太陽への思い
念願のデイスターフィルタがやっと手に入りました。注文して1年2ヶ月・・・
エルニーニョの影響でメーカーが生産を停止してしまった(それほど微妙なことに左右される製品だとか)という話を聞いた時には、ほぼ諦めてしまっていましたが、貴重な入荷品を手に入れることができました。
また子供達のイメージ作文「夕日」などを読むと、夕日には人間の心を純粋にさせ、明日への活力を与えてくれる力があることも教えられます。(参考文献「児童の言語生態研究」誌 13号)初日の出(朝日)も気持ちが切り替わるための良いきっかけになっているのも、経験されているでしょう。
科学的なことについてはこれから勉強をしていこうと思っていますが、テレビュージャパンの方からワニワニ学級のある子に寄せて頂いた文章が今の指針となっています。(お星様の言葉より抜粋)
*太陽も生きてるんです。爆発してるんです。放射能とか、紫外線とか、素粒子とか、ものすごく有害な光線や物質をいっぱい放射してるのです。でも、こうして生きていけるのは地球のおかげなんです。不思議ですよね。宇宙で、地球で、生きているってことは,ほんとに素晴らしいことですね!
なんでもないことだと思っても、それは勝手にそう思い込んでるだけかもしれないね。星や太陽、月や惑星、宇宙全体まで、みんなが疑問に感じることあるよね。そうした疑問の解決や、宇宙へのはるかな想いを深めるために、わたしたちは、みんなの知らない神秘な世界を科学的に見ることができる天体観測器械を扱っているんです。(転載の承諾は頂きました。以下も同様です。)
この太陽コーナーが、お星様のお部屋とともに「イメージ」と「科学」のかけはしになればな、と夢を描いております。(平成11年5月30日 記)
星をこんな間近に見ることができて
かつ、数分間でダイナミックに変動する・・・
これはものすごく驚異です。
感受性の柔軟な子供たちは、
一生涯残る体験をすることでしょう。
科学的なフォローも当然必要かもしれません。
ですが、難しい理屈(ほとんど解明されてない)を抜きにしても
地球規模を超えた視点から
自分自身を、もっと拡げて人間という存在を
客観視する材料として太陽ほど素晴らしいものを知りません。
カルト宗教じみてきましたが、
自分を客体視できる視点を身につけることこそ
人格形成の根幹をなすものではないかと考えます。
そのうえで、専門研究を志すもよし、趣味とするのもよし・・。
まさに、そんな風にこのフィルタと「人間教育」がつながっていけば、このホームページの狙い通りになります。
*さて、太陽観測、
さっそく素晴らしい成果を上げてらっしゃいますね。
今日の画像もさっそく拝見しました。
ダークフィラメントがリムに回り込んで突出し
プロミネンスになっている様子、
非常に興味深い(意義深い)映像だと思います。
何しろ彩層面とプロミネンス(ダークフィラメント)の
光量差が大きいので、飛び出したプロミネンスと
彩層面のダークフィラメントを一緒に写すことは
銀塩ではほとんど不可能なのです。
(TP2415ではラチチュードを超えてしまいます)
また、フィルターの黒いティルトノブをほんの微量廻すと
ドップラー効果を確認することができるかもしれません。
(0.6オングストロームという超狭域だからできることです)
・・・・・
画像処理のご苦労は想像いたしますし、
太陽に対する知識の充填もまた、
資料の収集などご苦労なさると存じます。
でも、科学的な切り口ではなく
「なんだろう?」「すごい!」「面白い形をしている!」
という好奇心や感動がベースにあって、
それが巧まずして
見ている人たちを引きずり込む希求力になっていると思います。
(もちろん、映像の素晴らしさも力です)
黒点活動に伴うフレア、
太陽直径に匹敵する巨大プロミネンス、
突発的に劇的な活動をするのが太陽です。
(人間には想像できない)
今後もマイペースで(どん欲に)続けてください。
期待しています。
ただ、ただこのメールに感謝です。
「あなたは太陽学者になりたいのですか?」という事を面と向かって問いかけられて2年がたとうとしています。
