王平との出会い・漢中ってどんなところ?・正史での扱い・演義では?(「劉備の漢中王即位直前」を少し追加)
こんな人だったらしい・私見・おまけ
ああ、とうとうこんなコーナーを作ってしまった(^^;)。
しかもピンクの背景色。
りりしい王平のイラストをいただきました。少し重いです。(173KB) 2002.10.25
昔三国志ものを読んだ時には、この人はおろか、馬超や黄忠ですら覚えていなかったというのに・・・。
「三国志孔明伝」というゲームをした。陽平関の戦いで戦略を誤って、極端に防御力の高い羌族の進入を許してしまった。その時に落石などの山系の策略に一人ひっかからずに健闘したのが王平だった。ほれてしまった。そういえば漢中の戦いで投降してきたかわいい(爆)奴。さらに街亭での活躍ぶり!そのうえ夏侯ぼうと一騎討ちして(まあ、相手が相手だが)勝って生け捕りにすると、言い放つせりふが憎い。「弱い、弱すぎる。夏侯の名が泣くぞ!」渋いぞ王平。ちなみにこの一騎討ち、馬謖版もあるのだが、こっちの勝ったときのせりふはちょっと情けない。「やった、大手柄だ!これで丞相にほめてもらえるぞ。」(確かこんなせりふだった)そうそう、南蛮戦のときには忙牙長と一騎撃ちをして引き分けたっけ。
どんな人なのだろうと興味がわき、調べてみると(光栄の「三国志4事典」でだが)、字が殆ど読めない人だったと知り、ますます努力家、えらい!と気に入ってしまった。もうこうなると、正史での欠点が書かれている性格描写など気にもしない。やっと正史(ちくま版)を手に入れたので詳細がわかってうれしい。99.4.19
地名や位置・地勢は三国志が好きでも、思い浮かばない人がいて当然かも(ゲームをしてれば多少は覚えますが)。広い中国、地名は沢山出てくるし、ひどいのは時代が下ると場所が移動するところまであるから、覚えにくかったり、混乱します。まあ、中国の北半分が魏、南半分で南東から真中あたりが呉(現在の南京が当時首都になったことがある建業)、南半分の西側が蜀だと思っておけば、三国の大体のイメージです。
蜀の国は北を険しい山々で区切られています。蜀と魏の間にあるのが漢中の盆地です。いわば、蜀の、のどもとのような場所。司馬遼太郎氏の「項羽と劉邦」を読んだ方なら出てくる地名です。漢の高祖、劉邦が「漢中王」を名乗ったという、漢ゆかりの者には非常に意義のある土地でもあります。
魏から蜀へのルートは険しい山道です。山越えをするか、ある程度ならされた道?(いくつかあるようですが)を通って漢中にいたります。そこから先はまた険しい山。魏から攻めこむ時は大変むつかしいのです。逆に蜀から魏に出兵するということも山に阻まれて難しいのですが、蜀には魏よりも決定的に不利な弱点があります。そう、食糧を運ぶのが大変ということです。遠征するのに途中食糧を供給するところがなく、あるのはただただ険しい崖。断崖に棚を張り出させるようにして、木でできた土台の「道」(桟道といいます)をつくります。その上を人間や輜重隊がわたるんですね。前に写真で見たことがありますが、高所恐怖症の人は絶対ダメですね。こ、こんなところ渡ってきたのかとぞっとしました。
(土地の気候や豊かさなどについては不勉強のため、何かわかれば書いていきたいと思います) 99.4.16
(?〜248年)姓は王、名は平、字(あざな)は子均(しきん)。「平」とあざなの「均」はやはり似た意味の字を使うパターンだろう。蜀の巴西郡宕渠(とうきょ)県出身(同じ郡の出身には黄権がいる。また、なんと呉の甘寧は巴郡出身でご近所さんである)。もと、母方の家の何(か)氏に養われたが、後に王姓に戻った。生家が貧しく、早くから働きに出ていたのだろう、戦陣の中で成長した。現場で活躍するたたき上げ、というところだ。そのため字が書けず、知っているのは10文字もなかったと言われる(この10文字っていったい・・・)。杜こ・朴胡について洛陽に行き、校尉の官を与えられ、曹操の漢中攻めに従ったが、蜀軍に投降する。牙門将・稗将軍に任じられる。
