ハウルの動く城 雑感 2

H16,12,10記


12月10日 記
「ハウルの描く戦争の実相」
 今までハウルの中のおうち気分について中心に書いてきました。映画の中では激しい戦争・戦闘のシーンも出てくるのですが、私の場合、不思議とハウルについて思い出すのが穏やかなシーンばかりだったからです。争いのシーンは意識のフィルターをすり抜けていってしまったような感じなのです。

逆に強烈に頭に繰返し浮かぶのが緑豊かになった城が空中を飛んでいく場面・・・中でもチラリとしか出ない庭の様子です。「ラピュタに似てるよね」と言った高校生もいたのですが、まさに「天空の城ラピュタ」の最後で、城を去るパズーとシータの目にチラリとだけうつった小鳥と緑豊かな庭を歩くロボット兵の姿に通じるシーンです。チラリとしか出ないから逆にこうした時間が永遠に流れていくような予感をさせてくれる印象的なシーンです。

 ハウルの場合、本当に戦争が終わるのかどうなのかは分からない・・・その後の国王や王子や大臣の判断やサリマンにゆだねられているような終わり方です。その現実の世界とはまるで別世界のような空間が城の中に実現し、どこか知らないけど飛び去っていく。そしてあの庭のような穏やかな世界が永遠に続いていくような予感・・・。



 このように書いていくと「夢と現実」という対極で捉えているように思われがちですが、宮崎監督はそれを対極として描いていたのか、というのが今回先ず考えたいことです。神話的思考・・・私の考える神話的思考はプラスとマイナスが究極では結びつくという球体思考的発想が出発点になっています・・・から考えると、もののけ姫で対立する同士が「共に生きる道はないのか?」と問いかけた課題に対して、宮崎監督自身が考え続けている過程そのものが「千と千尋の神隠し」であり、今回の「ハウルの動く城」だと思っています。

 ハウルは様々な見方ができる映画ですが、そのあたりの事に通じる見方として絵コンテ集の付録についていた小冊子の中の映画評論家 佐藤忠男氏の「ハウルの動く城 の魔法とは何か」という文章が面白い点を指摘しています。

これは今まで上原先生や児言態がらみの文章で「世界定め」とか「意識世界を作っているのは自分」とか記述してきたこと、あるいはこの春先から心身共に停滞状態に落ち込んでいる私自身とソフィーの距離がグッと引き寄せられるような内容でした。かいつまんでご紹介します。

・・・ソフィーは・・・地味な仕事をごくごく地道にやって一生を過ごすのだと思い込んでいるらしい。・・・彼女は荒地の魔女というヘンなお婆さんから理不尽な嫉妬で呪いをかけられて突然90歳のお婆さんに変身する。

魔女の魔法のせいなのだが、あるいは彼女自身が思い込んでいたことがひょいと実現したということなのかもしれない。青春もロマンスも波乱の人生も頭の中から排除していたのですっとんでしまったのだ。こわいこわい。

 90歳のお婆さんになってみると彼女は持ち前の堅実さとしっかり者ぶり、そして誰にでもやさしい人の良さをいかんなく発揮して大活躍をすることになる。しかし彼女は本当は18歳の可憐なかわいい少女なんだし・・・

・・・だからこの物語は単純化して言えば、過度に平凡な存在だと思い込もうとしている自分と意外にそうではないロマンチックな自分との、想像の世界での格闘確執の物語だということになるかもしれない。

過度の思い込みが具体的な姿になってしまった90歳の自分を、乙女の自分が熱いハートと夢みる力で18歳の可能性あふれる現実に取り戻すわけだ。

 ここで一言。この部分のしめくくりに書いてある事はこの数ヶ月の自分のもがきそのものに通じる所です。そこから脱出する可能性がないわけではない。しかし頭で分かっていても脱出できない。

