7月6日の「ふみ子の海」舞台挨拶ルポ
・・・として書き始めたのですが、途中ちょっと脇道にそれて、今自分が取り組んでいる課題と今回の映画や鈴木理子さんとの関連などにも脱線しています。
またここに載せている画像についても理子さんのお父様から了解を得ている範囲で載せております)

今回の上映会場は数年前に一度知り合いの方の運転で来たことがあるのですが、地図を見ながらでも道を間違えてしまい、住宅地の中のクネクネした道を多少迷いながらやっと到着しました。(ちなみに理子さんのお父様はちゃんと迷わずに会場まで運転されたそうです)

10時半上映開始(10時会場)より数十分も前なのですが、遠方からの顔なじみのメンバーが早々と到着されていました。上映会の時に「今日ははるばる東京の方からも・・・」と主催者挨拶がありましたが、それよりも数倍遠くからの方も実はいたのです。

続々と映画めあてらしき人達がロビーに集まってきたのですが、この時点でその年齢層が誇張抜きで間もなく47歳になる私でもヤングベストテンに入るのではないかと思うような雰囲気でした。(一月前や数ヶ月前のある集まりの雰囲気とはまるで違います)

実際に会場になって約300人ほどの観客でしたが、数人の子ども達を除いたら若さベストテンは際どかったからもしれませんがベスト20には入っていたのではないでしょうか。そのくらいお爺さま、お婆さま(失礼!おじさま、おばさま)の方々が中心でした。

会場でちょっときつかったのは冷房・・・エアコンがあまり得意ではなくほとんど使わない私にとっては半袖であの冷房はしんどかったです。もっとも「ふみ子の海」は冬の寒さが厳しい中でも一生懸命に生き抜いた物語ですから、この程度の寒さで弱音をはいていたら観る資格がない!と自分に言い聞かていました。


入ってすぐに昨年も銀座の公開の時に買ったのですが保管用と思ってパンフレットを買いました。するとしばらくして「入り口にて原作本とパンフレットを販売しております。サインはパンフレットにのみとさせて頂きます」というアナウンス。
「サインはパンフレットのみ?ということは、パンフレットを買えばサインをしてもらえるという事なの?」と思いもう一度売り場で確かめました。売っていた係のひとは「そんなアナウンスあったんですか?それなら多分そういうサインの時間も挨拶の後にあるのかもしれませんね。買いますか?」「先程買いました」「ああ、そうですか」そこへ別の方が来てちゃんと確認がとれました。
なるほど、それでパンフレットの積まれている数がそんなに多くなかったのですね。80人限定らしかったです。


映写が始まったのですが何故か音声のみ。映写機のトラブルで上映開始は15分以上遅れました。ただ、その間、原作者のお姉さまにあたる方が機転をきかせて原作の冒頭を朗読してくださいました。
*この方が地元在住というので今回の茨城県での自主上映会のきっかけになったそうです。上映前日の新聞記事です。


*原作本とは不思議な出会いでした。ちょうど一年くらい前ですが、車を運転していて大型中古書店ブックオフ前を通過する時に少し先の赤信号で車がズラッと並んでしまいました。ちょうど私の車が停まったところが店の出入り口。急に入ってみようと思って予定をかえて入りました。そして何故か店に入ったら何者かに導かれたかのようにスーッと児童書コーナーに足が向きました。で、とまってひょいと見た書棚にふみ子の海の原作本、上下2巻が並んでいたのが目に飛び込んだのです。 「ああ、これが秋に公開される理子さんの出た映画は」とこの偶然の出会いに驚きながら手に取ると本には2冊とも原作者のサインがありました。

恩師の上原輝男先生のサイン入り著書を古本屋でみつけた時もそうでしたが、ちょっと複雑な心境になります。
自分に都合良く解釈しすぎですが、この本とは偶然ではなく出会えたんだなとそのサインをみた時に思いました。

(映画の先入観にならないように読まないでおきました。一度目観たあとに読みました。映画とは特にお師匠様の人物像や戦争とのからみ等々いろいろと相違点はありましたが、原作は原作で違う涙も流しながら読ませて頂きました。その上で銀座の2回目は観て、また新たな気づきがあって・・・そしてこの3回目の鑑賞となったのです)



