レス機能付きの掲示板を新たに設置することにしました。そのほか、ログの整理のしやすさ等の点も踏まえ、最終的にはこの掲示板を廃止して新掲示板に移行する予定です。最低一月はこの掲示板を残すことにしますが、書き込みは、新掲示板のほうにお願いします。新掲示板アドレス http://cgi01.plala.or.jp/Rosarium/bbs/type-a.cgi
左きき絵画教室>とても興味深いお話です。通常、利き手でない方で絵を描くことを考えると、思い通りの描き方ができずいわゆる下手な絵になってしまう程度の想像しか出来ないのですが、なんと、左手で描くことによって色使いまで変わってしまうのですか。人間の内面を出力する回路が変わると、表現される内容もガラリと変わる。そのようなことは、表現の回路が異種のもの(例えば、それが音楽であったり絵であったり、あるいは言葉や身振りなどetc.)間であれば当たり前のこととして受けとられるかもしれませんが、その回路の違いが右手と左手であっても顕著に見られるとは非常に考えさせられる事象です。左道とはすなわち、規範たる右に対していわれる相対的な表現ですが、まさに左きき絵画教室とは、アクロマトンさんがおっしゃられた普段の束縛から開放する手段、すなわち日常的な規範を飛び越えるといった意味でのレフトハンドパスたる試みなのかもしれませんね。更には、表現という点からは話がそれますが、以上の話より、身体の束縛からの開放といった点で魔術における弛緩法が想像されたことも付け加えておきます。TAROT>ルネサンスオカルトからタロットへという流れは、ひょっとしてルネサンス期の寓意画に触発されてのことなのでしょうか?錬金術図像の末裔たる寓意画にはタロットに通ずる趣が感じられます。寓意画に関しては、下のサイトなど面白いかもしれません。http://emblem.libraries.psu.edu/home.htm再会>この場が大切な再開をとりもてて、管理人としても非常に嬉しく思っています。
オルフェオさんが魔術的思考と表現されたもののひとつとして左きき絵画教室という実験的なこころみもあります。人間になぜ右ききが多いかはまだ解明はされてません。先天的右利きと後天的右利きがありますし、両手で指をあわせて組んだときどちらの親指が上にくるかで先天的な利き腕がわかります。ちなみにわたしは左の親指が上にくるので左ききのようです。ただ箸や鉛筆などのように幼いうちに矯正されますのでね。普段右手で描いているのを左手に持ちかえると理屈ぽっさがなくなり、感覚的な絵がふえるというのは臨床実験でも証明済みでして、とくに本来絵画が不得手な人が思い切った色使いや魅力的なものを描き上げるようです。右手は左脳思考、左手は右脳感覚だとする学者もいますがそれはちゃんとしたデーターがとられていないため何ともいえません。ただ普段の束縛から開放する手段としての左きき絵画教室は功を奏しているようです。魔術ではレフトハンドパスは邪道とされますがその価値観もいずれ変わってくることでしょう。それでは
思い出した!ギルグリム掲示板no.53でお声かけしていたサイトとはたしかにあなたです。ご質問を読んだときはギルグリムでの書きこみの件を忘れてたので何のことだっけ?と思ってしまいました。失礼!
あなたが鏡リュウジさんになられてからはわたしは魔術界からはなれていたのと1995年に震度7の直撃をうけまして当時のI∴O∴S∴資料が散逸いたしました。それで記憶をたくぐりよせている次第です。楠瀬さんもメールをいただいて記憶がよみがえりました。よろしかったらメールいただけません?ここからでも送れるんでしょうけどベト・ギルグリムにはメールアドレス表示されてますんでそれにあなたがやられている「遺伝子にかかわる星占学思考」(ちょっと言いまわしが違うも知れない)に興味があります。クローン技術でうまれた人間が自分をどうとらえるかというストーリーを構想中なのでね。>オルフェオさんここでも大切な再会がありました。感謝します。それでは
アクロマトンさま、お久しぶりです(でいいのですよね、僕の間違いでなければ)Tの書がとりもつものすごい縁ですよね!不勉強の学徒をどうぞお許しくださいませ。そして今後もよろしくおねがいします。そうなんです、みなさん。僕のなかではまたタロット熱が燃えてきています。といってもカバラ的な照応論というよりはその歴史的な展開なんですけど。タロットー占星術ー心理学的占星術ーユングーヒルマン/ムーアーフィチーノ−ルネサンスオカルト−タロットと興味が十数年かかってループを描いてきたかんじです。とはいえ、あいいかわらずつまみぐいの癖はそのまま。みなさん、ご教示をよろしくおねがいします。
I∴O∴S∴創設期のころの者ですが10年以上実践魔術からはなれ、子供たちと接する仕事をやってきました。いろんな魔術サイトを拝見させていただきましたが、それぞれ個性があって面白いですね。近年では現実社会で奇異な事件がつづくなかこうした「見た目には奇異なるもの」を「健全な精神バランス」でおこなっていくそんなスタンスが定着しているのに感動を覚えます。いま教育界も変化しつつあります。自分の力を自分の感性で見つけて育てていく。そんな時代になっていくでしょう。で、本題になりますが、O∴H∴やI∴O∴S∴などの貢献により日本での西洋魔術の理論体系、実践システム体系はととのってきました。あとのこるのは魔術の映像化です。生命の樹の立体連鎖図などはCGの得意とするところです。デザインに携わる人はいずれ増えてくるでしょう。ただ描き手はどうしても他人の作品でも甘く評価してしまうのです。描く苦労を知っていますから、逆に描かない、描けない人たちのご意見が今後共創していくなかでは重要な役割を果たします。みんなで「喧々囂々侃侃諤諤のごった煮論争」などを交えることであらたなビィジュアルが出来ていけばよいかと思います。まずはオルフェオさんのところでもベト・ギルグリムの笛吹マダラさんのところでも気軽な会話から始めていきましょう!どうぞよろしくお願いします。
はじめまして、F.アクロマトンさん。お手数おかけしましたようで、大変失礼いたしました。(ギルグリム掲示板の過去ログを読んでみたのですが、お誘いを受けたサイトとは、ひょっとして私のところだったのですか?)私、丁度久し振りにタロットに関心が向かいつつありました。そのような折に魔術系ヴィジュアライズ活動のお誘いを受け、大変嬉しく思っております。O∴H∴サイトでもタロットの記述がさかんですし、鏡リュウジさんもタロットの講座をされるようです。何やら、現在、静かなタロットブームを感じております。近々、ギルグリムの方に挨拶にうかがわせていただきます。F.アクロマトンさんのタロットページ拝見させて頂きました。自作タロットをアップするというだけで大変な作業だと思うのですが、それに加えて要点を得、且つわかりやすい記述、流石は教育という分野に関わっていらっしゃる方によるページだなと感心いたしました。詳しくはわからないのですが、教育問題の中には魔術的思考から目をそむけているがゆえに問題となってしまっていることが多々あるのではないかと、考えたりしています。ただ、魔術的思考を如何に教育の場に盛り込むか、今の私にはなんともいえないのですが…それに関して何か面白い動きなどありましたら、是非教えてください。さて、本題の魔術系ヴィジュアライズ活動について。私、実はそんなに絵を描く方ではありません。現段階では、ページで用いるちょっとしたパーツなどを作る程度で、まだ全然自作タロットを描けるようなレベルではないのです。それゆえ画像そのものに関して言えば、あまり貢献できないかもしれません。ただ魔術に対する美学的アプローチによる記述は考えていますので、そちらの方でいくらかなりとも貢献できたらなと思っています。まあ、これでは直接的な魔術系ヴィジュアライズ活動になりませんが、皆様方と連携できたなら間接的に活動に貢献できるかもしれません。今後ともよろしくお付き合いお願いいたします。
