エドヴァルト・ムンク
Edvard Munch(1863-1944)


物心がついてから、生の不安が僕から離れたことはない。
僕の芸術は自己告白だった・・・。
生の不安も病もなければ、僕はまるで舵のない船だったろう。








「春」1889
生き生きとした生命の光も、
病弱な身体には強すぎる刺激となる。
ようやく訪れた希望に満ちる日差しを避けるかのように、
病の子供は目をそむける。
この部屋から出ることは、まだままならないのだろう。

明るく幸福感ある色彩との対比に、
いっそうその哀しさが際だつ。
静謐でクリアな色彩が、印象に残る一枚。



 「ぼくらが一人一人ベッドのところへ行くと、母はいつもと違った眼差しでぼくらを見つめ、キスをしてくれた(参考文献より)」・・・6歳となったすぐ後のクリスマスを過ぎた頃のこと、結核に侵された母との最後の夜の情景を、ムンクはそう回想する。母の死、これを機に病的な信仰心に拍車がかかった神経質な軍医の父、若くして結核に命を奪われた姉ソフィエ。ノルウェーのフィヨルドに囲まれた海岸線と、不健全で怖れ慄(おのの)く敏感な心・・・どこか病んでいるかのようなムンクの傑作は、ほとんどが若い時期に生まれている。
 何故、長命だった彼の傑作が若い時代に集中しているのか?何故、それらの作品には色濃く死や不安が漂うのか?ムンク個人の人生が、どのように影響を与えたのだろうか?



 ムンクは学識者を輩出した神経過敏傾向のある家系に生まれ、幼い頃から日常的に死と病に晒されていた。感受性の強い心が不安定になると、絵を描いて落ち着けるという治療的方法を、小さな頃から自然に手に入れていた。当時の首都・クリスチャニア(現在のオスロ)は、一握りのブルジョア階級が支配する社会。芸術の分野においてもそれは同様で、ムンクの師・クローグはむしろアカデミックで伝統的な表現をもって地位を確立した画家であった。父ははじめ、経済的に不安定な画家になることを反対し技術者になることを望んだが、結果的に病弱な息子は技術者としては仕事を続けられなかった。

 クローグの紹介から思想運動「クリスチャニア・ボヘーム」を知ったムンクは、それまでの常識を逸脱するような作品を発表しては、その技術や表現をメディアに手酷くこきおろされていた。純粋に彼の芸術に対するものだけではなく、このブルジョア階級の目の上の瘤であった前衛団体への攻撃も含まれていたのだろう。そんな時、有無を言わせず奨学金を勝ち得たのが、「病める子供」の酷評に反発して自然主義を基調に描ききられた「春」であった。伝統的な技術と流れる品性に裏打ちされた、この時期の傑作のひとつである。
 遠縁の画家、クリスチャニア・ボヘームの仲間でもあったフリッツ・タウロヴの好意的援助も得て、ムンクは芸術の都パリへと向かった。





「思春期」1894
子供と大人の間で不安定に揺れる。
こわばらせた身体や緊張した面持ち、黒く伸びる影で、
鋭く脆い姿を見事に描写している。
一連の『生命のフリーズ』でいうところの、
「愛の目覚め」である。





「病める子供」 1885-6
透けるように脆く白い肌に唯一精彩を加える燃え立つ赤毛。
悲しみに頭を垂れる母に何か応えることもかなわず、
かと言って生きる希望を信じることも出来ず、
やるせない不安にただ耐える日々が続くのである。
僅かに描かれたガラスの日常品が、
単に感傷的な観念上の表現と捉えがちなこの世界を、
まさに現実世界のものであるということを私たちに思い出させる。
病弱な人が直面する「生の不安」を、
余計な修飾や、必要以上の洗練を排して描かれる。

当時独特のタッチを「未完の作品」と酷評されたことも、
時代に先駆けて芸術表現の真髄に彼が触れていた証明として、
今となっては賞賛の言葉にとって代わるであろう。
ムンクは記憶に残る母と姉の姿を普遍性をもって描き出した。