そう考えると、魔法をかけているのは荒野の魔女なんていう他人ではない。自分が自分に魔法をかけて自分を縛っていると言えるわけです。(そのあたりの事は、学問のお部屋 児言態コーナー内の「生命の指標・・」なども併せてお読み下さい。長文ですが)

 最近よく高校生たちと話しているのがまさにそのことです。ではどうして分かっていながらも自ら脱出の可能性を封印してしまうのか・・・私など恋という事もそっくの昔にそうですが、自分の存在や生活のあらゆる場面に対して「熱いハートと夢みる力」が極端に低下している状態です。

ハウルに言わせれば、「恋とか愛の感情がわき上がったから真剣に自分らしく生きる力が湧いてきた」となるのでしょうが、基本的に幼い頃からの体験の積み重ねで「自分はみんなにとって迷惑な存在でしかなかった」と強烈に思っていることが実感なので、正直な話、結婚願望とはどんな願望なのかある程度想像はできても、実感が湧いた記憶がありません。誰かと一緒に家庭を築くという事への憧れもイメージも湧いてこないのです。

それはやはり「自分は他人にとって迷惑な存在」という呪縛から解放できないでいるからかもしれないし、あるいは30代から今年になってもいくつかの出来事で強烈に印象づけられた「自分はどうせ使い捨てカイロ」という気持ちがそれに拍車をかけているからかもしれません。

だから様々な人から心温まる助言を頂いても、それを実行に移して少しでも心身を回復させていこうという意欲そのものも湧かないのです。「体が回復して、それで一体何をするの?」ということなのです。

例えば仕事に関して・・・今の学校現場で心ある先生方もきっとそうだと思うのですが、本当に子どもたちに生きた学力・ホンモノの教育というような事を実行しようとすればするほど世間からは得点を伸ばすことに不熱心な先生という烙印を押されます。本当に得点力を伸ばしたいのならなおさら、という気持ちで思考や構えから整えていこうとしても、多くの場合は理解が得られずに逆に辞められていってしまう。本当にジレンマです。

上原先生のテープ起こしや語録作りも退職後のライフワークとして最初の頃は随分時間をさいていたのですが、それも最近はほとんど手つかずです。それは初心の頃に燃えていた教育への気持ちと現在の自分とのギャップが余計に明らかにされてしまう感覚があり、体が回復しても結局は自分が教師になろうとした時の想いとは180度逆のことをしなければならないだけではないか、と思ってしまうのです。

本当は神話的思考などという旗印を掲げている以上は「人間教育と受験的教育の統合」を目指し続けることが大事なのでしょうが、特に今年の状況はそうした理想が通用しないのではないかという弱気な気分にさせられます。

結局は(これも「生命の指標」の最後の方に書いたことですが)私個人の生活という勝手から、家庭教師や塾の教師としてのある程度割り切った指導をして、子どもを追いつめるだけの自分でしかない・・・やはり自分の存在する意味がマイナスにしか思えなくなるのです。

再び佐藤氏の引用です。


・・・19世紀のヨーロッパのどこからしい、とってもチャーミングな街。・・・陽気で美しい街であり、その近辺の魅力的な山野である。しかしそこは同時にまるで中世のように魔法使いが跋扈しているような野蛮な状況でもあるのだ。

ヨットのように優雅な飛行機がタクシーのように軽やかに空を飛びかっているかと思うと、ある日まるで気まぐれのように大戦争が勃発して・・・一夜にしてチャーミングな街を廃墟にしてしまう。

そこで見ている我々もハッと自分の現実にもどる。なんだこれは、アニメの中の空想ではなくて、今の世界そのものじゃないか。この街がバグダッドと言うんじゃなかったかしらん、と。



 そう、これはあまりにも空想的であると同時にまたあまりにも現実的な世界でもあるのだ。夢なのか現実なのか。ソフィーが自分を地味目に思い込みすぎるとたちまち90歳のおばあさんになってしまうように、何かを思い込むとそれが魔法を誘って現実そのものを変えてしまう。そういうことって本当にあるのかもしれない。そう思うと謎が解ける。

