平成6年度2年2組言葉のスナップ集
ゆきのとうより

文集のタイトルの元になった「ゆきのとう事件」はここ



この学校では低学年を男の先生が担任するのは数年ぶりということ。また私としても初めての低学年担任でした。さて、どうなったでしょうか?
 1学期(4月編)

このページにある作文題名一覧(作文は原則として抜粋です)

イメージ作文「あな」  イメージ作文「るすばん」  イメージ作文「つぼ」(書いている時の様子のみ)


コラム欄

これが膨大なためにこのページは大変読みにくくなっています。

「イメージの時間性」(その1) 2年生は中学年? 約束の統一が万能か?  責任ある発言  直感する心  席替え  「夢の世界」と「現実の世界」  おうちの方々へ「イメージ作文の意義」  「大人の言う通りにする」ということ  みんなと違う意見  落書き  留守番作文からわかること  算数のコツ「やくそく」  自分から気をつける心


 
4月6日
* 始 業 式
 式が終り、列の先頭に立って行こうとする先生に元4年生から「先生、しっかりね!」という、ひやかしのような励ましの声。先頭を歩いた感想。「うーん、小さい・・・」それはそうである。ついさっきまでは新5年生の前でしゃべったりしていたのだから。その落差は大変なものだ。冗談ではなく、教室につくまでにうっかり足など踏みつぶしてしまわないように気をつけて歩いた。


* ビデオカメラ片手に教室に入っていく。
N・S「オオー!」H・I「やっぱり持ってくると思った!」
「もう慣れているよね。ビデオカメラにはね。」と聞くとT・T「慣れてる。」H・S「慣れてなーい。」そこで去年算数の研究授業で先生がビデオ撮りした話をだす。「1組も2組もどっちにも撮りにいったもんね。1年の時。」
M・K「でもさ、何でそんなおっきいの?」

M・AさんやY・T君は盛んにカメラに愛嬌をふりまく。カメラをセットし終わる。「さて、じゃあ、ちゃんと前を向いてみよう。」みんな机を整理しながら前を向く。「どうだい、ながめがいいでしょ。」と聞くと口々に「よくない。」「下よりはよく見えるでしょう。1階よりは。」「よくない。」「つかれる。」「下におちたらつぶれる。」・・・話題を変える。

「さて、じゃあ、一応・・・先生の名前を知ってる人?」ほんの4〜5人。あとはみんな「忘れちゃった。」「知らなーい。」そこで「じゃあ、ちゃんと、覚えて。」と板書しようとして、ふと思いたって聞く。「漢字で書く?」すると「いいよ!」「やだ!」と入り乱れる。「じゃあ、先ず漢字で書いてみよう。」板書。「何だ?」何人かは一部の読める漢字から想像する。しばらく読み方の当てっこ。いろいろな名前になってしまう。
「みんなの名前は大掃除の後、じっくりと聞かせてもらうからね。」と言うと
「え−っ!」
「じゃあ1年間みんなの名前知らないままでやるの?授業でどうするの?」「知らない。」「はい、そこのアンタ、ってやるの?」みんな笑う。ここで黒板に書いた名前を消してしまう。みんな大騒ぎ。「目をつぶってごらん。じゃあ、先生の名前が頭にうかぶようになった、っていう人、手を挙げて。」ほとんど手をあげ、口々に名前を繰り返し言ってくれる。「ちゃんと、うちに帰って担任の先生は、って聞かれたら答えるんだよ。だめだよ、わかんね!何だか知んねえけど太った男!なんて言ったら。」みんな大笑い。


* たぬき学級恒例、というか、この学級になった人達が必ず初日にくぐる試練の荷物運び。「先生の荷物が前の部屋にいっぱい置いてある。どのくらいいっぱいかっていうと・・・」H・I「100個?」はっきりとは答えず「ものすごくいっぱいある。」みんなざわめく。H・I「えー!じゃあ1万個!?」以前教室に来たことのあるA・Sさんが「見たことあるよ。私・・・」と言っても男の子達はもうイメージの世界。現実的な話しには耳をかさない。Y・K「地球全部?」と興奮して言うので「地球全部は入りきれないんだよな。教室に。残念ながら。」H・I「じゃあ、地球全体?」「地球全部を入れてみたら面白いな。」するとT・Tさんも「おもしろい!」M・Kさんは「でもみんなでは持てないよ!」夢の世界は広がってH・I「そうだ!荷物が地球だったらおもしーなー。荷物が地球に変身しないかな。」先生「荷物が、地球?使えなくなるよ。」するとM・Kさんが、他の先生の荷物の中に地球儀があるのを見つけ「あそこに地球あるよ!」先生「そうか、あの中にみんなもいるんだ。どこかな?」Y・T君が「どれどれ」と見にいくと、10人くらいがドドドドッと寄る。大そうじになかなか入れなかった。ここでやっとT・H君から「ねえ、どこ掃除するの?」と現実的な質問。「そうだよ、おーい、掃除の話したいから、ちょっと地球から離れなよ。」とみんなを呼び集めるとT・Tさんが「何で地球から離れちゃうの!」Y・T君も「地球から離れるって言っても、ここ地球だよ。」でもあえて知らん顔をして「地球から離れる事ができた人は、きちんと前を向いてごらん。」というと、条件反射のように2人もパッと背筋を伸ばす。それを見届けてから「もっともな、地球から離れたら、みんなは空中に浮かんでいなければならなくなってしまう。」というと、T・Tさんは笑って「うん、おもしろーい!」もちろん、その意味がわからない人も沢山いました。


 掃除な話がしたくても別世界に入って雑談をしている人達がいた。「おい、早く掃除の世界に入ってくれ。」というとみんな笑う。その人達も笑う。(いいね、このムード)やっと掃除分担の話。その中で「ろうかもピカピカにね。2年2組の前はどうしたんだ?あんなにきれいで、っていうくらい」「そんなにはふけないよ。」「大丈夫だよ。100回くらいみがけばきれいになるよ。」するとみんな力いっぱい「エ−!」T・T「掃除がおわっちゃうよ。」「おわっちゃうな。じゃあ、10回ぐらいでいい。」T・T「ガクッ」


次に校舎外の掃除分担地図を見せる。「これ、どこかわかるかな?」「教室!」「廊下じゃないの?」「どこかな?」みんな悩む。校舎前の通路を地図ではなかなかわからない段階ということがわかる。「しょうこう口」のことを「しょうぼうしょ」と言った人がいてまた中断。ちょっとしたことでこの調子。

みんなが分担されている場所はお客さんさんが通る場所だという事を強調。「石崎小がきれいな学校と思われるかどうかは、みんなの手にかかっているんだからね。」と言うと「手?」と不思議そうにみんな自分の手を見る。

 学級文庫の本運び。とにかく分量は半端ではない。「まだ持てる。」「大丈夫。」とみんな言う。無理そうでもまずは本人たちの言う通り渡す。2〜3歩行かないうちにバラバラと落としてしまう。こっちをばつの悪そうな顔をして見ながら「やっぱりだめだった。」でもこちらが気にしないでいるのをみて、ほっとしている。教室に戻ってきてもどこに置いていいかわからずウロウロ。こんなふうにしながら、だんだん自分の持てる量に見通しを持って、重すぎもせず軽すぎもせずに持てるようになる。

教室に行ってみると、窓際のたなの上に大きい本、小さい本、関係なく置いてあるために今のも崩れそう。ただみんなヘトヘトでそれを整理する手伝いは無理でした。

* 1組の人達が教科書を持ってきてくれる。「おれ、そんなのいらない。」「わたし、いる。」なんていうふうにざわつく。
「まあ、せっかくだから、これで2年生らしくかしこくなろう。」と言うと
「何それ?」
また「算数。たのしいさんすう、だからね。」と強調すると
男の子を中心に「楽しいかね?」「おいら楽しくない。」「おらも。」
せいかつの教科書をみんなに配る前に見ていると「先生ずるい!」と非難の集中砲火をあびる。算数では誰も言わなかったのにね・・・。
H・I「先生がずるいと思う人、手を挙げて!ハーイ!」しかし、手をあげてくれた人は2〜3人でガックリ。


・・・いやー、なつかしかったです、この言葉。「手を挙げて、ハーイ」先生が低学年の頃もみんなやっていました。小学生の伝統ですね。そのくせ、3年生くらいでは、まずやらない。それも面白い。
   
* ちょっとここでお説教についての話し。
「怒ったら女の先生よりは、きっと迫力はある。・・・悪い事をやったら正々堂々怒られな。・・・自分な頭でしっかり考えて、やってみたら失敗しちゃった、一生懸命にやったんでけどずっこけちゃった、っていう時には先生は怒らない。・・・休み時間は先生は教室にいてわりとみんなとふざけたりもするけれどね、授業になったら、そりゃ厳しくはなるよ。せっかくみんないい頭をもっているんだから、しっかりときたえないとね。・・・」なんていうことを話す。この時はみんな緊張した雰囲気になる。

