけです。

 その冷却CCDの扱いのコツがフッとわかってきたのが、この9月に入ってからでその写真がここ数回の学習会だよりに載ったわけです。 右に何枚かのアンドロメダの写真がのっていますが、このカメラが如何に威力があるか一目瞭然だと思います。(*しかし一番最初に撮ったアンドロメダをご覧になればおわかりのように、いくら優れた器材でも扱い方が適切でなければこんな写真しか撮れません。

 冷却CCDの画像はナマのままではほとんど真っ黒です。画像処理のレベル補正を行うためにグラフを呼び出すとほんの一部分だけ山が出来ています。ここに星のデータが埋もれているんです。それでグラフ下の三角を左にずらすと、星を覆い隠していたそこまでの余計な部分が切り捨てられる。すると今まで隠れていた姿が浮かび上がってくるのです。

 私はこの画像処理を初めて新宿の望遠鏡屋さんで実演してもらった時に、まさに教育の基本姿勢そのものを観たような気がしました。いかに大人からみて困った姿を見せている子供でも、それは余計なこと(今までの経験や何かで歪んだ心やイメージ世界)に本当のその子の純粋な部分が覆い隠されてしまっている、そんなことと冷却CCDカメラの仕組みがだぶったのです。

 正直に言いまして、いろいろと関わってきた子供達の中には十分にその良さを認めきれてあげられなかった子もいます。卑怯なことをされて相手が子供であっても腹がたったこともあります。

 そんな子供のいいところが表からすぐに分からない時も冷却CCDカメラのように「子供の奥深くにある良さをみつける感度」をアップさせていきたいと思うのです。ですからこの場合「冷却」と言っても「冷たい教師」ではなく「冷静な教師」というイメージです!



頭の使い方を意識する勉強

             画像処理から考える H10,10−2 

先週の文章の中に、こんな記述があります。
「*しかし一番最初に撮ったアンドロメダをご覧になればおわかりのように、いくら優れた器材でも扱い方が適切でなければこんな写真しか撮れません。」

 これは器材に限らず、パソコンのソフトにも言えます。今回のカラーページに画像処理の実例を載せていますが、同じ元の画像データにある色がちょっとした操作でひきたちもするし、かき消されていってもしまう、そんな事を感じて頂きたいので載せました。

 日曜日に新宿のニュートンという望遠鏡ショップで「赤をもっとひきたたせると端のところに赤いギザギザが出てきますよ。」と助言されてさっそく元のデ−タからやり直したわけです。

「M27の赤い色がちゃんと元のデータにはあったのに、それを引き出せなかった」それと同じように、子供達ひとりひとりの隠れた可能性まで引き出せているかな?ということです。(愛用のソフトはアドビのフォトショップですが、プロの方々もよく使うというものだけあって、私にはとても使いこなせないほどのあらゆる機能が盛り込まれています。分厚いマニュアルの半分以上は理解不能で読んでもいません。)


 問題は、実は自分が十分に使いこなせていないくせに、「うまくいかない」「きれいに出来ない」なんてぼやいてしまう人間の悲しい習性にあります。 例のごとく「生き方」や「教育」につなげて考えれば「出来ない原因を器材やソフトのせいにしてしまう」というのは「問題の原因をすべて他のせいにしてしまう」という姿勢にあたるし、「うまくいかないのは自分には無理だからだ」と自分の資質のせいにしてしまうのも「どうせ自分はダメな人間」と自己否定の姿勢にあたります。これ、どちらも無益な姿勢ですね。

 「数学が出来ない」「英語が苦手」という多くの中学生(無論勉強が苦手という小学生もですが)の話をよくよく聞いてみると、自分の頭の使い方に対して無自覚であることがほとんどです。いや、もっとはっきりと言えば勉強が得意な子であっても実は無自覚であることが多い。「幸運にもその時に自分の考えた方向が学習内容と一致していた」というケースがけっこうあります。

 これが意識できるようになると、苦手だった子も得意なつもりになっていた子も「目からウロコが落ちた状態」になり理解が格段に深まっていきます。

 
では頭の使い方に熟練するにはどうしたらいいか?
 簡単に言えば「失敗を恐れないでいろいろとやってみる」ということではないでしょうか。「こうしたら、こうなった。では今度はこうしてみよう・・・」と、あたまの使いかたを「どうしたらどうなったのか」をはっきりと意識して勉強することです。