ちょうど太陽を始めた頃、用語など科学的なことにこだわってページに載せようと方向が無意識に変化していった時にテレビューの方に聞かれました。(すぐ上の6月6日のメールの直後です)今でもこの時の言葉は太陽に限らずいろいろな場面で自分の方向を見つめ直す時に思い出しています。
「あなたのホームページが専門家のような方向を目指したら意味がないのではないですか。太陽の専門家ではない、あなたにしか作れない太陽のページがあるのではないですか。もっと素直な気持ちで自然に作っていったらいかがでしょう。・・」
平成10年の6月25日にこのホームページをたちあげてからも3年になろうとしている今、改めて教育と太陽(天体)が一つになっているこのホームページの姿勢についてしっかりとまとめておきたいと思い書いてみたのが以下の文章です。
落ち着いた別世界に浸るのが好きな人からいえば確かに夏の太陽撮影などは物好きな・・・としか感じられないのでしょう。勿論私だってそうした落ち着いた雰囲気は大好きです。だから最近は体調の関係で遠征できませんが花立や里美によく遠征していたのですから。ただ太陽に関しては自分の中にそれとは違ったイメージがあるようです。
太陽についての自分の原点は『こども図鑑の挿絵』と『日本神話』にあるような気がします。科学的な面とイメージ世界とどちらもという習性がこの頃からあったのでしょうね。別に両者は違和感なく自分の太陽のイメージに同居していました。
こども図鑑の挿絵は小学校の低学年の頃出会いました。ダイナミックに燃える表面や吹き上がるプロミネンスが描かれていたのが強烈に残っています。何だかものすごいことが起こっている世界なんだな・・・という想いでいつもながめていました。
神話については小学校1年生の頃だったと思います。うちにあった神話絵本に天照大神様が太陽の神様だというような事・・・『天の岩戸』のことが特に印象的でした。その続きのヤマタノオロチなんかも好きでしたね。最後スサノオが剣を天照大神様に献上した時の挿絵で後ろに輝いているのが太陽の輝きなんだな・・・なんて想いながらながめていました。
実際日本だけに限らずエジプトをはじめ多くの国々で古代から太陽は人間のイメージ世界に多大な影響を与えています。そしてそうした生活をしてきた時間の方が圧倒的に長かったという事実はしっかりと現代人も認める必要があると思っています。別に『太陽信仰のをするようになれ』というわけではありません。ただ、そうした素朴な感情というかイメージ世界も心の中に残したらどうでしょうか、と言いたいのです。
これは人間にとって特別な感情でないことは『初日の出』を迎える海岸などに行ってみればわかります。(平日でも結構大洗海岸に行くと日の出見物に来ている人がいます。年配の方というより家族連れや若いカップルなんかも)
子供たちの夕日作文なんかを読んでもわかりますね。同様にテレビや映画での夕日シーンをみると人間感情と太陽は切っても切れないことがわかります。
私などはちょうどテレビ世代ですが、小さかった時によく観ていたヒ−ロ−と太陽の関係が深かったことも今の自分に影響してるでしょうね。筆頭はウルトラセブンです。ガッツ星人に反撃をする前、太陽からエネルギ−を補充するシーンなど印象的でした。光速エスパ−もよく観ていたのですが歌詞にも「太陽のエネルギ−」という言葉が入っています。後はレインボーマンですね。ダッシュ7は太陽の化身でした。
では大人になって科学的な観点も踏まえるようになってからどうなったかと言えばやっぱりどこか不可思議な世界に想いが広がっていきました。
太陽を始めた頃に科学的な話題で印象的だったのは『太陽の大きさと寿命、それと進化の時間』についての事や『地球によくない影響も与える太陽風が大宇宙からやってくるさらに有害な宇宙線を防ぐバリアにもなっている』という事でした。
それぞれの詳しい内容はここには書いていられませんが、偶然と片付けるにはあまりに絶妙なバランスの上に自分達の今があるんだなという想いがどんどん深まっていきます。
また教育の仕事に携わってきていろいろな経験をしましたが子供の問題、子供を取り巻く社会の問題・・・様々な問題や矛盾が吹き出しているのが現代社会です。そんな中で子供たちのマイナス面ばかりでなくてプラス面を積極的に取り上げていこう、というのがこのホームページのそもそもの趣旨でした。