一番有名なのが、228年、街亭の戦いだろう。参軍の馬謖の先鋒隊に所属。馬謖は水路を捨てて山上に布陣し、軍にはしちめんどくさい指示を出した。王平は馬謖を何度もいさめたが、容れられず、千人の兵を連れて単独行動をする(上司運ないかも・・・)。馬謖は水を断たれて大敗。軍兵はことごとく四散するが、王平の兵は、小人数でありながら、軍鼓を鳴らし、整然と行動し、旺盛な戦意を見せたために、魏軍の張こうは伏兵を恐れて後追いをしなかったという。そこで残兵を収容して帰還する。丞相諸葛亮は馬謖(と将軍の張休・李盛)を死罪とする。「泣いて馬謖を斬る」の語源である(ついでながら、この「泣いた」意味は馬謖を惜しんでではなく、あれだけ劉備に「あいつは口先ばかりだから大事な任務は与えない方がいい」といわれていたのにやってしまった自分って・・・と自己嫌悪に泣いているのである)。また将軍黄襲らの配下の兵は取り上げられた。王平には特別の敬意を払い、参軍の官を加え討寇将軍に昇格させ、亭侯に封じた。
231年、諸葛亮が祁山を包囲した際、別に南の陣営を守っている。魏の大将軍司馬懿は諸葛亮を攻撃し、張こうは王平を攻撃したが、王平は守りを固めて動かず、張こうは勝てなかった(何かこういうの得意だな)。*1
234年、諸葛亮が没した時、軍は撤退したが、魏延が反乱を起こした時(と正史ではいっているが、多分楊儀らへの反抗と言う方が当たりでは?という気がする)、一度の戦いで打ち破ったのも王平の手柄だそうだ。*2
*1・*2 は別の所で何平という人物が述べられているが、母方の姓から多分王平と同一人物だろう(…と思うが)。ちなみに*1では無当監(蜀の精鋭軍の指揮官)として書かれており(諸葛亮伝の注・漢晋春秋にあるとのこと)5月10日に張こうと戦ったとある。 99.5.1
後典軍・安漢将軍(前に糜竺が任じられたことがある)に昇進、車騎将軍呉壱の副将として漢中にとどまり、漢中太守を兼任した。
237年、安漢侯に爵位を上げられ、呉壱に代わり漢中の総指揮官となる。
238年、前護軍となり、蒋えんの幕府の事務を司った。(事務って、字が書けないのに・・・)
243年、蒋えんが病気悪化のため”ふ”に滞在した時、前監軍・鎮北大将軍に任命され*3、漢中の指揮をとった。
(ちなみに趙雲は鎮東将軍が最高位だった。いかに蜀に人材がいないかよくわかる。「りょう化が先鋒を務める、蜀に将はいない」というような言葉があるそうだ。何て失礼な!でもいえてる。)
244年、魏の大将曹爽が十余万の兵で漢川に向かい、先鋒が早くも駱谷に押し寄せた時、漢中の守備兵は3万もいなかった。諸将は非常にあわて、ある者は、この兵力では敵を防げないので、ある程度敵の進むにまかせて、もう1つの城・関城は場合によっては敵に取られても仕方ない。そのかわり漢・楽の2城は固守し、関城は本体の救援にまかせようといった。しかし、王平は魏に関城を取られては、この先非常に危険であるとしてそれを退ける。小人数だが打って出て、地の利を生かして興勢山に軍をたてこもらせ、自分は後方の備えをしたのだった。関城を落とさせないように、ある程度抵抗しておいて本隊が来るまでの時間稼ぎをしたわけだ。当初賛成したものは劉敏*4だけだった(彼もまた、作物はまだ刈り取られていないし、魏軍を入りこませてはならないといった)。王平の作戦どおり、費(ネ+韋)率いる本隊の救援が間に合い、魏軍は撤退した。(ここの地理をおさえてないのが辛い!)