F.アクロマトンです。現在I∴O∴S∴のベト・ギルグリムに居候しております。じつは先月中頃書きこみをしたんですがお引越しの最中でしたようでいちど消してしまったのであらためてご挨拶にあがりました。じつはベト・ギルグリムの笛吹マダラさんのご賛同のもと魔術系ヴィジュアライズ活動を展開したく思い、その関連の方々に交流のご挨拶にまわっております。オルフェオさんもタロットのコーナーを設けられるご予定のようですしお互いの意見、作品、書評といったものを切磋できればと思います。せんえつながら私も1月から会社のHPでタロット講座をひらくことになり毎月自作の大アルカナを2枚ずつ描いています。万民向けの内容ゆえ物足りなさは否めませんがご覧悦いただければ幸いです。http://www.tierra-inc.com/tarotそれではよろしくお願いいたします。
ミネルヴァさん、昨日のダブルK氏を囲む会お疲れ様でした。嵐としか言いようのない雰囲気は、電話でも手に取るようにわかりました。特に大きい方のK氏、彼が魔術に手を出したならそれこそ『テンペスト』のプロスペローになってしまいそうだなとふと思いました。そんなわけで、かれこそ嵐をもたらす張本人といえますでしょう(笑)。ともあれ、私も東京にはちょくちょく顔を出す予定なので、宿の提供等宜しくお願いしますね。鏡さんの書きこみだなとわかったのは、文のテーマと文体に負うところがほとんどです。更には、文字化けした部分の長さ等から、ほぼ間違いないと思ってとりあえず確認の書きこみをしてみました。しかし、他の方の書きこみでなくてよかったです。とんだ失礼になるところでした。(タロットの講座出来たら行きたいと思います。現時点では、引越し後のごたごたで予定が立たずなんともいえないのですが)。
こんばんは嵐の季節は過ぎ去りました。K氏は過ぎ行きました。お引越し大変だったようですね。僕の方はもう1年は四ツ谷に引き続き住むことになりました。また、ぜひ東京に来ていただいて語り合いましょう。>鏡さん全くの部外者で恐縮ですが、桐野夏生さんとの対談、全部ではないですが(スミマセン)、読ませていただきました。これから、少しずつ勉強させていただきます!
ほんとですね。記入者の欄が文字化けしていました。失礼しました。でもよく僕だってわかりましたね。ご明察!!鏡リュウジ
なるほど、ワーグナーですか。個人的にはワーグナー中期までの作品はどちらかというとネツァー的趣を感じます。ただ、彼の最後の作品『パルジファル』にいたっては、まったくもってゲブラー的な美を体現していると思います。シュタイナーといえば、以前ワタリウム美術館で開催されたシュタイナー関連の講演に出席したことがあります。(そのとき図らずも日曜美術館で後姿を映されてしまいました)。確かにシュタイナーの思想には、浄化の効果があるように思います。更には、美について長らく思索を続けておられる高橋巌先生によって書かれたものゆえ、紹介していただいた書籍、さぞや美的な体験をもたらしてくれることでしょう。この機会に、久し振りにシュタイナーに触れてみたいと思います。そうそう、ちょっと投稿者欄が文字化けしているようなのですが、この下で書きこんでくださったのは鏡さんですよね?
こんばんは。高橋巌先生の「神秘学入門」(筑摩書房)が出ましたね。今日買ってあっというまに読んでしまいました。ひさしぶりにいい本を読んだと思って感激しています。正直、シュタイナーの本はなんだか僕にはピンとこないことが多かったのですがこの本は、プラトン、アリストテレスの思想の中心に神秘をおき、そこから縦横にパースペクテイブを開いてその思想の価値、展開をあらわにしています。もちろん、合理主義者から見ると、信仰告白のようにしかみえないかもしれませんがしかし、僕には実に誠実な新しい思想史として読むことができました。美しくて、心が現れるような気がしました。そしてここでもその鍵として美の体験があげられています。オルフェオさんの下の書き込みに反応して書き込みました。そうそう、ゲブラー的な美といえば、この本にはワグナーがあげられていましたよ。
久しぶりにモーツァルトのレクイエムを聴いてみました。この曲は、私の波長に合うらしく、今も少しばかり考え事をしてしまいました。美と神秘についてです。まずもって、美と神秘の共通点は、個人の魂に関わる問題であるということ。更には、美の”先”に神秘が在るということ。そして、それらを語るとして、それを体験したものにしか意味を為さないということ。しかるにまた、美と神秘の間には、一つの壁があるのも感じられます。ただ、今の私にはその壁を言葉にすることは出来ません。今モーツァルトを聴いていて思うのですが、なにやら、私の考えている美は、生命の樹でいうところのティファレトというよりも、かなりゲブラー的要素が濃厚な美のようです。美と神秘、どちらも未だ定義されざる言葉といえるでしょうが、私にとって非常に興味深い言葉です。なんとか、その間にある壁を明瞭に意識化したいと思っています。
引越し後の整理が思いのほか手間取ってしまいましたが、何とかまともにネットが出来る環境になりました。今月を振り返ると、ほとんどが力仕事に費やされてしまった感があります。ただ、思ったほど体力が衰えていないことが判明したのは、大きな収穫でした(笑)。とりあえずのお知らせです。
>ホクちゃん いやーホントご無沙汰です。詳しくは、メールでお伝えした通りなのですが、もう見られましたか?ともかく、今年もよろしくです。(最近タロットの方はいかがですか?去年最後に会ったときは、丁度タロットねたで盛り上がったように記憶していますので、その後どうされているのかなとふと思いました)。>秋端 勉さん初めまして。私、魔術の道を志して以来現在に到るまで、秋端さんの大作業による恩恵に沐し続けて参りました。それが、書き込みいただいたうえ、更にI∴O∴S∴サイトからリンクしていただけるとは!誠に光栄でございます。是非お願いいたします。(実は以前、私のページからI∴O∴S∴のサイトにリンクさせて頂いていたのですが、リンクフリーとは明記されていないことに気付き、一旦はずさせて頂きました。私のページの内容がもう少し豊富になってから御挨拶させて頂こうと考えていたのですが、遅くなってしまったようです。まことに失礼いたしました。早速こちらからもリンクさせていただきます)。お察しの通り、私プロティノスの影響大の人間です。何やら神秘について語りたいという欲求が私には結構ございまして、その、語る際のキーワードとしてプロティノスのもたらしてくれたものが、美という言葉でした。そういえば、プロティノスで思い出したのですが、最近アカデミスムの世界で、徐々にイアンブリコス研究が盛んになってきている気配がありますね。魔術サイドから見て、非常に楽しみな動きです。これからも宜しくお付き合いください。
初めまして、書き込みを辿って参上しました。 ヘルメス学らしいサイトですね。感嘆しました! 僕は個人的には、プロティノスのような溢れるような神秘体験があるにも関わらず知的に語らないと気が済まないという人物は大好きです。 I∴O∴S∴のサイトからこちらにリンクを貼ってもよろしいですか?
