自分らしさ 1


新世紀を迎えるという節目をかなり意識して「自分への反省・自戒」をこめて書いた頃のものです。

 
    
化粧とおしゃれ    H12,11−4
  在職中からクラスで強調していたことに『化粧とおしゃれの違い』ということがありました。かつての日本人は自分の魅力を磨いていくのにこの二つを厳密に区別していたということです。


 『化粧』とは漢字が示している通り『化ける』ということが本質です。自分ではないものになることが『化ける』です。今の現代っ子たち、少しは下火になってきたのでしょうが『ガングロギャル』とか『山姥(やまんば)ギャル』などというのはその最たるものですね。

素顔が全くわからない。口では『じぶんらしくしたい』と言っているくせに素顔がわからないくらいに化けてどうするの?と言ってやりたくなります。(もっとも『自分の顔は嫌い』とか『目立ちたい』という子も最近は多いようですが・・・)

 対して『おしゃれ』とは何でしょう?語源からいうと共通しているのはなんと『しゃれこうべ』の『しゃれ』です。しゃれこうべ・・・うちの辞書には「風雨にさらされた人の頭がい骨」とあります。ポイントはこの「風雨にさらされた」という部分です。『余計な部分がそぎおとされて内に隠されていた本質が現れた状態』というイメージです。

だからおしゃれには一種の『洗練された』と感じるものが必要です。決してコテコテのケバケバしいものは「しゃれている」とは言わないのです。


つまり本当に『おしゃれ』をするには『自分の個性』を自覚して磨き高めることが伴わなくてはいけない・・・その自分にしかない魅力を引き立てるのが『おしゃれ』ですから『他のものに化ける化粧』とは全く違います。



 ブランド物や何かを次々と買いあさっているのも本当に気に入って大事にしようというならいいと思いますが、周囲から注目されることが主たる目的になっていたらおかしなことです。「素敵ね!そのバッグ」と言われても素敵だと褒められたのはバッグであって持ち主ではない、という自覚が必要です。自分を目立たせるのに小道具にばかりたよっているから飽きられぬ様に次々と見かけを変えて注目をひかなければならないわけです。


 極端なことをいえばわざと地味で目立たない服装や持ち物でも魅力を発揮していける人間を目指すべきだと思います。そう考えると中学や高校で制服や持ち物に厳しい学校ほど自分にしかない魅力を磨いていくにはいい環境かもしれませんね。飾り物に頼ることができないわけですから。


 では化粧はすべてダメなのかというと決してそうではありません。例えば舞台のメイクです。私の友人に日本舞踊をやっているのがいるのですが普段は陽気で愉快な男が舞台では全く別人になって見事に舞うのですね。名取披露を国立小劇場でやった時に見に行きましたがたいしたものでした。

つまり彼は化けることによって日常ではみられない彼の魅力を発揮するだけの舞踊家としての実力をちゃんと身に付けているわけです。そうした実力があれば『化けた』という事を通してさらに違った面での自分を高めることも可能ですから。普段は陽気で純粋な愉快な男として周囲をなごませ、ひとたび衣装を身にまとい化粧をすれば日本舞踊で観客を魅了することができるのです。


 単にみかけの目新しさだけで人気者になった芸能人がすぐに飽きられていってしまう現実、どんなに流行したファッションでもすぐに飽きられていく現実は若いうちから直視していてほしいのです。

よく言う事ですが『流行』は『流れて行く』ものなのですから、若いうちほど『流れていかない自分』をしっかりと確立してほしいのです。現実のしがらみや薄汚れたイメージ世界に毒されていない純粋な時期なハズなのですから。

(その大事な時期に金儲けを狙う大企業はあの手この手で誘惑をかけてきています。幼児期や小学生の時期すらおかしくなっています。)

 もう一度自分の内面を見つめ、個性を磨き、洗練されたおしゃれができるような人間に育っていってほしいものです。学校でいろいろな勉強をするのも競争や何かに役立てる為ではなくて『人間としての厚みを増す』ためだったわけですから。


化粧とおしゃれ  その2  H12,12-1
 先週の付け加えです。この前は『化粧も違った魅力が発揮できる場合にはOK』というような内容でしたが、今回はもっと人間のイメージの原点の視点から書いてみます。

 例えば日常とは違った時にも化粧をすることがあります。代表的なのが『結婚式』での白粉ですね。それとほとんど同じように白い肌になるのがお祭りなどでの『お稚児さん』です。七五三なんかでもそうしたメイクをする場合がありますね。何故でしょうか?