* 教科書を配る前に、明日の入学式から、みんなも学校の中で「お兄さん」「お姉さん」と呼ばれるようになることを話し、1年生とは違うという自覚への心構えを高めようとする。その上で、お兄さん・お姉さんとしてどんな勉強をしていくのか見てみようと教科書を配る。「どれから配る?」一斉に声があがる。「図工!」「せいかつ!」だまって静かにする合図を出したとき、パッと反応して静かになった人に希望を聞く。「算数。」多くの人が「エー!」という声。「算数きらい?」「うーん!きらい!」「すきー!全部すきー!」「算数きらいっていう人、手をあげてみて。」半数くらいが手をあげる。「自信をもって挙げちゃう。」「きらい!いっちばん!きらい!!」好きな人にも手を挙げてもらう。「すきー、かけざんがすきー。かけざんならう?」「習うよ。」「ヤッター!」


だいぶ嫌いという声が多かったので「でも、先生がみんなの勉強をビデオで撮りに行った時、みんな一生懸命楽しそうにやってたじゃない。きらいなんて言ってるわりには。」と聞くと「だって、面白い時と面白くないときがあるんだもん。」

 これは、単に「すきか、きらいか」という2つに一つという発想から一段高まったとらえ方ですね。だからこんな言葉を付け加えました。「そりゃ、そうだね。先生だってこわい時もあればふざけた時もあるんだから。それとおんなじだよ。」

 配られた算数の教科書を何度もめくりT・H「かけ算がない!」「残念だったね。あれは下巻なんだよ。まあ、楽しみにしてなよ。」 
「パラパラめくってみて。もしおかしな所があったら取り替えて、って本屋さんに言わなくちゃいけないから。」すると驚いたように「本屋さん!?」「そう、魚屋さんには教科書は売っていないんだよ。」そしたら余計に「ああ?」「魚屋さん?」そこで言葉を重ねる。「肉屋さんにも売っていないんだよ。」ここで最初に「本屋さん?」と真面目に聞き返してきた子が「服屋さんは?」と今度はわざとわかっていて聞いてくる。

 全部そろっているか確認を済ませた後「じゃあ、カバンにしまって。」と言うと、しまいながらT・H「これ、カバンじゃないよー!」H・I「先生!カバンじゃなくて、手さげなんですけど!」

* 自己紹介を始める。「おら」と言う言い方をしていた人に
「休み時間ならそれでもいいけれど、今はちゃんとした時間だからきちんと僕・私、っていう言い方をして。」と話す。これでまた「おれは、おれって言ってる。」「うちでいつも、おいらって言ってる。」などと話しに花がさく。
    

 本日、最後のしめくくりの言葉。
 「今日から新しいクラスがスタートしたわけだけどね、先生の願っていること。なるべく学校を休まないでかよえること・・・先生の気持ちとしてはね休みの人がいるとね授業を進められなくなっちゃうのね。進んだらかわいそうかなとか、休んでいる時楽しいことしたら悪いかな、とか思っちゃって。それでいつも授業が遅れてしまうんでけども、なるべくみんなそろっていてまじめな時はまじめに、ふざけていい時にはふざけなざらいっしょにすごしていきたいと思います。

 ちょっとね、うちの人はびっくりするかもしれない。ここ何年間か男の先生が2年生を担任することはなかったらしいから。みんなはどう?男の先生になるんじゃないかって思っていた人、いた?」「ハーイ!ハーイ!」と3分の1くらい手をあげる。「へー、なかなか勘がするどいね。先生は全然予感してなかったんだよ。校長先生に言われてびっくりしたんだから。でも、先生も一生懸命やるつもりだから、よろしく伝えてください。」
        
 
イメージの時間性(その1)H8、12、17記
 
こんなふうに書くと何だかむずかしそうですが、いつもみんなが感じていることです。現実の時間の流れと、イメージの世界(夢の世界)での時間の流れは違う、というのが「その1」です。つまり、夢中になっている時にはアッという間に時間がたつくせに、きらいな勉強の時にはなかなか時間が進まないように感じる、ということです。ファミコンなんかをやっていると1時間、2時間はアッという間に過ぎるでしょう。それです。この日、大掃除にしても、教科書配りにしても、自己紹介にしても、先生は時間の配分が大きく狂ってしまいました。みんなとのおしゃべりで、先生自身も夢の世界に入ってしまい、現実的に時間を考えながら予定通りに進めることがうまくいかなかったんです。でも、それが楽しかったのも事実です。分刻みの学校の流れではなく、イメージの時間の流れで低学年を担任できたらどんなにいいだろうな、なんて考えていました。みんなが帰った後、どっと疲れましたが、それは、無理やり現実の流れに合わせようとした事からの疲れでした。   

7日(入学式)
 
黒板にこう書いておく。
「みんなが学校にかようようになってから、きょうでちょうど(     )がすぎました。」
 1番に来たY・K君。「何だこれ?」「何ていう言葉が入ると思う?」「うーん、わかんない!」

* やたらとハアハア言いながら入ってきたM・SさんとY・Sさん。「何を疲れきってるの?」と聞くと「かけてきたの。」教室を見渡し「ああ、片付けたの。(すぐに黒板の言葉に気が付き読む)」2人「ハテナ?」

*きのう沢山あった衣装やお面の中で不気味なものは隠してしまっていた。
Y・K「あれ?おっかないお面は?かぶりたい。」
「ほかの人がないちゃうでしょ。」するとあきらめて魔女のとんがりぼうしをかぶり「勇者!」とかっこつける。
 M・Sさんも興味を示し、Y・Sさんに「ねえ、あれで遊ぶ?」と誘いをかけるが、既には沢山の本をながめて別世界。「ねえ、本読んでいい?」と言うが早いが本に寄る。仕方なしにM・Sさんも本を読み始めるがすぐに夢中になる。

* やけに体の大きな2年生が沢山いると思ったら担任したことのない学年にもかかわらず3・4年生が教室に大勢来ていたことに名札で気が付く。やたらといろいろな物をみつけだす。2年生の1部もどんどん真似を始める。そこに去年担任した5年生も来て教室はごったがえす。ただ、思ったよりは2年生の多くは暴走状態にならなかった。

*金髪のかつらをつけた3年生を指差し
 T・T「ねえねえ、おかまがいるよ。」

*登校してくるなり寄ってきて、わりと真面目な顔で
 H・S「お姉ちゃんが早く結婚しな、だって。」注:お姉ちゃんは以前担任した。
* 時間になったので、教室にもどるように言う。きちんと片付けなかった3年生がいたので「さんざんいたずらしておいて・・・」とぼやくと、すかさず
 M・K「さざんが1!」

 こうした言葉への感覚(さんざん→さざん)がこの時期とっても大切!みんな答えが「3だよ」「9だよ」とかいろいろ言っていましたが、本当はそんな事よりも、「語呂合わせの面白さ」に反応をしてほしかった。

* 黒板の言葉について考えてもらう。みんな悩む。やがて
M・A「1年生」
 これが突破口になってみんなひらめいた。
 「1ねんがすぎました、だ!」と口々に言い出す中で
H・I「1年間」とするどい意見。
「うん、それだよ。1年でも、もちろんいいんだけど1年間、って言うともっといい。みんな、どうしてかわかる?」「・・・?」「あのね、もうこれ、算数の授業に入っているんだよ。」と言うとみんな驚く。
「エー!国語じゃないの?」「算数だよ。」
 3年生で習う「時刻と時間」につながる話です。

*「さあ、1年間すぎちゃった。去年のこと覚えてる?」「覚えてる!」「覚えてません。」「しらーんけん、しらーんけん。」

「ちょうど去年の4月の7日の日、入学式で来たんでしょ。1年生をみながら、丁度1年前、自分はどんなふうにしていたかな、ってしみじみ眺めてもらいたい。」


 入学式の会場に行く時間になったので、中途半端になってしまったが、先生のねらいとしては「去年の自分やみんな、今の姿、新入生」の3つを比べて、この1年間の成長を感じ、2年生としての「気位」を高めてもらおうと思って、朝から言葉を書き、写真を用意したんです。

* 休憩中、はちゅう類の写真集をみた何人かがトカゲやヘビで盛り上がる。特にヘビではH・I君、Y・T君がかなり興奮。

* 手首の捻挫で「先生は今、夜はシップを貼ってねている。」というと、びっくりしてH・I「しっぽつけて寝てるの!?」

2年生は中学年?
 