 まるで気まぐれのように戦争が起こるってことに、いまわれわれは馴れっこで、それが当たり前のような気分にさえなっている。

 それが我々の現実だが、実はそれって、われわれがみんなでなにか理不尽な魔法の呪いにかけられていて、現実とはそういうものだと思い込んでいるということではないのか。ソフィーが荒地の魔女の呪いを解かなければならないと決意しているように、われわれも戦争の日常化というこの呪われた世界をおおっている魔法を解かなければならないと私は思い知らされた。

 そう思いついたとき、荒地の魔女というのが、恐ろしい万能の悪魔的存在というにはあまりに老いて、もう半ば老人性痴呆症の段階にあるという描き方になっているあたりが、とてもいいヒントを与えてくれる。

アメリカのブッシュ大統領などは、世界のどこかにまだ本当に憎たらしい悪魔があるからそいつをやっつけちまえばいいと考えているようであるが、実際には悪魔たちもう痴呆的な段階にあって、自分が誰彼に片っ端からかけた呪いも忘れ、その呪いの解き方も忘れて、ふらふら街をさまよっているのかもしれない。

・・・ソフィーは・・・いまやそんなどうしようもない厄介者となっている荒地の魔女を、やっつけちまうのではなくてむしろ助けてやる。私はそこに一番感動した。実際そうなんだ。

どこかに例えばオサマ・ビン・ラディンとかいうような魔法使いがいて世界に呪いをかけているから、そいつをやっつけてしまえば世界は平和になるというようなものではない。



・・・むしろ助けていたわって共に呪いから脱却する道をさぐる協力者にするしかないのである。・・・ソフィーこそはその呪いの解き方をいちばん単純に明快に教えてくれる天使なのではないか。


 今回のイラク戦争で「フセイン大統領さえ捉えればイラクにも幸福が訪れ、世界も平和になる」と主張されていました。選挙演説ではそうした理想が実現したという完了形で語られて世界をあ然とさせたブッシュ大統領ですが、テロをこの世から撲滅する、という正義の味方であるような態度をみせながら、その前提にある発想には危険なものを感じているのが世界の多数派ではないでしょうか。

それはあのニューヨークでの件の頃に世界に発信した演説での「世界は我々に賛成か反対かをはっきりさせてほしい。中間はありえない。反対ならばテロリストの仲間であるとみなす」というような主旨の、単純かつ危険な二元論として有名になったあの言葉です。


 そしてイラクではずっと選挙に反対する勢力の掃討作戦が続いています。「掃討作戦」本当にゾッとするほど嫌な言葉です。結局極端な言い方をすれば、武装しているかしていないかに関わらず、反米・反暫定政府の立場にある人々はテロ行為を起こす可能性のある人間とみなされて、この世から抹殺されるわけです。

テロ行為は許されないにしても、反対の意見を述べる事も許されない。民主的な選挙の実現・イラクを本当の民主国家に、と言っていますが、反対意見も言えない。ましてや対立候補も事実上たてられないで、現状を追認するしか許されないような選挙が本当に民主的な選挙なのでしょうか。どこぞの国の選挙について数多くの批判がありますが、本質的にどこが違っていると言えるのでしょう。


 誰かをこの世から抹殺すれば理想が実現すると思っているように、そうした選挙でも実施さえされれば魔法が解けるという錯覚に陥っているようです。
 

 
といって、別にソフィーは特別な学識や経験をもっているというわけではない。彼女のたぐい稀な美徳はいつも相手に同情できるということで、しかも情に流されるわけではなくて的確な判断力がある。・・・(案山子の話題も加えて)一見重要に見えない小さな役で出てくる者たちこそが戦争か平和かの鍵を握っているのかもしれないのだ。・・・