 これらはみんな『神事』と関係があります。神様と交わる特別な場合だから化粧をするのです。神様はこの世の存在ではありません。あっちの世界の存在です。だから人間もこっちの世界の姿、つまり生身の姿では交流できない、という発想があります。それで厚く白粉などを塗って生身の肌を消し去るわけです。


*注 神様と交わるのに全く逆の発想もあります。余計な飾りを一切脱ぎ捨てて神様の前に『素』の自分をさらけ出す発想です。お祭りでフンドシ姿でみこしをかつぐなんていうのはそれです。


 神様と交流する時にもう一つ大切なのが『自分をカラにする』ということになります。自分を空っぽにするから神様が自分に乗り移る・・・と考えるわけです。神様のお告げを伝える巫女さんなどが日常の意識を失っている状態になっているのを昔から『神懸かり』というのがそれです。


 こうした宗教的な観点をイメージ論でもう少し科学的に整理すると『意識の転換(トランスフォーメーション)を起こしている』ということになります。今までの自分の考えを形作っていたイメージの世界が別の世界に入れ替わるのです。受け止め方が変われば同じ出来事でも違ってくるということです。

 これは日常でもしばしば体験することです。例えば友達同士で誤解が解けた時です。今までは『嫌なヤツ』というイメージを抱いていた相手が『やっぱり友達だ』と思えてくるわけですから。この時には今までの自分のイメージ(思い)をいったん捨てるわけです。捨てるから次の新しいイメージが入り込む余地がでてくるのです。

 勉強でもそうですね。私は高校1年までは数学なのには魅力を感じていませんでした。それが高校2年で数学にほれ込んでいる若い先生に担当されたのがきっかけで数学を今までとは全く違った観点からみることを知りました。それから面白さを感じる様になったわけです。数学に対するイメージが転換したのです。

 化粧とはちょっと違いますが、かつてうちの教室には大量の変身グッズが置いてありました。今まで引っ込み思案でクラスのすみっこで小さいなっていたような子が衣装やお面をつけて遊んでいるうちに何人も変わりました。友達ともよくしゃべるようになり活発にやんちゃもするようになりました。これもトランスフォーメーションの一例です。



 重要なのは化粧にしろ他人の話にしろ衣装にしろトランスフォーメーションを起こしたからといって全く違うものが自分に入り込んできたわけではないということです。むしろ『今まで本当の自分を覆っていたニセモノの部分が何かをきっかけに剥がれ落ち、真実が現れた』というのが実態に近いのです。

そうすると本質は『おしゃれ』と同じということですね。余計な部分をそぎおとすのですから。 毎日掃除をしていても日常生活が行われていれば必ず汚れるのがこの世での自然な理です。

だから日本人は朝顔を洗うことを大事にしてきました。これは顔をきれいにするよりも心をさっぱりさせるということに重点がありました。それでも日々過ごしていれば心にも汚れがたまります。

それを年に一度払いおとし生まれ変わるのが除夜の鐘であり初もうでであることも以前書きましたが、人生の節目になるような時に『化粧』を伴う神事を体験するのもトランスフォーメーションを起こすための日本人の知恵だったのでしょう。



 ただ流行を追いかけ、大企業などの金儲けのために踊らされている現代の若者の多くの化粧が意味を失っているというのはトランスフォーメーションを伴わないからだとも言えます。一時的に気分が変わるのは意識の転換という深いレベルではないからです。


 あるピアニストの話 H12,12−2
 日曜日の朝、テレビをつけたらNHKの心の時代にピアニストの遠藤邦子さんが出演していました。

 遠藤さんは有名なピアニストでかつて豪華な暮らしぶりが女性雑誌で何度も紹介されるほどの人物だったようです。演奏活動を国内外で行ったり大学の講師として学生に授業を行ったり家庭の主婦としての仕事をこなしたりで睡眠時間もほとんどないほどの多忙な生活を送っていたそうです。それが10年ほど前に乳癌であることがわかったというのです。


 この時に遠藤さんは「いい音を残して死にたい」というような思いが強烈にわいてきたといいます。忙しい毎日・・・その大半がピアノで素晴らしい演奏をするためではなく世間への見栄(雑誌に紹介されていたような暮らしぶりなど)を保つためだったのではないか・・・ピアノの音がかえってとげとげしくなっているのではないか・・・と自問自答したあげくついには離婚を決意し豪華な暮らしも大学の仕事も一切を捨てる決意をしたそうです。


 するととってもさっぱりした気持ちになったというんですね。自分が人生で一番大切にしたいものに専念出来る生活になったからなのでしょう。無論一般には学生に教えたり家庭の仕事も意義のある大切な仕事ですが、遠藤さんの場合はそれが世間的な評価を高める為という外部に合わせた基準になっていたようなのです。だからきっと評判がよくなればなるほど必死になり苦しかったのでしょうね。

 手術の後は腕もまともに動かないのでそれこそ必死に激痛に耐えてリハビリを行い再び演奏会ができるほど復活したというのですが「演奏が変わった」とみんなに言われたそうです。

遠藤さんご本人に言わせれば病気で死を覚悟する前は例えばショパンのピアノ曲であれば作曲家のこめた想いが知識としてはわかっていたけれど実感としてはわかっていなかったというのです。ショパンは結核をわずらい死への想いも込めながら作曲をしていた・・・それが健康で優雅な暮らしをしていた頃の自分には共感できなかった曲の世界だというわけですね。だからどんなに上手には弾けていてもニセモノの演奏で、現在の方がホンモノであるということなのでしょう。



 別に私はここで『だからみなさんも病気になりましょう』とか『不幸な体験をいっぱいしましょう』と言いたいわけではありません。ただ『自分の本当の生きがいある人生を送る為のヒント』としてこのことを受け止めてほしいのです。いくら有名になってお金がもうかったり世間に評価されても、それがかえって自分を苦しめることや堕落させることは一杯あります。