やっと上映が始まったわけですが、ここでまた新たな試練が・・・・
音声がやたらと大きいのです。私も自宅の液晶プロジェクターでDVDなどをみるときは大きめにしますが、静かな映画なのに私が苦痛に感じる大きさなのですからご想像ください。
*これってもしかすると今回の観客層に配慮しての音量だったのでしょうかね。
それならば仕方のないことですが・・・。


それでも映画はボロボロ涙をこぼしながら見終わり、いよいよ主演女優 鈴木理子さんの登場でした!!!
ここで面白かったのはお客さん方の反応でした。私の周囲の方々もそれはそれはビックリ!!!

理子さんが大きかったからです。

無理もないことですが、皆さんの頭の中には「ふみ子」としての鈴木理子さんが描かれていたのですから、小学校3,4年生くらいの小さな子どもが出てくると思っていたわけです。それがスラリとした素敵なお姉さんが出てきたので、きっと一瞬誰が出てきたのか分からなかったのではないでしょうか。

ここで会場のざわめきを察して年齢確認が行われました。撮影時は小学4年生だったこと、そして今は中学1年生になっていること。当時と比べて身長が19センチ伸びていること等々が紹介されて私の周囲のオバサマ方(実際はもっと高い年齢層が多かったのですが、以下、一応こう表記させて頂きます)も納得。
「映画のイメージと違ってごめんなさい」と言って笑いをとっていました。

原作者のお姉さんが相手役をつとめたのですが、理子さんはお世辞抜きでしっかりとした受け答え。今までの舞台挨拶は監督さん等々と一緒で単独は初めて、倒れてしまうのではないかというくらいものすごく緊張していたというのですが、どうしてどうして、そんなことを感じさせない堂々たる受け答えでした。
映画のことだけではなく、世の中の様々な立場の人達の幸せが実現するようにというような話で挨拶はしめくくられました。

雪国育ちの案内役の方もはだしでは過ごしていなかったということで、そのことを理子さんに尋ねていました。
寒さはあったけど、それよりも沢山の雪を見れたという嬉しさで寒さをマイナスには感じていなかったということでした。
これなどは、後半に触れますが「夢の世界」を抱いていることが「現実対応の力をアップさせる」ということの表れだと思います。


*普通こうした舞台挨拶等々では「撮影は一切お断りします」という注意が何度もなされて実際に撮ろうとすればすぐにストップがかかるのが普通ということですが、この時には事前にそうした注意は何もありませんでした。周囲のオバサマ達が携帯カメラで撮りまくっていても何事もなかったようだったので、私もミニカメラを取り出して撮ったのですが、何故かオートフォーカスが全くききません。デジカメですから撮ったその場で3秒間確認画像が出るのですがみんなアウト。(そうした画像のごく一部を最後の方にオマケで載せておきました)


「会場からの質問を2名だけ受け付けます」という質問コーナーがありました。
会場は静かになって数秒・・・誰も聞かないなら聞こうかな・・・でも何を聞こう・・・聞きたいことは山ほどあるのですが、写真のピンボケで気持ちがパニック状態にあったこともあってとっさにまとまりません。すると後方の方から雪の町中のシーン撮影についての質問が出ました。

*映画で使われた建物や松林があの新潟地震でかなりの被害を受けてしまったそうです。

「もうひとかた・・・・」となったのですが誰も手をあげません。私の知っているメンバーが逆に進行役の方から指名されたのですが何故か遠慮しています。「理子さんの質問大会という機会以外のこの貴重な機会なのに」・・・と思いつつ、私もまだまとまりません。

「えーい!!!」とばかりにまだまとまっていないのに思わず「ハイ」と手をあげてしまいました。
(似た経験が高校生の時にあります。映画監督を目指していた頃、好きな監督の一人だった故 野村芳太郎監督・・・「砂の器」などが代表作。寅さんの山田洋次監督の師匠でもあります・・・の新作映画で監督の舞台挨拶があった時、やはり質問コーナーで誰も聞かないのでとっさに手をあげたことがあります)

指名されてからとっさに自分の中から飛び出てきた質問が「特に気に入っているシーンとかありますか?自分で観た時に」という質問でした。
理子さんは花見のシーンだと答えてくれました。その受け答えの時に兵隊さんに言い返した時のセリフをスラスラスラっと再現しながら話してくれたのには驚きました。あまりに自然に口から出てきたからです。もう撮影が終わって何年もたっているんですがね・・・。

そしてその場面が印象に残っている理由としてふみ子の内面に踏み込んだ理由を語ってくれました。いつもと違ってふみ子が自分の意思を主張した場面だからだと。さすがです!