白い枕は、まるで後光のように目を衝く。









「カール・ヨハン通りの夕べ」1892
夕暮れの大通りを歩くブルジョア階級の人々は、
まるで感情を殺した木偶人形のよう。
アリの軍隊のように無機質な集団の行進は、
道を逆行するムンク自身の不安感を掻き立てる。




左「不安」油彩1894 右「不安」木版1896
ムンクは同じモチーフを版画・別ヴァージョンと、
何度も繰り返し創ることが多かった。
(「叫び」では50ものヴァージョン)
版画作品に至っては、赤と黒のみを鮮烈に用い、
首だけが漆黒に浮いてさまよう。






 パリ留学ではロートレックをはじめ、刺激的な芸術家たちとの出会いがあった。とはいえ、父や奨学金を与えた芸術関係者たちが期待していたような、アカデミックな作品への感動は少なかったようである。その後、印象派に影響を受けた筆致の風景など新しく手に入れた技法を試した作品が残されており、絵画表現において貪欲であろうとする彼の姿勢が窺える。

 しかし、ドイツ・ベルリンで行われた彼の初の外国での展覧会は、散々たる評価であった。主催者側の、事前の彼に対する調査がいい加減だったために生じた騒ぎであったが(調査していれば開催されなかったかもしれない)、彼の作品は開催と同時にたちまち論議を巻き起こし、たった1週間で慌てて閉鎖される。この時期の悪評はむしろ、逆説的にこれから受け入れられてゆく新しい芸術の可能性を示唆するものでもあり、ムンク自身はこの評価を前向きに受け取っていた。その予想通り、2ヵ月後にはベルリンにて展覧会が再開催され、翌年には彼の芸術はベルリンに受け入れられていった。この一騒ぎを発端に、ドイツの美術家協会は分裂したが、おかげで現在に到っては、自由な芸術表現に理解のある国の筆頭にあがるようになっている。以降ドイツは、表現主義のムンク芸術が活躍する舞台のひとつになっていった。






「叫び」
1893
燃える空、うねる海岸線。
ふと訪れる身の置き所のない不安に世界をつんざく声が響き渡る。
その声が自分の喉から生まれたものだと、
当の本人でさえも後から気付き恐れ戦くのだ。

独特の海岸線や湖の風景は、
実際に彼が故郷で過ごしたノールストラン。
あまりによく知られた作品であるが故に、
「これがムンクの画風」と思い込まれる原因となっているが、
彼の作品の中では最もprimitiveな表現に徹した一枚と言えよう。
 同時代の多くの芸術家たちと出会ったのは、古い因習からの独立を謳う前衛的集団「クリスチャニア・ボヘーム」であった。ムンク自身はリーダーのイエーガーを尊敬し、この集団を枠組みの外から批判しつつ眺める存在であったようだ。意思を強く持ち、感受性豊かで容貌にも恵まれた芸術家であるムンクは、不倫そして友人と同じ女性を愛する愛憎劇に巻き込まれる。家族を次々と失っていった過去から芽生えた家庭を持つことへの極度の恐れと、苦悩に満ちた女性問題の経験は、彼の作品に色濃く影響を及ぼしたのだった。

 ムンクの絵は謎めいたものが多いが、連続して観ることでその理解を深めることが出来ると画家自身考えていた。「愛の目覚め」「愛の開花と死」「生の不安」「死」の4つに分けられる『生命のフリーズ』と呼ばれる一連の作品群は、1902年初めて系統だった順番に展示される。

 感受性に裏打ちされた大胆で強烈な構図、印象的な色彩と陰影の配置、心的描写として飛び込む背景の力。彼は容赦なく思いもよらぬ場所で人物の部分を切り取る。それらはムンクの画家として評価されるべき最大の能力であろう。鑑賞者の目は斜めに横切る遠近法に引き込まれ、鮮烈な緋色に心煽られ、生ける者だけが感じ得る不安を体験するのである。



「月光」1893
夫人でありながら恋を奔放に愉しむ、
貪欲な「女」という魔物の二重性。
ムンクの初めての恋の相手がモデルといわれる。
魅惑的な視線を投げる黒服の女の表の顔と、
影法師に象徴される隠された破滅的な裏の顔が、
黒の二重奏となりインパクトを与える。
柵と窓の白さが扇情的な美しさを響かせている。