お久しぶりです。ほくとです。あけましておめでとう。きみから12月の頭に連絡をもらってから、何度か電話をしたんだけれどもなかなかつながらず、結局この場を借りて挨拶することになってしまったが、今君はいったいどこにいるんだい?もう実家に帰ってしまったのか?とにかく連絡をとりたいので連絡ください。住所をメールで送ってくれても良いし、電話でもかまわないので…それじゃ 連絡待ってます。to サンローラン from ほくと
私、所用で10日までネットに出没できません。とりあえずお知らせしておきます。
お、ミネルヴァさん、どぜうシリーズ第一弾ですね。(ここの掲示板にどぜうシリーズって、結構おもろいですな〜。なんだか言葉遣いが変わりそう《うふふ》)。うわー鍋食べたくなってきた。今度は是非ご同行させてくださいね。その前に『駒形どぜう噺』を読んでおきますので。そういえば、昨晩薔薇を頂きました。もらうに良しあげるに良し。やっぱり薔薇は大好きです。ここの薔薇園には薔薇が一本もないようですが、ちょっと壁紙等検討しようと思っています。久方ぶりのお絵かきモード突入かもしれません。(その前に中身を更新しなさいね。by天の声)
よう、お若いの!よく来たな。おうおう、ここ腰掛けな。そうか、どぜう食べに来たか。若いのに殊勝な心掛けだねえ。なにせここのどせうはうまいからな。なんだ、小さくねえかって。何言ってやがんだ、小さい方が柔らかくてうまいんだよ。(昼間から日本酒をちびちびやりながら)ああ、うまいねえ。やっぱりどぜう鍋には向島(向島酒造)の「ふり袖」だなあ。お前らも今度からは「ふり袖」にしろよ。(暫くして)おうおう、お前たちのも来たじゃねえか。(暫く様子を眺めている)違うよ、手つきがなってねえなあ。薬味の長葱は箱ごと鉄鍋の方へ持ってきて、溢れんばかりに入れるのが通なんだよ。それから七味など調味料を加えるんだよ。葱がしんなりしてくれば食べ頃さ。えっ、何時からここに来てるかって?俺はなあ親父に数十年前に連れられて来てからだなあ。昔は一鍋600円だったんだよ。今1400円だろ。店はそんな変わってないがな。おっとと、もう食えよ。身が硬くなっちまうぞ。汁もこうやって適宜足せよ。おうお姉さん、お銚子もう一本!しっかし、お前ら俺を酔っ払いだと思ってるだろ。さっきここ来るの躊躇したもんなあ。ところがどっこい、俺は中々賢いんだぜ。嘘じゃねえよ。このどぜう屋のことならなんでも知ってるぜ。まずは川端(康成)先生だな。どの本だったか、そこまでは憶えちゃあいないがよお、このどぜう屋が出てくるんだ。次は林芙美子女史だな。『放浪記』にちゃあんと記述があるぜ。そもそもどぜう鍋は夏の季語になってるんだ。いやまだまだ、文学には出てくるがな、やっぱり、ここは下町だあ、どぜう寄席なんちゅうのもあるんだぜ。どうだい、てえしたもんだろ。えっ、一席ぶってくれだあ、あっいや、そこはまあなんだあ、…小学館から文庫で『駒形どぜう噺』ってえ本が出たそうだからそっちを読んでくれやあ。
>ミネルヴァさん今年もよろしくお願いします。素敵なネタをお待ちしていますね。(さしあたり、どぜう鍋に関する一考察など?)あ、そうそう、メールチェックしてみてください。多分届いていると思いますので。そういえば、最近リンクが壊れている箇所を発見しました。(フレームの右側の部分。とりあえず応急処置をしました)。皆様何かお気づきの点がございましたら、是非お知らせ頂けたらと思います。よろしくお願いします。
去年は映画観れませんでしたね。できたら近いうちに観ましょう。暮れにYさんとK君と飲もうかという話もあったのですが、Yさんが塾講師をはじめたということで、K君と二人で渋く、寄席を観にいって、どぜう鍋を食べてきました。
ミッション完了です。いろいろ大変でしょうが、お互いうまく乗り切りましょう。では、今年もよろしく。
明けましておめでとう御座います。管理人さん、私的連絡掲示板にして申訳ありません。ちょっと公民科教育法の U さんに連絡させて。最近来てます?実は八日の講義に出席できないので、次週までの課題を御報願えませんか?面倒をおかけして申訳御座いませんが、宜しく御願致します。
明けましておめでとうございます。皆様、昨年は大変お世話になりました。本年もよろしくお願いいたします。
東洋の占星術ですか〜。私、東洋のシンボリスムが身に付いていませんので、東洋の占星術についてはほとんど知らないのですが、興味はあります。今度いろいろと教えてくださいね。(>さみゅえるさん)占いといえば、私のページに空室がありますが、あそこはやはり予定通りタロットを扱うことにしました。クロウリーの「トートのタロット」をメインにして、まずは大アルカナの解説を通して何か言えたらなと考えています。私のことですから、アップするのはまだまだ先のこととなるでしょうが…
それと 素敵なイブになりますように・・。
いろいろな本を紹介していただいてありがとうございました。本当にいろいろな本を知ってらっしゃいますね。楽しみに探しに行ってみます。いろいろな占いが好きでいろいろかじっています。最近は東洋の星占術が興味があります。またいろいろ教えてください。ありがとうございました。
>さみゅえるさんこちらの掲示板にまで書きこんで頂いてどうもありがとうございます。今後ともよろしくお願いいたします。さて、薔薇・十字ということでちょっと薔薇十字団に関する書籍の紹介をさせていただきます。まず、第一に薔薇十字団の歴史的な事柄を知るために クリストファー・マッキントッシュ『薔薇十字団』平凡社をお勧めします。そして、薔薇十字団文書の邦訳として、 種村季弘 訳『化学の結婚』紀伊国屋書店など読まれてはいかがでしょう。もう一冊、種村さんの『薔薇十字の魔法』という書籍がありますが、これは確か、現在は種村さんの著作集の中の「魔法」と分類されたもののなかに収録されています。今手元にある書籍ではないので、ちょっと正確な書名はわからないのですが…>皆様トップページの音楽を変えてみました。不協和音が特徴的な曲ですが、今考えてみますと、どうやらIOT Japanのページに刺激を受けたがゆえのことだと感じています。かなり、ページの印象が変わると思いますが、それについて何かご意見頂けましたらと思っています。では皆様、明日のイヴは素敵な時をお過ごし下さい。