これには諸葛亮が、前から要所にある程度の兵を配置しておき、有事に備えさせていたことが大きい。(曹爽がそれほど有能でなかったことも多分幸いしたのだろうが)
普段からいろいろな事態に備えて地勢などを常に把握しておくことはもちろんですが、不利な状況でも冷静に判断し、自分の手駒を最大限に生かす、とにかく今やれることをやる、という姿勢が常に見えるような気がしませんか?与えられた任務を忠実に果たすというタイプですね。
「華陽国志」によると、人々は「前に王(平)・句(扶)あり、後にりょう(化)・張(翼)あり」(自慢とか賛嘆の意味だと思うが)と言っていたそうだ。(ちなみに現在一部が邦訳で出ているが、その中にはないようである)
248年没、子の訓があとを継いだ。(王平は病死と書いている本もあるらしい。未確認) 99.4.15
*3 なお、菅原大介さんが寰宇雑記というHPで、正史の正誤表を作られている。それによると鎮北将軍ではなく、鎮北大将軍が正しいそうである。
ちくま訳本の原書である中華書局出版の『三国志』には「鎮北大将軍」とあるそうですが、ちくま訳本では「鎮北将軍」とあります。「後主(劉禅)伝」延煕七年の条にも「鎮北大将軍王平」とあるので、単純な字の欠落…のようです。「大」がつけばそれだけ偉いということですね。(以上のことについて、菅原様からご指摘いただきました。ありがとうございました。) 2001.4.11
*4 零陵の人。諸葛亮の死後、揚威将軍となって漢中に鎮し、魏の曹爽を防いで、雲亭侯に封じられた。ちなみに諸葛亮が李厳を弾劾した時の表文では、行右護軍偏将軍として名を連ねている。 (『諸葛孔明語録』より) *4:2000.7.27 追加
曹操に従い、漢中攻めに参加する。当時牙門将。地理に詳しいため、案内を買ってでて、先鋒の徐晃の下で副先鋒となる。漢水を渡った先に布陣しようとするのに対して、急に軍を退かなくてはならなくなった時困るのでは、と意見するが、背水の陣はあの名将韓信もしたのだと徐晃にいわれる。だが、韓信は敵が無謀なのを知って、あえてそういう布陣をしたが、あなたは敵将の趙雲・黄忠を理解しているのかとさらに諌める。そのため、徐晃は自分は川を渡り、王平には川の手前で布陣させた。案の定、徐晃は大敗したが、王平はこれに加勢しなかった。徐晃が詰問すると、もし自分が打って出ればこの陣地も取られたかもしれない、第一自分の諌めをきかなかったのは将軍ではないかと反論される。徐晃、これには激怒し、王平を殺そうとした。身の危険を感じた王平は陣に火をつけ、陣の大混乱に乗じて対岸の趙雲に投降する。劉備に目通りすると、漢中一帯の地理を詳しく述べ立てたので、劉備は「もはや漢中をとったも同然じゃ」と喜び、偏将軍に取立てて郷導使(案内役)とした。降伏した将を敵に当たらせるというのはよくあることなので、王平も多少の戦果をあげたかもしれない。 99.4.15(7.9最後の一文追加)
(第73回)孟達・劉封と共に、上庸郡を一帯を攻める。それだけ(ここの詳細が知りたい!これ以降南征まで出番がないみたいだ)。ここですごく気になるのは、上庸をとった後、彼は一体どこで何をしていたかだ。なぜそれほど気になるかというと、この後関羽の麦城への敗走と孟達の裏切り・劉封の処分が続くからだ。もし上庸郡にいた場合、位の低さからいって、どちらかの配下になっていた可能性が高い。そうすると、かなり、劉備や諸葛亮の印象が悪くなるように思える。演義では、街亭で「たびたび丞相のお供をして合戦に臨み、ゆく先々にてお教えにあずかって…」といわせているが、南征(まあ、架空の戦いが多いが)にあれほど関わるのなら、その前から諸葛亮にある程度認められている必要があると思う。上庸では、彼の出身地が近いので、郷導使的な役割を果たしたのかもしれない。その後は、想像だが、また呼び寄せられたか、漢中方面に行ったのではないだろうか。
