藤田嗣治(レオナール・フジタ)
Leonard(Tsuguharu) Foujita(1886-1968)

私はフランスに、どこまでも日本人として完成すべく努力したい。
私は世界に日本人として生きたいと願う。
それはまた、世界人として日本に生きることにもなるだろうと思う。











「カフェにて」1949-63
電車の中で見た展覧会のポスターが、どうしても気になって仕方なかった。
それまで意識したことがなかった、Foujitaへの扉を開いた一枚。
漂うデカダンスにメランコリー。
陶器のような肌に優美な輪郭線。
異邦人のFoujitaが見た、仏国の1ページ。
 藤田嗣治は家老の家柄に次男として生まれた。母を早くに失い、畏敬する軍医の父(のちの軍医総監)は医者になることを望んでいたが、14の時嗣治が画家になりたいとあらたまって告げると、黙って画材を買うための大金を渡したという。東京美術学校への入学するも、当時の師であった印象派の流れをくむ『紫派』の黒田清輝には、嗣治の暗くクラシックな趣の画風はまったく評価されなかった。

 卒業後、最初の妻・登美子と駆け落ちしながらも、画業で生活を成り立たせることができなかった嗣治は、翌年期限付きの仕送りを得てパリへと向かう。芸術の都で、日本では考えられないほど自由な表現と画家の地位が認められていることを知った嗣治は、日本人の自分がパリを魅了する絵描きになってやると強く心に誓う。
 日本に残してきた登美子とパリで暮らすことを夢見ながら、おりしも第一次世界大戦が勃発する。灯火規制の中、ひたすら絵だけを追求する生活を通して、貧しいがようやくこの地で手ごたえを感じ始めていた嗣治は、父の仕送りを断り、成功するまで日本に戻らぬ意志を伝える。最愛の登美子とも、どうにも避けられぬ別れを迎えることになる。ここにのちのFoujitaの基盤が出来たといえる。

 異国の地で傷心のFoujitaはさらに絵に打ち込んだ。まだ芽を出す前の彼を喜んで支えた2番目の妻・フェルナンド、モディリアーニをはじめとする貧しいながら志し高い画家仲間との出会い、初めての個展でピカソに注目されたこと、日本では得られなかったこれらひとつひとつが、生きる糧となったであろう。

 そしてパリへ来て8年がたった1921年、サロン・ドートンヌで独特の「乳白色の肌」と精緻な表現が絶賛を集める。絵を焼いて暖をとるほどの貧しい生活の中、Foujitaは血の滲む努力で”素晴らしき乳白色の肌”と絶賛される独自の方法を生み出したのだった。平滑で白いキャンバスの地に墨で描かれる陰影は、今でもどうやって描いたのかすべては解明されていない。日本人として世界とわたり合う覚悟を決めたFoujitaは、こうして一躍パリの売れっ子へと躍り出たのだった。



「裸婦」1923
細部がつぶれてしまって惜しいが、
体の輪郭線はゆうに1mを越える黒い描線により
優美かつ流麗に、しかし正確に、とらえられている。
柄の描き方も独特で、当時のパリ画壇において、
衝撃的な表現技術だったろうことは想像に難くない。
日本画から多くの啓示を得たのではと思われるが、
油彩でここまでその技術を生かせるのは、
Foujitaをおいてほかに例を見ないだろう。





「生誕 於巴里」1918
初期のFoujitaが描く人間は静けさと陰鬱さを纏う。
黒田清輝の紫派に馴染めなかった沈み込むような陰鬱さは、
パリの頽廃的な雰囲気と迎合することで、
独自の画風を確立してゆくことになる。
この作品は本来の藤田が持っていた、ルーツを思わせる。


