バルテュスの「コメルス・サン・タンドレ小路」における現実性について

バルテュスの絵画は難解だと言われる.彼の絵は,一見したところ何の変哲もない主題を扱っているのであるが,そこから受ける印象を言葉にするとなると途端に行き詰まってしまう.哲学において,存在とは何かという大問題は未だ解決されておらず,それはあるいは言葉の能力を超えた解決不能な問いなのかもしれないが,バルテュスの絵画を解釈しようとすると,私は存在の問いに対した時と同じ感覚を備えたもどかしさに突き当たるのである.バルテュスの絵は,現実の対象を描きつつ現実に留まらない,あるいは表面的な現実を通して真の現実をかいま見せると行った方がよいであろうか.そして私に以上のような印象を強烈に与えるのが特に「コメルス・サン・タンドレ小路」(以下「小路」と略す)と題される絵なのである.

「小路」には八人の人物と一匹の犬が描かれている.そのうち,一番左側に立つ人物については年齢不詳であるが,その他は思春期以下の子供であるか,中年以降の人物であるかのどちらかで,以上二つの間にある年代の人物がいないのである.幼年期,壮年期,老年期という三区分で見るならば確かにすべての時期の人物が登場しておりこの絵を人生の縮図としてみる解釈も可能かもしれない.しかしながら,年代的に見るならば,20代から40代までの人物が欠けているのである.日常通りを歩いているとむしろこの絵にはいない年代の人々とすれ違うことの方が多いということに気がつくならば,そこに「小路」における奇妙さの一原因が隠されているということもできるであろう. それゆえ,ここでは人生の縮図といったような解釈はとらずに,別の可能性を考えてみたいと思う.

上で日常という言葉を用いたのであるが,「小路」において日常的な雰囲気は微塵も感じられない.建物自体はそこを知る者ならば見慣れたものであるだろうし,人物も個々で見るならばさしておかしなものではないであろう.しかしながら「小路」を全体としてみるならば,そこから受ける印象は決して日常から受けるそれとは違う.それを私は特定年代の欠如に一部を負ったものとして考えるのであるが,それはゆえなきことではない.さて,一番左の人物に注目してみよう.先程私は彼について年齢不詳であると述べた.それは彼が少年のようにも見えるし,また20代後半の青年のようにも見えるからである.彼が少年であるなら,上で述べた特定年代の欠如ということは成り立つ.しかしながら彼が20代後半の青年であるとしたならばどうであろうか.ここで私はあえて彼を20代後半の青年であると解釈したい.すなわち彼は,日常性のアレゴリーであると思われるからである.

彼は画面の左端にぼんやりと立っている.かすかに恨めしそうな目つきをしながら.彼の姿は,あたかも自らが入ることを禁じられた場所をおどおどとのぞく者のようであり,したがってその場における存在が認められない者なのである.彼の隣の窓から顔を出す子供が少女に話しかけられている,したがって認められた者であるのに対して,彼の存在のなんと虚ろなことか.

私の見立て通りに彼が日常性のアレゴリーであるとしたならばまた次のようなことが言えるのである. すなわち,「小路」の風景は日常と呼ばれる現実ではない.そこでは日常は,左端に見られる人物のごとく虚ろなものである.「小路」において日常は表舞台から引き下がる.なぜならそこは日常よりもより現実感のある世界であるから.そして,それこそが真の現実であると.

そう考えてみると,もう一人の奇妙な人物に注意が行く.それは右から二番目のどうやら物思いに耽っているところの少女である.彼女は,画面の人物たちの中では一番大きく描かれた人物であり,それだけで存在感があるはずである.しかしながら,彼女の色は,最も暗く,やはり「小路」の真の現実世界にはとけ込んでいないようである.彼女自身の大きさが,彼女は真の現実への参入を禁じられた者ではないことを示しているといえよう,しかしながら彼女の色は彼女が真の現実世界の住人ではないことを示しているといえるのである.すなわち彼女は,二つの世界のあわいに存在する者である.そしてこの彼女こそが,われわれ「小路」を鑑賞する者に他ならない.この少女ひいてはわれわれ自身が,日常に留まるか,あるいは真の現実へと目を向けられるか,それはひとえに作者自身であるといわれるところの後ろ向きの人物が右手に持つパン,この光り輝く魔法の杖にかかっているといえるのではなかろうか.この魔法の杖が導く世界に,私は大いに憧れるのである. (1997/10/07)

  Balthus,Le passage du Commerce Saint-Andre 1952/1954

  『バルテュス画集』リブロポート 1989


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