絵画において象徴主義とはそもそも何であるのか。それはまず象徴主義が出現する前の世代に属する印象派に対する反発として捉えられる。印象派とはそもそもその名前が示す通り、それが基づく美学は感覚に基礎を置いたものである。それゆえ、ゴーギャンは次のようにいう。
「彼ら(印象派)は自分たちの眼の周囲のみを探し廻っていて、思想の神秘的内部にはいりこもうとはしない。それは完全に皮相的で、完全に物質的で、媚態だけからでき上っているような芸術である。そこには思想は住んでいない」。
絵画において要求されるのは感覚的事物ではない、むしろ要求されるのは思想なのである。そういった考えをゴーギャンの言葉から読み取ることができる。そして、そのような考えをもとにしつつ、象徴主義の定義は批評家オーリエによって明確に宣言されるのである(1891)。
それでは、彼の理想とする絵画はいかなるものか。(4)で示されるように、絵画において、作品は客観的事物として存在しつつも、鑑定などの場合を除いては客観的なものとして捉えられることはない。絵画鑑賞という行為について考えてみよう。それはそもそも個々人の内面活動に属するものであり、客観的事物(すなわち作品)に対峙しつつも、あくまで主観に基づいた行為である。すなわちオーリエは、絵画の存在意義を鑑賞されることにあるとするのである。
しかしながらまた、彼は絵画の理想は理念の表現であるともいう(1)。何らかの事柄を表現する意図が、その事柄の伝達にあるとしたならば、その事柄の内容が誤って伝達されるのは意に反することである。よってオーリエは、絵画鑑賞という主観的な行為について、主観的なままでよしとするのではなくして、その目的を理念の正しい伝達に置いたといえるのである。さらには(3)において、表現される理念は一般的理解の方法に則って表されるべきであるとされているのであるが、これはすなわち客観性の要求であるといえる。
以上をふまえたならば、オーリエは主観を通して客観へと到らしめる手段としての絵画を理想の絵画としたといえそうである。そして、それを認めるとしたならば、象徴主義絵画に対する記述には、一つの困難が待ち受けているといわねばならないであろう。
主観はあくまで主観であって、主観を通すということに価値を置くのであれば、決して科学的な意味での客観性を獲得することはありえない。なぜなら、科学的客観性獲得の方法論とは如何に主観を排除するかに掛かっているからである。どうやらオーリエの想定する一般的理解の方法とは、いわゆる絵画に形式的統一を特徴付けるところの「様式」について述べたものではないようである。これについては、象徴主義に分類される絵画それ自体が証左となる。すなわち、象徴主義絵画とは様式によってではなくして、それの持つ一種独特の雰囲気によってそう分類されるといわざるをえないからである。
しかしながら、象徴主義絵画が一つのカテゴリーとして存在する以上、そこには象徴主義絵画を象徴主義絵画といわしめる原理があるはずである。その原理が、様式と呼ばれる客観的な記述によってもたらされるものでないことは上で述べた通りである。そしてそれこそが、象徴主義絵画を記述する際の困難なのである。それでは、象徴主義絵画を理解する上で核となる原理は何か。それを考える為に必要な幾つかの問いがある。
まず第一に、オーリエのいう絵画の唯一の理想とは如何なるものなのか。冒頭で引用した「思想の神秘的内部」に価値を置くゴーギャンの言葉を振り返ってみよう。そこでは、感覚的なものにとどまる絵画は皮相的であるとされていた。すなわち芸術作品の使命が美の表現にあるとして、ゴーギャンの求める美は感覚的な美であるよりもむしろ知性的な美なのである。オーリエの宣言においてもまた然り。絵画とはまずもって視覚によって捉えられるという限りで、感覚的なものであることを免れ得ない。しかしそれでも、鑑賞者を感覚的な美にとどまらせることをよしとせず、知性的な美に上昇させ得る絵画がありうる。それこそがオーリエの理想とする絵画なのである。したがって、オーリエの宣言のうちにプロティノス的美学の影響を見ることもまた可能であろう。
ところで、オーリエの宣言は絵画について述べたものである。すなわち、プロティノス的美学の影響が見られるとはいえ、オーリエの宣言自体は哲学的思惟を目的としたものではないのである。したがって、注意しなければならないのは、オーリエのいう客観性とは科学的客観性でもなく、哲学的客観性でもないということである。それでは、オーリエの求める客観性とは如何なるものなのか。
オーリエの宣言(2)に注目してみよう。そこでは理念を形態において表現するものとして「象徴」が挙げられている。オーリエの理想とする絵画は主観によって知覚された観念の記号として捉えられ(4)、にもかかわらず一般的な理解の方法も実現されている(3)。以上二点を共に満たす表現、それこそが象徴なのである。絵画それ自体の存在は感覚的事物に属するが、しかしまた「思想の神秘的内部」をも内包する、そのような状態が象徴によって実現されるのである。だとすると、やはりオーリエの述べる客観性は、科学的客観性でもなく哲学的客観性でもないようだ。敢えて名前をつけるなら秘教的客観性とでもなろうか。というのも「思想の神秘的内部」とは、容易に言葉にならざる神秘を思い起こさせるし、そうした神秘を知的に扱っているのがいわゆる秘教だからである。
秘教的客観性という言葉もあながち的外れなものではないであろう。なぜなら、象徴主義絵画興隆に大きな役割を果たした秘教的運動、すなわち薔薇十字サロン運動というものが存在したからである。そして、その運動こそが象徴主義絵画を理解するための核なのである。(2001/11/24)