クロード・モネ
Claude Monet(1840-1926)


「私は鳥が歌うように、絵を描きたい」 モネ

「彼は眼である。しかし、何という眼だろう!!」 ポール・セザンヌ

To know more about MONET....."Giverny 1926" by precious.






「アルジャントゥイユのひなげし」1873
妻のカミーユと息子のジャンが、画面を斜めに横切る。
向こうに小さく見えていた2人がゆっくりと
手前に歩いてくるまでの時間のうつろいの中でも、
風景はそのまま変わらず穏やかにたたずむ。
ひなげしは両手をいっぱいに広げ、
2人をやさしく包み込む。
日の光と暖かい草の香りが匂い立つような作品である。

 ルノワール、セザンヌらと並ぶ、印象派の巨匠クロード・モネ。 しかし現在、多くのファンを持つこの一派が、 世の中に認められるまでにどれほどの努力と時間を費やしたことだろう。 そしてどれほどの誹謗と中傷に耐えなければならなかったのだろう?


 若い頃から北フランスの雄大な自然を見つめ、画家を目指すために学校を中退したモネ。この頃の作品に影響を与えていたのは、陽光のもとでなつかしい色合いの海景を描くウジューヌ・ブーダン、そしてつぶてとなって目に飛び込む光の風景を描くヨハン・バルキント・ヨンキントであった。伸びやかに画面に広がる風景と光を捉える一対の目は、この2人の素晴らしい教師からの、直接の手ほどきによる産物なのだ。

 パリの画家たちにとって発表の場であったサロンは、確かに世に認められるきっかけとなったが、一方では辛らつな批評家たちの一言で、現在素晴らしいと思われている作品が意味のない一枚に失墜するのも日常茶飯事であった。画家として歩み始めた彼は、ルノワールやバジールといった同志と共に、大胆で光に満ちた作品を描きつづける。しかし比較的好意を持って迎えられていたサロンで初めて大絶賛を受けたのは、皮肉なことに室内の人物像である「緑衣の女」であった。

 この成功によりしばらくは、サロンでの成功の大前提である「人物」を取り入れた作品が続くが、やはり彼のテーマは「外界の光」であった。「緑衣の女」以来、成功とは縁遠く貧しい状況にあったモネは、友人や親類からの援助で生計を立てながら、それでも光に満ちた風景をテーマに描くことをやめなかった。色はいっそう光の集合となり、徐々に人物の影は風景に同化してゆき、それは更に彼をサロンから遠のける原因となったのである。



「サン・シメオン農場への道」1864
彼が24歳の時の絵になる。
まだまだ暗い、初期のくもった色彩が流れているが、
中央部の抜ける青、
道に横たわる木漏れ日の鮮やかさには

のちのモネの「光を捉える目」が確かに感じられる。



「カピュシーヌ大通り」1873
人も風景の一部に溶け込む。
大通りのざわめきを捉えた、雰囲気のあるパリの風景である。




「散歩、日傘をさす女」
1875
モネの愛すべき家族が陽光の下に描かれる。
人の影、草の根元には、みじんの曇りも見られない。
まばゆいばかりの光に満ちた絵は、
画家の生涯のテーマであった。



「印象、日の出」1873
モネといえばこの作品を思い出す方も多いであろう、
「睡蓮」と共に有名な印象派の言葉のもとになった作品。
色と色の隙間、形のない筆致は当時嘲笑の的になり、
長い間陽の目をみることはなかった。

 戸外で描くことは、まだ一般的ではなかった。債権者に追われてモネとカミーユ、そして息子のジャンはさまざまな土地をわたり歩く。しかし父の遺産と、少数ではあるが彼の支援者のおかげで、やがてひとときの中流階級の生活を手に入れる。その頃の穏やかな日々に包まれた小さな幸せは、「アルジャントゥイユのひなげし」のあたたかな日差しの中にも感じられる。

 だがようやく束の間の幸せを手にしたのち、再び困窮はやってきた。そして苦労を共にしてきた愛妻カミーユが、2人の子供を残して32歳という若さで死の床につく。彼女のデスマスクを絵として残したことについて、冷酷だという一般の評価もあるが、周囲の反対にも関わらず共に手に手をとって歩んだ彼女のこの姿は、心から愛していたからこそ描き得たものであろう。




