ムンクといえば《叫び》が有名であろう。登場人物のユニークな表情ゆえか、アートグッズになるほどの作品である。しかしながらムンクの絵画に楽しい要素など何一つない。確かに《叫び》の人物に滑稽さを見出すことも出来ようが、その表情を少々観察してみると、とてもじゃないが楽しい気分にさせてくれるものではないことがわかるのではないか。骸骨を思わせるその風貌、あるのかないのか判然としない虚ろな目、そして何よりその驚愕の表情…われわれがあのような表情をするときは一体どんな時なのであろうか。「絶望」という安易に使うべからざる言葉、それが似合ってしまうのがムンクの作品なのである。
そんなムンク作品の一つに《ヴァンパイア》がある。髪を振り乱し獲物に襲い掛かる一人の女性、彼女こそがヴァンパイアである。ヴァンパイアの象徴である牙の存在も伺われず、タイトルを見ずしては、一見してヴァンパイアとはわからない。あたかも愛する人を亡くし、その死体にかぶりついている姿のようである。そう、ムンクのヴァンパイアから受ける印象は、獲物にありつき嬉々とする動物的な有り様から受けるそれではなくして、もっと人間的な何かを感じさせるそれなのである。そして恐らく、その何かこそムンクが表現したかったことにほかならないであろう。
現代風にアレンジされたヴァンパイアならともかくとして、古典的ヴァンパイア(ムンクの時代のヴァンパイアもこれにあたる)に次の性質が備わっていることは周知のことであろう。すなわち、ひとまずは不死であること、そして太陽の光が弱点であること。つまりヴァンパイアとは不死と引き換えに太陽の光を手放した存在なのである。
不死なるものと太陽とは、古来密接な関係にあったようである。例えば太陽崇拝。太陽を生命の象徴として崇める宗教は古代世界を見渡せば多数存在する。エジプトのラー崇拝、古代ローマのミトラ教、そして日本神話の天照…etc。それぞれ太陽を神格化し、完全なる不死であるかどうかはともかくとして、少なくとも人間よりは不死に近い存在として崇拝する。あるいはプラトン。彼は『国家』においてイデアを太陽に喩える。イデアとは永遠不滅の存在。プラトン自身は、あくまでイデアは理性によって捉える存在であるとした上で、感覚によって捉えられるもののうちからイデアの性質を説明するに相応しい対象として太陽の光を選んだ、つまり太陽に不死性を付与した喩えをしているのではない。しかしながらイデアの喩えとして太陽が持ち出されるということ自体、イデアの価値と太陽の価値が本質的に類似するものと捉えられている事を意味する。その価値とは不滅性である。現代の我々はというと、例えばずっと家にこもっていると不健康だなどといわれたりしてしまうわけで、太陽を健康の源として捉えているのである。
このように見てくると、太陽とはどうやら「皆に共通」の価値を表すものであるといえそうだ。
ではヴァンパイアにおいてはどうか。彼らにとって太陽とは苦しみを与える存在。つまり、われわれにとって価値あるものが、彼らにとっては避けるべきものとなる─すなわち価値の転倒が起こっているのである。ヴァンパイアはヴァンパイア達の共同体を形成するかもしれない。しかしながら、人間という視点から見ると、彼らは共同体全体が価値あるものとする存在に拒否される、つまり反社会的な存在にならざるをえない。さらには人間にとって憧れであるはずの不死という属性が、またまた彼らに苦しみを与えるものとなる─つまり二重の価値の転倒が起こっているのだ。これこそ彼らが呪われた存在であるといわれる所以にほかならない。そして、もともと人間だった存在であるがゆえに、苦しみはいや増すのである。
さてここで、ムンクの絵に話を戻そう。まず、女性がかぶりつく男性の生命が最早失われている様子を見て取れよう。上で述べたように、この絵画の女性は、恋人を失った女性として捉えることが可能なようだ。しかしながら、この女性は悲しみに打ちひしがれている段階を過ぎ去ったようである。この女性から一種の悲壮さを感じることもできるが、それ以上に、この女性から激しいエネルギーを感じるからである。ある種の狂気とも感じられるそのエネルギーはどこから来るのか?恋人を亡くした人間が願うことは二つしかあるまい。一つは自分も相手の後を追って死ぬこと、もう一つは相手を今一度蘇らせること…おそらく、前者は後者が不可能だと認識された後の段階であろう。そして、前者は自ら相手の居場所に赴く方法であり、後者は相手を自らの居場所に呼び戻す方法である。どうやらムンクの描く女性から感じられるのは後者のようだ。
ヴァンパイアが、そうでない人間から吸血することによって、相手をもヴァンパイアにしてしまう。これは正に後者の方法に他ならない。しかしながら、死人を蘇らせるといはどういったことなのか…スティーブン=キングの作品等が示すように、それは人間にとって不幸をもたらすことになる「やってはいけないこと」、すなわち共同体全体のタブーであろう。にも拘らず、恋人を亡くした人間はそれを望まずにはいられない。だとすると、彼女はいわば太陽に背を向けた存在なのだ─そこから第一の苦痛が生まれる。そしてそうした彼女の願望もいずれ敗北する…例えば死人が蘇るなど科学的にありえないといったような、周りからの、そして彼女自身の理性による説得によって─すると第二の苦痛が生まれる。恋人の不在に耐えつつ、しかしこのまま生き続けていかなければならない苦痛である。
第二の苦痛から逃れるには自ら死を選ぶか、相手に対する執着をなくすかしか方法がないであろう。ムンクがこの作品で描いたテーマは、人間の奥深くに根付く執着がもたらす苦しみであるような気がしてならない。ムンクの描いた彼女が、執着を手放し人並みの幸福を手に入れていることを願うばかりである。(2005/08/04)
|