先生のイメージとしては、2年生というのは「中学年」なんです。これは学生時代に学童保育所の臨時職員を随分とやっていた影響です。学童保育所とは、お母さんなどもつとめているの子どもを夕方まで預かる小学生のための保育園です。1年生から3年生までが入所しているんです。そうすると、2年生は丁度まん中なので、それなりにしっかりとした態度が要求されるんです。

 分校でも2年生は中学年扱いでした。だから掃除なんかも、4月から例えば男子トイレは2年生が一人だけで掃除です。ほうきで掃いて、水をまき、ぞうきんがけをする。たった一人できちんと出来ていたんです。

 さらに言えば、分校では2年生・3年生どちらも普通の学校の高学年並にしっかりと出来ていました。それだけ「自分達がしっかりやるんだ!」という自覚を持っていたからです。その分校は「小人数では本校の様に大人数ではないので十分な教育効果が期待できない」という理由でなくなったわけです。

 ならば、本校では、分校の子ども以上に成長していなければウソになる。でも実際は2年生は低学年としてしか活動していないようにしか感じられませんでした。立場として上級生が6年までいるから、そんな自覚はもてなくて当然なんですが、あそこまで分校では効果があがらない、と言われてしまった。でも分校の子たちはすごかった。「きっと子どもには、誰もそんな力が隠れているんだろう。ただ発揮する機会がないだけなんだろう。」そう思ったんです。

 「じゃあ、機会を作ろう。そしてどこまで可能性があるのか試そう。」そう考えてみんなに向かっていっていたんです。それで「気位の自覚」に2日間こだわったんです。ただ、まだこの時点では、あまり反応はありませんでした・・・。

8日
* 朝から5年のEさんたちが来ている。盛んにおなかをたたいたりしてくるが、2年生はまだそれをながめているだけ。

* 係を決める。先ず1年生の頃にどんな係があってどんな仕事だったかを聞く。これが大変でした。たとえば「給食係」「どんな仕事をしていた?」「給食をだしたりね・・・」「黒板のカーテンをしめたり・・・」「エー!違うよ!」

 ここから、ああだった、こうだったともめる。よく見るともめているのは元1組だった人と2組だった人同士。「あのね、1年1組と2組では約束がちがってたこともあったのかもしれないよ。」といろいろ話すと、だんだん紹介しあう雰囲気になる。


約束の統一が万能か?
 先生が前にいた小学校は、外国で暮らしていた子どもがわりあいと多かったので、文部省の国際教育帰国子女研究協力校に指定されていました。先生もアメリカ帰り、カナダ帰り、シンガポール帰りの子や、中国人の子どもを担任しました。そうすると、習慣の違いというものを改めて感じました。
 よく、クラスが変わって混乱しないように、約束はなるべくどのクラスもそろえるのが大切、と言われます。この学校ははそれほどきつくなかったですが、学校によってはかなり厳しく全クラスをそろえているようです。
 よく出張に行って、先生は○○市の先生方と意見がぶつかりました。先生は子どもを基準に考える方針です。だから、みんなから要望がでたことはなるべく取り入れていきたいと考えます。ところがそうしたことは、その地区の先生に言わせれば「無計画」「教師の立場がきちんとしていない」と言われるんです。先生に言わせれば、子どもからわき出てくる豊かな発想を柔軟に取り入れていく事も計画のうちなんです。 中学校の先生には、こうも言われました。「そんな風に小学校で勝手にやる先生がいるから、中学校でいろんな学校から来た生徒のやり方がバラバラで指導ができなくなるんです。」随分とベテラン風の先生でしたが、ため息が出ましたね。どうしてそこまで規格を統一したがるんでしょう。学校によって違いがあって当然!むしろどうして「じゃあ、それぞれの学校のやり方を紹介してください。そうしてそれぞれのいい所を合わせて、このクラスのやり方をみんなで作ってください。」と投げ掛けられないのでしょう?それが人間関係の勉強の機会でしょう!「不揃いは悪」なんてやっているから、ちょっとみんなと違っているだけで仲間はずれになったり、いじめられたりするんです。
 これからみんなは、よその世界の人達ともますます一緒に協力しなければ生きていけません。そのためにも、クラス(学校・家・地域・国)によって約束や習慣は違う、ということを認めて、その上で新しいクラスになったら、お互いの約束を上手に組み合わせる練習をしてほしい、と思ったんです。
 それの積み重ねが、他人の立場を尊重しながら責任のある行動のできる大人への道だと思うのです。
 もちろん、あまり簡単に約束をコロコロ変えては、それもまた生活が安定しなくなります。そのバランスですね。だから一度決めたことは責任をもって実行してみる。しばらくは続けてみる、ということも一方では必要です。


 でてきた係を見て、みんな「〜係がいい」と口々に言い出したが、その前にひとつ要求してみる。「2年生になってみて、こんな係を新しく作ったらどうかなとか、この係はもういらないんじゃないかなとか、この係とこの係をくっつけてしまったらどうだろうとか、意見があったら自由に出して下さい。」するとさっそく

M・A「生き物と花をくっつけたらいいと思います。」
Y・T「ねえねえ、生き物ってどこにいるの?」
 「たしかに今のところはいないなけど、これからのことを考えて言ってくれたんだよ。だからそうした頭で受け止めて。」
A・S「配りと整頓。」H・I「黒板と体育。いや、黒板と保健の方がいいな。」
みんな「えー、何で?」「くっつけられないよ。」先生はそのまま続行。
 J・T「給食係と黒板係をくっつける。」T・T「えー、くっつけられる?」あまりに意見を言った人が「変だ」の集中砲火を浴びているので「くっつけようと思えばくっつけられるよ。」みんな「???」「さっきみんなが給食の仕事で黒板なカーテンを閉めるって言ったでしょ。だからついでみ黒板の他のこともやってしまおう、って考えればくっつけることはできるよ。」H・I「くっつくのかな・・・」T・T「でも、給食の時だけだよ。」「だから、給食以外の時にもやったらどうか、ってことだよ。」「ああ、そうか。」

 ひとつひとつ整理していく。「じゃあ、この2年2組としては花と生き物はどうしますか?」みんな「くっつける!」

 給食と黒板は別々がいい、という意見が多いので理由をきく。H・I「やっぱり、保健と黒板がいいな。」みんな「えー!?」ここはみんなにすぐにストップをかける。「ただ、エーとか言うのはなしにしよう。違う考えの時にはきりんと理由を言えるようになろう。それが反対する時の礼儀だからね。」みんな静かになってしまう。


責任ある発言
 気分にまかせて賛成・反対を言い出したのは、それは話し合いとはいいません。はっきり言って日本人は話し合いが苦手です。それは歴史的な背景もあったし、議論をしない事のプラスの面を日本人が大切ししてきたからなのですがこれだけ世の中が複雑になり、いろいろな考えの人と協力していかなければ生きていけない世の中では、きちんと理由を述べる力も身に付けておく必要はあります。そして、話し合いという形式よりも、かつての日本人らしく振る舞った方がいい場合にはそうすればいいし、きちんと考えを主張し合った方がいい場面では話し合いのルールをきちんと守るべきなのです。そのどちらも出来るようにしておく事が大切です。

 もう一つ、気分にまかせてばかりいると、自分な話していることがバラバラになっていってしまい、信用を失うんです。これは大人になっても大変多い。新聞やテレビにも大変多い。そしてみんな自分が正義の顔で話しているから余計に大変なんです。 例えば、テレビ。「学校では思いやりのある心を育てていない!」と批判しておきながら、バラエティー番組では人の失敗や体・顔をバカにしたりあざ笑う番組を平気で放送しているんです。

2年生などの低学年のころは、まだまだ夢の世界に住んでいますから、気分なまま、イメージの暴走するままにしておけばどんどん言葉は出ます。ただ、それが友達を傷つけても気が付かない。夢中ですから。話し合いの時「きちんと理由をいうこと」となると、気分のままではなく、ちょっとブレーキをかけて「考える」ことをしなければならない。それでこの時もみんなは黙ってしまったんですが、それでもこれは心を自分でコントロールする大切な勉強でったんです。

 「理由は浮かばないか。」みんな「うん。」「理由はうかばないけれど、一緒にしない方がいい、って感じがするのか」みんな「うん。」

直観する力
 今、責任ある言葉として「理由をはっきと」なんてコラムに書いてまだ数行なのに、今度は「理由ははっきりしないけれど、というのも大事」ということを書きます。何だ、先生が一番無責任な言葉を言ってる!なんて言われそうですが、これが上にも書いた「議論をしないプラス面」の一つなんです。

 「直観」です。昔風に言えば「神のおつげ」「おみちびき」「託宣」あるいは「霊感」なんて言うこともあります。西洋では「インスピレーション」なんて言います。今、はやりの言葉では「ひらめき」ですね。

 科学的に言えば、右側のイメージ脳の働きによるものなんだそうですが、日本でも外国でも、神やあの世の偉大な人間の魂からのメッセージととらえてきました。だからこの世の人間のレベルを越えていることなので、理由ははっきりとしない、でもそうしてみると上手くいく、というものなんです。みんなにとって身近なのは「予感」ですよ。理由はわからない、でもそうした方がいいという予感がする、ということがあるでしょう。そして、その通りにしてうまくいったり、その通りにしないでうまくいかなかったりすると「やっぱり」と思ってしまう。それなんです。