書きこみありがとうございました。先日 ある本を読んでいて、薔薇の十字・・・という文が出て来てオルフェオさんのHPに行きたかったのですが、URLがわからずどうしようと思っていたのですが、その日のうちに訪問していただけとても嬉しかったです。いろいろ参考にさせていただきます。鏡さんが書き込みされていてびっくりしました。また来ます。
書き込みありがとうございます。私、O∴H∴のサイトには開設当初よりお邪魔させて頂いております。その資料性の高さはもとより、魔術に対する心構えを御教示いただき、常々非常に貴重な体験をさせていただいております。リンクフリーというお言葉に甘え、挨拶もなくリンクを張らせて頂いていたのですが、まさか、O∴H∴サイトからリンクしていただけるとは!誠に光栄でございます。是非ともお願いいたします。魔術をテーマとして掲げつつ、いまだ私の力不足ゆえ、本題に関しては述べていないに等しいといった困ったページではありますが、遅々としつつ更新していきますので、今後ともよろしくお付き合いお願いいたします。
先日はお会いできて大変嬉しく思っています。御著作にても拝見しましたが、やはりあのアセンダントと容貌の話しは面白かったです。加門さんの狗頭金の話しも踏まえ、人間の似てると感じる印象(あるいは印象全般)と判断の関係に思いを馳せています。事物の差異を示すことは、客観的に可能ですが、しかし似てるということは客観的に示せない。この点に関して何やら、占星術の働く場と似た構造になっていると思うのは私だけでしょうか?そういえば、最後のサイン会では、何やらちょっと舞い上がってしまい訳のわからぬ事を言ってしまったような気がします。(何よりの失態は、加門さんへの挨拶を出来なかったということです)。次回、お目にかかれる機会を楽しみにしています。
どうも、O∴H∴のうじゅぱと申します。是非相互リンクをお願いしようと思いましたら、すでに張っていただいているようで、恐縮です。うちからも張らせていただきますね。こちらのHPはなんか美しいですねえ。うらやましい。>ALL 今後ともよろしくお願いいたします。φ〔☆〕/~~
>happyさんようこそおいで下さいました。これからもよろしくお願いします。そうそう、「しあわせハッピー人形」見てまいりました。とても可愛いですね。なかでもお気に入りは、「HUEROT」と名付けられた人形です。動きなくして動きある、なにやら魔術的印象をもたらしてくれる人形でした。>鏡さんコメントありがとうございます。彼もきっと喜んでくれていることでしょう。そういえば、この間の感想で書き漏らしてしまったのですが、「星を盗む」というお話しとても興味をそそられました。心理学でいうところの「転移」や「自我理想の交換」などと関わりがありそうな面白い現象ですね。今週のトークショー楽しみにしています。
こういうとき言葉がでませんね。ご友人のご冥福をお祈りします。
私のHPへの御訪問、ありがとうございました。早速、オルフェオさんのHP拝見させて頂き、また、楽しませて頂きました。↓ショックな出来事があったみたいで、訪問の御挨拶だけで帰ります。
下の書き込みのような、ショックな出来事が起こりましたゆえ、あまり有益な感想にはならないかもしれませんが、以下に述べさせていただきます。私が一番感銘を受けたのは次の部分でした。 「〜それ以上に『当る』ということは人の胸を、心を『打つ』という意味だ。 占いが当たったとき、あるいは『当る』と感じられたとき、人は自分の出 来事に何か意味があったと感じることができる」。某掲示板にて、遺伝子と占星術との予測のやり取りを拝見しましたが、そこでの遺伝子側の方の「当る」と、鏡さんのおっしゃる「当る」とは、同じ当るでも違った「当る」でありましょう。そして、この違いは、近代以来客観性という名のもとに切り捨てられてきたあるものに関する価値の置き方に由来するものでありましょう。なにやら私は、占星術(特に鏡さんの為されている心理占星術)は、教育学の分野においてまず見直されるべきものなのではないかと感じられました。教育において、表面的な個性の尊重など叫ばれていますが、まずもって個性とはなんなのか、その答えが、鏡さんの著作から見えるような気がしたのです。(そして、この問題は当然の事ながらアカデミスムとオカルティズムとの溝に対する問いへとも発展していくでしょう)。今後の著作も楽しみにしております。P.S. 17日は予定通り出席できますので、よろしくお願いいたします。
僕にとっての君のイメージは、空にたゆたう雲でした。君はどこかふわふわとしつつ、しかしそれゆえ現代のせかせかした世の中において容易に隠蔽されてしまうところの不思議な安心感を私に与えてくれました。交通事故という不慮の出来事。いまだ、私にはそれを整理して受け入れることなど出来ません。そんなわけで、今回のことをなかなか言葉にするのは難しいのですが、一つだけ言わせて頂きます。君は、僕の心に、大切な刻印を残してくれました。どうもありがとう。君は、私にとって愛すべき後輩でありましたし、これからもそうありつづけることでしょう。今は、ゆっくり休んでください。心よりご冥福をお祈りいたします
お買い上げありがとうございました。楽しんでいただけるとうれしいです。さりげなく元型心理学のテイストも入っていたりして。タッチはやさしいけれど実は濃い本だと自分では思っています。当日、お目にかかれるのを楽しみにしております。