この後、進行役の方が「水に落ちた場面はどうでしたか?」と尋ねました。ここでは「・・あれは3回やらされたんですけど・・」というような言い方で会場は大いに受けていました。1年生の子からの花束贈呈の時、もう一度何枚も撮ってみたんですがことごとくダメでした。


(この部分、8日に追加です)
地元の「常陽新聞」(常陽銀行の系列なんですかね?)の記事がネット上で確認できました。一部抜粋します。
緊張した表情で登場した理子さんだったが、客席から大きな拍手が送られるとホッとしたように笑顔を見せた。原作者の市川信夫さん(75)=新潟県上越市=の実姉で、ひたちなか市在住の同市読書グループ連絡協議会長、佐藤朝子さん(77)が舞台上でインタビュー。雪の中の撮影に「雪の冷たさはつらくなかった。映画はこれまで6、7回観ているが、最初はじっくり見られなかった。回を重ねるごとに涙が出てきた」と主演した映画の感想を話した。

会場からの質問にも答え、「ふみ子が自分の意思を示した花見のシーンが気に入っている」と明かした。上映会の合間にはサイン会も行われ、一人一人に笑顔で応えていた。
(8日追加ここまで)



こうして舞台挨拶は無事終了。ミニサイン会へと移りました。

出口付近が混雑していたのですが、周囲のオバサマ方で何人もの方が舞台挨拶での理子さんの姿に「しっかりしてる子ね」「本当、それに綺麗だし」というようなやり取りをしていました。・・・「大人っぽいんでびっくりした」という声も耳にしました。


サイン会では脇にいた方が「ビデオでの撮影はご遠慮ください。カメラでの撮影は結構ですが控えめにお願い致します」ということだったので、舞台で撮影は条件が悪かったからダメでもここでならうまく撮れるかな、と思って撮ってみたのですが、それもほとんどアウトでした。帰宅してパソコンの画面に映したらカメラの小さなモニターで確認した時以上にどれもこれもピンボケやブレでお話になりませんでした。いくらかマシというレベルで全体の10%以下というところではないでしょうか。


舞台挨拶の時に花束の贈呈役だった小学校1年生の女の子がサインをしてもらった後、係のカメラマンの方が「こっちを向いて」と声をかけました。その時、舞台挨拶の時とはまた違った理子さんのくつろいだような自然な笑顔をみて周囲のオバサマたちは「マー!!なんて可愛いんでしょう」と口々に驚き、ふところから携帯を取り出して理子さんの笑顔をカメラにおさめ始めました。



実は先程から何度か書いていますが、私は理子さんだけではなくて、この会場に集まった非常に高い年齢層の方々に理子さんがどう受けとめられるのにも注目していました。ブログのやりとり等々で若い年齢層のコメントはいつも目にしていたので・・・。

そんな意味でオバサマ方のおしゃべりをさりげなく聞いている時には(別に盗み聞きしていたわけではありませんよ。ただ、自然に飛び込んできたおしゃべりの内容にも気を向けていたということです)

自分の中の数パーセントは児童の言語生態研究会モードになっていました。

ちょうど今出版準備をしている会の本で私が担当している章は「ライフインデキス(生命の指標)としての子ども」ということで、その中で「どうすればそうした昔からの日本人が大切にしてきた子ども像のような子が現代社会の中でも育ち、周囲・あるいは現実対応に追われているその本人さえも大切な世界へ導いていけるようになるのか」を書こうとしています。

こう書くと難しく思われるかもしれませんが、具体的に言えば現代社会とは言えませんが今回の映画の主人公である「ふみ子」などは、そうした存在の子どもと言えましょう。

鈴木理子さんが以前出演された「がきんちょ リターンキッズ」なども、中心となる3人の子ども達はそれぞれタイプは違っていても、やはりライフインデキスたる存在として描かれていました。