 発明王エジソンも「天才とは99%の努力と1%の霊感(インスピレーションである」と言っているし、偉大な科学者も「ひらめき」が先で、後から理由は考えていった、という人がたくさんいます。先生の先生は、それを「イメージの予見性」と言いました。この力を伸ばすのもまた、大事なんです。だから上にも書いたでしょう。使い分ければいいんです。そして先生としては『直観』の方がずっと大切だと考えています。だから『理由がうかばない』というみんなの気持ちも尊重する上で、こうしたやりとりをしたんです。

T・H「理由はうかぶよ。黒板をけしたりして、よごれた手で給食をやるときたないから。」Y・K「よく考えてみたらそうだなあ。」T・T「そりゃぁ、そうだな・・・」それで「たしかに先生の手も今よごれているな。これでみんなの頭をなでてやろうか。」と言いながら教室内を歩く。大騒ぎ。これで、給食と黒板は離すこととなる。

  黒板と保健について。
Y・S「あのね、だれかけがとかした人がいた時にね、黒板をやった手でつれていってあげようとするときたなくなる。」保健も給食同様に衛生が大切ということに目をつけた発言がさっそく出ました。
H・I「先生、やっぱり体育と保健。」M・A「うん、くっついた方がいいと思う。」J・T「やめた方がいいと思う。」Y・T「理由は思い付かないんでけどなんとなくそう思う。」多数決で体育と保健がくっつく意見が大勢をしめるが、反対者は納得しないで時間がたつ。とまったままなのでこちらで妥協案を出す。「くっつけよう、という人達が多かったから1学期はそうしてみよう。それで、もしやっぱり変えた方がよかったら、2学期にまた話し合おう。」


 配りと整頓について。やりとりの中に「ヤダー!」という感情論と「何かおかしいよ。」という理性論が混ざる。「どっちでもいいよ。」という人もいる。理由はどの立場でもはっきりしない。多数決となる。くっつけることになる。
「じゃあ、配り・整頓係にする?それとも整頓・配り係にする?ちょっと口に出して言ってみて。言いやすい方にしよう。」これも、多数決で「配り整頓係」にはなりましたが「感じ方」ですから、どっちが正しい、というレベルの話ではないんです。本当は。

 2年生で初めての話し合いでしたが、いろいろな意味での手応えははっきりとありました。

* 席替えはどうするか尋ねると、みんな「先生が決めて。」と言う。そうはしたくなかったが、雰囲気からこの点は1年生からの流れにのった方がよさそうだったので、そうする。原則として1班4人。男女それぞれ2人。同性同士は元違うクラスにする。

 先生が決めて、と言ったわりにはところどころから一緒になりたかった人となれなかったボヤキが聞こえてきたが(それも当然だけどね。本音と建て前は違うから。大人でもそうなんですから、みんなはなおさらです。)「新しい友達を作るチャンスにしてください。」としめくくる。

「先生、今度はいつ席替えするんですか?」と早くもそんな質問が出たが「次は2学期。1学期はこのままだよ。」と答える。
 みんな「エ−!」

席替え
 これは担任の先生によって大きくやり方が変わるものの一つですね。この学校の会議でも話題になった事がありますが、ずいぶん違っていました。

 先生のやり方の原則は「学期に1回」「班の組み合わせは男女混合で男女隣同士」「仲良し同士くっつけるか、仲があまりよくなくてもくっつけるかは、その時のその子どもの段階で判断する。」の3点です。

 学校はみんながりっぱな人間として成長する場ですから、すべてがそうしたねらいとつながっていなければならないんですね。席替えもそうです。さっきも書いたように、これからのみんなはいろいろな考え方の人間と協力していかなければならない時代に生きていきます。それから考えると、小学校の時代から、いろんな人、特に気の合わない人とも協力しあうことに慣れていなければならないと思っているんです。お互いの持ち味を生かし、組み合わせる練習が必要なんです。

 先生やみなさんの家の人が小学生だった時代は「高度成長期」といって、工業もオートメーション時代になり、どんどんみんなが同じ事に力を合わせて大量に品物を作る時代でした。そこで大切だったのは「能率」といって、いかに無駄がなく短い時間に沢山の正確なことができるか、という事が重視されました。だから、みんなやり方もきちんと揃えなければいかなかったんです。いろいろなやり方なんてやっていたら人から遅れてしまったんです。だから学校でも、どんどんやり方を教え込んでしまったんです。(これについては、後でくわしく書きます。)

 「席替え」についてもそうでした。どんな組み合わせでグループ(班)を作ればケンカもしないで、始めから仲良く作業が出来るか、という考え方です。たしかに人間には相性なんかがあって、組み合わせによっては全然うまくいかない事があります。だから、すぐにこの事を進めなければならない、という時には、この考え方も優れてはいるんです。

 ただ、これを教室での席替えに取り入れるのは先生は反対なんです。教室は物を生産する工場ではないんですから。豊かな人間が育つ所なんですから。能率主義で席替えをするのによく使われる調査方法があります。パソコンのソフトでもグループ作りのがあると研修で紹介されたことがあります。学級がスムーズに動くようになったという話でしたが先生はこれは取り入れていません。

 こんな考え方で小学生からずっと育ったら、一体どんな人間になるでしょうか。いつも組んだことのない人、気が合わない人とどうしても組まなければならない時どうなるでしょうね。いじめや仲間はずれがでて当然です。意見が対立したときに、どうすれば対立を乗り越えてまとめられるかもわからないんです。

 人間関係が広がるほど、気が合わない人と出会うのが当然なんです。真剣に物ごとを考える人どうしであればなおのこと、お互いに自分の考えをはっきりと持っていますから意見がぶつかって当然なんです。

 先生は「本音を出す」ことを大切にしてもらいました。まずお互いの本音を認め合う。そうすると意見が全く同じなんてことはありえない。一人一人違う人間なんですから。それが4人いればなおさらです。みんなが本音を出し合って、ケンカになっても仲直りをしながら話し合いを続け、協力して活動できるようになるのには、どうしたって何か月かかかるんです。だから席替えは学期に一回でした。

 もちろん、先生の考えがすべて正しいわけではありません。何回も席替えをする先生方は、いつも同じ人でなく、いろいろな友達と同じ班になる経験をしてほしい、という願いで行っているわけですから。だから先生に担任された時は乗り越える練習、席替えが多い先生に担任された時は短期間にいろいろな人とパッとうち解け合える練習、そう考えてくれるのが一番いいでしょう。

 席替えでは必ずら男女を別々にするやり方もありますが、先生が一緒にこだわっているのも同じ理由です。また将来、男女協力して「家庭」という世界を作らなければならないということもある。男女協力も当たり前、という心をもってほしいから、男女を隣同士にするんです。元違うクラス同士にしたのも、もうわかるでしょう。

 とにかくやり方・考え方はいろいろだし、いろいろな担任の先生、できれば考え方やタイプが違った方が慣れるのには大変だけれどもいい勉強になると思いますよ。その方が中学校に行って科目ごとに先生が変わりやり方が変わっても自由に接し方を合わせられる豊かな人間になれると思います。(世渡り上手になるのとは違うので注意してください!)

* 国語。教科書のはじめにのっていた「たんぽぽ」の詩
「たんぽぽさんって、まぶしいのね。  ひまわりさんの子で  お日さまの まごだから。」と、ちょうちょうが きいた。 たんぽぽは、 うふんと わらった。     
 これを読んだ時、M・Kさんが先ず大きな声で笑い出す。何人かも笑いが止まらなくなってしまう。「どうしたの?」「だって、うふん、っていうのがおかしいんだもん。」と顔を真っ赤にして笑いながら何とか答える。

 日本語の「音」への感覚がとっても豊かなので驚いたんです。この時。日本語の基本は音声なので、これに対して豊かに心やイメージを動かせるようになっているかは、大きなポイントなんです。

 ここで、みんなの音感を試したくなり、予定を変更して(本当はここは場面のイメージを中心にやろうと思っていたんです。)「うふふ」を四角で囲み、他にどんな言葉が笑い方として入るのか出してもらった。
 「げらげら」「がはは」「ぱぴぷぺぽ」・・・次々と出て、そのたびにみんなはそんな笑い方をしているたんぽぽの顔や姿を想像してしまう。みんなイメージに火がついて、教室が意見と爆笑の渦になる。チャイムが鳴った後、みんな笑い疲れて汗を沢山かいていました。

11日
*元担任されたお兄さんからいろいろと情報を仕入れてきたY・Sさん。
 「ねえ、ドラマやるの?」「どうする?」「やりたい。」「じゃあ、やろう。」
「いつから?ねえ、いつから?」「うーん、いつからだろうね・・・」「あしたやろうよ!あした!」

* どうしてもトトロの着ぐるみパジャマを着てみたいというY・Kに着せる。わきにいた女の子達、「いいな、いいな。次、私たちにも着せて!」これで結局、希望者はいろいろな着ぐるみパジャマを着る。