『占いはなぜ当たるのですか』今週月曜日にABC(新宿)にて購入し、めでたく12/17の整理券をゲットしました。(当日は是非対面させていただきたいと思います)。さて、私今週はアルコール摂取の量が多かったものでして、只今、やっと第一章を読み終えました。序章における「ずっと心の中に、何か割り切れないものが残っている。その証拠に、僕が使っている『占星術研究家』という肩書自体にも、その奇妙な二律背反する感情が現れている」(p.12)、という部分にまず共感を覚えました。そして第一章を読んでいくうちに次の文に出会いました。「しかし、この『言葉』というものがクセモノであった。〜星の言葉は、論理ではなくイメージの連想に沿って読み解かれていくからだ」(p.54)。以上の、後の部分が先の部分のおそらく大きな原因となっているのだろうなあと、自らの問題意識と照らし合わせ、興味深く読ませていただきました。イメージを介してしか理解できないものを、いかにして言葉によって伝えるか、非常に難しい問題だと常々思っています。今回のリンゴやピザの喩えなど、非常にわかりやすい喩えだと思います。そして、いわゆる「頭が固い人」にとっては、いくらわかりやすい喩えを出してもらえても、それがイメージとしては形成されないという事実をふまえ「イメージの『訓練』」ということを強調されているのが素晴らしいと思いました。私、数日ほど前にこのページのトップを模様変えし「魔術的探求とは、すなわち主観を通して客観に到る内的探求であるといえましょう。(それゆえ、常に誤謬の危険が付き纏うのではありますが。)」という文を入れてみたのですが、これは上で述べたことと深い関連性があります。なにやら、鏡さんの文の中に、自らと同様の問題意識が感じられてとても嬉しく思っているオルフェオでした。第2章以降の展開、じっくり読ませていただきたいと思います。P.S. ヒルマンの件教えていただきありがとうございます。きちんとアンテナ を張り、せっかくの機会を逃さぬよう気をつけたいと思います。
オルフェオさん、本を見てくださってありがとうございます。感想とか聞かせてくださいね。ヒルマン、来年に来日するという話。楽しみです。
日にちO.K.です。詳しくはメールにて。
上記の案件は、十二月二十日ということに一応しました。如何なもんでっしゃろ。都合をきかせてたも。
表題の鏡さんの書籍、今日池袋の某書店にて現物を手に取りました。22日発売と奥付に書いてありましたが、どうやら店頭には数日早く並ぶようですね。時間がなかったのでゆっくり見られなかったのですが、サイン会に顔を出したいので、ABCにて購入することにいたします。
>美的体験をどこまで表現することができるか正直いいまして、上の問いは常に意識しつつ、しかし触れたくない問題であります。そもそも体験の記述とはなんなのでしょうか?体験に関する知的な伝達は言葉によってもちろん可能でしょう。ただ、その伝達された体験が受け手によってどのように受け止められるかによって、伝達の意味合いが変化する。なにやら、私にとって「美的体験」に限らず体験一般についての再現性が、あまり議論に適さないと思えるのです。とはいえ、私が関心を持つ「想像力」などもまた、上の再現性の問題と密接に関わっているであろう事も事実です。まあ、美的体験についての問題提起、私としてはどう扱うべきかちょっと考えあぐねるといった状態です。なにか面白い切り口等見つけられましたら、展開してください。>こういう場では面と向かってよりどうもずれていく傾向にあるようですね。>でも、それが議論を活性化する役割を演じてしまったりするのである意味では>おもしろいですね。そうですね。そして、たとえずれたとして過去ログを参照すればんなんとかなったりする。なんとなくの関連性で話しがつながっていれば、こういう場では問題ないのではないでしょうか。そんなわけで、これからも書きこみよろしく。>想像力をとりわけ論じているもの、そういえばバシュラールがいたな、と先日>思い出しました。あと、リシャール。バシュラール、もう3〜4年触れてないので、詳しいことは忘れてしまいました。リシャールと共に、いずれ読んでみたいと思います。>『ルードヴィッヒ』メールします。>下の本、詳しくはどういうモノですか。どのような対象について論じているの>ですか?まだ読み途中ゆえ、詳しくというのはちょっと無理です。まあとりあえずの説明ということで。ラカンの鏡像理論は『エクリ』にて展開されていますが、ただ彼特有の曖昧な言い回しのために、なかなか理解しづらい部分があります。それを、鏡に関連する絵画(ベラスケスの「ラス・メニーナス」からアドルフ・ヴェルフリの「怒りの谷の大列車」まで)によって説明する。以上が一点目。更に以上の試みはまた、それぞれの絵画を新たに読みなおすという試みでもあります。さらには、ロゴス中心主義といわれるラカンの思想が、いかに造形的イメージと関わるか、それも、以下の書籍を読む点で面白い視点になると思います。とはいえ、先程も書きましたがなにぶん読み途中ゆえ、あまり詳しく述べることは出来ません。まあ、厳密な書評めいた本の紹介のみならず、感覚的にオススメなものの紹介もアリかなと。過去を振り返ってみると、私にとっては感覚的な判断の方が有益だったように思えますので。それではまた。
こんばんは。いや〜、僕の方がやはり最初に論をずらしてしまったように思います。美的体験をどこまで表現することができるか、みたいに。こういう場では面と向かってよりどうもずれていく傾向にあるようですね。でも、それが議論を活性化する役割を演じてしまったりするのである意味ではおもしろいですね。想像力をとりわけ論じているもの、そういえばバシュラールがいたな、と先日思い出しました。あと、リシャール。それより、『ルードヴィッヒ』はいつにしますか。僕は基本的には土曜ならいつでもいいのでご希望の日をYさんと決めて下さい。なるべく早くがいいな。最近ガス欠なので(飲みたいということです)。下の本、詳しくはどういうモノですか。どのような対象について論じているのですか?