そうしてそんな子どもに育つ上で大きな役割を持つのが「お年寄り」の存在です。現実対応の中で子どもは成長しながら「夢の部分を切り捨てる」ということを絶えず要求されるわけですが、核心を捨ててしまうと心貧しい大人になってしまう・・・ただ、感性が豊かだったり夢の世界を持ち続けようとする子どもほど、今の学校や社会に不適応の烙印を押されかねません。問題行動を起こさないまでも「自分って子どもっぽいからダメだな」と自己嫌悪を抱いている子は私の教え子にもたくさんいました。

そんな子ども達にほど、現実対応の人生を超越した「お年寄り」という存在が守り神のような感じで必要なんです。(昔は自分の家族のお年寄りばかりではなく、近所の方々、あるいは地域社会そのものにそうした機能がちゃんとあったわけです)

NHKでの「ちゅらさん」で、主人公の恵理と おばぁ の関係などまさにこの関係です。ちびまる子にとってはおじいちゃん、がきんちょにもジジ、・・・。

勿論実年齢でのお年寄りということばかりではありません。現実もふまえた上で、でも夢の世界というか、非現実の世界も大切にしている方々の存在が子ども達には必要だということです。実際にふみ子の海ではそうした人達がたくさん登場します。麩を売っているおじいさんもそうだし、盲学校の先生やそのお父さん、芸者のお姉さん、お坊さん・・・・ふみ子に現実対応を厳しく迫る師匠だって、本家の旦那さんだって大切なものは見失っていない存在です。

それがあるから、例えばこの ふみ子 のように日常生活は今の子ども達には想像も出来ないくらい超過酷な現実生活なのに、心の豊かさはどんどん高められている・・・日本人は昔からこの目に見える世界は「現世(うつしよ)」と呼んでいました。「目に見えない世界・・・イメージ・意識・念等々によってできている世界」がそれこそ映画のスクリーンに映し出されているようなものと捉えていたわけです。だから意識世界が変われば現実世界の受け止め方も変わる・・・過酷な生活も過酷には違いないですが、その位置づけが変わるから目に見えないところで何かが変わる・・・。

この映画のふれこみが「本当に大切なものは目に見えない」というのはそういうこととも関係しているんだろうと私なりに解釈しています。


オバサマ方の反応に戻ります。距離を置いての舞台挨拶では「しっかりとした綺麗なお嬢さん」と受けとめられた理子さんが、今度は間近でみてみると「なんて可愛らしい子なの!」とオバサマ達を大いに感動させていた、というのが私にはとっても興味深いことでした。

それは理子さんが相反するような魅力を同居させているということですよね。どちらの面も自然に出せている・・・ブログで「自分にだってよくない面がある」ということを時折ふれていたことがありますが、それは人間としては当たり前の姿ですから何の引け目を感じることはないと思っています・・・「様々な面があって当然」という、やはり日本古来の常識世界が理子さんにはちゃんと形になっている、それをオバサマ達は直感していたようです。

サイン会では私もして頂きました。私も仕事柄何十年も様々な子ども達と出会ってきていますが、間近だとその自然体の良さが一段と、と感じるくらいした。


☆サインの順番を待っている間に、鈴木理子さんのお父様の言葉を交わす機会を得ることができました。とっても温かいというか、こちらの緊張を自然に解き放してくださるような雰囲気の方でした。

芸能活動で普通の子とは違った現実対応に小さい頃から迫られてきている理子さんが、こんな自然体を保って成長してきているというのは、改めて考えるとすごいことだと思います。

その理由の一つにお父様の存在も大きいんだな、と思いました。


コマチちゃんのトトとは雰囲気はだいぶちがうけど・・・

「本当にいい雰囲気の親子だな・・・いいな!!!!!!!」


さて、最後に今回撮った90%以上を占める失敗画像のごく一部を紹介します。

画像処理でぼかしているのではありませんからね!!!


*「ふみ子の海」公式サイトでも今回の様子が紹介されています。

http://fumikonoumi.com/news/log/eid93.html