 牛の着ぐるみパジャマのしっぽがとれている。「とれたの?」と聞くと「とれてた。」・・・細かい言い回しの違いにこだわる事ができるんだな、と思いました。

 ウルトラマンの着ぐるみパジャマを着ようとするが、もつれてしまってなかなか着れない。「着方がわかんないか?」と聞くと「知ってるー!」しかし、全然着れない。「そうか」と言ってそのままにする。

「先生、このまま音楽やりたい!」の声。今日はOKとする。
 ドイツ語でのかえるの合唱もカタカナでやってみる。普通ではないスタイルでいつも以上に夢の世界に入って音楽ができる。始めは「エー!ドイツ語?知らないよ。」「できないよ!」と言っていたわりにはのれました。

 ドラえもんの着ぐるみパジャマを着ているY・E君にT・Tさん「ねえ、何か出して!」「えっ・・・」すると先生に「何にも出せないよ!このドラえもん。」

12日     
* ドラえもんのぬいぐるみのポケットに手をいれて、わざと
Y・T「先生、ドラえもんのポケット、何にもないよ!」
するとわきにいたT・Y君も手をいれて「何にもねー!」と笑う。
 「夢と現実」の問題が出ています。次もそうです。

* 国語「ふきのとう」をやっている時T・H「何でふきのとうがしゃべるんだ?お日様がしゃべんだ?」と、作品の幼稚性にわざと疑問を投げ掛ける言い方で言う。

 S・H「そうだね。何でしゃべるんだろう?」と同意したりJ・T「雪がしゃべっているのが面白い!」と言ったり、反応が分かれる。「どうしてお日様とかがしゃべっているんだろうね?」と聞き返すと
T・T「子どもだましだから。」 「このお話を書いた人がみんなをだまそうとしているの?」「そう。」

 こんな意見もありました。
Y・T「口があるから!」

 イメージ思考が大変よく働いている意見でした。ここで「2年生には少し早いかな」とも思ったけれど、思い切って「夢と現実」についての授業内容に切り替えてみる。

「夢の世界」と「現実の世界」
 
人間にはこうした二つの世界がある、という内容でした。低学年の頃までは、分数に例えると「夢(イメージ思考)」を分母に、「現実(現実的思考)」を分子にして生きているんです。(参考文献 児童の言語生態研究会 雑誌など)「品物」であっても心がある様に感じたり、動物とおしゃべりができたりするんです。夜の闇を見れば、何も出ていなくても「何か出そうだな・・・」と怖くなってしまうんです。

ところが、いろいろな事を勉強していくと、現実的に物ごとを考えたりするようになるんです。「そんなの変!」と感じて、物に心があるように思うのは幼稚っぽい、と感じるようになるんです。分数の形にすると、分母が「現実」で分子が「夢」というように、分母と分子が逆転する。そうした時期が中学年の前後に来るんです。この頃から現実的思考を土台にするんです。

 
 トトロの「まっくろくろすけ」の場面がそれです。子どもの時には見えたのが、大人になると見えなくなる。汚れはただの「スス」としてしか見えなくなる。汚れだ、と決め付ける。だから「イメージの目」というか、そんな心の目が閉じてしまうんです。

 みんなが寝ている時なんかに見る夢では現実離れした事がどんどん起こります。だから、お日様がしゃべろうが、ふきのとうがしゃべろうが関係ない。何が起こってもいいんです。童話や昔話はみんな『夢の世界』だから、何が起こってもいいんです。気にしないで『そういうもんだ』と思って楽しめばいいんです。

 では、ここに出てきたように現実に気が付く発言は、いけない事なのかというと、それはそれでとっても大事な勉強なんです。それができなくては、論理的な思考力が育たない。数学的・科学的な物の見方・考え方ができなくなってしまうんです。では『どうすればいいのか』はだんだんと読みながら考えて下さい。

* 連日、朝から挨拶に来てくれる5年生のS・Eさん。2年生のみんなに昨年はトトロに出てくる「めい」と呼ばれていたことを話す。休み時間などにも教室にやってくるとみんな「先生!めいが来たよ!」といつも教えてくれる。(5月頃まで続く)

* ぬいぐるみをみんなに紹介。パニックになる。好みもいろいろと分かれました。

*イメージ作文「あな」 初めてのイメージ作文です。
・ ようちえんに大きい木がありました。わたしはその中にトトロがいると思いました。なんか、その中をのぞくとトトロがいるように思います。わたしは、いつもあそぶとき、さいしょはその木にいいます。「おはよう。」といいます。わたしにはへんじがきこえるようでした。

・ ぼくはいきなり小さくなってありのふくをきてありとおしゃべりをしました。そしたらそれは、ありじごくがばけていました。そしてちをすわれて、ふにゃふにゃになってしんでしまった。そしてくうきいれでくうきをいれていきかえりました。そしてもうひとつのたましいは天ごくに行った。そして天ごくにいるぼくはこんなことをいった。「うわー、わしゃがふたりもいるわい。」そしてしたにいるぼくは、ありになってしまいました。

・ Aくんの耳の中にはいってみると、耳の中は耳くそだらけでした。Aくんがハックションとくしゃみをしました。きたないからにげようとしたら、めんぼうがきてでられませんでした。めんぼうにつかまってにげました。もうこりごりだ。

・ じんじゃの大きなあなに なんとトトロの大きいやつがすんでいました。トトロはきもちよさそうにねていました。ひげやしっぽや耳もながいです。トトロはずーっときもちよさそうにおひるねをしていました。いちばんトトロのあくびがねむたそうでした。へんなあなに ぼくはとびこみました。おちてへんなトランポリンみたいとおもっていたらトトロでした。ピョンピョンはねておもしろかったです。

・ ぼくはうちのどうろでマラソンをしていたらおとしあなにおちた。うえをみたらがいこつがきたない いしをなげて そしてぼくはもぐらになりました。そしてぼくはあなをどんどんほりました。うえをみたら、ひとがたっていて「そこをほってみろ。」といいました。 そしてぼくは どんどんほってみたら ちきゅうのおとしあなにおっこっちゃいました。

・ きのう おひるごはんをたべたあとに そとにでて あなを みつけた。あなに にらをいれて ひっぱってだしたら あなからむしがでてきた。 むしのせなかにひとつ ぽちっと ありました。

・ あなにおっこって シュー あなのなかには へび。へびのなかには べろ。
べろのなかには べろのつぶ。つぶをわたって シューっと あなにおっこって のどちんこのあなをぬけて どんどんどんどんいって またあなからでた。

・ きょうは ちいさくなってビデオカメラのなかにはいったら きかいがぶっこわれていたから ビリビリになってたおれて きかいが がったいして ともでちになったら けんかして きかいがもとにもどった。 あるいていったら でぐちがあったから そこからでようとしたら目ん玉があったから そこから はいっていったら目玉がどいた。 そして いきなし大きくなってでられた。

・ わたしは、もぐらのあなに はいりました。 それからもぐらに あいました。 それからゆうれいも入ってきました。 そして きつつきのあなに 入りました。それできつつきがでました。(中略) それからAくんのせなかに入ってこちょこちょをしました。 そうしたら わらって、わたしはふっとんでしまいました。くやしいです。


おうちの方々へ「イメージ作文の意義」
 よく聞かれた事ですが、こうしたイメージ作文を書くことにどんな意味があるのか、という事について簡単に述べたいと思います。

* 心の育成
 思いやりの心、創意工夫する心・・・それらの豊かな心の育成の下地となるのがイメージを広げる力(想像力)なんです。相手の気持ちになって考えなさい、というのがそれですね。
       
* 生きる活力・困難を乗り越える力
 イメージで先ず問題にしているのは、想像した内容ではなく、活発に動き出すかどうかなんです。興奮したようになる、はしゃぐ・・・教室ではイメージの暴走状態といいましたが、イメージの動き出すエネルギーを沢山持っている子どもはど、そうした状態になります。これが子どもの活力ですよね。

 イメージ運動が活発な子どもは、困難にぶつかって「困った」状態になったとしても、乗り越える力があります。叱られても、何か夢中になれることがあると、あっというまに立ち直ってしまうのも、このタイプです。

* 個性をみつける
 イメージ作文で「何を想像しているか」ではなく、先程のイメージ運動の観点から、「どういうふうにイメージを伸ばそうとしているか」をみていくと、一人一人のクセがみえてきます。これが本来の個性だと考えています。「個性教育」「個に応じる指導」なんて、ここ数年盛んに言われていますが実際は「個性」ではなく、ただの「得点力の個人差」に応じた段階分け指導のみになってしまっているようです。(本当は、その子がどんな風に想像を伸ばしていくクセを持っているのか、それに応じて生活指導も学習指導もなければならないと思っています。)その子のイメージを素直にどんどん伸びるようにし、書くことで自分のイメージ世界をより深めることが『自分らしさ』を伸ばすことなんです。