11月の新刊、ミシェル・テヴォー『不実なる鏡』(人文書院)が結構面白い。内容は、ラカンの鏡像理論を用いた美術史。まだ読み終えてはいませんが、結構おすすめです。
鏡さんの「女神のいる心理学」(ユリイカ1998.12)拝読させて頂きました。オルフェウスに対してハデスが課した「エウリュディケーを見ないこと」に対する卓抜なる解釈恐れ入りました。鏡さんが対談のページでおっしゃられていた「あるないの中間の領域」あるいはimaginal(想像界の)な領域(これはもともとアンリ・コルバンの用語ですか)の見なおし(あるいは再認識といった方がいいのかもしれませんが)の必要性に関して非常に説得力のある文章ゆえ、私、非常に感銘を受けました。(それにしても、よくあれだけのコンパクトな文章に収められましたね。その点においても私、感嘆の念を隠すことが出来ません)。「あるないの中間の領域」に対する認識の必要性が高まるということは、あるいは、哲学において存在論が下火である(ハイデッガー以来)ということにも関係するのだなあと私見ながら思っております。そしてまた、魔術が働く場というのは、imaginalな場であると確信しています。今後、ヒルマンの著作を本格的に読みたいと思いますので、アドヴァイスお願いいたします。
早速ページ見てまいりました。生命の価値を知るがゆえに、敢えて「死」を名乗る、そんな態度がよく示されているのが、あるいは「アイヌコタンに学ぶ」という文章なのかもしれませんね。そして、以上を読みつつ思い出された文章は、ジョルジュ・バタイユの『エロティシズム』でした。エロス(愛)の対象は美であるというギリシャ以来の図式を、生と死をキーワードとして読み解くこの文章は、MORTさんの目指す魔術にかなり親近性があるように感じられたのです。Mortissicaの文章も含め、MORTさんのページにより今一度人間の根源的な謎へと眼を向けることを促されたオルフェオでした。
水晶の城オーナーのMORTです。書き込みありがとうございました。魔術関連のサイトのようですね。よろしければこちらも参考にしてみてください。http://homepage1.nifty.com/soul-wing/soul-wing.htm魔術専門に書いてあります。量はないですが。
こんばんは鏡さんのイベントについて、他サイトで調べて参りましたところ、残念なことに11/20のものはすでに満席であるとか…。さまざまなセラピーに触れられる機会でしたのでちょっと残念です。(何せ、書物からの知識のみで、体験したことはないものですから)。そんなわけで、12/18の対談について問い合わせてみることにいたします。「うらないはなぜ当るのですか」というテーマ、楽しみです。私、時々友人を相手にタロット占いをするのですが、きまって「なんでそんなに当るのか?」と疑問を投げかけられます。ただそのような場合、「私は占いではなくしてカウンセリングを行っているつもりなので、占いとしてなぜ当るのかはちょっと説明できない」などと答えてしまっています。(まあ、質問に答えてはいないのです)。12月の対談は、以上のような質問に答えるべく何らかの言葉を得られそうですので、非常に楽しみにしています。(チャンスがありましたら、オルフェオですと挨拶に伺いますので)。>ヒルマンはPsyche(プシュケ、魂、神話の乙女)の特徴は>なによりも「美しいこと」だったと述べています。 目で音を聞くことは出来ず、耳で光を見ることは出来ない。なぜなら、視覚は目に固 有の働きであり、聴覚は耳に属するものだから。では、魂固有の働きとは?それは美 を捉えることである。それが可能なのは、魂の本質が「美しいこと」であるから。ヒルマンの考えには、以上のようなギリシャ的思考がうかがえると思います。ギリシャにおいては、ロゴスという言葉には近代的理性のみならず、魂のロゴス(近代において主観的という一言で却下されてしまった)も含まれていたようですので、魂を語るにあたり、宝の山ですよね。美も想像力も魂のロゴスにのっとって語られるべきものでありましょうから、それを語る言葉は、「形式化」された理論の中にはなかなか見つからないのかもしれません。(ミネルヴァさん、文学理論に関する詳しい情報提供ありがとうございます。しかし11/2の書きこみ「文学への転向者」とはそういう意味(11/6書きこみの意味)だったのですか。だとすると、私の質問こそが的外れなものだったようですね。まことに申し訳ない)。>私小説作家的に異体験に進んで飛び込んでいくとか(半分冗談です)。そういえば、異体験について少々思い出したことがあります。魔術に関する書籍をほどほどに読み終え、さて実践ということで東の空間に五芒星を描いたときの事です。あのときの空間の変化はまさに私にとって異体験でした。それを機に、魔術好きから魔術研究者に変わったといっても過言ではありません。まあ、何がいいたいかと申しますと、想像力を能動的に用いれば異体験に飛び込む事が可能ということでして、そこがミネルヴァさんとの接点になるのかなあと感じました。ミネルヴァさん自身は魔術の実践をされたことはないと思いますが、私が魔術について語るときに、異体験をキーワードとしてみてくださるなら面白くなるかもしれませんね。
まずはじめに述べておきたいのは、僕は文学理論をやりたいのではないということです。いまは、実作者になるためのトレーニングを積んでいるといったところでしょうか。具体的には、人畜無害化されている川端や谷崎や荷風、日常性に潜む非日常性をえぐり出す第三の新人とその周辺という鉱脈に分け入って一山あててやろうという感じなのです。あとは、私小説作家的に異体験に進んで飛び込んでいくとか(半分冗談です)。文学理論はサブテーマなのですね。だからこれから書くこと的はずれなところがあるかもしれません。もし間違いがあれば、どなたかご指摘ください。ひとつまずいえることは、現代の文学理論において「想像力の問題」は、例えば章立てて論じられるものではないということです。