 つい最近の古代遺跡のニセモノ問題もそうしたことと無縁ではないでしょうね。もっと身近な問題では『勉強ができる』とレッテルをはられた子供が高得点を維持しなければならないというプレッシャ−を感じ、表向きには「こんなの楽勝だよ」と笑顔をみせながら影では苦痛の極致に陥っている、などがそれにあたります。

スポーツの世界でも期待されればされるほど自分の為の運動だったのが他人の為のスポーツになって苦しくなることはよくみられます。これらの場合、周囲の期待を裏切りたくないだけに真面目な人間ほど誰にも相談できないで表と裏のギャップに苦しみます。



 そんな状態から脱出する唯一の方法が『自分の本音を探る・・・誰のためでもない本当に自分が一生をかけてしてみたいことを自問自答する』ということです。そして余計なものは思い切って捨ててみる・・・もちろん捨てた時には周囲からいろいろと言われることもあるでしょう。しかし結局は自分の人生なのだし自分で最終的な判断はくださなければならないわけです。


 「そんなことを言われても何がしたいかよくわからない」という声もよく聞きます。それももっともなことですね。だって世の中の大人の多くもそれがよくわからないまま世間でよく言われる安全な道・堅実な道を選んできたのですから。そして「会社のため」と心と体をボロボロにして何十年も働いてきたあげくリストラなどにさらされている人がたくさんいるわけです。


 もうすぐ一年のしめくくりの時期を迎えます。中3は志望校を決定したり変更したりしなければならない現実に直面します。その時に今の自分の本音を探る試みだけはしてみて欲しいと思います。


七歳の闘病生活     H12,12−3
 20世紀も大詰め、もうすぐ新年・新世紀を迎えるというのにこのところの塾だよりはしめりがちな話題が続いています。今回はそれにわをかけたような内容ですがご容赦ください。


 例のごとくたまたま途中からみた番組なので詳しい内容はわかりませんが今日(11日)のお昼に当時7歳の子供に小児癌であることを告知した母親が録音していたテープが紹介されていました。7歳の子供に癌を告知すべきか否かは賛否がわかれるところでしょうし、このお母さん自身も「うちの子には告知してよかったと思っているけれども、他の家庭でもあてはまるとは思わない」というようなコメントをしていました。


 その賛否はともかくとして、その子は何度も何度も「生きたい」と繰り返していました。「あと15年は生きるよ」とお母さんに話していました。そして「お母さんに家をたててあげるのが夢」だということも話していました。


 しかし実際はその約1年後の朝に息をひきとったそうです。つきそっていたお母さんがふと目を覚ますと心電図のモニタ−音がしなかったというんです。お医者さんに臨終を宣言された後、本当に死んでしまったのかと思ってほっぺたを軽くたたいてみた時、耳元でその子のささやきが確かに聞こえたというんです。「ねぇねぇねぇママ、僕もう疲れちゃったよ。お願いだから寝せてよ。もう眠くてしょうがないんだ。」


 そんな風に生きていたくても命を失う子供たちがいる一方で病気でもない子供たちが自分の命、さらには他人の命を粗末にする生き様を平気で見せているのは本当に残念なことです。勉強や受験で悩むことができるのも『健康に学校に通える』からなのですがね。


 前回の塾便りを配付した時に何人かの子に「もしあと3か月の命だと言われたらどうする?」と聞いてみました。いろいろな答えがある中でこんな風に答えた人もいました。
『・・・(と考えた後)先ず親孝行をする。だって親より先に死ぬことになっちゃうんでしょうよ。』


またこんな答えもありました。
『今すぐ受験勉強はやめて、同じくらいの年の人で生きる事に悩んじゃっている人達の相談相手をしてあげたい。』


 生きているうちに「命が少なかったとしたら」という問い掛けをして「縁起でもない!」と保護者会で問題にされた平成3年度のようなこともありましたが、やはり私は『きちんと生きるためにこうした事を時には真剣に考えてみる』ということも大切だと信じています。

7歳から8歳という時期にかけて真剣に生きる事と向かい合った子供もいるのは事実なのですから・・・。


乾物屋『かんぶつ』の主張H12,12-4

 これはNHKアニメおじゃる丸に登場するキャラクタ−の名前です。月光町にある乾物屋の若い主人です。本当は別のりっぱな名前があるのですがおじゃるはいつも『かんぶつ』と呼び捨てにしています。(・・・で、ここでも簡単にかんぶつと記述しています)


 かんぶつさんは特に現代の子供たちに乾物食品の素晴らしさを伝えたいと願っています。そうした点では私がずっとこだわってきた食べ物へのことと共通しています。私も小学校に勤務していた頃から『ホンモノの味』について話し、時には教室にそうした食べ物を持ち込んでいましたから。(現在でもその名残はありますね)


 私が食べ物を子供たちにあげるのは単にサービスということではなしに『新しい未来を担っていくみんなに伝えておきたいことがあるから』という想いからです。勉強のひとつと考えているわけです。