それが一見最近はページの更新と言えば宇宙、特に太陽コ−ナ−がメインとなっていて『教育』という観点から離れているのでは?という声も聞きます。確かにそうした傾向はでていて反省もしているのですが、ここで強調しておきたいのはうちのホームページが『教育とお星様のページ』と名乗っていることです。決して両者は並列ではないのです。車輪の両軸のようにつながっているものとしてとらえています。
ここでの『教育』は得点をあげるための狭い意味の教育ではなくて『人が人間として豊かに成長していく』ということを意味しています。だから決して学校の先生向きとか子供たちへの教材提供ということではないのです。大人になっても誰も人間として成長しているという点では現在進行形なわけですから、私も含めて『より人間らしくなって生きていくには』というような事を探っていきたいのです。
そのヒントを与えてくれるのが太陽や宇宙や子供たちの姿という位置付けなのです。私はイメージということにこだわっているのですが、天体でも自然の姿でも子供たちでもその背後には共通の何かが隠れているような気がしているのです。それを感じ取ったかつての人々は『神性が宿っている』などという言い方で表現していたと思うのです。
(重ねてお断りしますが、別に私は特定の宗教の観点からこのような事を書いているのではありません。こうした発想が昔は当たり前に行われていたという事実に基づいて書いています)
もう少し別の言い方をすれば、子どもたち(現代人)の生き様があまりにも現実問題対応型の構えになりすぎているために、気力・活力の源とも言えるイメージ世界が干からびてしまってきていると思うのです。目に見える事実ばかりを追いかけすぎて、かつての日本人がお得意だった見えない世界での関連を鋭く感じ取るという事ができなくなってしまっていると思うのです。
だから(かつて私もそうだったように)星を眺めても「つまらない」「役に立たない」「天体のところは難しくて点数がとれないから嫌い」・・・・などとなってしまっています。純粋に「星の世界に浸ろう」ましてや「生き方の示唆を得よう」という発想そのものができなくなってしまっています。
それでうちのページでは太陽でも天体でも科学的な解説などはほとんど載せていません。それはもっと優れたホームページが既にたくさん存在していますから、そちらにお任せしようと割り切っています。極端な言い方をすれば星座や神話をイメージしていた当時の人々の素朴な感情に近づいて作成したいと思っているわけです。
私自身、太陽や星や子供たちをみていて学ぶこと、慰められたこと・・・数えきれません。(その一部はつぶやきのお部屋『よりぬきコ−ナ−』で紹介しています)それをホームページ上に発信していろいろな方々と共に考えを深めていきたいと願っているのです。
私は体のいろいろな部分を壊して以来、まだ完全に復調していない身です。しかし逆に考えてみるとあのまま仕事を続けていたら仮に体を壊さなくても(壊してもポックリいってしまう事だけは回避できたとしても)精神的には自分を完全に見失っていたと思うんです。当時は母に朝の散歩などを勧められても全く聞く耳をもつゆとりすらなかったですから。ましてや星空を眺めるなんていう発想は全然なかったですから。
本当だったら働きざかりのこの年齢で昼間は家にいるのが最初はものすごく引け目に思えていました。初めて平日の昼間に近所のスーパーに買い物に行った時は今までの雰囲気との違いに戸惑いました。普通の主婦の方々ばかりだったからです。退職して数か月たってようやく布団にいる時間が短くなってもほとんど外出しませんでした。自分の中の心の世界(それをイメージ世界と呼んでいます)の時間も空間も何と弱々しく、現実に押し潰されそうになっていたことか・・・・こんなにもろい状態で学校に勤務していたんだな、と改めて思ったものでした。
太陽や星空を眺めることはこの自分の中の世界を時間の上でも空間の上でも地球の次元を飛び越えて広げてくれたわけです。なにせ太陽だって地球規模からみれば破格です。まして星雲星団の世界の時空の単位ときたら想像を絶しますから。