ただ、正史での記述は、漢中争奪戦以後はすぐ、街亭の話になっているので、このあたりの話が実際にあったのかはわからないのだが。何か資料が他にあれば… 99.7.9
相当に暑い気候の土地のようだ。猛獣軍や、天をつくような大男、体にうろこが生えている蛮族や、毒を飲んでも平気といった人間ばなれした連中が出てくる南蛮戦(225.3〜225.9)。このどこまでが事実なんだろう(というよりどこか事実が残っているのか?)?諸葛亮が北伐に先だって、起こった反乱を抑え、あわせて若手の将達の腕試しと財源確保も兼ねて出陣する。王平の出番は多い(主役ではないが)。ちなみにここでは「正史」では殆ど出てこない馬岱(ばたい:馬超のいとこ)が大活躍する。
孟獲軍との最初の戦い:魏延の援軍を受けて董荼那(とうとな)軍を撃破
:忙牙長(ぼうがちょう)と一騎討ちで敵軍を誘引、
関策と共に追い討ちをかける。張翼・張嶷、最
後の仕上げは趙雲。魏延が孟獲を捕獲。
第2戦:ろ水を渡った馬岱が董荼那を追い返す。董荼那の部下たちが孟獲を
捕えて引き渡す。この時は、ろ水に張嶷・張翼・関策と共に陣を張
っていただけ。
第3戦:孟獲は弟孟優に偽りの投降をさせ、襲撃を試みたが、諸葛亮には
すべてお見通しだった。「投降者」達を酔いつぶし、外から攻めこ
んできた孟獲が失敗を悟り、退却しようとしたが、王平の軍がまず
殺到し、魏延・関策と共に諸洞の長達を捕える。この時、馬岱が孟
獲を、趙雲が孟優を捕える。
第4戦:西シ耳(せいじ)河での戦い。河の南北に浮き橋をかけて、陣を作る。
ある日、陣を捨てたように見せて孟獲軍を誘う。背後に回る軍と伏兵
とあるが、どちらかに出陣しているようだ。孟獲は追いたてられて落とし
穴にひっかかって、弟達と共に捕えられる。
第5戦:さらに西南に下る。孟獲達は禿竜洞(とくりょうどう)というところにいる
乃思大王(だしだいおう)に助力を乞う。陣にいたる2つの道のうち、安全
な方を封鎖し、もう1つの道に誘い込む計画だ。危険なルートには、毒蛇
やさそりだらけ。しかも、瘴気がたちこめていて、ある時間帯でないと通
れない。水源もない。あるのは4つの毒泉で、知らずに触れたものは遅
くとも数日で死ぬという。(本当にとんでもないところだな…)そうそう、こ
のあたりには馬超の先祖、伏波将軍 馬援が遠征してきたことがある
そうだ。
今回は王平が先鋒となり、偵察に赴くが、案の定、毒泉の一つ、唖泉の
水を飲み、口がきけなくなってしまう(それで字も書けない…)。
諸葛亮は、馬援の霊の導きで、孟獲の兄に会い、解毒方法と道を教え
られる。王平達の軍は、解毒の泉を使わせてもらい、命をとりとめる。
(そのときのことは書きたくないが…おびただしい涎を流したあとに、
口がきけるようになった、とか)
孟獲達は、またも、部下の裏切りで捕らえられ、引き渡される。
第6戦:さらに西南に下る。木鹿大王(ぼくろくだいおう)を頼る。この人は、方
術に通じて、風雨を呼び、象に乗り、さそりや、山犬・象・虎・豹・毒蛇
などを率いた軍を持っている。(さそりにどうやって「芸」をさせる?)