 ・・・この映画から受ける感銘は、単純に正義が勝つなんて言っていないところからきている。・・・宮崎駿の作品は近年とみに、正義と悪を明快に二分できないところにドラマを設定するようになっている。

むしろ正義と悪、敵と味方の区別が当然あると思い込んでいること自体が、何か魔法にかけられているような、一見混乱した、しかしよく考えると、とてもいいヒントがひらめいてくることろへ見る者を導く。・・・・


 私の周辺でこの映画を観たという人達と話していてよく投げかけられてきたのが「何で戦争が起きていて、何でハウルは戦っているの?」という疑問です。言われてみればそのあたりの事情がどうであって、そこにサリマンという魔女がどう関わっているのかもはっきりとは説明されていません。ただ実際これはアニメの中だけの話なのでしょうか。

 古今東西様々な戦争がありましたが、その多くの戦争がよくよく考えてみると何故始まった戦争なのか?という事、ましてや今回のアフガニスタンの空爆やイラク戦争なども巻き添えをくっている一般市民にしてみれば降って湧いたような出来事です。みんな大変な思いをして戦争をしている。

しかし今に至って被害を受けている人達ばかりではなく、最前線で戦っている兵士自身もどちらの陣営であるかによらず「何故戦っているんだろう」とフト感じる瞬間があるのではないでしょうか。そしてそう考えたらやっていけないから「命令に従うまで」と思考停止をきめこんでしまう。そのあたりの戦争の実相を佐藤氏は「気まぐれのように大戦争が勃発して」と表現して書いているようです。


 折しも昨日は自衛隊の派遣延長が発表されました。総理大臣の判断を気まぐれとまでは言いませんが、やはりあの人物の物の言い方を聞いていると「思いつきであるかのような軽さ」「他人事のような冷たさ」しか判断の背景になかったかのような印象がついてしまいます。本当に様々な立場の人に同情を抱き、それを踏まえた上での判断であったのだろう、という雰囲気がにじみ出てこないように思うのです。

それがあるから実際に派遣される自衛隊員や家族の本音をどの程度わかってくれているのか、そんなことを気にしていたら一国の総理としての判断に狂いが生じるのかもしれませんが、自衛隊に多大な犠牲が出たとしても、きっと派遣法で安全最優先と定められていることはどこかに吹き飛んでしまって「撤退はテロに屈する事を意味する」とか言って撤退しないのでしょうね。

それだから「国益」のためと言っていても、いざとなった時に国も自衛隊も本当に国民の生活を守ってくれるのかという不信感があるのだと思います。実際「国のため」と庶民に犠牲を強いた歴史はあっても、本当に一般国民のために体をはってくれた歴史はどの程度あるか・・・。

一部の政治家の思いつきに近い判断で大きな犠牲がはらわれていく・・・そうしたことも人々の疑心暗鬼を助長してわけの分からない魔法だらけの世の中にしている大きな要因かもしれません。

 同じ小冊子にあるアニメ評論家藤津亮太氏はこう書いています。

 ・・・これは2003年3月よりアメリカがイラクに空爆を行い、国際政治の場や国内世論が賛否両論で大きく揺れた、ということに代表される時代の空気を反映した結果と思われる。(ハウルの作製が本格的にスタートしたのが2003年2月)

 だからこうした説明があいまいなままの戦争をそのままよく分からない描き方で描いているのは宮崎監督が現代社会を皮肉って描いているともとれますが、実はもっと憂いた気持ちで描いているのではないでしょうか。もののけ姫で人間同士の争いで如何に血が流れるかというのを正面から描いた監督のことですから。



 こうしたハウルの中の国家や戦争という側面ばかりを強調すると、いつのまにか自分とはかけ離れたテーマの映画に思われてしまう危険があるので、ここで水曜日の夜に日本テレビで放送された「千と千尋の放送まであと3日」とかいう番組の中で、解剖学者の養老孟先生がインタビューで語っていたことを紹介します。