* 学力向上
 国語で言えば「登場人物の気持ち」を読み取るのにも、出発点は自分にするしかないんです。先ず「自分だったらどうかな?」と想像してみる。それから登場人物は自分と同じなのか、違うのかを考えていくわけです。だから、自分の心の動き(これがイメージ運動)がしっかりと自分で分かるようになっていれば、それだけ「豊かな読み」もできるのです。文字にしっかりイメージした世界が書けないうちは、やっぱり読み取りもしっかりとはできません。

 想像力がなければ、算数の文章問題や、他の教科での説明を読んだり聞いたりしても、具体的にどういうことなのか頭の中に思い浮かべられないのは言うまでもありません。
        
*人間の原点に立ち返る
 最も大切なのがこれなんです。人間の心の奥底、無意識の世界が文面に必ず表れてくるんです。これらの「穴作文」にもはっきりと出てきているんです。そうしたことに素直な生活を特に日本人は何千年もしてきたのに、ここ数十年で失おうとしているんです。そして混乱し苦しんでいるんです。

13日
* 算数、自学中心に進める。出来ないところを何とか「わかるようになりたい。」と言って、給食の時間になっても「どうしても続けたい!」と粘る人もいました。
 食事をとる、とらないの是非はともかく、こうした粘りの心は大切にしたいものです。現代は「マニュアル」(方法・手順)を簡単に教えてもらい、自分では考えること・努力することをしない世の中です。そんな中、こうした心を持っている人間は大変貴重だと思います。
    
* 授業の中での気分転換として、ちょっとおどけてみせると
Y・K「先生はやっぱし子どもだ。」

ハハハハ、まいりましたね、これには。「やっぱし」ですって。でも「子どもの心」は大いに残したいとは思っています。映画監督の宮崎駿さんみたいにね!
     
* 自主的に活動する力の育成にも大事な意味のある生活科。なのにみんな「先生、ここは、この色にしていいですか?」「この紙、もう切っていいんですか。」とおうかがいをたてにくる。何回「自分で考えて、先ずやってごらん。それでどうしてもうまくいかなくなったら、相談にきてごらん。」と言っても聞きに来る。「どうして聞きにきたくなるの?」するとみんな口々に
「だって、もし失敗したら紙が無駄になってもったないから。」「怒られたらいやだから。」「みんながわらうんだもん。」
 この後、エジソンを例にして「失敗は成功のもと」「〜やったら〜なった」というのが最も大切な勉強であることを話す。

14日
* 1校時体育のため、登校してきたら着替えておくように言う。職員室に行き、教頭先生と打ち合わせをしていたら算数ドリルの時間。急いで教室に戻ろうとすると、むこうからみんなが整列して歩いてくる。「先生、体育、体育館でいいんでしょ。」との言葉。「いいよ、準備体操していて。」「はーい。」

 ドリルの時間はドリル、という指摘も後で一部からありましたが、先生としては、昨日の事もあったので、この時にみんなが自分達で判断して行動をした、という所がとても嬉しく思いました。みんなの教室での様子を後である先生が教えてくれましたが、並んで行った方がいいのか、先生に言われるまで待っているべきか、随分と意見が分かれて迷っていたそうですね。でも話し合って行動していたそうですね。

15日
* YSさんたちが5年生のSさんに影響されて「わたしも めい。」「わたしも」とくっついてくる。
 「あれ、スースーにおいがする。」「湿布だよ。」「どこにはってんの?」「手首。」「ねぇ、先生の手、直ったらいっぱいもちあげたりして遊んでね。」「私もね。」

* 算数。「午前・午後」の言葉にみんな大混乱。どうしても(イメージ思考で考えてしまうので)「明るい時が午前、夜が午後」と考えてしまうので、夜中の12時に切り替わるのがわからない。

 今はそんなことは分かっていると信じたいですが、当時は午前0時なんていう時間は多くのみんなにとって眠っている間の事ですから意識の中になかったんですね。

 みんなは自分のイメージに大変素直な分、イメージを切り離して考えなければならない算数なんかは苦労して当然なんです。

* 昨日の体育のことはあったものの、活動に作業が入ると相変わらず聞きにくるみんな。「ロボットか?みんなは。先生がいちいち命令しないと動けないのか?」と突き放す。根比べでしたね。

16日
* 1校時、係のカードを作る作業。だいたいの人は先生に聞きにくるのはあきらめた様子だが、どうしても聞きながら作業を進めようとする人達がいる。「みんなは鉄人28号か!」と言うと「えっ?」「そんなの知らない。」「ロボットだよ。リモコンでいちいち操縦されないと動けないの。それと同じじゃないか!そんなに操縦してもらいたかったら、先生が操縦してやるから全部先生の言った通りに動けよ。どんなことを命令されても動けよ!」そこまで言うとようやく「えー!やだやだ!」と言って逃げていき、自分達でちゃんと進める。

「大人の言う通りにする」ということ
 もちろん世の中には「言われた通りきちんとやる」ということが大切な場面もあります。それはそれで大切な能力です。ただここ数十年の学校はそうした「言った通りにすること」ばっかり教えてきてしまい「自分で判断し実行する力」「工夫する力」「困難にぶつかっても自分で解決する力」が育たなかった、という反省があったんです。

それで「生活科」という科目が数年前から登場したり、算数でも先生が問題の解き方を教えるのではなく、先ず教わる前に今まで習った事を基にして解決する方法を自分で考える、そんな授業に日本中が変ろうとしているんです。

 だから、先生のクラスの活動には「自分達でどんどん工夫し進めていく活動」(ドラマ作り など)と「自分を捨ててみんなと同じに行う活動」(大なわ など)の2面性があったんです。

* 「かかりコーナー」という掲示用の文字。「誰か書いてくれないか?」と聞くとY・T「はい、僕 書きます。僕、1年生で一番うまいって言われてたから。」と言ってから首をかしげ「あれっ?1年1組でかな?・・・ん?・・・わかんないけど・・・」 この自分の言葉への素直さがいいですね。謙虚さにも通じています。

* ドラマ作りへの要望が強くなってきたので、グループ編成をする。自由に組んでもらおうと思ったが一応みんなに聞く。「どうやってドラマのグループを決める?」するとみんな「何でもいいよ。」「先生が決めちゃって。」と言うので仕方なく机の横の列ごとにする。

 さっそく話し合いをしてもらう。するとところどころで主体的に動けない友達に 「ほら、ロボットじゃないんだぞ!」との声。思わずこちらが声の主をみると先生の視線に気が付いて照れる。

 みんなやる気になっているので、いろいろな意見が出る。あるグループでも「トトロがいいよ。」「ウルトラマン!絶対にウルトラマン!」「トトロ!」ともめている。

 それで全体に「どれか一つの意見にまとめようとするんじゃなくてみんなの考えをまぜてごらん。」するとすぐに、あちこちで
 「じゃあ、〜と〜を一緒にしようよ。」「オー!いいねー!」
  などとお互いのイメージをくっつけ、より大きく広げ始めた。


みんなと違う意見
 「みんなと違う意見を言う」あるいは「みんなと違う意見を聞く」これは日本人が苦手な事の一つです。これがすぐに「いじめ」や「仲間外れ」に結び付いてしまうんですね。だから、大人な話し合いでも、はっきりと自分の考えを言う人は嫌われやすい。年下が意見など言えば「生意気だ!」「礼儀知らず!」と言われてしまいがちです。それはそれで長い歴史があるので簡単には変わらないんで、場面に応じて態度を変える必要があるんです。

 また、このスナップで重要なのは「みんなにやる気があるほどみんなの意見はまとまりにくくなる。」ということです。教室でしつこく話したように、イメージの伸び方には一人一人クセがあるわけです。だから、やる気が出てみんながイメージを膨らませれば、それだけバラバラの方向になるのが当然なんです。

 なのに、誰か一人の強い意見(これが先生やうちの人達、ということもありますね。)に合わせて自分のイメージをねじまげられてしまったら、誰だってつまんなくなってしまうんです。意見を言えば「みんなに合わせない、協調性がない」なんて言われ、面白くなくなると「やる気がないのか?ちゃんと協力しろ!」と言われる。これではめちゃくちゃですね。やる気を出して協力していこうなんて、思えなくて当然です。 だから先生はみんなが全員生き生きとしてほしいので

「あれか これか  ではなく、あれも これも」

と毎年しつこく要求しているんです。

18日
* 5年生に刺激されて何人かが黒板に伸び伸びと落書き。

落書き
 黒板に落書きをすることがいいことではないことは何度も言いました。それでもある部分で徹底させなかったのは、やっぱり「落書き」もイメージ作文と同様の意味があったからです。先生としてはみんなのナマの姿が知りたかったわけです。それが「個性を伸ばす」だけではなく、「人間の無意識の世界を探る」という上でも先生にとっては必要でした。テストの裏の落書きに「見直しを十分にやったのならいいよ」と言ったのも同じ理由です。

では作文だけでも十分ではないか、という意見もあるんですが、やっぱり黒板という大きな場所に落書きをすると本音の出方が違うんですよね。(みんなの方がわかるでしょ!)今まで無口だった、自分の考えを表に出さなかったようなおとなしい人が黒板に落書きができるようになったのをきっかけにして活発になってしまう、というのも何人もみています。黒板に落書きをしない、というのも大切な事ですが、みんなが本音をだしていけるようになる事の方がもっと大切だと判断したんです。

 だから、だいたいクラスのみんなが本音を出せるようになった頃は、厳しく「落書きをもうしないように。」と言ったんです。

* 教室掲示用の挿絵を描きながら
 H・I「飛行機は火がついているはずだ。」
 「ハズの思考」が芽生えてきていますね。

* 先生の体重について
Y・T「おじいさんになったら100キロこすよ。」
S・H「1000キロこすよ。」

* 正式に腕をつっていた三角きんを外して体育をしていいという許しが出た日「気分はどうだい?」と聞くと
M・A「最高!」

* 学級だよりの題字を書く希望が多い。じゃんけんで決める。M・Kさんが勝ち残る。1人、どうしても未練いっぱいの子がいた。「じゃあ、第2号は君に書いてもらうから。」と言うがくやし涙で収まらない。するとM・Kさん「じゃあ、いいよ。3つのうち1つの字だけ書いていいから。」
 先生が何も言わなくても、さっそく「あれもこれも」の発想を使って考えを進めてくれましたね!