この猛獣軍は孔明が巨大ロボット(?)(木でできた大きな獣で中から
火などを出せるようになっている…らしい)を出して打ち破る。この時
の出番は特に書かれていない。
第7戦:そこからさらに東南に700里(280キロくらい?)、烏戈(うか)国に入
る。そこの王 兀突骨(ごつとつこつ)は人間離れNo.1だ。身長1丈
2尺、米などを食べないで、生きた蛇や獣を食い、体には鱗が生え
ている。近くの毒水、桃花水は通常の人間が飲むと死ぬが、この国
の者に限っては飲むと元気百倍するとか…また籐で作った鎧を着て
いて弓矢を通さず、軽くて水に浮かべることもできるとか。
そこで、盤蛇谷(ばんだこく)という、狭い道筋の谷に、魏延を囮にし
て軍を引き寄せ、地雷(!)で一掃、皆殺しにしてしまった。
王平は張翼と共に別働の軍勢を率い、南蛮の本陣を急襲、残って
いた者達を捕らえた。
この時に孟獲は蜀に服すことになる。 99.4.16
第1次北伐(228春)、このときは牙門将稗将軍のままである。祁山の戦いでは、敵に同士討ちをさせておいたところへ馬岱・張翼・張嶷と共に攻め入る第1陣の役。
街亭の戦い:馬謖の副将として街亭に行く。馬謖は現場につくと、まずこんなところに魏軍がくるはずはないといい、山頂に陣を張ろうと言い出す。王平は諸葛亮の指示通り、街道をおさえて陣をはるべきであり、山頂では不意に囲まれたら不利だと反対する。しかし、馬謖は孫子の兵法をひいて、高いところから攻め下れば破竹の勢いだとその有利を説く。王平はこれに対し、この山は絶地(逃げ場がない場所)であり、水を絶たれたらおしまいだとなおも反対。馬謖は(もはや意地かも)、絶体絶命の境地に兵を追いこめば、みんな死に物狂いで戦うからいいのだと聞き入れない。そこで王平は仕方なく兵の2万5千のうち、5千人をわけてもらい、馬謖の背後を固めることにした。また、陣とりの絵図面を諸葛亮に急送した。
王平の危惧通り、司馬懿は大軍で山を囲み、水源を絶った。兵は怖気づき、水がないのに苦しみ、あいついで魏に投降する。王平は加勢しようとしたが、張こうが攻めてきたために、妨害され、かなりの兵を失った。張こうに追われた馬謖の軍がほぼ壊滅状態、援軍の魏延も危険になったころにようやく、追いつき、危地を脱しさせた。魏延・高翔は街亭を取り戻すべく、夜討ちをかけるが、魏軍に察知され、またも囲まれる。別働隊の王平は2将の危機を救い、陽平関に引きあげる。(街亭を失ったため、退却) 99.4.16
第2次北伐(228.12):陳倉攻城戦。陳倉攻略中に来た、王双の援軍に張嶷・りょう化とともに立ち向かう。張嶷が王双の誘引にかかったのを止めようとしたが、間に合わず、張嶷は負傷、助け出したものの、軍は打ち崩されてしまった。そこで陳倉を避け、祁山へ出ることになり、王平は李かいと共に別働隊で、街亭に通じる間道を守る。(蜀軍は兵糧が尽き退却)
(229春):本軍は祁山に行き、王平は姜維と共に武都・陰平郡へ出撃、陰平郡をおとす。諸葛亮は、魏軍が動かないので、退却して相手の動きを誘うことにしたが、追っ手の軍にあたる役目を張翼と共に引き受ける(このときの適任者は魏延だったが、彼は名乗り出なかった)。かなり危険な役目だったようだ。王平は張こうに、張翼は援軍の司馬懿にあたった。(諸葛亮が病に倒れ、退却)