(映画のテーマについて)それで主題は何かというと実は人生ですよ。前は、子どもが・・・千尋ですね・・・言ってみれば少女の発育過程、少女のみた世界を描いていたわけですけれども、今度は何しろ思春期から・・・二十歳前でしょ、(そこから)いきなり90まで一人で往復しているわけですからね。そこに人生が全部入ってしまっているじゃないですか。

(物語が複雑でついていくのが大変だった、という感想の人達に対して)
よくよく考えてみると辻褄があっているわけでも話がよく分かるわけでもないんですよ。で、それが結局伝えているメッセージというのは、ある意味で「人生ってそういうもんでしょ」っていうメッセージでね。

・・・ボクは相当しっくりくるんですね。いろんな事が・・・小さなことはそんなに辻褄が合わないけど、そのまんまで流されていってしまう・・・流れていって映画は終わってしまうしね。それでコメントしようにもコメントに困るというところはあると思う。で、つまりそれが普通の人生ですよね。

だからそういうメッセージ性をね、探ろうとするのは悪いクセだよ・・・今の。

字幕 「一言で言えるんだったら、そんなもの作らない  宮崎駿」



この理屈は気にしないでありのまま、というのが宮崎アニメをみるときにとても大事になったなと感じたのが前作の「千と千尋の神隠し」でした。それで今回はこのコーナーの最初に書いたように先入観なしに観ようとして情報を仕入れなかったのですから。もっとも今週の宅集会だよりに書いたように、もともと今回の宣伝方針でもテーマなどに関わる宣伝は行わなかったということですから、そう思わなくても白紙に近い状態で観ることはできたでしょうが・・・。

 それでも人間は余計なことをあれこれ考えながら観てしまう。なかなか素直に作品の世界に浸るのは難しいものです。私の知り合いの友達が映画をみてきて盛んに「キムタクの声が最後までキムタクらしくなかった」と言っていたそうですが、それで2時間過ごしてきたとしたら残念なことですよね。あれはキムタクの声ではなく「ハウル」の声なのですから。

・・・と言いつつ私も自然体で観るのが苦手なので、気に入った映画は高校生時代から映画館で3回は観るようにしています。それだけ新発見もあるし、より素直に観ることができるからです。
 
 本当はそんな姿勢で自分の心身についても見つめられるといいのでしょうね。構えすぎているから余計に自己嫌悪の連鎖に入り込んで、より強い魔法で自分をしばっているようですから。


 話を元に戻すと、人生を描いている中のこの映画の戦争は現実生活の中で起こる様々な困難な出来事ということになりましょう。

家庭や学校や職場・・・そうした場所での他人との対立や争い。細かい理屈など通用しない理不尽な事がわけもなく突如わき上がることもある。それをさも厳密に因果関係を考えすぎて誰のせいだとか自分にも悪いところがとかで余計に混乱をして悩みや状態を悪化させている部分が多分にあります。たいした訳もなく起こることだってあるんだよ、という前提に立つだけでも随分違ってくることもありますね。


 個人的な対人関係の悩みでも、国家間や民族間の紛争でも、所詮は人間のやりとりが引き起こしている現象ですから、佐藤氏が指摘しているように案外あっけないところに解決への鍵が隠されているのかもしれません。




絵本「てぶくろ」との関連
先日の和修塾の時間に6年生たちに絵本「てぶくろ」を使って授業をしました。ウクライナの民話で福音館書店から出されている古くから有名な絵本です。もちろん内容の読解をしようとしたのではなく、「現実」「非現実」という意識の枠を越えて作者の想いを素直に受けとめる、ということをテーマにしました。


 ある程度の年齢になれば非現実の世界を馬鹿馬鹿しいと感じてしまうのは無理もないことです。しかしそれで夢の世界を捨てすぎると現実に立ち向かう生命力まで失ってしまいます。また逆に自分の中からわき出てくる夢の世界を否定しつつも、やはり夢を求める本能が優勢になってしまうと、ゲームなり何なりの他人が作ったイメージ世界に浸りきるような状態になってしまうと思うのです。