 9月の2週目号に載せた黒沢監督のことばにもありましたが、そうした中からいろんなことを体で覚えることができるんです。たとえ「こうすればちゃんと問題が解ける」とテクニックを暗記させられて、その通りにやって・・・という具合に得点力を上げても、それは本当の生きた学力にはなりません。

 なのに「友達にばかにされる」「先生やうちの人に怒られる」ということを気にし過ぎて「失敗」を隠そう、隠そうとする。見直しもしないで、すぐに消しゴムを使ってしまう。そうして実は、一番勉強ができるようになる材料を捨ててしまっているんです。

 今、子供達に要求しているのは「途中の式などをなるべく詳しく書く」「間違えた理由を言葉で書いておく」「間違えた事を消さない」ということです。これらが本当に実行できるようになったら、きっと「頭の使い方」への意識が高まり本当の力、さらには得点力も高まっていくでしょう。


天体観測の記録

★平成10年1月第2週号より
 あるクラスから依頼があって、星の観察を行いました。望遠鏡を出しての観察は私としても新年最初だったのではりきっていたのですが、機材の調子が悪く子供達には寒い思いをさせてしまいました。

それでも木星から始まり、土星のリングなどをみていきました。月の写真撮影にも挑戦しました。(みんな構図に凝っていたので紹介するのは次回にします。写真も向きなど本人たちに確かめてから載せたいと思いますので)デ−ンと姿を現しているオリオン座の小三ツ星にあるオリオン大星雲やワニワニ学級で有名なプレアデス星団なども見ました。

 こうした観察の後、帰りがけに中学生たちは口々に「あれは・・・・で、あっちが・・・だ」などと言い合っていました。何人かのおうちの方々に「私も何となく星が気になって空をながめてしまうんですよ。」とうれしいお言葉を頂きました。

先程の話とつなげると、例えばこの夜に覚えた言葉も、何日かしたら忘れるかもしれないんです。でも、ふと気になって空をみた時「あっ、あの星!何だっけ・・・ああ、シリウスだ」などと自然に思うようになればそれで十分なのです。そうした日常と理科での天体の勉強とが一体になればかなり理想に近い形で生きた勉強ができると思います。

・・・と、こうして勉強とむすびて星の話題をワープロで打っている自分がちょっぴり悲しくもあります。きれいな夜空を眺めながら「入試でも出ていた」なんて子供達に言っている自分・・・まァそれも今は仕方ありませんけどね。



★平成10年1月第4週号より
 
この前月の写真に挑戦した中1メンバーが今度はもっと難しい星雲・星団の写真に挑戦したいとチャレンジしました。あれから数日たった今も、勉強が済んで外へ出た時、夜空を一緒にながめるたびに「あれがシリウスだったよね」「あれはプレアデスだね」という会話が飛び交うようになってきたのは、かつて天体学習アレルギ−だった私にとってはうれしい限りです。

 小学生の時間の時に、寒空の下で天文雑誌をめくりながら「今度はこの星雲を撮りたい」とふるえながらも夢をふくらませる中学生の姿や、授業で星の話題にふれたところ、翌週になってさっそく自宅にあった天体の本を持ってきてくれた小学生がいました。その姿などに「学習の原点」をみる思いがしました。




★平成10年2月第1週号より
 
なかば天文雑誌のようになってきているこのコーナーですが、子供達が撮影した写真を発表する場として大切にしていきたいと思っています。

撮りたいから撮る今回は学習会とは別の日にたっぷりと時間をかけることができたこともあって(その分とんでもなく寒かったですが)前回よりもずっと質が向上しました。みんなますます意欲を燃やし、撮影困難な対象に挑戦しようとしていました。

 *たとえば肉眼ではまず見えない馬頭星雲などは短時間では写真にもなかなか写りません。今回は感度が800のフィルムで9分間露出してかすかに写ったものをパソコンで処理してここまで見えるようにしています。このように長くシャッタ−をあけていれば当然星も点ではなく線になって流れてしまう危険が高くなります。(実際、みんなが帰った後、自分で撮ったものはモーターの調子が寒さで悪くなり、みんな失敗でした)