そして、そんな宇宙の中にもダイナミックな場所もあれば静寂の場所もある・・・太陽にだって黒点の周期もある・・・日々眺めて至ってすごいフレアが起きたりあちこちが白っぽくなったりプロミネンスが乱立していて『なんて今日は元気なんだろう』と圧倒されるような日もあれば、『今日はどうしたのかな?』というほど目だった黒点もプロミネンスもない日だってあります。
それが太陽のもう一つの魅力です。私はよく『一期一会だから』という言い方をしています。同じ黒点・プロミネンス・フレアは二度とみる事が出来ないのが太陽です。それがまた人生というか生き様そのものを感じさせてくれるのです。生きている姿だから停滞していないわけですしね。
『いろんな姿を見せて、それが一度きりで、それが自然なんだな』と感じてから今置かれている自分に対してもちょっとゆとりをもって考えられるようになりました。そして最もひどい時には『いつまで生きていられるかな・・・・』と不安な日々を送っていて一期一会という言葉を「これが最後の・・・になるかもしれない」と寂しさ一杯に連発していたのが、もう少し前向きに『今の自分だからできることを一杯やってやれ!』という雰囲気で一期一会を意識できるようにちょっとはなってきました。
(今でも将来、いや、それどころか日々の食費さえどうしようか?という時もありますが、それでジタバタしたり必要以上に落ち込んだって仕方無いという境地です)
また太陽を始めたことは夜だけでなく昼間もしっかりと過ごそうという気力を奮い立たせてくれるきっかけをもくれました。(実際今でも体調は決してよくないので曇った日などは気力が低下して布団の中で過ごしてしまいがちですから)太陽撮影がリハビリ替わりだと言ったら純粋に太陽を研究している方々からは怒られそうですが、実際かつてのテレビヒ−ロ−と同じように私も太陽をエネルギ−源にしているようです。
こうしてしみじみと振り返ってみると天体に踏み込んだことさえ偶然と片付けれないような不思議といえば不思議な縁でしたし(その当時の事はお星様のお部屋をご覧ください)、デイスタ−フィルタ−を入手できたのも決して単純ではない巡り合わせの結果でした。しかもそれを購入した際に巡り合う事のできたテレビュ−ジャパンの方の忠告がなかったら今のワニワニ学級ホームページはだいぶ変わってしまっていたかもしれません。
(パソコンを始めた時は本当に素人は相手してられないよ、という態度が露骨な店員さんにさんざん苦労しましたが望遠鏡ショップではいい方々との巡り合いが他にもたくさんありました。そんな思い出もつぶやきのお部屋『よりぬきコ−ナ−』にあります)
それだけの縁があって始めた事です。常に原点を忘れないで気長に太陽や宇宙と向かい合い、人間らしい生活を見つめていきたいと思っています。そしてたくましく生きていたかつての人々のような現実をはるかに超越して包み込んでしまうような時間・空間のイメージ世界を心の中に持っていきたいと思っています。
子どもたちがそんなイメージ世界を抱きながら成長できるようなきっかけを作れれば最高なのですがね!
*太陽に関しての気長な目標としては、ぜひ2035年9月2日午前にあるという信越・関東地方皆既日食を観たいですね。だいぶ先ですが関東でもちょうどこの町のあたりが皆既の帯だそうなのでいつも望遠鏡を出しているうちの庭でもバッチリ皆既日食が観られるハズなのです。すぐ脇には金星が輝いて・・・・
小さい頃、よく祖母に言われた言葉に「お天道様は観ているよ」というのがありました。「どんなに上手にごまかしてもお天道様だけはいつも天の上からお見通しなんだよ」と繰り返し聞かされていました。
*お天道様という言葉を使うかどうかは別として、こうした人間を越えた存在が自分を観ているよ、という意識は大切だと思います。
今は目に見えるものだけに絶対の基準を起きすぎているから、逆に「見つからなければいいだろう」「ばれなきゃいい」という風潮に大人がなってしまっていて、それを子どもたちや若者がマネをしていると言えましょう。
ただ小学校の当時、特に担任の先生に気に入られ、親たちにも評判のいい連中から陰でいじめを受けていた私にとっては「どうしてあいつらのことはお天道様が見逃しているんだろう」というような理不尽な思いが心の中にありました。