「マドンナ」1894-5
別名「受胎」とも呼ばれる作品である。
女は死に等しい恍惚の表情を浮かべ、それを血のように赤い光輪が支える。
愉悦とともに訪れる死の影。
抗いがたい愛憎のさなかにも、ムンクは死を垣間見る。


 徐々に成功を確かなものにし始めた頃、遺伝的にも敏感過ぎた彼の精神は変調をきたし始める。自らに生の不安を常に感じている彼にとって、家族や結婚は否定的なものであり、そんな折結婚を望む恋人トゥーラ・ラールセンとの間に起こった1902年の銃暴発事件・・・は精神的に決定的なダメージを与えた。彼にとって女性という存在は、抗いがたく、受け入れがたい存在であり続けた。1908年、彼は強迫観念に苛まれ、アルコールに溺れ、この打撃から立ち直るためにサナトリウムで長い療養生活を送ることになる。幼い頃に感じたように、絵を描くことを病から立ち直る一つの武器とした。キャンバスには心の安定と同期して、徐々にフォービズムを思わせる生命感を湛えた明るい色とタッチとが増えていった。


「罪」1901
衝撃的な「狂気」を内含する3色刷り。
伊東・池田20世紀美術館でこれに出会った時は、
思わず足が止まる迫力の視線であった。
モデルは結婚を拒否するムンクの指を
銃の暴発事故で吹き飛ばすこととなった、
恋人トゥーラ・ラールセンである。



「ハンス・イエーガー」1889
ハンス・イエーガーは、ムンクの出入りしていた
性や思想の自由を主張する団体のリーダーであり、
『クリスチャニア・ボヘーム』を著し、何度も投獄された作家。
キュッと胸元を引き締めたコートと斜に構えた体躯、
まっすぐ正面切って議論に身構えるような視線が、
人を惹き付ける魅力に溢れたこの反抗者をよく表す。

肖像画家としても人気の高かったムンクの人物像は、
繊細で、対象の内面を赤裸々に見せる。
あまりに本当の姿が露わになってしまうため、
思いもよらなかった出来上がりに依頼者本人が困惑し、
ときに不満を漏らすことさえあったという。


 ようやく心の安定を得た時、彼はノルウェーにアトリエを構えるが、けっして安息を求めてその地へ戻ったわけではなかった。彼は彼の芸術の原点が故郷の景色に帰依するものだと知っていた。凍てつく雪原とフィヨルドに身を預けることで、かつて自らを蝕んだ精神を否定し取り除くのではなく、冷やし鈍らせ、お互いが「共存」して生きてゆくすべを選んだのであろう。
 多くの画家・作家たちが鋭敏な魂に耐え切れず自らに終止符を打つ一方、ムンクは生き延びた。社会生活を送ることの出来る心の安定と引き換えに、それまで心にこびりついていた不安や、病的なまでに叫びをあげる鋭敏な感受性が和らぎを見せ、色彩は明るさを増していった。だがそれでも・・・ムンクは生と死を、業を、はっきりと並べて見比べているのだ。晩年の作品にも、その感覚が依然として流れていることに、はっと気付く。



 たった一人の心の中に生まれた戦慄や不安を、全ての人に湧き起こる普遍性として描き出したムンク。その作品は、自らが苦しんだ鋭敏過ぎる遺伝的素因を畏れた彼が、唯一この世に遺していった子供たちなのかもしれない。


「小径に降る雪」1906
もうほとんど画面から見えなくなる人物の
背後からのしかかるような重い雪空。
無言の白い重さに息が詰まる錯覚が起こる。





「時計とベッドの間の自画像」1940-42
明るく陽気な色彩感の中に、
自省と孤独感の漂う自画像である。
冷静に自身を見つめている、晩年の作品。





「太陽」1909-11
後期、ムンクは自分の中の病や悩みを乗り越えようとするかのように、
どこかゴッホに似た、ヴィヴィッドで強い光の作品が増える。
闘病を経て、正式にオスロ大学に依頼されたこの作品は、
北欧の命の源となる太陽の輝きを描いたものとなった。




参考文献:アートギャラリー現代世界の美術・ムンク(集英社)
エドヴァール・ムンク(TASCHEN)
Edvard Munch(PARCO出版)


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