ウージェーヌ・ドラクロワ
Eugène Delacroix(1798-1863)


絵画にとって最も大事なことは、
眼のための饗宴であるということだ。
(1863年の日記より)










「海老のある静物」1826-27
「静物」という言葉に違和感をおぼえるほど、
動きのある構図に生き生きとした色彩。
広大な背景に無造作におかれた獲物は、
その瑞々しい命を失うことがない。
数ある静物画の中で、私が一番好きな作品。


「墓場の孤児」1824
十字架の並ぶ荒涼とした風景の中に
凛とした寂しさを漂わせる少女。
露わな肩に鎖骨、野生動物のように鋭いまなざしは、
身寄りのない社会に独りで生きている人間の
研ぎ澄まされた逞しい生命力と淋しさを感じさせる。

ドラクロワはあらゆる芸術的才能に恵まれていたが、
そのせいか、鋭敏で繊細な魂も
おりおりその作品に見受けられる。
表現の激しさと、その裏に潜む脆さとはかなさ。
その隠れたアンバランスが、
彼の作品に深みを与えるのである。



 18世紀末、フランスには新たなる秩序を求める気運が高まっていた。それは社会のみならず芸術世界でも同様であり、ドラクロワはこの混沌とした革命期のパリに、新政権のオランダ大使の息子として生まれた(容貌から宰相タレーランの息子とも云われている)。幼い頃から音楽そして絵画と、並々ならぬ才能を見せていたドラクロワは、画家である叔父の勧めにより17才から本格的に絵を学ぶようになる。

 革命後の支配者ナポレオンは古典派美術を愛したが、その代表的画家であるダヴィッド(「ナポレオンの戴冠」が有名)はナポレオンの失脚とともに国外追放を受けていた。彼を師と仰いでいた同じく古典派のグロは、新しい時代の流れの中で、より内なる情熱を表現したいという欲求と、師への思いとの間で悩んでいた。彼は若きドラクロワの最初のサロン出品作「ダンテの小舟」を絶賛し、絵画の新しい波を歓迎した。


「ダンテの小舟」1822
ドラクロワが24歳のとき、まだ古典派全盛の時代である。
グロの強力な推薦があって入選を果たしたが、
当時のサロンにおいて、この劇的な表現は異質な存在であった。
ダンテらが乗る小舟に亡者がしがみつく、
心を揺さぶる、その情念の凄まじさ。

 ドラクロワの先輩であり友人でもあるジェリコーは、「メデューズ号の筏」でロマン派の台頭とも言える異質な画風を打ち出したが、わずか5年後に不慮の事故のため夭折する。葛藤に悩みぬいてセーヌへ身を投じたグロ、そして朋友ジェリコーの若き死は、ドラクロワを孤独なロマン派の旗手へと押し上げた。この役目は、絵画に先んじてロマン主義が台頭していた文学、そして音楽を理解することのできる、時代の芸術の申し子であるドラクロワでなくてはならなかったのだ。

 多くの登場人物を含む絵は、ともすればそれぞれが無関係にただ配置されて見えることが多く、特に宗教画・宮廷画などによく見受けられ、絵のおもしろさを半減してしまう。だがドラクロワのそれはどうだろうか?登場人物は互いに通じ合い、影響を与え合って、一つの画面を構成する。一目見た瞬間、封じ込められた詩情豊かな情熱が画面からほとばしる。古典主義の『冷たい正確さ』を捨て去ったドラクロワが、ロマン派の巨頭たる所以はここにある。



「キオス島の虐殺」
1824
かろうじて入選はしたものの、
はじめにこの絵に与えられた称号は「絵画の虐殺」であった。
現実にあったトルコ軍のキオス島における行為に、
ドラクロワは憤り、怒りをキャンバスにぶつけた。
ロマン派の出発にふさわしい、劇的な瞬間を描いた大作。







「サルダナパロスの死」1827-28
圧制をしいたアッシリア王が、反乱軍に倒されんとする。
自らの死を前に、王は何事もないかのように寝そべり、
寵をかけた女達が、部下に殺害されるのを冷然と眺める。
ひとときの栄華とその崩壊、いくつもの挿話を連想させ、
阿鼻叫喚の情景を鮮やかに描き出している。

「アラビアの幻想」1833
アラブ人の凄まじい騎馬の情景は、
帰国してからも記憶が薄れることがなかったようだ。
彼が好んで描いた馬や猛獣をテーマにした絵のひとつ。
動きのある構図と筆の動き、そして
溢れる情感は彼の得意とするところである。