 大戦と大戦の狭間、独特の頽廃と狂乱で満ちたパリでFoujitaは大歓迎を受け、エコール・ド・パリを代表する画家となった。独特の風貌、東洋のエキゾシズムを湛えた繊細な作品は、実に高い評価を得た。 トレードマークのおかっぱ頭は、散髪のための金もなく自分で切り揃えていた時代の努力を忘れぬようにと、成功してからのちもずっと変えることはなかった(ただし戦争画を描いた時期には剃髪をしている)。芸術家たるものかく在るべしと考えていたFoujitaは、「お調子もの(フーフー)」と揶揄されたほどの数々の奇行が知られているが、実際は酒がまったく飲めず、必ず絵を描いてから出かけるよう自分に徹底していた。その切り替えが可能だったのは、絵のためならどんな努力も惜しまぬという強く純粋な意志と、筆の早さという業を持っていたからにほかならない。逆にその鮮やかな切り替えの早さが、彼の能力を嫉妬半ばに快く思わない同業者や日本美術界での、”単なるアルチザン(技術者)”という評価を後押ししてしまったのであろう。

 この1920年代の数年間、”エコール・ド・パリ”時代のモンパルナスには、各国からの芸術家たちがひしめき合っていた。モディリアーニやパスキン、マン・レイ、すでに有名になっていたピカソやマティスなど、そうそうたる顔ぶれが街を彩っていた。そんな中でFoujitaは”サロンの寵児”ともてはやされていたのだった。


inseculaより転載しています

「寝室の裸婦キキ」1922
漆黒の背景に浮かび上がる素晴らしき乳白色の肌。
全体の色調を抑えることで、より肢体の優美さが強調される。
画面に流れる静けさや、極限までデフォルメした輪郭に繊細な細部描写は、
北斎が好きだったというFoujitaの体に流れる日本人の血がよくあらわれている。
”モンパルナスの女王”と呼ばれたキキがモデルで、
マネ「オランピア」を模したような構図は、西洋の名作に挑戦する心意気が窺い知れる。





「エレーヌ・フランクの肖像」1924
ある日貯めたお小遣いを手に訪れた少女のたのみを、
Foujitaは快く受けて肖像を描いた。
その父親に贈られたこの絵は、
じつに瀟洒で、華と品性を備えた作品となっており、
父親思いの少女の内面までも見えてくるようである。
よく吟味された色味や、レースなど細部の描写、白地の美しさが光る。
父のフランクはその後、よきパトロンになったという。

 数々の勲章を受章し画家としての成功が揺ぎ無いものになった1929年、3番目の妻・ユキを伴い17年ぶりに父の待つ日本へと凱旋する。結婚を繰り返すことで派手に思われた女性関係と、目立つ奇異なパフォーマンスは、嫉妬混じりに日本美術界での評判を芳しくないものにしていた。「国辱」とも言われた自身への評価を、作品を通して覆したいという思いがあったであろう。はたして展覧会での評判は上々だった。しかし美術界の反応は思った以上に冷淡なままで、Foujitaをあらためて落胆させた。こんな時、表向き現れる強い自負とは裏腹に、彼はしばしば周囲からの評価に敏感な、繊細な一面を覗かせる。

 この年、ウォール街の株大暴落とともに世界恐慌が始まる。失意のうちに戻ったモンパルナスにも、確実に不況の波は訪れていた。それと同時に、エコール・ド・パリ時代のようにサロンでもてはやされることも最早なくなり、Foujitaはより普遍的な芸術価値を持つ作品を残したいと願うようになる。奔放なユキとの別れ、とりまく環境の変化から、4番目の妻・マドレーヌを伴い、何かを摸索するように南米の旅を繰り返した。この時期、白い陶器のような肌は影を潜め、色鮮やかな衣装や風俗を描いた作品を数多く残している。








「狐売りの男」
1933
日本人の目を通して、南米の風俗が描かれる。
ふと関雪の描く猿を思い起こさせる、柔らかく揃ったビロードのような毛並み。
遠くを見つめるように、やや焦点を外した男の鋭い瞳。
ことばを失ってしばし見入ってしまうような、
静かな力に漲っている。
余白の生きた、日本の伝統美を感じさせる水彩の一点である。