第3次北伐(230.8):曹真が漢中に向かって侵攻して来たが、長雨で動きが取れなくなることを予測して、とりあえずの様子見の兵として陳倉道の口に行く。諸葛亮は魏軍が雨続きで引きあげると、また祁山に出撃する。馬岱・王平・張翼・馬忠は斜谷方面から、魏延・張嶷らは箕谷方面から祁山に向かう。斜谷にいた曹真軍は不意をつかれ、司馬懿の援軍があったものの退却する。(諸葛亮は讒言で成都に召喚され退却を余儀なくされる)
第4次北伐(231.2):張嶷と共に先鋒。(蜀軍は、李厳が、呉が侵攻してくると嘘の報告をしたために、退却)
第5次北伐(234.2):全軍祁山に出撃。シ胃水(いすい)の戦いで張嶷と共に先手をつとめる。しかし、諸葛亮の計は司馬懿に看破され、先に浮き橋を焼きにいった呉班らの軍が全滅、危地に陥る。その後、司馬懿の偽投降の計を逆手に取り、返り討ちにする際に張嶷と先鋒をつとめる。
木牛・流馬を敵に奪わせ、敵がそれを使って輸送する兵糧を奪い取る作戦で、魏の兵にまぎれて混乱させる役目。この時、岑威を討ち取る。
諸葛亮は五丈原で病没する前に、楊儀に、忠義の人として馬岱・りょう化・張翼・張嶷と並び(確かにこの組み合わせは多い)王平の名を挙げている。 99.5.16訂正
魏延がそむいたため、姜維・楊儀の軍は魏延の裏手に回り、漢中へ諸葛亮の棺を運んだ。その時に、王平は3千の兵を率いて先行し、魏延に立ち向かった。彼は(何平とでているが、王平のことだろう)魏延の兵に向かい、逆賊につくよりも、故郷に帰って恩賞をもらったらどうだと説得し、大半の兵士を去らせた。(これは彼が地元の人間だから特に効果があったのでは?) 99.7.9少し追加
その後、呉の孫権が国境で増兵をしたので、張嶷と共に永安に駐屯した(一時的かもしれない)。演義での記述はここまでである(下記の「三国志演義」より)。科白が、わりとあったのはうれしかった。特に役職についての言及はなし。(訳の時に割愛などされたかもしれないが) 99.4.16
法律や規則を遵守し、いつも朝から晩まできちんと座っているような人間で、冗談も言わない、およそ武将らしからぬ人だったという。その一方で偏狭で疑い深く、軽はずみなところもあったらしい。あまりいいいわれようではない。しかし、魏の侵攻をよく防いだ記事も載っているので、けなし一辺倒ではない。また、記憶力もよかったので、人に読ませた「史記」、「漢書」本紀・列伝の大体の筋を知っていたし、それについて時々論評したことは、本質からはずれていなかったという(どんなことを言ったのだろう?だが、本質からはずれていなかったという言い方は、卓見というのからは少し遠いように思う)。文書も当然口述筆記だが、すべて筋が通っていたという(そばにいた副官はきっとよくできた人間だったにちがいない。しかし、本が読めないのに朝から晩まで座っているというのは・・・一体何をしていたのだろう?)。浮かび上がるのは四角四面、実利一点張りというキャラクターか。 99.10.7少し追加
確かに徐晃をいさめた時も、彼とて名将の一人となったくらいなのだから、もうちょっと言い様があったのかも。(相性かな)一言多かったみたいだし。そのへんは、軽はずみと言われても仕方がないのかも。あとは字が読めないと、多分かなり馬鹿にする人が多かったと思う。特に馬謖。いかにもエリート、教養人のコースを歩んできただろうから、無知(かどうかは別なはずだが)無学は許せなかったのでは?それでは頑なになるのも無理はない。10文字も書けなかったというのは、一度考えてみたのだがかなり無理がある。本人がいじけて(または謙遜して)「どーせそれがしは10文字も書けない男でござる」なんていってたのかも。