 だから児言態でも時と場合によって自分の中にある夢の世界と現実の世界を自由に行き来できることを一つの理想的な状態と考えているわけです。

 そんな柔軟性を持っているからこそ絵本などのファンタジーの世界との交信だって可能になるし、現実の自然とのやりとりも可能になります。それは命のあるなしに関わらずです。山にあった大きな岩にも感情移入して何かを感じ取ることが出来たような昔の人達の感性ですね。


 そんな心を持って欲しいと思いながら、昔教室の学級文庫に置いていた絵本を奥からひっぱりだしてきたのです。(これは買い直した本ですが、幼い頃もうちにこの絵本があって何度も読み返していた私の愛読書でした。)


 この絵本について知っていたのは3人のうち一人でした。ごく短いので全部のページの絵を見せながら紹介しました。

雪降る森の中におじいさんが落したてぶくろに最初ねずみが暮らし始めます。そこに「わたしも入れて」とカエルが加わり、次にウサギが加わり・・・という具合にやってくる動物が次々と入っていくというお話しです。

ウサギの次に来るのはキツネ、そしてオオカミなんです。このあたりになると、千尋での銭婆のおうちや今回のハウルの城のシーンに通じてくると思いませんか?現実的に考えたらキツネやオオカミはネズミなどの小動物を食べてしまう存在です。それをネズミたちは素直に受け入れ、キツネやオオカミもだまし討ちになどしないで一緒に暖かそうにてぶくろにもぐり込んでいます。その時の絵がまた気持ちよさそうなんですね。こたつにもぐって頭だけだしているというあのイメージですから。


 オオカミまでが入った時点で、てぶくろにはいつのまにか小窓がついていて、カエルとネズミがニッコリと笑っています。親指のところに前ページから立っていた煙突からは煙も出ていて暖炉でもあるのかと思うような雰囲気です。

そこにイノシシ、そしてクマとでっかい動物がやってきて入り込んでくる。これも現実で考えればカエルとネズミの段階でてぶくろは一杯になるだろうし、そんな中に入れるクマもイノシシも余程小さいのか、和修塾の6年生が言っていたように巨人のてぶくろなのかというところなのですが、この絵本を自然に読んでいるとそうしたことは気になりません。


 ずいぶん久しぶりにこの絵本をめくったわけですが、単におうち意識を描いたと思っていたこの絵本が、こうして敵対する動物や大きな動物を後から出してくるというこの順番を考えると、実際には筆者がもっと大きな事を考えていたんだな、と思えました。

このてぶくろを一つの世界と例えると家や学校など様々なものに例えられる・・・究極には人類の進化の過程と今の地球を描いていると思ったのです。思想や宗教、利害関係などで敵対するような国々も共存する世界、大きな国も小さな国もそれぞれ自分の居場所を持てる世界・・・地球は自然も人類も多様な存在を包み込んでいるてぶくろのような世界だということです。

 最後のクマとのやりとりにこんなのがあります。「わしも入れてくれ」「とんでもない、まんいんです」「いや、どうしてもはいるよ」「しかたがない。でもほんのはじっこにしてくださいよ」これで七ひきになりました。てぶくろはいまにもはじけそうです。
 
 大きな動物が入るために最初にいた動物を追い出したりしていないところがミソです。自分の居場所を作るために掃討作戦など行っていません。

過激なゲリラ的行為を認めるわけではありませんが、でも私はそうした行為に至ってしまった彼等の立場は何となく分かるような気がします。それは私自身強い力のクラスメートにいつも虐げられ、都合のいい時には利用されこきつかわれ、都合の悪い時には教室内に居場所がなくなった・・・そんな状態で何年も何年もいましたから。