祖母は「いつかバチが当たるんだよ」と言っていたけど、いつになってもいじめはやめてくれない。むしろどんどんエスカレートしていく・・・中学校に行ってある体育教師までそのいじめに荷担し「運動の苦手なやつはクズだ!邪魔だ」というムードにお墨付きを得た優等生たちが堂々と陰湿な事を繰り返すようになった時には、「一体いつになったらあいつらにバチをあててくれるんだろう」という思いでいっぱいでした。
これは昔から人類を悩ませていた問題ではないでしょうか。どの時代にだって、どの社会にだっていろんな人が住んでいますよね。正直な人もいればずるがしこく生きている人もいる。いつもみんなの幸せを願っている人もいれば、自分の幸せだけを思い他人をあやめることだって平気な人もいる・・・
で、結構そうした自分勝手な人間の方が見た目には裕福だったり得をして生きているように見えるわけですね。人類の歴史を振り返っても「人間として素晴らしい」からこそ不当な扱いをされたあげく命を奪われてしまった人達が数え切れないほどいます。
イエスキリストが民衆を敵にまわしてしまったのも、ただただ「神の愛」をとくイエスに対して「ならば何故今の自分たちは苦しい生活を送っているのか!?」という疑問が不満となって鬱積したという背景もあるようです。正直者はバカをみる」という言葉があるのはそうした理不尽さを言っているわけですよね。
授業では、本当に自分が良いことをしているという満足感があればバカをみたっていいじゃないか、と誇りに思える・・・と強調していましたが「正直に言うと先生はまだそういう境地になっていない。目指そうとは思っているけど。」とも付け加えていました。
高校になって倫理社会などで「誰にでも光が与えられている」という考えに触れた時にも、この理不尽さにはこだわっていました。確かに太陽はだれの上にも平等に光を降り注いでいます。それが事実です。でも何だかわりきれない・・・・
今朝、NHKで映画監督の今村昌平さんが開いている映画学校について紹介していました。映画作家となる前に先ず「人間としての視点」を確立させる・・・・「人間にもっともっと興味を持って、人間を好きになる」というような事を何度も強調されていました。特集の後アナウンサーが「映画だけでなく放送でも教育でも大事なことですね」とコメントしていましたが、まさにそうですね。
ただ、問題は「好きになれない人間だっている」という思いが捨てきれない事です。
最近電車の中での高校生たちの傍若無人なマナーのひどさについていくつかのテレビ局が紹介していましたが、そうした番組はなるべく観ないようにしています。目をそらすというより、不快な気持ちが増大して割り切れない思いになってしまうからです。
そうした思いの根っこにあるのはやはり小さい頃からの理不尽な思いの積み重ねでしょうね。マナーのいい乗客が困っている、我慢している・・・命を奪われている・・・・わがままし放題の方が大きな顔をして自由に振る舞っている・・・・理不尽ではないか・・・・・
無論若者にも言い分はあるでしょう。大人こそ口ではりっぱなことを言いながら陰で悪いことをいっぱいしているではないか!お金持ち、偉いと言われていた人、みんな陰では悪いことをしているではないか!大人が勝手なことをしているくせに、俺らばかりを我慢させるのか、そんなの損だ!俺らだって自由にやってやる・・・・と。
それに、だいたい自分はどうだろうか・・・・自分が人をとやかく言える立場かというのもあります。「自分はどうなの?」とお天道様ににらまれたら堂々と言い返せるか・・・そんなわけはありません。正直なところ。自分ができていないのに他人は批判したがる気持ちがわいてくる事に自己嫌悪を抱いてもいます。
*これは学生時代に紹介された聖書の中にあるエピソードに反省させられたことがありました。罪人に石をぶつけて罰しようとした民衆へのイエスの言葉です。「今までに罪を犯したことのない人から石を投げないさい」(だったかな?)するとみんな投げつけることができなかった。罰を与えるのではなく「許しの愛」ということでした。
そんな今の世の中をお天道様はどんな表情で見つめているのかな、とフト考える事があります。「困ったものだな・・・人間達は・・」と嘆いているのでしょうか?それともやんちゃ坊主を温かい眼差しで見つめる太っ腹のお母さんのように「アラアラ困ったものね・・・」とほほえみをうかべて見つめているのでしょうか?