実作者の側からいえば、いっちょう斬新な人格典型を創造してやろうとか、新しい文学世界像を提示してやろうといった想像力(創造力)に関わる気概は当然どこまでもついて回るものだと思いますが、文学理論(特に批評理論)においては、ロシア・フォルマリズム以来、あるいは、言語論的・記号論的転回が文学にも適用されて以来、「想像力の問題」は、詩をも含めて、形式化され、音韻論や修辞理論などに還元される方向性にあります(評価・批評をそれらをもとにやるわけですね)。また、ここには「テクストの快楽」(バルト)など読者の読む行為へと拡散される傾向性も同時に存在します(サルトルもアンガージュマンと関連させて、作者と読者の関係を述べているようです)。日本での状況としては、作家を眼力で冷徹していって啖呵をきる小林秀雄型と近年の批評の哲学化をしてしまった柄谷、浅田、蓮実型の両極端だといえると思います。そして、その中間として吉本隆明流の言語論的な批評理論があると見ることができるのではないかと思います。文学理論・批評理論としては、あるいは、そういう枠に関わりなく、個人的には吉本の評論にいまは興味があります。実作者側の「想像力の問題」として、特に詩作の面で啓発さるところがありそうです。
下のやりとりをうけて。ヒルマンはPsyche(プシュケ、魂、神話の乙女)の特徴はなによりも「美しいこと」だったと述べています。多くのユング心理学者がプシュケとアモールの物語を具体的で日常レベルでの心の発達と結びつけるなかでヒルマンのこのあたりの言い切りはさすがですよねえ。それと、蛇足ですが「ユリイカ」98年12月号の「女神」特集のなかで元型心理学と美とオルフェオならぬオルフェウスについてすごく短いエッセイを書いています。よかったらバックナンバーを探してみてくださいな。11月、12月は講座(朝日カルチャー新宿)とか西荻窪ホビット村(プラサード書店)とかトランスパーソナル学会主催のシンポジウム、青山ブックセンターでのサイン会などなど都内でのイベントがいろいろあります。よかったら遊びに来てください。
こんばんは>ミネルヴァさんまず、私がワイルドの描写で念頭においていたのは、詩ではなくして『サロメ』における描写です。(是非、読んで下さい。)少しばかり引用してみましょうか。 「おれは紫水晶を二種類もっている。黒いほうは葡萄酒のよう。赤いほうは水をさした 葡萄酒のよう」。 「オパールももっているぞ、一つは凍りつくような焔をたてて燃えている、一つは人の 心を悲しませ、闇を恐れしめるのだ」。 「サファイアももっている、卵ほども大きく、青い花のように青いのを。そのなかには 潮が流れ、月の光もその波の青さを消し去ることはできまい」。 福田恒存訳 岩波文庫P.86〜87私が思うに、例えば何かの作品に宝石が出てきたとして、ただ「美しい」と形容されるか、あるいは「いくらしたか」とかの説明しかされないのではないかと思います。その点、上のワイルドの文章は、正確な宝石学の知識に裏づけされ、さらにそれを超えて美しさの伝達まで描写するのに成功している例だと思います。ここまで、言葉によって宝石の美しさを伝達するのは難しいことなのではないでしょうか。つまり、前回の私の書きこみは、「宝石の美の言葉による伝達」に焦点を当てたものだったのです。プロティノスの言葉を借りれば、美はそれを見るものの眼がふさわしいものでなければ捉えることが出来ないものであり、したがって、上の引用文が直ちに各個人に美的体験を引き起こすわけではないでしょう。まあ、その個人差の謎を解く鍵は想像力にあるのでしょうが…美的体験の表現に関する問題、非常に興味深い問題です。私としては、魂と想像力とをキーワードとして考えてみるべき問題かなと思っています。だとすると例えばフィチーノのスピリトゥス論など面白いかもしれませんね。文学というからには全ての理論に想像力が関わるでしょうが、特に焦点が想像力に定められているような理論がありましたら教えてください。私あまり文学理論についてはわからないのです。
こんにちは。「宝石の美しさ」の話、文学への転向者にとっては興味深いですね。たしかに文学でもあまり見かけませんね。オスカー・ワイルドは詩の方で表現しているのですか?小説とかだったら是非読んでみたい。というのは、次のように考えることもできるからです。小説という表現形式を考えてみるに、叙述のプロセスのなかで意味や価値を浮かび上がらせるのが小説だと仮に想定すれば、小説のなかで瞬間的な美的体験(至高体験?)を表現するのは難しいのではないでしょうか。たとえ物語のクライマックスにおいてそれが絶妙に配置され表現されたとしても、物語的な時間への従属性からは逃れがたいのではないでしょうか。そして、それ以上は語ることができないというネガティブな仕方でその美を暗示して終わるほかはなくなるのではないでしょうか。オスカー・ワイルド、宮沢賢治の「宝石の美しさ」の表現、具体的にわかれば教えてください。
以下の部分、少し変更します。>宝石に関しても権力の象徴としては見ず、純粋にその美しさを愛でていたようです。 ↓ 宝石に関しても権力の象徴や虚栄の象徴としては見ず、純粋にその美しさを愛でていたようです。そういえば、宝石の美しさって言葉で表すのが難しいですよね。ざっと文学を見渡してみても、それをなしているのはオスカー・ワイルドや宮沢賢治ぐらいではないでしょうか。美学においても、特に宝石の美しさに焦点を定めて述べているものは、ちょっと目にしたことがないですし…
ミネルヴァさん はじめまして(ここではですけど)鑑賞会、早速予定を考えてみましょうか。いや実は、近いうちY君と会う予定がありまして、その時にでもちょっと話してみます。お互い、忙しい身ではありますが、年内には実現したいですね。私、ルードヴィッヒU世には、感性面で多大な影響を受けました。彼の造らせたリンダーホーフ宮「ヴェーヌスの洞窟」にはよく遊びにいったものです(想像力を用いて)。彼は、魔術的には地の要素が強かった人物のようであり、そのためか、宝石に関しても権力の象徴としては見ず、純粋にその美しさを愛でていたようです。どうやら私の宝石好きは、彼からの影響が大のようです。何はともあれ、彼は私にとって非常に興味深い人物です。是非是非、鑑賞会実現しましょう。
こんばんは。いろいろ凝った作りになっていますね。今回は取り敢えず書き込みまでで失礼します。今度『ルードヴィッヒ』観ましょう!