 「ちょっとそれは難しいよ。きっと写らないよ」と私が弱気になっても「いいの!と挑戦してみる姿勢はうらやましくも思えます。

ここでも11時を過ぎると、望遠鏡をはじめとする機材には霜がびっしりとおります。1時、2時に観測を終えて車にしまう時には素手で触れるとはりつくような感じになります。それでもやっぱり星をみようという気持ちになるのは、「きれいなものを観たい。」「宇宙の中にいるという気分に浸っていたい」などという素朴な心からです。きれいなものを残したいと思うから写真も撮るのです。

そうした夢を実現したいからこそ、中学校時代にさっぱり分からなくて嫌いになっていた星の勉強も今になって基本からやり直しているわけです。学習会に参加している子供達が、かつての私のように「理科の天体が難しいから星の世界に興味がわかない」とならないように願っています。




★平成10年3月第2週号より

週間予報では曇りマ−クやカサマークばかりだったので心配だったのですが、今週は月の観察が思ったよりも出来ました。

 とにかく月はみるたびに毎回姿を変えます。その日に「すごいクレ−タ−だな」と思ったものが、次の日には影が減り見栄えがしなくなり、その次にはもうほとんどわからなくなる、という具合です。で、その時には別の見所が登場してくる・・・そうした変化が大きな魅力です。

これは毎回子供達をみていても感じることに通じます。今回の勉強会ではどんな持ち味が新しくでてくるかな?というのが楽しみなのです。小学校に毎日勤務していた時も「この子はこうだから」とか「どうせ変わらないよ」と人物像を固定しないように心がけていたつもりです。(成長し、変わるという期待がなかったら教育の仕事なんて空しいだけです。)


 8日の時は月がかなり明るかったのですが中1や小5の子が「バラ星雲を撮る」「馬頭星雲を撮る」「モンキ−星雲が撮りたい」と言い出しました。私は「こんなに月が出ていたら無理だよ」と言いましたが「無理だとわかっていても挑戦するんだ」「それが私たちなんだ」と口々に主張してきました。で、挑戦してみたわけです。結果はニャッキの大行進になったり月明かりに邪魔されて一枚も成功しませんでした。(備考 この当時は冷却CCDカメラがパソコンの故障で使用不能でした。あれば月があっても可能でした)

 でも、この前の特集でも書きましたように「ダメとわかっていてもやってみたい!」というその心のエネルギ−が人間にとってはとっても尊いものだと思うんです。このエネルギ−がある限り、きっとみんな壁にぶち当たってもどんどん成長していけるでしょうね!



★平成10年4月第4週号より

執念の星雲キャッチ 4月19日の天体観測
 ある外国人が「日本は雨期に入ったのか?」と質問したというほど雨や曇りが続き連日星空の見えない日ばかり続いていましたが、昨日はようやく出来そうな雰囲気になってきました。昼ごろにはさっそく5年生の常連メンバ−2人から「今日は星、見ないの?」と問い合わせの電話がありました。

昨年度からずっと「モンキ−星雲」「ばら星雲」を狙い続けていた中2のTさんSさんも参加して気合いと共に準備を始めました。ところが日が暮れるにつれてどんどん薄雲が空全体にかかってきました。なお悪いことにこの所の雨と急激な気温の上昇の関係で空気中にモヤがかかってきてしまいました。そうして市街地の光がまともに空に反射していました。最もショックだったのは野球場のナイタ−の照明でした。空を広く光が覆ってしまいました。北極星が全く見えないためにきちんと位置が設定できません。

狙っている星雲はオリオン座近辺にあるのですが、あの目立つオリオン座でさえ肉眼ではどこにあるのか見えない状態でした。 それでも何とか数時間ねばってあれこれ試してみたのですが、結果は下の通りです画面にムラが出来ているのは薄雲やレンズについてしまった夜露です。