「猫(争闘)」1940
猛々しい猛獣の表情もあらわに画面を跳ね回る十数匹の猫は、
それまでのFoujitaの作品の中でもひときわ異彩を放つ。
止まった時と、構図のダイナミズム。怒り、憎しみ。
のちの戦争画の傑作が生み出される前の序曲のようにも思える。
観るものの心に不安感を掻き立てるこの作品が描かれたのは、
世界も激動を迎えた1940年のことであった。



 南米の旅を終えて、戻ったのはかつて冷たい仕打ちを受け二度と戻らないと誓った故郷日本であった。まもなくコカイン中毒で急死したマドレーヌに変わって、5番目の妻・君代と新居を構え暮らすようになる。より多くの人々に美術鑑賞の機会を、と壁画作成等にも力を入れて手ごたえを得ていた。
 そんな折、数名の画家とともに戦争画を嘱託される。数枚の絵を描いたのち、Foujitaは突然、再度のパリ行きを決意する。建て前の理由とはうらはらに、戦下の日本を離れ絵を描くことに集中したかったようである。半ば無理矢理に日本を飛び出したFoujitaは、パリでも直後に勃発した第二次世界大戦の戦火に追われ、結局翌1940年再び日本に戻ることになる。

 戻ったFoujitaは、また気乗りせぬまま戦争画にたずさわるようになるが、個人的に依頼された戦争画を精魂こめて描き上げたことを契機に、そこに新しい表現世界を見出しのめりこんでいった。日本画壇の中で、美術的価値のある戦争画を残しえたのは、唯一Foujitaだけだったかもしれない。これらは今まで冷たくあしらわれていた日本画壇で、初めて公に認められた作品でもあった。画業で世界に通じる日本人になりたいと願っていたFoujitaは、ようやくここにきて、その成果を祖国にみとめられたのだった。
 




「アッツ島玉砕」1943
アリューシャンの雪山の手前に最期の戦いに全霊をかける日本兵、右下に累々と重なるアメリカ兵。
中央下には、小さく可憐な薄紫の花が揺れる。
かつて”素晴らしき乳白色の肌”を描いていたのと同じ画家が描いているとは思えない。
戦争を鼓舞したとの理由から、戦後批判を受けることになった戦争画の代表作だが、
誰にも最期を知られることなく死していった日本兵に向ける、勲章や賛美などではない。
抑えた色調で、誇張もなく、事実そのものを丁寧に追って芸術として昇華させることに専念している。

価値がなければ、人の心を動かせるはずがない。
絵の前で涙を流し、手を合わせ祈りをささげる人があとを絶たなかったという。
多くの人が感動する姿を目の当たりにしたFoujitaは、「尤も改心の作」と述べている。





「動物宴」部分1949-60
動物たちが人間に似た行動をとることで、
人間社会に対するシニカルな視線をみてとれる。
全体像は賑やかな物語絵の様相であるが、
背景に飾られた裸婦像と、中央の肉塊が似たかたちをしているのは、
何らかの含みを持たせているようで興味深い。




「アージュ・メカニック(機械の時代)」部分1958-59
子供たちがさまざまな機械仕掛けのおもちゃを手に、
無表情に、無邪気に遊ぶ。
どこかしら不気味さが漂うところに、彼の視点が感じられて面白い。
丁寧な描写力は晩年特に冴えを見せるが、
日本を最後に発った後、絵の趣が西洋に偏ってゆくのが、
彼の心境の変化を反映するようで痛々しくもある。