 その点かんぶつさんの場合はもっと純粋です。乾物食品に対してほれ込んでいるのです。最初におじゃる丸にかんぶつさんが登場した時に彼はこうおじゃるに話します。「いろんなものをお日様にあてておいしさをギュッと閉じ込めるっていうのかな・・・」

そしておじゃるに魚の干物をふるまいます。一口食べたおじゃるは「干した魚というのも味わい深きものものじゃな・・。」それを聞いて嬉しくなったかんぶつさんはさらに言葉を続けます。「乾物は旨味をギュッと閉じ込めてあるばかりじゃなくてとっても栄養があるんだよ。それにナマのままよりずっと長持ちするし・・。本当に乾物ってすごいよね!・・この香り、このツヤ・・・」


 釣りにはまっていらい私も干物を作りますが、確かにそれは感じます。特に寒くなってきて冷蔵庫でなくて天日で干すようになってからはなおさらです。

 身が旨味と一緒にギュッとしまっているというのが口に入れて噛んだ瞬間にわかります。科学的に言えば水分が抜けてそれだけ旨味成分の濃度が相対的にアップしたことになるのです。ちなみにこの前干しはじめてすぐに薄雲がでてきてしまったのですがナマと干物の中間という感じで干物としてはいまひとつでした。


 通常出回っている現在の干物はほとんどが一種の機械乾燥で天日には干していません。それが天日干しだと旨味成分が表面に凝縮されていくらしいんですね。だから口に入れた瞬間の味が天日干しの方がおいしくなるのだそうです。


 干物というと『安物』というイメージを抱きがちですが、これは使われている魚の鮮度や天日で作られたかどうかによってだいぶ左右されるようです。本当においしい干物は刺身にして食べられるくらい新鮮なものと使うというのですが、実際に売られている干物には鮮度が落ちたもので作ったものが少なからずあるようです。それが干物の評価を下げているのは事実です。


 先週からみりん干しも作っているのですが、最初みりん干しを作った時のイワシは包丁を入れていても気持ちのいいくらいのものでした。二度目の時には別の店だったのですが、同じ様に『刺身用』の表示があっても包丁を入れている感覚はやや落ちました。出来栄えは決定的な違いでした。
 

例のごとく教育と干物の不当評価の事を結び付けて考えると『勉強』というものが好きだとか嫌いだとか言われる前に『本当にその内容が真実の魅力を発揮できているように授業で取り扱われているか』という点はは吟味されなければなりません。


 人間として成長していく場合も『余計な飾りで(水分によって中身が薄まった様に)本来の良さが失われた人間』でなくて『自分の本当の良さ、素晴らしさがギュッと濃縮されたような人間』を目指して欲しいのです。(前の化粧やピアニストの話と共通します)魚は水分を出す前でも新鮮なうちは刺身としての魅力を発揮できますが、人間はただの愚か者にしかならないのですから。



 
新世紀が巳年で始まる巡り合わせ 21世紀平成13年1月−1

 さあ、いよいよ新時代の幕開けです。そこで今回は『ヘビ』ということに古来から抱かれてきたイメージの一部をご紹介しながら新世紀への方向を考えてみたいと思います。

 たとえば旧約聖書などをみると人類の祖先であるアダムとイブをそそのかして禁断の知恵の実を食べさせ楽園を追放されるきっかけを作ったのはヘビです。どうしてこれがヘビだったのでしょう。

 ある説によれば地を這い回るヘビは天(神)の国の反対である地の国の生き方の象徴だというのです。具体的に言えば現代の日本のように『お金・ブランド・グルメ・地位・学歴・・・』などの現象面に価値基準を置いた生き方です。

 日本の神話でも同じような象徴として『やまたのおろち』というヘビが登場します。毎年村の娘を一人づつ食べていってしまう化け物ヘビです。日本神話で興味深いのは、自分の使命を忘れて天の国で暴れ回り追放されたスサノオがおろちを退治するとその体の中からりっぱな剣が出てくるという点です。化け物だからみずぼらしい剣がでてくるのではないのです。

 ある民俗学者の説では、スサノオとおろちが同格だというのです。ちょっと難しい考え方ですが、スサノオが退治したのは自分自身だということです。正確に言うと『本来の使命を忘れたニセモノの自分を切り刻んで捨てた』ということを暗示しているというのです。自分を覆っていたニセモノの部分を切り捨てた結果中に隠されていた『素晴らしい剣』が表に出てきた・・・年末に特集した癌になったピアニストのお話と共通していますね。癌になってはじめて優雅な暮らしなどの余計なものを捨てて本来の生き方に目覚めたというあの話です。

 日本人の発想では『問題点があるのがダメ』というようには考えていないという指摘があります。それが暗示されているのが『黄泉の国』に迷い込んだイザナギの命のお話しです。黄泉の国は『世見の国』つまり先に書いた現象面に価値を置いてしまった世界です。それが本当はニセモノであることに気が付いて逃げ帰り川でみそぎをする・・・すると天照大神などが誕生する・・・つまり『問題点を通して本当の自分に目覚める・・・問題点があるから気が付くきっかけがつかめる』という発想です。神に無条件に従うのではなくて試行錯誤して自問自答する中からホンモノを自分でつかみとっていく事に意義を認めているのです。