 その後オリオン座も地平線に沈んでしまったので先週成功した子持ち銀河を撮ろうとしましたが、いくらやっても画面に導入できません。(やっぱりあれは上原先生と関係があったのか・・・と思わず考えてしまいました。)9時頃に子供達が帰った後も30分以上ねばりましたが薄雲やモヤがどんどんひどくなり星がほとんど見えなくなってしまったのであきらめました。

セットした大型のドブソニアン望遠鏡も使わずじまいでした。 せっかく来てくれた子供達に今回は無駄足をさせてしまいましたが、こうした経験も何かの形で生かせるような受け止め方をしたいものです。


「流星雨と人間教育の接点」
H10,11月書き下ろし

昨晩、メールで「ところで、しし座流星群が近づいていますが、先生は子供たちにどのように指導されていますか?」と尋ねられました。

正直なところ、学習会では11月に入ってから詳しく触れる予定だったのでまだ深く考えていませんでした。それで返信を打ちながらいろいろと考えたのですが、やっぱり「人間そのもの」に興味があるので「理科教育・天文教育としてではなく人間教育として」の接点で考えが動いてしまいました。

その過程を雑感として記載しておきたいと思います。


ぜひ、「たぬき先生つぶやきのお部屋」や「言葉のスナップ」コーナーなどとも合わせて読んで頂きたいのですが、もともと私は「イメージ世界と人間教育」の関連で教育活動全体をくくって考えています。天体についても同様です。(ちなみに私は天文ガイドインタラクティブVol,13のp,65の「子供たちに一番言いたいのは・・・」からの意見に大いに共感している人間です・・・それについて特集した学習会だよりがこの後にあります)

そんな私の姿勢は今にして思えば天体にはまっていなかった頃から演劇クラブの七夕集会などでの劇や平成6年度以後の長編ビデオドラマにも現れています。


ですから今回の「しし座流星群」についても科学的な観点は強調しないつもりです。

例えば「33年に一度」ということよりも逆に「当たりはずれ」があること、そしてそれは「わかりきっている現象と出会う」というのとは全く違った次元の天体現象であることを強調したいと思っています。つまり日食や月食は天気によって当たり外れはあっても晴れていれば見られます。でも晴れていても見られるとは限らない、また流星群か流星雨になるかどうか、という問題は違いますよね。

そんなことですぐに思い起こされるのがあの「ジャコビニ騒ぎ」です。私が小学生の時でした。あのジャコビニ騒ぎは。担任の先生が「1分間に100個か1000個の流れ星で空が埋まる」と必ず起こる事として話してくれて昼間から友達と興奮し、ワクワクしながら夜空を眺めただけにがっかりしたのは今でも忘れません。まともに星空を見なくなった一因でもありました。だから今回も「・・・・かもしれない」とはっきりとさせておかないと、へたすると「なんだ、星なんて見てもつまんないじゃないか」となりかねませんね。

そうした現象に「はたして人生の中で出会えるのか否か」などといろいろと思いを巡らせる経験が子供には先ず必要だと思っています。それが充分ならば、仮に流星群が見られなくても(流星雨にならなくても)人生にとって有意義な経験になると思います。


もうひとつ、それと合わせて強調しておきたいのが
「出会えないかもしれなくても一生懸命に追い続けている天文関係の人の生きる姿勢」です。日食が海外で起きる時にも触れてきたことですが、多くの場合「なんでそんな数分間のためにわざわざ行くの?」「曇ったらお金がもったいないじゃない」「写真でみればいいのに」・・・という反応が返ってきます。

これは天文に限ったことではなく「確実なこと以外は無駄」「駄目かもしれないなら最初からやらない方が得」という現代の残念な風潮です。「勉強がのびのびできない」「人間が人間としての活力を失っている」元凶の一つでしょう。だから何とかして「うまくいかないかもしれない事にもロマンを求める姿勢」を子供達の中に復活させたいと思うのです。(悪条件の中、天体写真に挑む子供達の様子を紹介しているのもそうした理由です。)



こんな風に、事前に子供達に考えておいてもらうのも
「物事をどういうイメージに包み込んで心にしまうか」が現実の経験よりも子供には強烈であり、その後の人生を左右するかもしれないからです。(このイメージの包み方が宇宙観・世界観・人生観・・・などになるわけです)だから子供に対しては「しし座」のことをきっかけとして、そうした「時間観」(一生に何回か?予測と現実について、・・・)の心の世界を深めてほしいと思っています。

