コミュニケーションについての雑感-15 
      信頼感の薄れた社会を何とかしませんか? 


昨日のうわさ作文にも表れていた「疑心暗鬼」
今の人達は、私達の世代以上にこのことに苦しんでいるかもしれないですね。

日本人古来からの姿勢として、言葉の裏表 というのはごくごく普通にあります。
かねてより外国人によく言われていたのが

・「近くによった際には是非遊びにきてください」
と言われたから実際に訪ねたら変な顔をされた
一体日本人にどう誘われたら本当に訪ねて行っていいの?

・「つまらないものですが」といって贈り物をする日本人の感覚が分からない


などですね。



こうした裏表はいくらでもあります。
「お世辞」「おだて」「社交辞令」「皮肉」・・・・・

表向きの言葉と込められた意味の違いとしては
「比喩表現」「掛け言葉」

などもそうですね。これは外国人だけではなく、現代日本人の多くにとっても大きな壁になっていると思います。


幼い頃からのナマの人間関係の積み重ねで、少しずつ長い時間をかけて習得していくのがこれらの言語感覚。ある程度慣れての大人ても失敗がつきもののやっかいな事柄です。

それが情報端末での文字情報でのやりとりが飛躍的に増えたことから習得が非常に困難になっているんですよね。
本来は直接会っての微妙な雰囲気とか言葉の響きとかによって、どこまでが本心なのかをキャッチするわけですから。

顔は笑っているけど、目が笑っていない
なんていうのはオンラインではなかなかわかりませんよね。

英語の早期教育の影響も無視はできないと思います。

その結果、ちょっとした冗談のつもりでも「許せない」と大炎上してしまう。
他人の言葉に対して「裏表がない」という大前提なんですよね。

よく言えば「相手の言葉に対して誠実に対応している」
悪く言えば「相手の言葉をダイレクトに受け止めすぎて傷つきやすい」



上原輝男先生は、イメージや感情の教育を非常に大切にしていましたが、それと同じくらい「中学年での論理思考」について重視していました。
「感情やイメージと切り離された言葉の世界があることに気が付かせる

後年、この考え方は「言語操作性の授業」という形になっていきました。
平成4年に私が分校で行った「ボケとツッコミ」の研究授業などがその走りです。
(決して漫才の練習をさせたわけではないですよ。言葉の裏表やかけひきを扱いました。これについてはまた別稿で)



コミュニケーションについて悩んでいる方々の多くは、やはり周囲の言葉に誠実です。
心の中で相手の言葉を受け入れる際の 緩衝材 のようなものがないから、まともにトゲのある言葉も受け取ってしまう。

その結果、周囲の人達の言葉がどんどん信じられなくなってしまう。
「疑心暗鬼」にどっぷりと漬かってしまうんですね。


日常生活でこうしたことへの修練ができなくなっている以上、最後の砦の一つが学校教育なんだと思います。
でもその学校も・・・特に小学校の中学年はカギをにぎる学年・・・テストの平均点をあげることばかり上から要求されることが多い時代。
まっとうな授業をする先生が、親からも上からも非難されることが少なくないんですよね。

そして社会も建前ではテスト指導偏重を非難する一方で、テストの平均点が悪ければ担任や学校を非難する。明らかにそっちが本音。

先生と生徒、社会と学校・・・そしてあらゆる人間どうしの信頼が失われ「疑心暗鬼」になっている
この負の連鎖を断ち切りたいんですよね。