 そのような事があるからか、日本人のイメージではヘビは完全な悪役ではないのです。むしろ『神様の使い』、白いヘビなどは『神様と同格』に思われています。

 そう考えるとますます日本や世界が混迷しそうなこの21世紀のスタートが巳年という事は単に『現象面の価値に振り回され、ますます生きにくくなる暗示』というのではなく『ホンモノに目覚めていく前兆の時期』とも言えるのではないでしょうか。

 そんな話をある中学生としていた時に、その中学生が『だから次が馬なんですね』と言いました。そんな風に発想してくれる現代っ子がいてくれることはイメージ研究をしている私にとってたまらなく嬉しいことです。何のことかというと日本人が持つ馬のイメージです。日本人は馬が人間と神様の仲立ちをしてくれるというイメージを持っています。分かりやすいのは神社に奉納する絵馬ですね。あの願い事を書く板を何故『絵馬』と呼ぶのか・・・。願いを神様に届けてくれる力を馬がもっているというイメージを先行して持っているからです。その話を巳年の話とパッとつなげた、その発想法が大事だと思うのです。

 20世紀が様々な対立に明け暮れた時代であるというのなら21世紀は『共に滅ぶ』のか『共存・和合』となるのか現時点ではわかりません。年末はギリギリまで凶悪な事件が起きていました。子供たちの起こした事件も最後までありました。それを絶望と捉えるか、目覚める前兆と捉えるか、どちらも自由なのでしょうね。絶望を突き抜けた所にいい夢をみるか悪夢をみるかも自由です。

 参考までに先程の中学生が言った別の言葉を書いておきます。「私って疲れたから寝るんじゃないんですよ。夢をみるために寝るんですよ」・・・下記の一人一人のコメントも21世紀への示唆が現れていて新時代の担い手として頼もしく思いました。


新世紀が巳年で始まる巡り合わせ-2 H13年1月−2

 知り合いの方の年賀状に詠まれていた歌に「ヘビの脱皮」のことが詠み込まれていました。ヘビが皮を脱ぎ捨てて成長していくという側面にスポットをあてていくと前回ふれた日本人古来のイメージでの新世紀と巳年の関連がより明確になると思います。

 ここでポイントなのが『内面から』ということです。内面が満ち充実してくるから自然に古き皮を破り捨てて成長するわけですよね。内部が育っていないヘビの皮を無理に剥いだら大変なことになります。

これを人間にあてはめると「自らの主体的な気持ち」なのですが、現実中心の考え方になってしまっているとそれがしぼんでしまいがちなのが現代人の特徴ですね。それは子供たちの世界にも蔓延しています。偏差値に合わせて高校を早々と決めてしまう・・なんていうのもそれですね。早くから自分に見切りをつけて、それ以上努力をするのは無駄になるからやめようとしてしまう子までいるのは悲しい現実です。(これは我々大人におおいに責任があります)

 そんな若者にしっかりした考えを持ってほしいという願いをこめて作られたアニメに『新世紀EVANGERION』があります。(これは数年前の学習会だよりにも載せたことなのですがメンバ−がだいぶ入れ替わっているので再びふれます)異色でクセのあるアニメで賛否も分かれているのですがテーマは自分の可能性を開く生き方であり、その上で自分の劣等感や対人関係の意識をどう克服していくのかが描かれています。

 そこによく出てくる会話のパターンが
「成功する可能性は0.000000・・1%よ」「ゼロではないわ」
というやりとりです。

特に作戦部長の女性はこの調子で「やれることやっておかないと後味悪いでしょ」と突き進んでいきます。かわって主人公の内気な少年はいつも心を閉ざし『どうせ僕は』と諦めようとする・・それを『逃げちゃダメ!』と叱られる・・・その繰り返しです。(もののけ姫のタタラ場が壊された時の「もうおしめ−だ」というダメ亭主を叱りつけた「生きてりゃ何とかなる」というセリフとも通じています。)

 ただ、この主人公は物語が進むにつれて観ていてどうしようもないくらいにテンションが落ちて情けない男に描かれています。心の中の活力がなくなっているんです。葦が自ら伸びてくるエネルギ−そのものが欠乏しているんです。

 そのエネルギ−源が実はいつも私がこだわっている自分の世界をどんどん広げていくイメージ力です。テレビゲームやブランド品の様なよその人が作ったイメージ世界はあくまでも他人の世界です。だから内なる力には結び付かないので脱皮も起こらないのです。

 幸いにも今私がかかわっている子供たちはそれほど毒されていません。むしろギリギリまで夢を捨てない姿勢であり『今後の若者のリード役になるのでは』と真面目に期待がもてるメンバ−です。

 この正月、ひさしぶりに天体撮影を行いました。ねこ娘さん姉妹と真夜中の冷え込み厳しい花立山にいました。駐車場には群馬や栃木からも数多くの天文ファンが来ていました。何故みんな寒くても来るのでしょう。それはやっぱり星を眺める事で入り込む夢の世界(イメージの世界)が現実の寒さを上回るからだと思うのです。

2日には今度小学校にあがるねこ娘さんの従姉妹も10時頃の茨城町で30分以上星をながめていたのですが、双眼鏡をのぞいたままいろんな言葉がそれは豊かに飛び出していました。夢中で星の世界に入っていたので寒さなど平気だったわけです。

 私が中学生たちに将来のビジョンから進路をしぼっていくように勧めるのも、その方が受験勉強を楽しく(?)過ごせるし、実力の伸びも飛躍的に伸びるからです。身に付けたことの定着もはるかによくなります。言わば夢が現実を明るく包み込んでしまうのです。 上手に夢を描いて次々と脱皮していける年にしていきましょう!




