パウル・クレー
Paul Klee(1879-1940)


この世では私は理解されない。
いまだ生をうけてないものや、死者のもとに私がいるからだ。創造の魂に普通よりも近付いているからだ。
だが、それほど近付いたわけでもあるまい。









「忘れっぽい天使」1939
「また忘れちゃったの」と呟きながら、
そっとうつむきはにかんだ笑みを口元に浮かべる。
それは幼いあどけなさに見えて、
老いるにつれて子供に還る老人のものかもしれない。

なんと、いとしむべき、その無垢。
 無垢な絵。あどけなさの残る幼な児がクレヨンでごしごしとえがくような、はかなげで暖かく、それでいて何かハッとさせられるクレーの絵。絵というよりもむしろ、スピリチュアルな象徴(サイン)・・・。これを描く画家とはどんな人だったのだろう?クレーの作品に触れた人はそう不思議に思うことだろう。


 パウル・クレーはスイスの首都ベルンでドイツ人音楽家の両親のもとに生まれ、夏には保養地のベルン高地でアイガー・ミュンヒ・ユングフラウ、そしてニーゼンといった聳え立つ山々の頂を向こうに眺めながら育つ。クレーは、小さな頃からヴァイオリンの才能を発揮し、11歳で市の管弦楽団の非常勤団員となるほどであった。当然のことのように音楽家への道を望んでいた両親の思惑とは異なり、彼自身は文学や絵画への興味を抑えられずにいたようである。彼にとって創造性を刺激されたのは音楽よりもむしろ絵画であり、表向き音楽から離れることはなくとも職業として選択したのは絵画であった。ミュンヘン美術学校に学ぶが、アーティストの卵たちが多いこの街角の酒場で、ピアノ教師の妻の主夫として家事と育児をこなすかたわら、ゆっくりと独自の表現と芸術論を磨いてゆくことになる。

 そんな歩みの遅い毎日のあとに、転機は訪れる。1914年、画家の友人との地中海に面する北アフリカ・チュニジア旅行である。2週間足らずのこの地への旅が、彼の中に実を結ぶ。そしてこれを境に、線描から彼は『色彩の魔術師』へと変わる・・・。



「カイルアンの眺め」1914
蜃気楼のようだ。
紙に滲むチュニジアの蜃気楼。
クレーは不思議な色を持っている。




「ニーゼン」1915
物語に出てくる、妖精の王国のように。
山は高く夢を掲げ、月に向かって城を築き・・・。
澄んだ空気の中で子供の頃のクレーが見た原風景。
小学校に時に、安く太い筆で、
こんな絵を描いた子がいたかもしれない。










「花の神話」1918
羊歯か苔の仲間が上下なく立ち尽くす赤い夜、
小さな球根から神秘に満ちた花が咲く。
黒い三日月に導かれた金色の羽毛の小鳥と、
ミステリアスな花が出会ってことばを交わす。
「ねぇ美しい君の名前は何?」
「私は私、花のひとりよ・・・はじめまして、可愛い小鳥さん」





「喜劇的で幻想的なオペラ『船乗りシンドバット』からの戦いのシーン」1923
中央に斜めに走る舞台のハイライトに繋がる青のグラデーション、
それに背景の闇に映えるエキゾティックな赤のモザイクが、
美しくかつ穏やかに戦いの高揚感を訴える。
戦いとは言えど、どこかユーモラスな物語絵である。





「大通りとわき道」1929
無秩序と秩序、無機と有機。
要るものと要らないもの・・・。
その配合のバランスが実は難しい。
クレーはそのバランス感覚に非常に長けた人である。
無秩序に見えて規則正しい法則性も同時に感じさせる。
何故だか彼の作品に安らぎを感じるのは、
そんなところに理由があるのかも知れない。

 チュニジア旅行から帰って間もなく、ドイツは第一次世界大戦へと進み、ともに旅をした画家仲間マッケは戦死してしまう。クレーも徴兵されるが幸い後方支援につき、絵を描く機会は戦争中もあった。はじめ戦争に対する憤りを抽象絵画という形で強く表現していたクレーだが、皮肉なことに他の画家たちが消えてゆく中で逆に画家として注目を集め、ようやく売れ始めた作品の買い手の嗜好を意識してか、前衛的テーマを控えるようになってゆく。彼もまた戦争に翻弄され、運命を大きく変えられた芸術家のひとりなのかもしれない。盟友の死を悔しく思いながらも、皮肉なことにその原因となったものによって画家としての道が開かれたのである。