もしも今でも担任をしていたら、きっと「流星雨が起きた」なんていう題名で事前にイメージ作文を書かせているでしょう。星の部屋のどっかに6年生の子供の「流れ星って星が死ぬこと?」というような言葉が載せてありますが、子供によってどんなイメージ世界を広げるか、興味深いところです。




子供達に「星の話」をしても興味を示す子もいるし、つい昨年までの私のように無関心な子もいます。「流れ星」と聞いてイメージ(夢の世界)が広がる子ならば、その群れと聞いたら夜も起きているかもしれませんね。
しし座の話を聞いて、興奮状態になるか、さめているか、なんていうのは子供達に天体を啓蒙する立場からも興味深いことだと思います。現代の子供達が「どこまで流れ星という言葉に刺激を受けて、星空のロマンへ入り込んでしまうか」あるいは「入り込まない子供は何がブレーキをかけさせているのか」ということがはっきりしてくると思うんです。

そんな子供達の様子や言葉(しし座流星群の話を聞いてのいろいろな反応の仕方)を全国から収集できたら今後の子供達への天文普及への貴重な資料になるでしょうね。(全国というのは大袈裟としてもそんな実例を寄せて頂けたら・・・と思って「募集コーナー」を作っています。)

具体的には、「実際に夜にどんな行動をとったか」「見られたとしたらそこからどんな心の状態、イメージが広がったか」、また何も起こらなかったとしてら、「その事実をどう心に受け止めたか」・・・などです。実際、学習会の小学生・中学生にはそんな風に投げかけるつもりです。

「子供達はわからないのだから、強制的にでも見せるべきだ」という考えもあります。ただ、流れなかった時に天文への興味を失わせる危険を考えると、私が担任をしていたら充分に話した上で「後は自由」とするでしょう。その結果眠くて休んだ子がいても「本物の理科の勉強を一晩中したんだね」と誉めるでしょう。

ちなみに、いろいろな小学生や中学生に話を聞くと「理科の天文はややこしいから嫌い。だから星にも興味がない」という、かつての私と同じような答えがたくさん返ってきます。そうしたことも何とかしたい。だからこそ、星に関する子供達のナマの言葉をきちんと収集していくことが大切だと思うのです。(そんな研究もみなさんとインターネットを通じてしていきたいです)・・・平成13年現在、そうした交流は全くありません。どなたかこの指に止まっていただけませんか?


物知りになってはいけないH10,10−5

 天文雑誌に「文部省宇宙科学研究所対外協力室教授」という立場にいらっしゃる的川先生へのインタビュ−が出ていました。(天文ガイドインタラクティブVol,13のp,65)

『今、子供達にいちばん言いたいのは、物知りになってはいけないということです。本で仕入れたような知識は何の役にもたちません。

日本宇宙少年団という組織コズミックカレッジというのを1996年から始めたんです。小学校5・6年と中学1年の子をつくばのエキスポセンタ−に1週間くらい缶詰にして、子供達の好奇心を育てたり考える力を育てたりといったことをやります。ここに来る1割くらいはそれぞれの学校で宇宙博士と言われているような子なんです。本当によく知っている。

 だけどそういう言葉だけを知っていることが如何にくだらないかを最初に教えて、その子たちの宇宙博士としての自信をたたきつぶすところから始めます。

そういう子は単なる物知りになって『原点にかえってものを考える』ということが出来なくなってしまうからです。

 自分で体験したことやその時の感動を大切にして、それを自分の言葉や絵で表現したり、さらに発展してものを考えたりできるようになることが重要なんです。』
 これって、どの教科の勉強でも全く同じですね!