* 掲示用の挿絵でミサイルを描いていいかどうかでもめている。
 「いいじゃない!かっこいいんだから。」「えー、でも止めた方がいいと思うな・・・」しばらくやりとりをしている。先生に意見を聞いてきたので「ミサイルって何をする道具?」「爆弾!」「人殺しの道具!」「そこから考えてよ。」「そうか・・・じゃあ、代わりにロケットにしよう!」すぐに代わりを思い付くのがいいですね。


写真はみんなで寄せ書き風に描いた背面黒板
始業式の日と比べて、だいぶみんなのイメージ世界が教室の中に乗り移ってきました。


19日

* このところの先生への近付き方
 M・S「さあ、今日も先生をくすぐろうかなー・・・。」

* 道徳。役割演技という方法を取り入れて行う。みんなとっても面白がったのはいいが、暴走状態になってしまう。みんな口々に終わったあと
「ああ、道徳って面白いな!」「先生!またあしたも道徳やって!」
 どこか勘違いをしているようである・・・。

*イメージ作文「るすばん」
 みんなのイメージ世界が良く出ています。

・ わたしは大きなかがみのところが きらいです。でも じぶんのへやで ぬいぐるみといっしょに テレビをみています。だから すこしこわいけれ ど すこしはこわいのが おちつきます。でも おしいれのちかくのへやな ので すこしこわいです。といれもこわいです。ろうかもこわいです。     
・ たとえ びゅうびゅう かぜがふいていても へっちゃらです。大きなかがみがあっても へっちゃらです。でもとけいがピポピポなるとおどろく。 でももっとおどろくのは大きな犬です。 でも、ちゃんとしていれば へっちゃらです。ねてればへっちゃらです。

・ ぼくはるすばんをたのまれました。ぼくはこたつの中でおおあばれをしました。そのあと かいだんをそっとのぼりました。そとであしおとがしました。でもかいだんで ねてしまいました。めがさめたら かえってきてた。ぼくは どろばうのあしおとかと おもっていたけど ちがかった。

・ わたしがるすばんをしたとき、おにいちゃんのへやに いきました。おにいちゃんのへやには スーパーファミコンカセットがたくさんありました。わたしはスイッチをいれました。わたしはぜるたのでんせつをやりました。なんだかつまらなくなりました。わたしがかいだんを おりようとしたとき、足がすべっておっこってしまいました。そして えーん ってないてしましました。

・ お母さんにるすばんをたのまれました。わたしはひとりでるすばんをしていました。そしたら雨がふりました。そのときわたしはねていたからしりませんでした。それでせんたくがぬれてしまいました。

・ ぼくは、るすばんのときには、にんぎょうのちかくがだいきらい。かぜのおとがおばけのおとに きこえてくる。エイリアンがあるいているようなきがする。かがみに ちがうひとがみえる。

・ るすばんで本をよんでいても、ぜんぜんおもしろくなかったです。るすばんをして こたつにはいっていました。おばけがでそうでこわかったです。

・ ぼくがるすばんをしていたら、どろぼうがげんかんから はいってきました。げんかんにはセメダインがはってあって、どろぼうがセメダインにくっついてうごけなくなりました。
 イメージ作文なんでからこういうのも大歓迎です。ゴキブリホイホイならぬ「どろちゃんホイホイ」ですね!

・ ぼくはファミコンをやっていたけれど なんかぶきみになりました。そしてそのまんま気にしないでテレビをみていました。

・ ぼくが よる だれもいないときに まどとげんかんが どんどんしてピンポンなりました。いってみたらだれもいませんでした。またピンポンしたので いそいであけたらだれもいない。そしてぼくはビデオをみていた。

・ こわかったのでテレビをみていました。いきなりこっわーくなりました。だからみんなのところへいく。

・ ひる、るすばんをしていてファミコンをしていました。なんかきみわるかったです。なんの音だとおもったらかぜの音でした。だれかきたとおもってドアをあけたらかぜの音だけでした。本をよんだり、しゅくだいをしたり、じてん車であそんだたりテレビをみていました。

・ るすばんで1人のとき うえでおとがしました。そして いってみると「きゃあ。」といいました。うえにいたのは、おかあさんでした。そのとき とけいがピッポピッポとなりました。おどろきました。

・ わたしは おやつがたべれるから大すきです。犬のコロがいるけれど、コロがかえるになるようなきがします。またおやつをたべました。雨がふってきて せんたくものをこみました。こたつをつけて はいっていたら、おきゃくさんがきました。しゅうじのげっしゃでした。すこしこわかったです。

・ るすばんのときは3人とか4人とか5人でします。1ばんめのおにいちゃんとじゃんけんをしました。わたしがまけると「よえー、こんなやつ、あいてにならない。」といって、もういっかいじゃんけんをするとつぎはわたしがかって、わたしもおにいちゃんとおんなじことをいいます。

・ ゆうがた4じ、おかあさんが おかいものにいったからよろこんだ。「やったーおるすばんだ、るすばん、るすばん、るすばんだー。やったー、やったぞー、そうだスーパーファミコンやろう。カセットは、スーパーぶとうでんにしよう。あっ、そうだ、オプションでオートにしよう。それにこうかおんは2にしよう。そしてつぎはストーリーにして、はじめはピッコロだ。それっ、あっ、まけちゃった。そしておかあさんが かえってきました。そしてぼくのるすばんはおわった。

・ ぼくはるすばんがすきなんだ。ファミコンができるし、サッカーがいっぱいできるからいいし ともだちともいっぱいあそべる。だからるすばんがすきなんだ。やるとうれしい。

・ ファミコンはいっぱいできるし、ことつの中で大あばれできるし、べんきょうもいっぱいあるからやるときもあるし、のら犬とあそんだりもする。だからたのしいの。るすばんで6じになったらおふろをくむ。さんぽにいったりあそんだりする。だから、るすばんはたのしいの。


 
るすばん作文からわかること
 「内と外」に関する境界領域意識や、先験的イメージの偏り(クセ)、現実的思考とイメージ思考のバランス、落ち着き・快適の意識、イメージの停滞(困った状態からの脱出の上でのトランスフォーメーションの働き方、感性のアンテナの向き・感度・・・なんかを見ていきます。
 「ナンノコッチャ?」と思うでしょうが、みんなの作文をただふざけて書いてもらっていたのではない、ということが感じてもらえればいいです。

20日
* 算数「午後2時の30分前は?」でみんな悩んでいる。2時30分と答えてしまう。ただ「どうしてそう考えたか」「わからない事は何か」言わない。
「だって、みんなの前でわからないところ言うのいやなんだもん。」
とみんな言う。「だって、みんなわからない、って言ってるんだから、いいじゃないか。」と言ってもガードが固い。

 ただ、あの時もしつこく話したように、勉強が伸びるようになるには、わからない事があった時には、みんなの前でも「わからない。」と言えるようになることなんです。みんなのいない所につれていって、そっと聞けばみんなすぐに話してくれたと思いますが、それでは「勉強が伸びる態度」はいつまでたっても身につきません。それでは学校で一番学ばなければいけないことが、学べないんです。(それが、塾の勉強と学校の勉強との大きな違いです。)

少しきつくみんなに問い詰める。すると、ようやく一人が
 「どうして前なのに、後ろに戻るの?」
他の人達もうなずく。


算数のコツ「やくそく」
 これが「イメージ思考と算数的思考の分かれ道」なんです。この使い分けができるようになると、算数(数学)はだいぶ勉強が楽になる。

 「イメージ思考」というのは、この例のように自分の頭の中のイメージを基準にして考えてしまうことです。「前」は「目の前」なんかと同じに考えたらたしかに時間が戻るのは、おかしいと考えてしまうでしょうね。ただ、「前」という言葉には、別の使い方もあるわけです。みんなもよく知っている使い方でいうと「3日前」「10年前」なんかの「前」です。戻るでしょう。時間の時は戻る意味で使うのが「やくそく」なんです。だから、自分がよく使っている意味から考えて「どうしてかな?」なんて考えると、どんどんわからなくなってしまうんです。「やくそく」はやくそくとして受け入れればいいんです。