性格を変える事はできるの?H13,3-2 
以前買っていながら忙しくてほとんど読んでいなかった講談社の科学雑誌Quarkの別冊特集「元気な脳と心を作る」を読み始めています。今回はその中の「性格」についての記述を今まで書いてきたようなイメージ論の立場から考えてみたいと思います。

 まず性格について多くの人がもっている誤解は「性格だから仕方がない」「どうせ生まれつき私はこうだから」という諦めです。聖心女子大学文学部人格心理学が専門の鈴木乙史教授が載っていました。

『性格という場合、もって生まれた気質と、育った時代や親からの影響を受けてのちに発達した自己意識の両方をさしています。・・・最近の臨床心理学では性格は人生の中で常に変化していくものだと考えています』

つまり生まれつきの部分だけではない、その後につけた(つけさせられた)クセのような部分も多分に含まれているというわけです。何度か紹介している『構え』という言葉もそれに近いものがあります。

 では自分の性格の中でどれが生まれつきの部分でどれが後からのクセの部分なのでしょう。実はこれは難しい問題なのです。『これが本当の自分』と思っていることが既に幼い頃からの経験の積み重ねで別の自分に覆われてしまっていることが多いからです。極端に言えば本当の自分は無意識の世界にあるのですから「これが私の性格」と意識している自分の姿は本体ではないわけです。自分の性格の問題があると思う人はまずこの点は理解しておいてください。

  自分の性格が生きていく上で不利だと悩んでいる場合ついクヨクヨ考えてしまいがちです。それについても鈴木教授はこう言っています。

「当人にとってのネガティブ(マイナスの)経験は、自分はこのままでいいんだろうかと問いかけるチャンスでもあるんです。」


本文の記事にはこんな言葉もありました。

「ノホホンと平穏無事に過ごせた人は、ずっと性格が改善されないままともいえる・・・」


たしかにそうでしょうね。私の父も似た様なことを言っていました。

「悩みもないのは発心が自ら起こらない状態なのでレストランに入って何も注文しないのと同じ・・・いつまでたってもおいしいものはでてこない」

 では具体的に自分の可能性にブレーキをかけていると思われる性格を変えていくにはどうしたらいいのでしょう。一つのカギが実は昨年から書き続けてきている『ものの見方・考え方』ということなのです。これが多様になってくれば同じ出来事が自分の周囲で起こった時にも受け止め方や心の中へのしまい方が変わってきます。それがイメージや感情の動き方のクセも変えていきます。それが別の状態で定着した時に「性格が変わった」とも言えるわけです。これと同じようなことも本文にありました。

『たとえば認知の仕方である。これまで先生に怒られた時「先生は私のことを嫌っている」と認識していたのを「先生は一生懸命私のことを考えてくれている」と変えるようにアドバイスしてみよう。結果としてでる行動は大きく違うし、他人からの評価もいじけた性格から素直な性格へと180度変わる。

逆に認識はそのままにして行動の仕方を変える方法もある。先生のいうことをとりあえずハイと素直に聞いてみよう。先生の態度も柔らかくなりその結果先生に対する認識も変わってくるはずだ。

「性格とは心の中のオセロゲ−ムみたいなものなんですよ。たった一枚黒から白に変わるだけで盤の様子は一変してしまいます」(鈴木教授)大切なのは人生の中でそれを良い方へ持っていく心がけなのだ。』


 これは性格に限らず人間関係で悩んでいる時にも大変有効ではあるのですが、明らかに相手に問題があると思われる時は実行が難しいんです。悪くない自分が先に相手を肯定的に受け止めてあげなければならないのは損だと思ってしまうからです。私自身、子供たちにこうしたことは大切だと話してきましたが同時に「先生はまだ出来ないけどね」とも付け加えていました。ただ、それでも実行できた時には自分の性格だけでなく相手の性格までガラリと変えてしまう可能性だってあります。(前々回の地獄極楽の話題同様です)

 自分の受け止め方を過去から現在までじっくりと点検し、受け止め方の多様性を広げていけば自然にその時の自分が一番素直に発揮できる性格に変わっていくのではないのでしょうか・・・。




   
自分の価値って何?  H13,3−4
 土曜日の夜、NHKで命についての討論番組を放送していました。最後の数分間しか観なかったのですが、その中の1人の男性はどうやらひきこもりで他人との接触を長い間たっており、自殺未遂もしているようでした。