 
『知識』よりも『感性』をH10,11−1

 先週の書いた「文部省宇宙科学研究所対外協力室教授の先生の要点を読み取る課題を子供達にやってもらいました。いろいろと興味深い発言が出ました。その内容についてはまだやっていないクラスがあるのでそろったところで特集したいと思いますが、何人かの子供達が一番不思議がっていたのが『どうして学者を将来の育てるのにいろんな事を覚えていてはいけないの?』という点でした。

 あの中で強調されていたことは『本で仕入れたような知識は何の役にもたちません。・・(知識ひけらかしタイプの)そういう子は単なる物知りになって原点にかえってものを考えるということが出来なくなってしまうからです。』『自分で体験したことやその時の感動を大切にして、それを自分の言葉や絵で表現したり、さらに発展してものを考えたりできるようになることが重要なんです。』ですが、みんなにとってはどうしてこれらの事が『頭のいいことの象徴である知識』よりも優先するのかが謎のようです。

 しかし、この学習会だよりでも何度も強調していますように『やり方丸暗記』の勉強は、習った時の基本問題のようなレベルならば簡単に問題が解けるので自分が勉強がわかるようになったという幻想を持たせてくれますが、レベルが上がるほどメッキがはがれてしまい通用しなくなる、伸びなくなるという結果をもたらします。

 ましてや学者などは、言ってみれば『未知の探求』が仕事です。誰かが考えた事を覚えればいいのではありません。まだわからない事を探求していくのです。ならばささいな事にも『ふと感じる』豊かな感性と、それをとことん追及していこうとする心のエネルギ−(これがイメージ力ですね)、そしてその過程や結論を筋道を立てて説明していける論理思考の力、がどうしても必要になるわけです。

 そんな話をしたら「学者にならないならそうした力が必要ではないのか」と質問されました。結論を言えば、そうした専門の学問とは関係ない分野に進むのならばなおさら『生きた知恵』となるような勉強方法が必要です。

 知識は、その探求の過程で必要に応じて『道具』として身に付ければいいのです。それを沢山知っていることを目標にしてしまうから学校教育が歪んでしまったのです。

 そのために教育界でも少しずつですが改革が始まっています。興味・関心や想像力・思考力の重視がそれです。それに沿って入試問題も毎年変わりつつあることも何度か特集した通りです。

せっかくここで学んでいるのですから、これらの『感性・イメージ力』『思考力』を十分に伸ばしていってほしいと願っています。



「子供のための相対性理論」から


人間である事と勉強する理由H12,1-3

 どうして勉強しなければいけないの?昔からこの問いを子供は大人たちになげかけてきました。ちょっと前の日本では「いい学校にはるためだ」「いい会社に入れないぞ」・・などの答えがなされていました。しかし、その結果がたいしたことでなはいことをこうも毎日見せつけられる今日になって、いよいよ本当の理由をはっきりとさせなければならない時代になってきています。

 昔買っていて読んでいなかった『子供のための相対性理論』という本を先週読み直しました。子供のための、という題名がついていますが、実際は大人向きといってもいい内容です。その中に次のような記述がありました。(一部簡略化)

 宇宙について何か考えた事がありますか?宇宙はどこまであるのか、その先はどうなっているのか、宇宙人はいるのか・・などと疑問をもったことはありませんか?

 家にしのびこもうとしている泥棒、仕事に夢中になっている人、漢字テストを一生懸命に解いている子供が、そうしている時点では宇宙になんか何も考えていないことはたしかですね。

 宇宙について何かを考えるのは、心にゆとりがあるときにかぎります。心にゆとりがあれば金もうけや出世のことなど忘れて、ゆったいりと空をながめ、宇宙について自由に想像し、夢をむくらませることができるでしょう。そういう時間がもてない人は人間としてあわれな存在ではないでしょうか?

 宇宙について考える、などということは私たち人間にしかできないことなのです。それはまさに人間の特権のひとつです。チンパンジ−がいくらりこうでも宇宙について考えていく事はできません。 そうはいっても、人間社会はめっぽう忙しく、たいていの人は心のゆとりのねうちに気付くひまもなく、時間に追われて、いつもせかせか動いています。それは人間の特権を忘れていることにならないでしょうか。

 でもそれは現代の話で古代となると違います。心のゆとりを楽しむ人がいくらでもいました。・・・・・

 例えとして『宇宙』のことが話題の文章ですが、無論この筆者も引用した私も『宇宙のことを考えられるようになりましょう』ということが言いたいわけではありません。勉強や趣味のあらゆる事に関して考えてもらうための文章です。