 敗戦国となったドイツでは1919年、芸術と産業(職人技術)を統合した美術工芸学校であるバウハウスが設立され、クレーは友人カンディンスキーと共にここの教師に任命される。ここでの仕事は作品を創る時間を奪われはしたものの、生徒に教授するために自らの芸術論を深く追求し整理し、高めてゆくには好都合であったろう。製作に携わる時間不足からこの場所を去ることになるまで、よく工夫された方法を用いて芸術論を展開したようである。もともと音楽や文学にも造詣が深かったクレーは、こういった様々な分野を統合した総合芸術という考え方に対する関心が強く、それも熱心に講義を行う原動力となったのであろう。




「金色の魚」1925
あえて邦題を「金魚」ではなく上のように添えた。
生まれながらにして与えられた輝く姿を持つ金色の魚。
光の強すぎるものは周囲をむしろ闇にしてしまうことさえある。
波を立てて驚き逃げ惑う赤い魚たち。
この絵に私が見つけたのは、
華やいで見える美しい魚の、ほかに知られざる『孤独』であった。




「赤、黄、青、白、黒の長方形の調和」1923
抽象の一作品。美しい色彩の調和。
不規則なのに規則性のあるモチーフは、
有機物から得たお手本である。
それは私たちの心にほっくりと暖かい火をともす。
 クレーの絵には、時期によって多用される手法がある。しかし線描やエッチング中心であったごく初期(ここでは作品を紹介していない)を除いたどの時期でも、素材感を生かすための画材の自由な混在が認められる。それは時に水彩と油彩であり、糊と版画であり、掻き傷や擦れなのである。そしてどこか僅かに歪んでいる。歪みながらも倒れない線と面。魔法のような色彩のパッチワーク。この全体を見るバランス感覚は、ひとつひとつの作品に視覚的なハーモニー(調和)となって現れてくる。



「パルナッソス山にて」1932
ひとつひとつに輝きを秘めた粒に満たされた、
油彩スタンプによる色彩と形のハーモニー。
暮れなずむ麓の扉は、紅い太陽に象徴される次の高みへと、
誘(いざな)うかのように静かに待つ。
私たちは次第に満ちてゆく幸福と希望に胸を高鳴らせながら、
そっとそっと、重く、しかし優しい、その扉をゆっくりと押し開けてゆくのである。



「病める果実」1934
いびつな形、傷口から染み出るような赤いエキス。
目を閉じた果実の睫毛の下には涙かしら?
熟れた果肉を流してしまうことを恐れるかのように。
大切に大切に・・・。



「子供の上半身」1933
表情は笑う。でも伝わってくるのは悲しみ。
透明な青い目を無残にも裏切るように、
分断された身体は幼い心に痕を残すトラウマを表す。
左下では「大人」が、冷笑を浮かべて・・・。





「陸橋の革命」1937
ナチス・ドイツの画一的な支配が進む中、
さまざまな個性が集まって反旗を翻す。
いろとりどりの橋、高さの異なる橋、
それらはバラバラに見える人々が起こす、
巨大なエネルギーのおしとどめられない革命である。
画一に押し込めることのできない、
ナチスに屈しない人々である。




 1933年ヒットラーがドイツ帝国首相に任命され、政治的に危険と思われたクレーのアトリエは捜索を受ける。晩年に訪れる皮膚硬化症(進行性で命にも関わる病)の発症、そして国を持たずに過ごす悲哀。彼の自由な表現はナチス支配下の祖国ドイツからは追われ、当時保守的な誕生の地スイスへの亡命を望みながらも、これもついに果たされることはなく60年の人生を閉じた。


 クレーの絵、ときに天啓のようで、無垢な心が生み出す偶然の産物のようにも見えてしまう。でも感性だけで描く画家ではなく、人の何倍も思考し、理論を精錬してゆく人だったのだ。だってあなたは、こんな言葉を遺してたでしょう?

 ”芸術は目に見えるものを再現することではなく、見えるようにするものである”・・・そうそれが、私たちがクレーからもらった贈りもの。



「かつての草刈る人」、「かつてのハープ奏者」、「かつての人食い鬼」1940
1月父が亡くなり、6月にクレー自身もこの世を去る1940年の連作・エイドラ。
何かに導かれるように、紙の上を線は滞りなく滑る。
エイドラ=ギリシア語で「まぼろし」、そして「理想化された人物像」。


参考文献:クレー(TASCHEN)
クレーの贈りもの(コロナ・ブックス)

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