これからも「何か変に感じるな?」なんていう時には、「やくそく」を勘違いしていないか、チエックしてみるといいでしょう。たいてい自分のイメージや感じ方とずれているので、勝手に意味を変えてやっていることがほとんどですから。

 じゃあ、イメージ思考がいけないのかと言うと、勉強の種類によってはこれがとっても大切になるんです。使い分ければいいんです。

 どんなによく切れるのこぎりでも、それで野菜を切ることなんてしないしよく切れる包丁だからと言って、家を建てるのには使わないんですよ。

おうちの方々へ
 
と、こんな風に子供達には書きましたが、そんな簡単にいかないのが子どもです。特にこの学年の子ども達はイメージが大変強いですから。

保護者会でもお話しましたが、「先生の話、よく聞いているの?」という言葉はあまり使わない方がいいと思います。自分のイメージとのずれに納得がいっていない子は先生の話をよく聞いているから余計に分からなくなっているんです。それなのに「きいてないから、わからないのよ!」と叱ってしまっては、子ども達は心の中で「ちゃんときいてるつもりなんだけどな・・・それでもわからないのは、やっぱりバカだからなのかな・・・」と思ってしまいます。こうした劣等感・あきらめの気持ちが大人になってまで響くんです。

 だから、安心して分からない時には質問ができるように、また、納得がいかないことがでてくるのは当然なんだから、そうした時にはみんなの前で聞いたほうが自分にもみんなにも勉強にもなるんだ、ということが納得できるように、繰り返しお話しください。

☆ 家庭訪問のために上着を着ると
Y・S「おしゃれ!おしゃれ!」とひやかしてくる。

22日
* 1組からの届け物が2回にわたってくる。届いたのは生活科のノート。ちらっとめくって
Y・S「アーア、ずっと前とおんなじだ。つまんないな。違う方がよかった。」

* 5年生が「先生だっこ。赤ちゃんやって。」とふざけてくるのを見て、2年生にもジワジワと真似が広がる。

* 国語の時間、うっかりミス!「ゆきのとう」はこの日です。

童話で「雪の中からふきのとうが・・・」というのをうっかり「ゆきのとう」と言ってしまい全員がしばらく大爆笑。その上「ゆきのとう!ゆきのとう!」のコールでしばし授業が中断。先生はこの一言のミスでことあるごとにからかわれました。

よっぽど印象に残ったらしく、記念文集の題名も「ゆきのとう」となっています。3年になってからも、退職後数年たった現在でも「2年生の思いでといえばゆきのとう」というくらい話題にされてしまいます。

算数の時間のことを逆手にとってこの時は質問に来る。
R・I「先生、ゆきのとう、って何ですか?このとおり、教えてください。」
と、わざとらしくおおげさに頭を下げる。それを見て
A・S「さすが!(そして、後ろの黒板に挿絵を描いて)先生!ゆきのとう描いたよ!」


平成8年度2月 文集作業時にて


休憩の時に近くのはらっぱに行った元教え子たち。
息をはずませて帰ってきた手にはふきのとうがしっかりとにぎられていました。



23日
* 登校してくるなり
Y・T「アーア、早く火曜日にならないかな。」「何で?何かいいことでもあるの?」「早く道徳やりたいから。」「えっ?」「この前の面白かったんだもん。」「でもね、いつもあんなふうにやるわけじゃないよ。」「エー!やだなー。」と言いつつ「早く道徳やりたいなー。」「だからね、いつもあのやり方と思わないでね。」「思う!おもしろいから。」

*ドラマ作りの参考として、今までのドラマのいろいろな部分をつないだビデオをみてもらう。
「ノリダーの初夢」で女の子が演じるカニ怪人にやっつけられる仮面ライダーをみてS・Aさん「女に負けるなんて、なさけないな。」


26日
* 尿検査を提出するときT・H「はい、ニョロニョロ検査!」

*Y・S「今日うちんち、家庭訪問だよね。」「そうだよ。」「きれいなお洋服着てきてね。」

*友達がさんがカエルのたまごを持ってきてくれた事を言いにくる。
A・M「先生、おたまじゃくしのたまご!」「カエルのたまごね。」と言葉を返すと「???」

写真はこの頃音楽でやった「かえるとおたまじゃくし」の時の板書

* 国語。イメージ作文を書くというと、それだけで盛り上がる。みんな「先生、何書くの?」「面白い題にしてね!」と期待が高まる。「難しい題名出すよ。」と言うとS・H君とT・H君が「ワーイ!」と万歳をする。

「みんな、目をつぶってごらん。暗い部屋にみんないるんだよ。そしてね、部屋の真ん中にね、つぼが置いてあるんだ。どんなつぼかな?」そこまで言うと、みんなゾクッときたようになって「おー!こえー!」「えー!やだー!」と言い始める。そして黒板に題名「つぼ」と書く。もうみんなイメージが走り出しているので、どんどん書き始める。書きながらもいろいろとつぶやきがでる。興奮してしまっているのが伝わってくる。

H・I「えーと、アー思い出した!つぼが・・・(後は静かに書く)」M・K「つぼがふってきた話でもいいの?」「どうぞ。」「そんじゃ、そうしよう。」T・H「つぼに入ったら変なおじさんがいたの。・・・」Y・T「えーと、えーと、なんだっけ?夢の世界が消えちゃった。」でもちょっと目をつぶり、すぐに「また写った!消えたのがまた写った!」

 これはみんなの生きる知恵としても、大変重要なスナップです。後で詳しく書きますが「イメージの停滞からの脱出(トランスフォーメーション)」をちゃんとやっている例なんです。

 途中で書くのが止まっているM・Aさんに声をかけると「思いついているんだけれど、こわくていやなの。」「そんなに怖いことが思いうかんじゃったの。」「そうなの・・・(しばらくして)いいや、書いちゃえ!」チャイムが鳴ると、残念そうに「アー、おわっちゃった。」「まだ書いててもいいよ。」「いいの?やったー!」

30日
* 1年生を迎える会。縦割りグループを発表するとき、何度注意してもふざけて聞いていない人がいる。自覚をうながすために、繰り返さないことにした。外で並ぶ時に迷子になっているのはみんな2年2組の話をきいていなかったメンバーでした。

自分から気をつける心(『話しを聞く態度』編)
 先生のやり方で最も他のやり方とちがっているのはこの点かもしれません。「自分で〜する態度」をどうみんなに発揮してもらうか、という具体的な手立てについてです。先生はみんなには普通の大人が思っている以上にいろいろなことができる力が隠されていると思っています。でも、みんなは小さいから、子どもだから、といっていたのでは、それらの芽はいつになっても出てはきません。
 きちんとする態度にしてもそうです。先生がこまめに注意してまわり、話しを聞いていない人にも後から繰り返して分かるまで教えてあげていたら、その人は一体どうなるでしょうか。きっと「ああ、ちゃんと聞いていなくたって、どうせ先生は後で教えてくれるんだ。」と安心して(甘えて)いつまでもふざけるのをやめないでしょう。 だから先生は、きちんと聞いていたけれど分からないという人には、後からでも分かるまで繰り返し教えましたが、そうでない人には決してもう言わなかったのです。 誤解してほしくないのは、それでその人をうんと困らせ、恥をかかせて目覚めさせようとしていたわけではない事です。人間誰だって間違いはします。その時、どう自分として責任ある態度をとるかを身に付けてほしかったんです。それで、まわりの人に「聞いていなかった人には教えてはいけませんん。」とは原則として言いませんでした。困らせたかったら、みんなにも「教えないように」というのですが、そうはしなかった。もしも、その人が「やっぱりきちんと並びたいな。」と思って自分から誰かに聞こうとしたならばそれで良い、と考えていたからです。(ただ、これも友達にきけばいいや、となってしまっては同じなので、あまりこの手ばかり使う人には、教えなくていい、と言ったわけです。)

 「罰」ではなく、ねらいは「自分の行為に責任をもつ」という事なんです。
 そうすることで、みんなは

「言われて無理やりきちんとする」 レベルではなく

「自分からきちんと出来る」というレベルになれると思うんです。

* かえったばかりのオタマジャクシが水の汚れで何匹も死んでしまう。その姿をみて笑う人が何人かいたので厳しく命について話す。

* 先生が学生時代にまとめた「気どり」についての論文、一部分でいいから読んで、とみんな言うので少し読む。「難しいだろ?」と聞くと、みんな「かんたん!」「じゃあ、誰か解説してみて。」すると「簡単だけど出来ない。」


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