魏で就職した時には、学歴もコネも金もない。それでもある程度の地位(牙門将)になったということは、現場に強かったからと思われる。街亭以後、相当に昇進したが、忠義と、やはり統率力・判断力がすぐれていたからだろう。命令はきっちりこなす(それでもって朝から晩まできっちり座っている)。たとえ、偏狭で煙たがられたり、嫌われていたとしても、いざとなればなんとかみんなついてくる、頼りになる将だったのではないだろうか?諸葛亮もけっこう買っていたようだ。まあ、諸葛亮は、豪放磊落タイプより堅物が好みのような気がするが(劉備は豪放タイプは好きそうだ。やはり水と魚は単独ではむつかしい)。
それにしても、老年にさしかかった王平は、かなりひがみっぽくて、意固地なおじいさんだったのかも知れないな。息子には当然読み書きを習わせたに違いない。「わしのように無学だと馬鹿にされるのじゃぞ」などといって。息子の訓はあとを継いだ、とのみあるので、まあ普通の人だったのだろう。正史の記述からみるに、人間関係はいまいち円滑ではなかったような。
この人がもし嫌われ気味の人ならば、「三国志平話」でろくに登場しなかったのもわかる。いきなり南征で孔明に斬られるし・・・。やはり魏の将・外様だったから、という扱いかもしれないが。そうすると、平話と演義の扱いに格差がありすぎるな…。これに対して異常に?優遇されているのが「反三国志」だ。投降早々(しかも蜀将として登場している)馬超への使者という大任をもらっている。けっこう活躍して見せ場がある。最後の方など曹彰を説得してしまうのだ(それも手紙で・・・)。偏狭で軽はずみな奴という性格はどうやら韓遂にふられているようだし。ただ、作者は人材を温存しているので出世はできていない。鎮北大将軍と比べればかなり下っ端。
三国演義とかいう中国制作の映画があるらしい。少し紹介している本があったので、そこで王平の姿を探すと・・・ふぐちょうちんだった・・・(T_T) (大泣き)。どうも、丸顔にぶすっとした表情というのは基本形らしい。孔明伝も三国志6も丸かった。まあ、周瑜、趙雲、馬超あたりがかっこよければ、(キャストの容姿の点では)文句言わないことにしてるが、それでもあんまりだなあ。でも、五丈原の諸葛廟の彼は結構りりしめ(歴史群像18の写真より)です。
なお、彼と同郷の句扶(こうふ)もまた、数々の戦功を立て、王平に次ぐといわれたらしい。句扶は左将軍にまで上ったが、鎮北大将軍とはさすがに差がある。句扶も(陳到(ちんとう…趙雲に次ぐといわれたらしい)も)この記事くらいしかのっていない。この「次ぐ」っていうのもくせものなんだよね。蜀は自国での文献をしっかり残そうとする余裕がなかったのだろうか。陳寿があわてて蜀書を作ったし。
ところで、光栄のゲームでの王平は魅力・統率力はそれなりに高いが、知力はそれほど高くないのは、現場のカンで動くからか、それとも字が読めない分差し引かれているからか?(私もひがみっぽい) 99.4.16 (8.31顔についてほんのちょっと追加)