 しかし終戦と同時に、最も多く戦争画を描いたFoujitaを待っていたのは、他の画家の保身のため、Foujitaひとりに責任があるかのように振舞う、日本美術界の裏切りであった。日本人であることを何よりも誇りに思い、ようやく自らの芸術が戦争画を通じて祖国に評価されたことを、いちばん喜んでいたのはFoujita自身だったはずである。しかし敗戦の日本においてその嬉々とした態度は誤解を招き、さらに美術価値のある戦争画収集を行おうとするGHQに賛同して協力したことも手伝って、「国賊」「美術界の面汚し」とまで批判されることになった。そして多くを反論することなく、美術界のすべての戦争責任をひとりで背負うようにして、日本を発った。
 「藤田は逃げた」という論調で伝えられるも、実際は日本から追われたようなものだった。あくまで画家は画業で尽くすことが使命、というスタンスを貫こうとする藤田の純粋な考え方は、まだ近代に開かれていない日本社会において居場所がなかったのであろう。ここまでされて、敬愛する父も他界した今、すでに日本に拘る意味はなかった。

 日本美術界にとって触れたくない存在となったFoujitaは、展覧会が開催されることもなく、長いこと封じられたままであった。「正しく評価しない以上、忘れて欲しい」と作品の日本公開を強く拒み続けていた君子夫人の協力がようやく得られ、近年作品や背景が日本に紹介され、2006年、戦争画を保管していた東京国立近代美術館を皮切りに、藤田嗣治展が各地で開催されるに至った。生涯を戦争と中傷に翻弄された画家の、人生の縮図を見るかのような多彩な作品群の変遷の過程は、まさに驚嘆に値する。
 晩年フランス国籍を得て、さらにキリスト教の洗礼を受けてレオナール・フジタ(レオナルド・ダ・ヴィンチの名をとった)となった。あえてニ国籍を残さずフランスのみとし、「嗣治」の日本名を捨て去ったことには、日本との訣別の意味があっただろうことは想像に難くない。
 この時期、子供がいなかったFoujitaは多くの子供を描いている。パリを離れて隠やかな生活を送っていたFoujitaは、学校帰りの子供たちと語らうのを何より楽しみにしていたという。壁や皿といった身の回りの品は、子供たちの絵でいっぱいに彩られていた。
 やがて死を意識し始めたFoujitaは、自ら設計したランスの教会ノートル=ダム・ド・ラ・ペのフレスコ画に鬼気迫る情熱を注ぐ。完成を待ったように膀胱癌による入院生活を余儀なくされ、スイスの病院で81歳で生涯を閉じた。その2ヵ月後、日本政府は勲一等瑞宝章を贈る。


 今、彼はノートル=ダム・ド・ラ・ペに眠る。
 Foujitaは芸術家としてあまりにも純粋であるがゆえに、激動の20世紀において日本社会への接し方がひどく不器用だったように思う。同時に、そんなFoujitaを作品も含めて一切認めようとしなかった、日本美術界の狭量さも不幸であった。
 遺品の中に見つかった、レジオン・ドヌール勲章をつけたぼろぼろの日本人形・・・それはそのまま、フランスからも日本からも異邦人のままだった藤田嗣治の、ただ一つの願いのように思えてならない。



「フランスの宝」1960-61
おでこが広くつり目で笑わない子供たちは、
どこか遠くから自分とそれをとりまく環境を眺める、
Foujita自身の分身であるような気がする。
48枚からなるユーモラスでどこかシニカルな作品は、
ひとつひとつ愛情をこめて丁寧に描かれている。
皿や小さな容器などの日常品にもよく子供たちを描いていた、
まめなFoujitaらしい作品である。左上から時計回りに、
「タピスリー」「メディスン」「グルメ」「シャトー」。











「キリスト降誕」1960
初期の「生誕」には色濃い陰鬱さが含まれていたが、
同主題を描いた晩年のこの作品では、運命に翻弄されたFoujitaの、
何よりも得がたかった平和を願う、世界人としての視点が感じられる。
静かな生活の中で数多く描かれた宗教画は、
終点を求めるFoujitaの心の拠り所だったかもしれない。

参考文献:藤田嗣治「異邦人」の生涯(近藤史人:講談社文庫)
LEONARD FOUJITA(藤田嗣治展カタログ)

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