「近衛兵達に護られたモロッコのスルタン」1845
空の青と日に焼かれた黄色い大地が美しく、
規律よく勢揃いした色とりどりの近衛兵が、
スルタンの高い位を感じさせる。
珍しく動きの少ない構成だが、それでも
彼の絵は「目を楽しませてくれる」ことがわかる。




 34歳のドラクロワは、大使の伴としてモロッコへ向かう。アフリカの太陽と色彩に衝撃的な感銘を受けたドラクロワのパレットは、それまでよりも数段明るく、豊かな色彩を帯びるようになる。この旅行中に描かれた何冊ものスケッチブックは、フランスに帰った後に多くの作品のもととなった。 「アルジェの女たち」はそのきらびやかな色彩感から特に有名であるが、ここではそれ以外の作品を見て欲しい。


『あらゆる絵の敵は、灰色である』
『いわゆる影というものはない。あるのは反射光だけだ。重要なのは影の範囲を限定すること。影はいつも強すぎるのだ』

・・・・・

 ドラクロワは日記や美術辞典草稿の中で、多くの言葉を残している。多分野にわたる芸術家たちと交友し、手紙を交わして深めていった彼の心のつぶやきは、今なお多くの真実を私たちに語りかける。



「十字軍のコンスタンチノープル入城」1840
貧困にあったドラクロワはしばしば注文を受け、大叙事詩である戦争を題材とした大作を描いている。
どれも大胆な構図と躍動する画面で見るものを圧倒するが、
立体的な奥行き、動きのある構図、主人と対照的に目をむいて激しく威嚇する馬の描写、
どれをとっても、ドラクロワならではの叙情的な作品となっている。





「ショパンの肖像」1838
友人ジョルジュ・サンドの恋人ショパンは、
音楽の才能にも恵まれていたドラクロワにとって、
ほどなく大切な友人になるのはごく当然のことであった。
彼と親子ほども歳の離れた若きショパンは、
その音楽と同じく、繊細で感受性の強い風貌を見せる。

決して写実ではないのに、おそろしいほど「ショパン」を現すこの作品は、
あらゆる肖像画の中で間違いなく、
最高傑作の一つにあげられるであろう。

 晩年、ルーヴル宮のアポロンの間の天井画を依頼されるまでになったドラクロワは、次のような言葉を残している。
『・・・私には絵画ほど魅力的なものはありません。そのうえ絵画は、30歳の健康を私に与えてくれます。絵は私のただ一つの思想なのです。重力の研究をしたニュートンのように(彼は処女のごとく死にました)、私は仕事にのみ沈潜しているのです・・・』

 自らの外見への極度なコンプレックスからしばしば恋に悩み、愛人はいれどずっと独身であったドラクロワは、その情熱を芸術との対話に向けて昇華したに違いない。
病弱で貧しいながら紳士的で身なりに気を遣い、感じるままに彼が65歳までに描いた作品は、9000点余りに及ぶ。

 生涯を絵だけに捧げ、
「100年後に、皆が私のことをどう思っているか知りたい」と言い残し、家政婦ひとりにみとられて静かにこの世を去ったドラクロワ。「フランスの全ての画家は、彼の偉大なるパレットを通して描いている」とセザンヌに賞賛されたその豊かな色彩は、現在でもなお、美術史上に色褪せることはない。


「ライオンの頭部」1833-35
馬や猛獣の激しい生命の輝きは、
ドラクロワを捉えて放さなかった題材だ。
このラフな水彩の小品も、
彼の魅力を余すとこなく見せてくれる。





「民衆を率いる自由の女神」1830
燃え盛る炎を背に、人々を先導する自由の女神。
目を見開き、烈しく昂揚している人々とは対照的に、
女神の横顔は静かに感情を封じ込め、
それゆえ神であることが理解される。
しかしその身体は雄々しい力に満ちており、
集まった群衆のエネルギーを一身に象徴しているようだ。
彼が描いたのは革命への賛歌ではなく、
自由を勝ち取ろうとする民衆の激しい心であろう。

参考文献:ドラクロワ 色彩の饗宴(二玄社)
ドラクロワ(新潮美術文庫)

これらのファイルにおいて、著作権・肖像権等の問題に触れてしまうような場合はまず、管理人まで御一報下さい。
画像は適度に画質を落として使用し、個人の趣味範囲の公開であるとの認識から、出典のみ明記させて頂いております。
営利目的ではない点ご理解頂けるとは思いますが、
もし関係者の方が問題があると判断された場合には、申し出と同時に適切な処置を行うつもりです。
皆様のご協力をよろしくお願い致します。


エッセイの卵へ