 単純に言えば『生活の手段として、と考える立場からの脱却』です。私が中学生だった頃にも「受験に出されるからよく覚えておくように」と連発する先生が少なからずいました。そんな授業では「どうせ高校いかねえもん」という生徒たちがやる気をだすはずありません。

 勉強であったら、もっとその学習によって『人間としてどのような豊かさにつながるのか』という直接的なねらいをはっきりとさせる必要があります。ただ、ここがうまく言葉では説明できないのですが、そうした豊かさは一見『無駄』に見える事が多いのです。

たとえば先の宇宙のことでいえば、いくらそれが人間としての特権だと言われても「宇宙のはてなんてどうだっていいじゃん。そんなの自分とは関係ない」「そんなことよりテレビゲームの方が面白い」と反論されてしまいそうです。しかし、それは本当に『人間の特権と結び付いた無駄』を味わってみたことがない人の言い分なんです。

 言葉でうまく説明できないといったのもそういう理由です。これは実感してもらった時にはじめてわかることだからです。テレビゲームだって確かに面白いでしょう。でもあれはニセモノとしか結び付いていない無駄です。だからすぐ次の新しいソフトが必要になるのです。そう言ったからといってこれもすぐには納得してもらえないでしょうね。それはその人自身が本当の趣味と出会ってテレビゲームに飽きてしまった時にわかることですから。

 人間としての特権と結び付いた勉強・趣味に小さい頃からふれあった人間ほど『人間にしかできない力』を豊かに蓄えています。人間でなくてもできることはどんどん機械に入れ替わっている、という現実はしっかりとみつめて、必要な無駄を大いに楽しんでもらいたいものです。そんな人間が心も豊かな生活のできる人間です。


何が絶対かー常識を吟味し直す生活ー  H12,1−4
 

先週「相対性理論」についての本を読んでいたことを書きました。ここでアインシュタインの相対性理論について解説をしようと思っているわけではありませんが多少ふれたいと思います。

 ごく簡単に言うと我々が『絶対』だと信じていること・・・時間や長さ・・・が光速で移動するようなももの場合には絶対ではなくなるということです。

有名なのは『浦島効果』というものです。たとえば三歳の子供がいる宇宙飛行士が光子力ロケットで遠い星まで旅行をして地球に帰ってくる。すると光速で旅をしていた飛行士にとっては数か月かそこらの時間しかたっていないのに、地球に戻ってきたら三歳だった息子の方がよぼよぼのおじいさんになっていた、というようなことが起こるというのです。

 何故そのようなことが起こるのかまでは専門外なので書けませんが、そんな風に情況が変わる事によって今まで自分が『絶対』と信じていたことが絶対ではなくなる・・・つまり周囲との関係で変化してしまうから『相対性』なのです・・・そのことを自覚しておくことが重要になってきます。

 このところの宗教団体の問題も、本来は絶対とは言えないものを『絶対』と信じ込んだことによる問題が根本だと思います。自分達の考える絶対は『今の自分達に限っての絶対』であることを十分に自覚していれば、考えが合わないからといって争ったり、命をうばいあったりということはないと思います。

  勉強でもまさしくこれで、自分が『わかった』と思っている事を上手に疑うことの出来る子はどんどん伸びていきます。この『上手に疑う』というのがポイントなのですが、へたに疑うと『自分への不信感』となり劣等感をつのらせる結果になってしまいます。

ですから授業で具体的にどう受け止めながら勉強を進めるのがいいのかを助言しているつもりです。

 勉強のやり方に限らず、その目的についても同様です。今までは偏差値の高い学校に進学していい企業や高級官僚にに就職するということが日本の絶対とされてきました。それがリストラや何かで崩れています。学校教育が絶対とされていたのが『学校不信』という状況にすらなっています。

 絶対がガラガラと崩れているのが今の日本ですが、私が気になるのは、他人を攻撃するばかりで終始していることです。得点中心の勉強はダメ、と建て前では多くの人が言うようになっています。ではその代わりになるものをそれぞれがきちんと考えているでしょうか。『学校教育は個性をつぶしている』とも批判されています。では本当にみんなが『これが個性だ』ということを追及しているでしょうか?