 その男性が最後に「この中で私が死んだ涙を流してくれる人は手をあげてもらえますか?」と参加者に問い掛けていました。きっとこの男性は『自分って何だろう』『生きていて何になるんだろう』『どうせ自分がこの世からいなくなったって関係ないだろう』・・・と悩み続けていたのでしょう。実際どのような事があってひきこもりになったのかは最初からみていなかったのでわかりませんが、他人との関わりを断ち切ったことでますます自分がわからなくなってしまっていたのでしょう。

 この時に参加者に手をあげてもらってその男性は笑顔をみせていました。こうして手をあげてもらえたのはどうしてでしょう?それはやはりこの男性自身がつかみとったものだと言えます。

もしもこの男性が出演依頼を断って自分の部屋から依然として出てこない状態だったとしたら、この人の存在は世間のほとんどが知らないままです。だからもし自殺してそれがニュースに流れても今回手をあげた方々は涙など出さないでしょう。この番組にでて心の中を真剣に語り合って・・・そうした関係があったから手をあげてもらえたわけです。真剣な関係を多くの人と持つから涙を流してくれる人だって増える・・・自分の意味や価値がみえなくなっている人ほど実はいろいろな人と関わってみる必要があると言えます。(電子機器を間にはさんでの関係ではなく生身の人間と向き合う関係です)



 ただ人間の心はそんな理屈通りにはいきません。かく言う私もいじめなどで焼き付いた劣等感との戦いに破れ消極的な態度になったり卑屈な態度をとってしまうことは今だにありますから。

 それに現代はなかなか本音を語り合うことが友人同士できない風潮があります。真面目な話も敬遠されてしまう。見掛けは何の悩みもないように過ごすから余計に人間付き合いに疲れてしまう・・・そんな悪循環です。

 それでも一つはっきりと言えるのは『悩みをもっていて誰かと語り合いたいと思っている』人間は必ずいるということです。そうした面をお互いにさらけだしていないから「自分だけ悩んでいる」とこもってしまいがちですが、探せば絶対にいます。

 そしてもし幸いにもそうした仲間と出会えたら自分を飾らないで振る舞うことです。「これが私です」という姿を最初に認知してもらうのです。そうすると後が楽です。短所ばかりだから嫌われると心配にもなるでしょうが、これも相手にまかせてしまうのです。だいたい自分が欠点と思っているものが相手にとってもそう思うかはかなり怪しいものなのですから。長所ばかり見せようとするよりむしろいろんな面が混じっている方が魅力に感じてもらえるかもしれないのです。



 前回のトレジャースト−ンの写真と実際の原石を観てねこ娘さんが「エッ?これなんですか・・・。ああでも何だか味わいがありますね」そして本に載っている宝石として磨かれ金の台座にダイヤなどと一緒に飾られたルビーの写真をみて「こんな風にごちゃごちゃなってない方が私はいいな・・・原石のままの方がいい。」という感想を述べていました。同じ宝石の写真をみてドラヤキアイスさんは「なんか自然体じゃないですね。こうなっちゃうとただ光っているだけだから何か面白くない。とったままの原石の方はいろいろ観察すると面白いものが出てくる。」と言っていました。


 これと同じ見方が人間や人生・生活にも大切ですね。人間としての価値はプラス面もマイナス面もひっくるめての全体にある・・・しかもそれぞれがプラスなのかマイナスなのかは固定したものではないということです。そしてそういう見方はいろいろな人達と心を交流させていく中で深まっていくし、そした関係の中から『仲間』としての意識だって育っていくわけです。

 4月になると新しい人間関係が始まります。そんな中から自分のありのままの魅力を発見して磨いていってほしいものです。


21世紀明け前後ではありませんが・・・おまけです

『本当の素直』って???H12,5−1
 先日、ある方と教育についていろいろ話していた時に、素直ということについて話題になりました。本当に素直な人間というのはどういう人間の事を言うのだろうかということです。

 普通『素直でいい子』というのは、親や先生の言う事をハイ、ハイとよく聞き、例え注意を受けるようなことがあっても口答えすることなく反省するような子供をさします。しかし、はたしてそれが本当に素直なのかということが話題になったのです。

 今まで担任してきた子どもたちの中にも(特に低学年で女の先生に担任された後の3年生)そうした子どもたちがたくさんいました。本当に純粋に気持ちのいい子供がいる一方で、一途に大人の役にたとうと一生懸命な姿にけなげというかどことなく悲壮感さえも漂わせている子供、「自分の好きにやっていいよ」と言われるとどうしていいのかわからなくなる子供・・・あるいは大人の顔色ばかりみている子供たちの存在が妙に気にもなりました。

 ためしに小学館の大辞泉をひいてみると素直とは「1、ありのままで飾り気のないさま。素朴。  2、性質・態度などが穏やかでひねくれていないさま。従順。  3、物の形などがまっすぐでねじまがっていないさま。  4、技・芸などにくせのないさま。  5、物事が支障なくすんなり進行するさま」とありました。

先程書いたような「素直でいい子」などの場合は2番目の従順に近いものでしょう。

しかし漢字の意味から考えると素直とはもともと『素・・・ありのまま』に直結するようなイメージの言葉であることがわかります。そう考えると、単に大人に対して従順に反応するだけの子供がはたして本当に素直な子供と言えるのだろうか?ということが疑問としてわいてきます。