「死の床のカミーユ」1879
モネは制作中にふと我に返り、
「私は何ということをしているのだ」と自分自身を責め、
絵を描くことしか出来ない己を呪い哀しむ。

しかしこの絵の前に立った時、私は涙が溢れてきた。

つかず離れず優しい風のように
彼女の顔を包む幾重もの線は、

精一杯の愛情で妻の顔を包み込む、モネの両手。
胸元の花の紅はカミーユへの感謝を、
ひそやかに枕元を照らす柔らかい光は尊敬を、
象徴しているように感じられる。

画家はわずかな幸せしか与えられなかった
最愛の妻の生涯を
描くことで抱きしめ、慈しみ、
忘れ得ぬものに昇華させたのだ。
その筆致は限りなく優しく、悲しみに満ちている。








「ヴァランジュヴィルの税官吏小屋」1882
これぞ太陽のもと!と感じずにはいられない、
輝ける自然を捉えた美しい作品(と私は思っている)。
藁草のstraw-yellow、遠くにかすむ海の微妙な青。
奇蹟のような、モネの一対の眼。

 相変わらず酷評を浴びせられる印象派の画家のみならず、数少ない確かな目を持ったコレクターたちも、同様の扱いを受けていた。早くからその一人で「印象、日の出」の所有者でもあった、オシュデの未亡人・アリスとその6人の子供は、カミーユ亡き後の良きモネの理解者として、共に安息を求めて土地を渡り歩くことになる。

 これらの移動の中で、モネは繰り返し同じ風景を描き、時間により、空気により変化する風景を、誠実に見つめ追い続けるようになる。「積みわら」「ポプラ」「ルーアン大聖堂」・・・これらの連作は永きにわたり冷遇されてきた、印象派としてのモネの成功をようやく導いた。この時モネは既に50歳。しかし長かった不遇の日々は、彼に不屈の精神と自分の作品への信念をより強くさせていたのだ。
 


「ルーアン大聖堂」連作より1894
夜明けの扉口とアルバン塔/扉口、朝の日射し、青のハーモニー/扉口とアルバン塔、溢れる陽光、青と金のハーモニー

こくこくと変化する時の生命を、彼はキャンバスにうつしとる。
いくつものキャンバスを前に、移動しながら描く連作から3つを選びました。
余計なことばは不要ですね。どうぞご鑑賞下さい!




「モネ家の庭の小道、ジヴェルニー」1901-02
あらゆる花をここへ集めたかのような、
画面に広がる色彩のメッセージ。
絵を見つめるだけで、両手いっぱいに
花を抱いているような気持ちで満たされる。
肌には太陽の暖かさと、植物の湿度を感じて。










「Les Glycines(藤)」部分
満たされた溜息とともに絵の前のソファで動けなくなった。
いくら眺めても飽きないその豊かな芳香。
居心地がよくてどれくらいその絵の前にいただろうか、
名残惜しみながらマルモッタン美術館を後にした。





「ヴェネツィアのたそがれ」1908
目にうつる光と色彩を、的確にうつしとる彼の画法。
しかしこの作品は、非常に感傷的かつ
ロマンティックに描かれており、
まるで夢の中の幻影のようでもある。

彼の作品の中では異色の一枚である。
晩年旅行先にて目にしたこの風景に動かされた
彼の心が画面の揺らぎとなって、
私たちに伝わってくるからだろう。



 アリスと結婚し、大家族になったモネの最後の土地となったジヴェルニーには、彼の理想とする庭園が徹底して作られていった。彼の主な絵の対象は庭園と旅行先へと絞られていく。モネはたくさんのキャンバスをアトリエに保存し、長い時間をかけて少しずつ少しずつ色を重ねた。無数の絵が満足行かずに、自らの手により焼却されたという。そして印象派としての成功を手にしたのちも、過去に酷評された絵を、アトリエにそっと慈しむように置いて手放さなかったという。


 防寒着に身を包み、帽子を被り、冷たい風に身をきられながら黙々と絵筆を走らせるモネ。そしてある時は燦燦と輝く日の下で、まぶしい光を捉え続けるモネ。そんなひたむきにキャンバスに向かう姿が、彼の絵からは想像できる。

 永遠に完成することがないかのように、キャンバスに塗り重ねられる色彩。長い長い信念の時を経て、晩年彼は完熟の作品を残すことが出来たのである。



「睡蓮(Waterlilies)」1906年頃
青さに浮かぶ、ジヴェルニーの可憐な睡蓮たち。
絵を前に深呼吸すると、鼻のなかに広がるのは、
池にたちのぼるあたたまった水蒸気と、むせかえるようなハスの香り。
そのままいつまでも・・・。


参考文献:モネ(TASCHEN)
音楽:GarageBand Users Club/preciousさんより「Giverny 1926」

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