日本人の心の原点から考えると、ひょっとすると後者の方・・・・嘆きながらも「大きくなるのが楽しみ」とばかりに成長していくのを期待して温かくか見つめている・・・と考えるのが自然なのかもしれません。
ちょっと前まではそうした事は「なんか理不尽だな」という思いが捨てきれなかった私でしたが、最近ちょっと心境の変化がありました。それは日本の神話についてのある考えに触れてからでした。
神話をどう捉えるかという問題はここではあえて触れません。一応日本人のイメージ・発想の原点が隠されているもの、という位置づけをしておきます。そして神話の内容や解釈には深いことがいろいろ解説されていたのですが、ごく簡単な形でとどめておきます。
その中のヤマタノオロチ伝説です。天の世界で悪さをしまくったスサノオ・・・それに嘆いた太陽の神アマテラスオオミカミが洞窟に隠れてしまって世の中が真っ暗になってしまい、あらゆる災いが世の中に起こってくるというのが事の始まりです。(今の時代にピッタリ当てはまるかも・・・)
科学的には「日食」がこの神話のベースであると言われているのも面白いところですね。
最初は嘆いていた神々が「隠れてはいてもちゃんと光は存在している」ということを意識して楽しく宴会を開いたら「何を楽しくしているのでしょう」と不思議に思ったアマテラス様が顔を出して世の中は再び明るくなった・・・ただしスサノオは下界に追放されます。
追放されたスサノオが泣いている親子に出会い、毎年娘を食べに来るヤマタノオロチというヘビの化け物からその娘を守ってやるというのが概略です。
*余談ですが、ヘビは「地を這う」ということで今の世の中のような目先の価値観にどっぷりと漬かった象徴のようです。聖書の創世記でもアダムとイブをだますのもヘビだという共通点も興味深いです。しかもヘビは別の観点から観れば神格も持っている・・・このあたりのことはつぶやきのお部屋「よりぬき・・・自分1」の途中に詳しく書いています。あわせてどうぞ。
つい最近になって「どうやっておろちを退治するか」という事から示唆されることについての話に触れました。「武器はいらない」というのですね。これは先ほどから書いている言い方でいうと「バチはいらない」ということです。
実際神話ではどうしているかというとヘビの好物である酒をいっぱい飲ませてやることになっています。そして眠ったところで容易く退治してしまう。しかも単に殺すのではなく、体を切り開きその中から素晴らしい剣を取り出す場面がついています。好きな物を与えて、その中から本当に価値あるものとそうでないものを選んでいけばいいという事を表しているというのです。
学習会だよりの方にも書いているのですが、このオロチはスサノオ自身の分身という民俗学上の説があります。好き勝手な振る舞いをしていたスサノオが自らの手で自分の中から素晴らしい価値を見いだし、それをつかみ取った過程を通してりっぱな神として目覚めていく・・・その姿が古代日本人が抱いていた人間成長の原点だというんです。
*これに関するのが天体を通してのつぶやきにあります。
そう考えると、やっぱりお天道様は笑みを浮かべながら現代の人々を見つめているのかもしれませんね。
神話については戦前や戦中の悪いイメージがつきまとっているのでだいぶ誤解されているような気がします。本当は古代の日本人が太陽や天体を、自然界すべてを素朴に見つめる中から直観した素晴らしいイメージ世界の集大成なのかもしれません。それを一部の人達の利益に利用されてしまった・・・でも本来の価値は変わらないと思います。
こんな事を書くと「時代錯誤」とかいろいろ批判されそうですが、決して私は戦争を再びなどと思っていないし「お国のために」というようなあの時代を夢見てもいません。散歩で地元の神社にお参りはしますが「日本の神」オンリーという気持ちはありません。お寺にだっていくし、イエスキリストにだって尊敬の気持ちをもっています。
ただ、太陽や星を見つめた生活をこの年になってようやく始めて、素朴に感じた事はそうした神話の解説に書かれていたことと通じてくるのです。そうするとずっと「理不尽だな・・・」と思い続けてきた心の中の影も少しずつ消えていくような気もします。私にとって苦手なタイプの人間だった浜崎あゆみさんへの特集を学習会だよりに連載しているのもそうした影響でしょう。
*他人からいつも邪魔者として扱われたという部分、ずっと自分をガラクタだと思っていた、役立たずと思っていた・・・などというのは私も同じでしたから。そしてそれは今でも自分の中に影を落としています。
マアはたしてそれでどれだけいろいろな人間に興味を持ち好きになれるかはわかりません。やっぱり勝手な人間の振る舞いが許せない気持ちも持つでしょうね・・・。
でもその一方でお天道様のような眼差しが持てるようになりたいな・・・・そんなゆったりとした心も持ちたいな・・・という心境は持ち続けたいし、それが私自身の自然体になっていけば「興味を持たなければならない」とか「好きにならなければならない」と努力しなくても、自然に「人間に対して深い興味と愛情を持つ人間」になれるのでしょうね。その時に初めて自分の事もプラスとしてつかんでいけるのかもしれません。
これも余談ですが、私が恩師である上原先生に学んだことのうち最も大きな点が「子供は何でも知っている」です。心意伝承をベースにした教育観なのですが、無意識に古来からの価値的な心が伝承されている・・・それをもっとも純粋に残しているのが子どもたちであり、それを子どもたちの中から掘り起こそう・・・・という事で子供のイメージ研究を上原先生が亡くなった今でも児童の言語生態研究会で続けています。
その発想と天体を通しての発想・神話に隠れている発想はどれも同じだと思っています。(子どもたちの言葉については言葉のスナップコーナーや授業のお部屋をご覧下さい)