 これがまた実に安易に『これが自分』という絶対を作り上げてしまっていると思うんです。若者のファッションでも本人らはちゃんと個性的なおしゃれをしていると言い張りますが、自分本来の髪の毛や肌をボロボロにして流行を追いかけている姿には『らしさ』が感じられません。流行というのはその字が示している通り『流れて行く』ものです。絶対なものではありえないのが流行です。なのにそうした『流行』が絶対のものだとしているのが現代なのです。

 話があちこちになってしまいましたが、より絶対に近いものを発見していくためには日々の生活を通して『自問自答』していくことしかありません。勉強だったら『自分はどこまでわかったのか』『どんな分かり方をしているのか・・・やり方を覚えただけなのか、考え方まで理解したのか・・・スラスラ処理できるように習練もしたのか』『以前と比べて思考や心は豊かになっているか』・・・そうしたことを意識しながら進めていくことです。

 自分の人生でも誰かが決めたことに無条件に従うのではなくて、本当にそれがどういうことになるのか、自分の本音にかなう生き方なのか・・・それをとことん吟味することです。

 本来『自分の夢』ひとつとっても奥の奥まではなかなかわかるものではありません。一生追及しても反省点がでてくるのが当然だったのです。インスタント時代では『すぐにわかる』ことがあまりにも絶対と思われ過ぎましたが、時間をかけて常識を吟味して生活することを取り戻してほしいと思います。


皆既月食         H12,7−4

 16日の夜に起こった皆既月食は週間予報が外れてくれた為に割と全国的にみる事ができたようです。ここのメンバーでも何人かは見たと言っていました。

 今回の大きな話題として月が完全に隠れる皆既の状態が1時間半以上あったことがありました。過去の例でも10分とかそんな場合もあるくらいですから如何に今回のが破格の長さかわかります。ちなみに今回の規模を上回る時間の皆既月食は1000年以上先だとか・・・(短いのならまたありますが)全く宇宙の時間の尺度は人間の想像のレベルを越えています。

 さて、かつての私のように天体の現象に関心のない人にとっては『たかが月が欠けるくらいで何を大騒ぎするの?』というのが本音でしょう。いくら「次にこんな長時間のは1000年以上先だよ」といっても『だから何なの?』というところでしょうね。かつて自分もそうだっただけに私はそう感じる人達が駄目なんては言っていません。

ただ、正直に自分を振り返ってみると天体現象なんかに気を向けなかった数十年をとっても後悔しています。

 今回、6年生のパーマドラえもん君たちとながめていたのですが彼等の大きな特徴は双眼鏡などでのぞいた時にしばらく目を離さないで何度もながめている・・・そして色や形の変化について実況中継のようにいろいろとつぶやきながら味わって見ているんです。

 またパ−マドラえもん君が「全国の人が見ているんだろうね」とつぶやいていたのですが、日本全国で場所は別々としても同じ月を見つめていたというイメージによるこうした一体感というのは人間としてとっても大事な経験だと思うし、それをきちんと意識できる人間になるというのも大事なことだと思うのです。

 もう一つ彼や私が感動したのは『地球の大きさ』でした。月食で写っているのは地球の影です。それを円周の弧として考えると月に対しての地球の影の大きさがイメージできます。

 残念ながら皆既になったところで眠くなってしまったお子様たちは帰宅してしまいました。私も疲れていたので『後は明るくなるだけだからいいか・・・』と思ってしまっていました。ところがふと同じ皆既の赤紫色でもさきほどと雰囲気が変わっているのに気が付きました。この微妙な変化がまたきれいでした。

 そして最も私が感動したのは、実は皆既が終わって再びふちが明るく光りだしたところでした。これが実に美しかったのです。それこそ溜め息まじりに双眼鏡で見つめ続け最後満月に戻るまでながめていました。日頃『感性が大切』と言っていながら「後は元に戻るだけだから寝ようか」と知的に考えてしまっていた自分を反省しつつ、理屈を越えた物事が一杯あることを再確認しました。