上原先生の講義録よりー1


☆平成29年,4月8日以降随時更新・・・新しい順


 

☆昭和59年10月8日 国文学 「教育の日常性 と 絵本の宗教性」
今日も国語教材で絵本の話をしたんですけれども、・・・・・・昔の人は絵本をあてがう時に、絵本の中の登場人物は皆さんが知っている「さるかに合戦」とかね、そういう童話ばかりだと思っているかもしれないけど、もっと多かったのは、完全に一つ系統があったと思われるのは、宗教話です・・・絵本の中でね。だからその中には必ず説経の中の五説経なんていうのは絵本のいい題材になっていた。

だからそういう事をね、これはそんな難しい学問ではなくって、皆さんの知らない世界をもう少し具体的に「世の中自体がどうであったんだろう」ということを知ってやろうということから学問に入っていってもいいんですよ。じいちゃんばあちゃん達の時の日本人の生活、日本人の宗教意識というのは何だったんだろうと。

 あの・・・「教育っていうのは日常から離れてはならないんだ」ということを私は国語教材で言っているけれども、日常生活から離れられないんですよ。離れてはならんのですよ、教育は。日常性から遊離してね、何か立派な事ができたからってそれは教育ではない。だから日常生活が改変されていかなければ教育の実が上がったとは言えないんですね。

 だから皆さんが教育学を学ぶということは、それを忘れてしまっているんです。何か自分の日常生活はこっちに置いておいて、それで教育学というのを考えている。それはおかしいんですね。絵本なんかもですね、今は贅沢になっているから絵本があるんではなくてね、昔も絵本はないわけはないんです。私のこれは考えだけれども、世界中で絵本が一番早く完成しているのは日本ですよ。これは誇ってもいいことなんですよ。日本はどこにも負けませんよ、絵本は。だから日本人は昔から優秀だったというのが分かるんですよ。つまり基層教育ができているんですから。そんなことも知らないでしょ。教育学をやっている連中だって知らない。絵本の研究なんてしていないから。

 絵本の研究をしてみると、江戸時代、なあに江戸時代どころか中世に絵本が出ているんですからね、日本は。大変な国宝クラスのものがあるんですから。・・・マアそれはやや文学的な価値が高いと・・・芸術的なあれですけれども・・・。私はもっと宗教的なものの要素が入った絵本を大事に考えたいんですね。

(注 この中で「宗教」という言葉が何度か出てきますが、堅苦しい感覚の宗教とか「国家神道」とかいうようなことではなくて、もっと土着というか・・・素朴な感覚としての宗教意識のことです。現代で有名な絵本だったら「かさじぞう」とか「かちかちやま」なんていうのもそうかな????)



☆昭和59年 9月27日 日本教育史特講 「伝承」
人間存在のつかまえかた自体がですね「消耗品扱いになっている」ということなんですよ。存在を消耗品にするから非行少年なんかでるんですよ。子供たちが非行を働いてしまうんですよ。だけども人間存在が伝承なんだというような構え方が生まれていましたらですよ、非行なんかできませんよ、人間。そうでしょ。

たとえばですよ、みなさんも知っていると思いますが昔の合戦なんかでは一人一人が名乗りをあげてね、「・・・我こそは・・の子孫であって・・代目の・・である」と名乗りあったわけでしょ。あの時代には私は非行少年なんて出ないと思いますよ。出ていないと思いますよ。それは人間のつかまえ方が単独ではないからですよ。

(非行少年がではじめたのは)どっかで子供たちが「俺は俺だ」なんて思い始めたからですよ。「俺のやることは人には干渉されることない」っていう風にどっかで思い出したからでしょうね。


☆昭和59年 4月5日 児童言語の研究 「人間が生きる意義の根源」
所詮は人間の命題っていうのはこれ以外はないですよ。継承以外はありませんよ。すべてがそうです。この役割しかはたさないんですよ、人間っていうのは。

「君は誰の子?」親父とおっかさんの子ですよ。それでやがて結婚するんですよ。それで同じことを繰り返すんですよ。俺以上の子供を作りたいなんてね。で、以下の子供しかできないなんてね。いずれにしても継承なんです、譲り渡しなんです。その点をもっと考えないと、老いも若きも考えないと・・特に若いものがかんがえないと。いかに譲り受けいかに譲り渡していこうかと・・その橋渡りを自分はしていると思う事ですよ。

こういう話をしてくればみなさんが日頃考えていた「子供とは何だろう」なんていうこともね、偉そうに大人が子供をみていたような見方が何の役にもたたないということがわかるでしょ。私ももうボツボツ成人式が終わったんだから大人の仲間入りよ、なんていったところでそれは傲慢な人と謙虚な人とで言い方がそれぞれ違うだけでしょ。

じゃ偉そうに言っている私はどうかっていうと、私は年齢的には50の域に達している・・人生50年なんていってもう墓の中じゃないですか、孫を抱いてね「おじいちゃん」なんて呼ばれているはずですよ。(学生の父親と上原の年がそうもかわらない話 略)でも私の方が若いといえる部分だってある。



☆昭和59年 4月19日 児童言語の研究 「子供の言葉が聞ける大人に」
子供の言葉が聞けない先生がいっぱいいるんですね。で、親がそうです、だいたい。子供の言葉を聞こうとしていない。だから子供の言葉をどう聞くのかというところから児童の言語生態研究は始まるんだということであります。

 電車の中なんかでもよくわかるんですね。お母さん方が子供とどんな会話をしているかによって「これはいい母親だ」とか「この母親にかかってはこの子供はあまり偉くなれないな」とか「これは伸びないな」とかいうことなんであります。

 やっぱり子供と応対するのに上手な応対の仕方がある。上手な応対の仕方があるということは子供の言葉を「何がいいたいのか」ということを聞き分けてやれば子供は・・聞き分けてもらうと子供はその次のコミュニケーションに入れるんです。だけども聞き分けてもらえなかったらコミュニケーションはそこで途絶えてしまう、そうすると頭脳の訓練はそこで止んだという事になるんです。