はじめまして。掲示板を見た時には大変驚きました。私、以前より鏡さんの学問的裏付けを大切になされる文章には共感を覚えていた人間でして、書きこんで頂き、非常に光栄に思っております。そういえば、丁度私が心理学のうちに魔術を語る言語を探していた頃、鏡さん訳の『魂のコード』が出版されまして、いずれ鏡さんとお話する機会があればなと思っておりました。ここのところ、しばらく心理学から離れてはいるのですが、そろそろまた心理学に戻りそうな予感がしていたところです。ヒルマンは、私の感性に合っておりまして、彼による「魂」の説明には大きな影響を受けました。今後様々な疑問に突き当たるであろうとは思うのですが、その際には鏡さんに御教示頂けたら幸いです。これからもよろしくお願いいたします。
はじめまして。書きこみありがとうございます。さて、魔女になりたいということですが、現段階のイメージではなにやら「怖さ」が先行しているという状態なのですね。(そんなわけで魔法陣に対しても「呪い」的なイメージをもたれているのでしょう)。書きこみを拝見した限り、blue starさんは魔術の世界の入り口に立たれているようですね。そこでお勧めしたいのが、いろいろな書籍をお読みになられるということです。現段階において、blue starさんが魔術に対してもたれているイメージは第一印象です。これから先、魔術に対する知識が増えていくにつれ、イメージは変化していくことでしょう。「私の最初の『魔女』のイメージは、自然を尊んで、それを上手く利用したり、自分を客観的に見て、自己を高めたり、そんな感じのものでした。あと、潜在意識を呼び覚ましたり。。。」というイメージはなかなか的確なものだと思います。では、何故それが怖さに通ずるのか、それを考えてみるのも面白いかもしれません。そこで、以下の書籍をお勧めします。 鏡リュウジ『魔女術』柏書房 \1602 マリアン・グリーン『やさしい魔女』国書刊行会 \2718 ドリーン・ヴァリアンテ『魔女の聖典』国書刊行会 \2621 (値段は若干違うかもしれません)実は、一般には混同されていますが、「魔術」と「魔女術」とは重なる部分が多々あれ趣を異にしたものです。ここでは、「魔女術」に関する書籍を紹介していますが、案外blue starさんの求めている分野は魔術の方であるということも考えられます。とりあえず、鏡さんの書籍等読まれて感想を頂けたらなと思います。 物事は段階を踏まねばなりません。そして、現段階は、魔法陣に対する答えを述べる段階ではないと思います。それについては、いずれお答えすることにいたします。それでは、これからもよろしくお願いいたします。
こんばんは。はじめまして。魔術リンクからやってきました。オルフェオさんの神話解釈など刺激的ですね!つい興奮して書き込みをしてしまいました。またのぞきに越させてください。
私は魔女(ウィッカってゆうの??)になりたいのです。でもいろんな「魔術」のHPを見ていくと、魔方陣とか、大掛かりな魔術についていっぱい載ってて、ちょっと怖くなっちゃいました。なんか私の最初の「魔女」のイメージは、自然を尊んで、それを上手く利用したり、自分を客観的に見て、自己を高めたり、そんな感じのものでした。あと、滞在意識を呼び覚ましたり。。。ダウジングとか、占いとか、おまじないみたいなの?ならやってみたいけど・・・。そもそも魔方陣とかって、どんな時に使うんですか?なんか私は「呪い」みたいな感じがして嫌なんですが・・・。私の誤解でしょうけど。。。
風邪のためダウン。ここしばらくは、消耗の激しい訓練は出来そうにない。そんなわけで、ここ数日の間に見た夢は自らの変革を促す内容のものばかり。夢のメッセージを素直に受け止め、とりあえずは今後の方針など新たに計画を練り直そうと思っている。ミカエルの勢力が弱まりつつある、不安定な季節ゆえ、皆様も体調にはお気をつけ下さい。
いつも質問ありがとうございます。質問に対する答えを考えることは、漠然としたイメージを明確にしてくれますゆえ、非常にありがたく思っています。さてご質問の件ですが、ジジさんの満足する答えを述べるとはすなわち魔術に対して信ずるに値する根拠を示すということでありましょう。しかしながら、「はじめに」のところで述べましたように(まだ読まれていらっしゃらないなら是非目を通してください)、今の私にそれは不可能です。というよりも、納得のいく説明とはおそらく科学的説明を指されているのでしょうから、とりあえずは現代における科学的知識によってはまだ魔術を充分に論じることが出来ないといった方がよいのですが。そもそも科学的な説明で説明される事柄とは、どういった事柄なのでしょうか?それについて考えてみることが、魔術のイメージをつかむ上で重要なステップになることでしょう。それについては、「はじめに」で書いたことと重複しますので、ここでは述べることはいたしませんが。すなわち、ここでは下のご質問に対するダイレクトな答えは述べられません。しかしながら今後順を追って魔術のイメージを伝えることは可能でありましょう。そのために、ジジさんが魔術に対して持つイメージなど示していただけたら幸いです。最後に>オルフェオさんは魔術が作用する現場を見たことがありますか?について。答えは、”常に体験しています”です。しかしながらその体験に対して、一般的な視点から述べるならば偶然という説明が可能だともまたいえます。何故そうなるのかについては上の問いについて考えてもらえばわかって頂けるのではないでしょうか。もしよろしかったら、「はじめに」の部分に対する疑問などからはじめていただけたらなと思います。どうも、抽象的なレスですみません。
オルフェオさん、素人の素朴な疑問に親切・丁寧にお答え頂きありがとうございます。魔術と魔法の解釈の違いとても参考になりました。そこで『魔術は現実に作用するもの』とありましたが、私は現実に不思議な現象が起こるのを見たことがないのでそれを信じられません。オルフェオさんは魔術が作用する現場を見たことがありますか?それはどういった現象なのでしょうか?もしよろしければお答え下さい。
そういえば、下の私の書き込み、魔法名ということばに対しては有効ではないような…魔術と魔法の違い、もう少し詰めて考えねばなりませんね。
>ジジさん >魔術と魔法の違いを教えて下さい。以上の違いに付きましては、辞書などを見ていただければお分かりでしょうが、一般的には区別されていないと言えましょう。それゆえ、現状においては魔術と魔法を区別する場合の基準は各人によってまちまちだといえるのではないでしょうか。とはいえ、私自身は以下のように区分しています。 魔術─現実に作用するもの 魔法─ファンタジーこのような区分をしてみたならば、なぜ一般的には魔術と魔法は区別されていないかということもおわかり頂けるでしょう。すなわち、一般的にはどちらもファンタジーとされているからです。私が魔術というところのものは、また実際に身に付けられる技術であります。格闘技におけるウェイトトレーニングや型の訓練等の基礎訓練は、魔術における呼吸法の訓練や視覚化のトレーニングにあたりますし、スパーリングは、たとえばパスワーキングと呼ばれるイメージの世界の探索に当るでしょう。(とはいえ、格闘技の実戦にあたるものは決して魔術戦ではありません。なぜなら魔術の存在意義は戦いではないからです。念のため。)順を追って身に付けられる技術という含みを持たせられるため、現実に作用するものとして私は魔法より魔術を好むのです。以上はあくまで私の見解です。magic(k)ということばに対して各人が抱くイメージによってその他の解釈も当然成り立つでしょう。ではまた
素人の質問ですが・・・魔術と魔法の違いを教えて下さい。
>ジジさんようこそおいで下さいました。今度ゆっくりお話しましょうね。
オルフェオさんこんにちは。とりあえず挨拶だけ。会社からです。
ああ、今日ちょっと顔出してきたんだけど、公民はやるみたい。ただ教室変更の掲示が出ていたと思う。でも公民は去年とってしまったのであまり意識して見なかった。だからひょっとしたらガセネタの可能性あり。明日は私はちょっと見に行けないのでUさんあたりに聞くといいかもよ。(彼は今年取るといってた)。ほなまた
明日からはじまるねぇ。明日行く?土曜の公民休講かなぁ。俺は行かないかもしれないので、行って気づいたらちょっと見てくれませんか?
しばらく更新できそうにない。ちょっとまずいかも…
新規開設後のテスト完了。これよりこの掲示板は、書き込み可モードに突入します。そういうわけで皆様よろしくお願いします。