魔術における白と黒─

黒魔術と白魔術とはどう違うのですかという質問をしばしば目にします。なるほど一般的には、魔術は黒いものだというイメージが罷り通っているといえましょう。そこにおいて黒とは胡散臭く不吉なものを表わす一つのイメージといえましょうし、そもそも、魔術自体が一般的に捉えられた限りでは胡散臭く不吉なものである以上、白魔術という言い方の方こそむしろ理解し難いものなのかもしれません。

実際のところ、白だの黒だのという言葉による分類は、それぞれの人が白や黒という言葉に対して抱く印象に多くを負っています。その差は、白と黒とを分かつ基準の違いに由来するものに他なりません。そんなわけで、白黒の分類は、これが正しくそれが間違っているとはっきり言い切ることの出来ない問題であるといえましょう。しかしながら、その様々な魔術に対する見方についてみてみることは、魔術理解にとって非常に有益なことといえるのではないでしょうか。

すなわち、ここで白だの黒だのと述べるとして、私の念頭にあるのは実は魔術の白黒をはっきりさせようという意図ではなく、魔術そのものに対する理解を幾分なりとも深めることが出来たらなということなのです。

それでは、魔術に対する白と黒の区別についていくつか見ていくことにいたしましょう。

さて、我々が魔術に対して抱くいわばとても不吉なイメージの大きな原因となる出来事は何でしょうか。それが、中世(近世においてもありましたが)における魔女狩りであるということは、幾分魔術に興味をお持ちになって書籍を読まれた方達にとっては異論のないことでしょう。中世において、正統キリスト教にそぐわない思想を持っている人達は異端審問にかけられ、あるものはキリスト教に改宗し、またあるものはキリスト教に改宗せずに処刑されたという歴史的出来事がありました。このとき持ち出されたのが、「魔女」という分類です。この「魔女」とはいったいどのような存在なのでしょうか。

現在において魔女狩りに関する文献は、それなりにそろっているといえましょう。本論は、魔女狩りについての文ではないのでそれらを詳しく検討するということはいたしません。詳しくは魔女狩りについての文献をあたって欲しいのですが、「魔女」とはいかなる人達のことだったのか、これを端的に言うならば次のようになるのではないでしょうか。すなわち、「魔女」とは正統キリスト教の信仰にそぐわないもの達がそうであるとみなされた、でっち上げられた存在であると。文献をあたってもらえればわかると思うのですが、魔女である証拠として残っている記録といえば自白によるものばかり、したがってかなりの確率で魔女狩りにおける「魔女」はでっち上げられたものであるといえましょう。そしてその「魔女」達が用いたとされたのが「魔術」だったのです。したがって、正統といわれる側から見て、「魔術」は正に正統に反するものであり、それゆえ「黒」とみなされたのです。

以上の事例を振りかえってみたならば、あるいは次のような主張が現れても不思議ではありません。すなわち、魔術に白も黒もないという主張です。正統といわれるものの見方、それが、現在では必ずしも正統キリスト教であるわけではありません。ものの見方が変わればそれに反する事柄も当然変化するわけでして、一歩引いて見たならば、魔女狩りの事例における魔術を黒と断ずることに必ずしも妥当性があるとはいえなくなるのです。

それではここで、魔術に白も黒もないという主張について考えてみましょう。19世紀末に活動した「黄金の夜明け団」、およびアレイスター・クロウリー等の功績によって、現在、魔術の技法についてはかなりのことが公開されているといえましょう。(「黄金の夜明け団」に関するものおよびクロウリーの著作についてはたくさんのものが邦訳されています)。異論があるかとは思いますが、魔術とは、想像力を用いて現実に変化を引き起こす技法であるということがあるいは上記の著作から導けるかもしれません。本論は魔術の定義をしようという主旨のものではありませんので、それについて詳しく述べることはいたしませんが、ともかく、魔術の技法を客観的に見た限り、魔術に白も黒もないという主張にはそれなりの妥当性があるといえそうです。