10文字・・・まず王、平、子、均、何(母方の姓でかつて名乗っていたことがある)、訓(息子の名前)このくらいは堅いと思う。これでもう6文字だ。可能性があるものは(数字を除いても)曹(曹操)、徐(徐晃)、魏、張(張こう)、漢、中(漢中)、劉(劉備)、呉(呉い)、司、馬(馬謖、司馬)、諸、葛(孔明)、長、安(長安)あたりかな。その他にも軍隊用語に関連した字もあるかもしれない。これだけいれたら20文字になってしまう。一つの仮説として、さっきの本人いじけ説の他には、書ける漢字は極端に少ないが、読める漢字はもう少したくさんあったというのはどうだろう。数字は多分ある程度は読めたと思うし。白髪三千丈のお国柄だが、数字を小さくする方にも誇張ははたらいたのだろうか? 99.4.15
彼のお墓が南充市南、青居周辺にあるらしい(ってどこ?)。ROVERさんのサイト【中国歴史紀行】の遺跡ガイドでみつけた(でもあったのね、うるうる(T_T))。ただし中国には周倉の墓もあるので、喜ぶのはまだ早いかも。詳しくは現地で情報収集が必要らしいが。墓参りならまず五丈原、武侯祠(定軍山・成都)、馬超様のお墓、姜維くんのお墓あたりは是非とも行ってみたいのだが。問題は、お金と語学力とそして味覚(唐辛子苦手etc.)…。 99.5.31
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おまけのおまけ:ゲームでのパラメータ
三国志4:統率力80・武力75・知力67・政治力55・魅力78・
特殊能力-情報・諜報・歩兵・火計・落石・混乱・罵声
(ちなみに歩兵・火計・混乱はかなりありふれている)
(趙雲などは特殊能力が15個、パラメータ平均も90以上)
三国志6:統率力77・武力76・知力71・政治力61・魅力71・夢-才能・
特殊能力-都督、一騎討ち作戦-交替・側面攻撃・偽退却
義理7/15、野望10/15、勇猛1/7、主戦2/7、冷静6/7、寿命6/7
特殊能力は武勇・兵法・都督・諜報・交渉の5つがある。
都督は、戦場に早めに着ける・敵に出陣を察知されにくい能力。
ちなみにこの三国志6でのりょう化の武力は58・・・
街亭の戦いでの統率力と冷静さが際立った評価として表れていると思う。
山に強いというのが、何よりの証拠(あと山系の策略に強かったのは張嶷
だった…三国志孔明伝)。ちなみに孔明伝で、馬謖はよく混乱の策略に引
っかかり、自分がかける策略もわりと失敗していたような気がする。 99.4.15
参 考(99.4.15)
| 書名 | 著者 | 訳者 | 出版社 |
| 正史三国志 | 陳寿著 はい松之注 | 井波律子他訳 | ちくま文庫 |
| 三国志平話 | 二階堂善弘・中川諭訳注 | 光栄 | |
| 三国志演義 | 羅貫中著 | 立間祥介訳 | 徳間文庫 |
| 漢詩紀行 | NHK出版 | ||
| 街道をゆく20 | 司馬遼太郎 | 朝日文庫 | |
| 反三国志 | 周大荒著 | 渡辺精一訳 | 講談社文庫 |
| 三国志4事典 | 光栄 | ||
| 三国志6ハンドブック上 | 光栄 | ||
| 出身地でわかる三国志の法則 | 黄巾イレギュラーズ編 | 光栄 | |
| 三国志孔明伝、三国志6withパワーアップキット(ゲーム) | 光栄 | ||
| 爆笑三国志 | 光栄 | ||
| 爆笑クイズ三国志 | 光栄 |
☆あとがき☆
知勇兼備の将、王平を見直していただけたでしょうか?張こうや徐晃の好きな人にはますます嫌われそうですが…。この程度の資料作りで音をあげている情けないりあんです。官爵や地理など全然わかっていないので、少しは覚えねばと痛感しています。 99.4.23