そういう連中はいかにも意地悪グループもいましたが、逆に表向きには学級委員の一派で親や教師にはいつも誉められているグループもいたりしたので、大人達は誰も信じてくれないんですね。かげで私に卑劣なことをしているのを。表向きには何をやってもかなわない。力でも勉強でも運動でも・・・。いじめられている事を言っても信じてもらえず、逆に母親には「告げ口は卑怯者のすることだ」と厳しく叱られて・・・。


 そうすると、どんどん心は卑屈になってしまうし、そうした歪みがどんどんたまってきます。かろうじて現実にうつした事はなかったですが、どれだけそうした彼等に何とか仕返しをしてやろうと思ったことか・・・。怖いですね。たまたま私には勇気(?)というか実行に移すエネルギーがなかったから誰かに大怪我をさせるということはありませんでしたが・・・。


 それが少数民族などで、古来から持っている宗教や生活習慣を頭から否定されたり、虐げられたり、あるいは今回のようにテロ撲滅のためと言って生活空間に爆撃が行われて、家や大事な家族・親戚・友人が大勢殺されたら、反米感情を持つなという方が無理です。

それを正義に反する気持ちとしてテロの一味として掃討作戦の対象にされたら理不尽さはこの上ないです。何度も言いますが、卑劣なテロ行為を容認しているわけではありません。

ただ、学級委員メンバーが自分達の地位を利用して「クラスのため」と言いながら、運動も友達作りも苦手な私を邪魔者扱いしたこと・・・例えば学年での全員参加であるクラス対抗球技会の前日に「明日は絶対休めよ。それがクラスのためなんだから」と脅してきたこと。

仮病がばれて学校に行かされて教室に入ったときの視線の冷たさ。後で呼び出されて腹をなぐられ蹴りまくられたこと(小6の時です)。そうした思いでと、今の世界情勢は私の中で大きく重なってくるのです。


 テロリストと呼ばれている集団の人達も、抵抗を続けている民族紛争の少数民族たちも、もとをただせば「自分たちの居場所がこの地球上に欲しい」という素朴な気持ちだったと思うんです。何も馬鹿でかい広大な国土が欲しいわけではない。自分たちの生活習慣で自然に生きられる場所がちょっとでも欲しい・・・それが原点だったと思うんです。そんなことを久しぶりにこのてぶくろをめくって感じました。


 このてぶくろのラストは、落したことに気がついたおじいさんが探しに戻ったときに、先にかけていった飼い犬がてぶくろをみつける、となっています。むくむく動いているので犬が吠える。それでびっくりした動物たちは逃げていく、となっています。この絵本で夢の世界はひとときの出来事でした。


 改めて考えると、この場面、記録映画「東京オリンピック」のラストシーンに込められた市川崑監督のメッセージに通じるような気がしました。それぞれの国の人達が共に別れをおしんでいる閉会式。人類の平和が実現したかのようにみえる世界が展開されていました。そこに監督は字幕で「人類は4年に一度夢をみる」という言葉を出します。実際にオリンピックが終われば、再び人種や民族、国同士が対立しあう現実世界が待っているわけですから。


 平和で夢のような世界が実現したハウルの城はどこかへ飛んでいきます。それはきっと永遠に続く世界かもしれません。しかし、本当はそうした飛び去っていく世界ではなくて、この世界の戦争などの争いを止めなければならない。

止めるために大切な心を思い出した人達には居場所が保障された・・・では残された人達は。それを止めて平和な世界、自分にも他人にも居心地のいい世界をつくるのはソフィーでも誰でもなく、自分たち自身なのだということなのでしょうね、あのラストシーンは。


 これから世界はどうなっていくのでしょう。いや、その前に私自身はどうなっていくのか・・・それを決めるのも自分自身。もっと肩の力をぬいていかないとダメなんでしょうが、今回も打っていて随分と力んでしまいました。