いつも私が使っている言葉で言えば『判断の基準が自分の中にない』という状態です。これでは大人にとって都合のよい子供ではあっても、単に大人の操り人形です。そうした子どもたちが自我に芽生える年齢になっても自我が芽生えてこない、あるいは急に家庭内暴力や無気力になってしまうことはかなり前から指摘されてきている問題点です。

 やはり人間の場合、最も大切なのは『純粋な自分の心との対話を通して、自ら最終的な判断をくだし、責任をもって行動する』ということではないでしょうか。そうした判断を行おうとすれば当然時間もかかります。すぐに『ごめんさない』という返事が返ってこないことが当然の状態ともなってきます。

そうした子供の態度に腹がたつ事もあるでしょうが、実際お説教にエンドマ−クを打つために口を「ごめんさない、もう絶対にやりません」と動かすだけの場合があることは子供でも大人でもよくみられることではありませんか。たとえ考えた結果が大人からみて不十分であったとしても『自分でしっかりと考えた』という事実を認めてあげることこそ大切だと思うのです。そうした態度がしっかりと身に付けば、たとえ一旦だした結果が不十分でも失敗を重ねるたびに人間として豊かになり、より純粋な自分の姿になっていくと思うのです。

 勉強でも同じです。先生の指示した通り、参考書に書いてある通りにきちんと受け止めて解いていける子は比較的順調に学習が進みます。だから私も『やくそく通りに余計なことを考えないでやってごらん』という言葉を連発します。

 でも、実はそのようにして獲得できるのは基礎的な計算とは手順通りにさえすればできる初級段階までなんです。それ以上の力を身に付けたかったら従順なだけではダメなんです。『どうしてこうなるのかな?』『本当にこの通りでいいのかな?』と疑って吟味しなおす姿勢が絶対に不可欠です。『先生はそう言うけど自分はこんな風にやってみたいんだ』というこだわりも必要です。

 そうした矛盾した世界がひとつになるところに人間の妙があるのだと思うのです。またそういう風に人間の仕組みそのものができているわけですよね。右脳と左脳という相反する働きの脳がバランスよく働く時に人間は最高の力を発揮できるのですから。

 だから、本当の優等生というか英才児は極めて高度な学習ができる一方で右脳の働きも活発です。夢の世界を生かしてふざける事もできる・・そんな自分の純粋な世界をきちんと持っていて、自由自在に直結できる・・・本当の『素直』が身に付いているわけです。



化粧は「化けること」 H11,6−1
 先日、あるクラスでこのことを話題にしました。私が教職についてから毎年必ず行っている話題です。

 成人はともかく、私は今風の髪を染めたり爪に色を塗ったり・・・ということに若い子たちが夢中になるのに反対の立場をとっています。それは『生徒指導』などという観点では全くなく、『自分らしさを大切に』という観点からです。

 以前にも学習会だよりに駅での様子を書いたことがあると思うのですが、高校生の下校時間帯とぶつかると溜め息がでてしまいます。こっちのホームあっちのホーム、ズラリと並んでいる(特に女子)高校生は、みんなコピ−かクロ−ンか、というくらいに同じような人間が並んでいます。

アムロ風(?)というのか、髪の毛、眉毛、顔の色・・・そしてルーズソックス(これはそろそろ下火ですか?)・・・『学校の制服など個性をつぶしている』と反抗しているわりには、よくまあこれだけみんなで同じスタイルになっているのだろうと、いつも不思議になります。にぎやかな駅前商店街を歩いても同じような雰囲気ですが、昨日はこれとは逆の雰囲気を味わいました。


 東京にでるのになるべく平日に行くのですが、昨日は1年以上前から注文していた太陽の観測装置がやっと入荷したというので原宿に行ってきました。竹下通りとかの、あの原宿です。

そこの通りは「仮装行列の大会があるの?」と聞きたくなるような若者でギッシリでした。休み時間にドラマ用の衣装をつけて遊んでいたうちのクラスのような雰囲気がありました。そんな奇抜な衣装でないにしても、流行にどっぷりと染まっているというここいら風ではなく、『いかに人と違う格好をして目立つか』ということにこだわっている様子でした。


 この周辺の場合も原宿の場合も、みかけは両極端ながら『純粋なその人本来の魅力が感じられない』ことは共通です。一体もとの顔はどんな人?というくらいに化けている姿です。


 私が大切にしてほしいのは『本当の自分らしさ』ですが、簡単にいうならば化粧やファッションに頼らなくても、目立とうと思わなくても、魅力あふれる人間です。そしてそれが『見た目でどうだ』ではなくて『心の魅力』を最優先にしてほしいのです。心が純粋に輝いていれば、必ず表情も魅力的になります。


 若いうちにこそ、こうした『純な自分』を探り・広げ・深めていくことに時間を費やしてほしいのです。だから敢えて化粧品だのブランド品だのに頼らないでほしいのです。そんな外見に頼らなくても魅力があるよ、という人間を今は目指してほしいのです。(いつも繰り返しているホンモノの勉強の話と同じことですね)