桝 嘉一(外野手 右投右打)

今回は、おそらく公式の野球殿堂の選定理由にならないものです。

ベーブルースが来日した昭和9年('1934)。その日米野球の初戦、東京倶楽部の一番打者で初打席に初安打したのが、選定理由です。

実は、桝という選手は、私が以前から目をつけていた選手でした。戦前の名古屋軍に入団し、外野手・監督とつとめました。’38春シーズンには、出塁率の1リーグ時代2位の.493を記録しました。また、’1938通算の出塁率.451は、1リーグ時代には呉(1943 .457)に次ぐ2位です。打高投低の2003でも、出塁率で.451を上回るのは、ファイターズの小笠原のみです。四球が多いとはいえ、今から考えると信じられない打低投高の時代の話ですから、驚嘆に値するとおもいます。

 それから、桝は1937から選手兼監督になっていますが、チームの成績は芳しくありませんでした。そして一選手に戻った1938春に自己最高の成績をおさめているのがおもしろいです。人のよかったのでしょうか?

 もうひとつ、エンサイクロペディアや野球人名辞典を見ても、没年不詳になっています。この悲しげな話も私設野球殿堂に入れてやりたい理由です。

 

ニックネーム等    
選定理由 昭和9年日米戦初安打