しかしながらここで一つ考えてみたいことがあります。それは、魔術の技法によって変化するのは、まずもって何なのかということです。

上で、魔術が想像力を用いる作業であることについて少し触れましたが、この想像力という言葉についていくらか説明が必要かもしれません。想像力とは、そもそも個人の内面に属する能力です。実際のところ、各人が想像しているところのものは、その当人しか知ることが出来ません。仮に昼食前の皆が空腹を感じる時間帯に、目の前の人物が何を想像しているかと考えてみたところで、せいぜい食べものに関することの確率が高いだろう程度の予想しか出来ません。ましてや、その対象が確かに食べ物のことについて想像を巡らせていたとして、何の食べ物に思いを巡らしているのかまで予想するのは非常に難しいことでしょう。

そして、この点が重要なのですが、相手の想像するところのものを予想するとして、その判断は結局のところ外的なもの(上でいうならば、昼食前の時間帯という条件)に頼らざるを得ないのが現実である、言い換えるならば、予想する場合も決してその対象の想像力に直に触れているわけではないということなのです。

以上のごとく、想像力は、各々の人間の持つ、他人の侵入から防護された能力です。それゆえまた、想像力を用いた作業では、本来的に頼れるものは己自身のみということにもなります。そしてこの作業を真摯に行おうとすると、結局自己に特有の「何か」に向かわざるを得なくなります。

以上を踏まえた上で、クロウリーの言葉について見てみることにいたしましょう。クロウリーはその主著『魔術 理論と実践』で次のように述べています。

「…『唯一の至高の儀礼』は『聖守護天使の知識と交渉』の達成である。それは全き人間を垂直線上に上昇させることである。
この垂直線から少しでも逸脱すれば、黒魔術となる傾向がある。これ以外のいかなる操作も黒魔術である」。

上で、自己に特有の「何か」という表現をしたのですが、この「何か」を聖守護天使として考えてみてください。(聖守護天使については別稿にて詳しく考察します)。クロウリーの言葉を言い換えて次のように言うことが出来るかもしれません。すなわち、魔術の目的とはまずもって自己に特有の「何か」を認識することであると。

その線で考えてみたならば、我々の日常的な知覚では自己に特有の「何か」は捉えられていないということができます。そこで我々は、魔術実践の営みにより、日常的な意識からこの「何か」に目を向ける方法を覚え、それによって我々の認識に関わる根本的な<何か>を変化させるのです。

魔術の技法面を特に洗練させているとみえる混沌魔術でも、

「白魔術は、知恵および自然万有に対する普遍的な信仰感情を獲得することに主眼を置く傾向がある。黒魔術は力の獲得に関心を持つ傾向があり、自己に対する根本的な信仰を反映させている」。(Peter Carroll, Liber Null & Psychonaut)

といわれています。力とは現実世界に直接働きかけるものであり、善くも悪しくも用いることのできるものです。おそらく、この悪しき面を潜在的に含有しているがゆえに、力の獲得を目指す魔術は黒といわれているのでしょう。確かに混沌魔術において、白も黒も行きつく先は同じだといわれています。しかしながら、辿る道が違うということは、道中における体験もまた異なったものとなるということを意味します。

ところで私見ながら、混沌魔術における白黒の分類は次のように言い換えうるものではないかとも思います。すなわち、白魔術はミクロコスモスの変化、黒魔術はマクロコスモスの変化に主眼を置くと。ミクロコスモスとマクロコスモスの照応というものの捉え方が魔術の根本原理としてある以上、そのいずれの道も行きつく先が同じであるということも理解できます。それゆえ、また白黒が善悪を指し示すわけでもないのです。

すなわち、白黒という分類をあくまで善悪の区分として捉えるならそれは不毛なものとならざるをえないでしょう。しかしながら、この分類を善悪の枷から解き放ったならば、案外、それを考えることが魔術理解にとって無益な事柄であるともいえないのではないでしょうか。(2000/10/01)(2001/04/21改稿)


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