鴨居玲
Kamoi Rei
(Rey Camoy) (1928-85)

”人はたった一人では生きてゆけない。だが人の夢や志は誰れにも身替りしてもらうわけにはいかない。
他者と共に営む生活と、孤立無援の思惟との交差の仕方、定め方、それが思想というものの原点である。(高橋和巳)”
この交差の仕方の、高いか低いかが、その人間の生きざまというものであろう。








「1982年 私」1982
描けない、私。
その恐怖、その苦しみ、その狂気。
既に画家として認められたその時期にこそ、
より強くなって襲いくるものたち。
周りには「次の作品を・・・」と待ち焦がれる人の群れ、
それは過去に彼が描いてきた人間たち。

キャンバスの鮮烈な白さが、
呆然とする顔を亡霊のように浮かび上がらせる。
「絵は私にとって苦痛そのものです」
そう言った画家の、晩期の自画像。



「ピエロ」1983
おどけた外見とうらはらに、
道化師には常に’仮面を被り続ける’という悲哀が付き纏う。
目に見えるものが鮮やかであればあるほど、
楽しければ楽しいほどに、
隠されたものが浮かび上がるのだろう。
冴えて張り詰めた朱(あか)に、視線のない眼窩に、
剥き出しにされた心の在り様が宿る。



 その絵はあまりに強烈で、一度目にすると瞬時に画家の名を覚えてしまう。そして彼の風貌を見て二度驚く。繊細な美形の優男と、その手から生まれる魂の傷口を抉(えぐ)り出すような絵との対比は、鮮烈な意外性をも記憶に残してゆく。

 私が鴨居玲という画家に傾倒したのは、実は今から数年前になる。このファイルもすでに作り始めていたが、しかし、完成せずにずっと機を待っていたのには理由がある。引きずり込まれるのが怖かったからだ。この暗く鬱々とした、だが鮮烈な叫びが確かに聞こえてくる彼の絵に、誰しもが引き込まれてゆく。潜って、浮上できなくなるリスクがあった。自分の精神がすこぶる良い状態でなければ、これらの絵を十分に解釈し、人に紹介することは無理だと分かっていたからだ。


 その引力の根源である苦悩は、彼の人生そのものを確かに支配していた。新聞記者の父、革新的下着デザイナーとして一世を風靡する鴨居羊子を姉に持ち、過保護な母親ゆずりの大きな目とスター並みの恵まれた容貌を持つ、洒落者の洋画家。それが、世間が抱いた彼のイメージである。

 小さい頃から華奢で、活発な姉洋子と対照的に泣き虫だった玲にとって絵は唯一、自分の思うままに振舞える世界だった。父は仕事柄、文化人と交わることが多かったため、同世代の芸術家と終戦後すぐの金沢でおこった芸術振興の波作りに携わる。ここで生まれた金沢美術学校に、ほかにこれといって取り得のなかった玲は入学する。卒業後一度は就職するも、何か払拭できぬ違和感を感じ、画業で身を立てんと家族のもとに再度身を寄せ、田中千代服装学園の講師職を得る。同僚に学園の女生徒にと、相変わらず異性の関心を集める玲であったが、酒に弱く経済観念にも乏しく、子供のような甘えと我儘も相変わらず。デザイナーの妻のフランス留学に同行したことから、諸国遍歴が始まる。
 暖かく豊かな南米で一時期を過ごし、”このように悩まぬ土地では絵は描けぬ”と認識した玲は、ようやく自分の目指すものを認識する。そして日本へ戻ってからの制作がみとめられ、安井賞受賞を皮切りにその名を知られる存在となってゆく。




「廃兵」1973
薄くなった頭髪と深く刻まれた皺、浮き上がる血管。
暗いキャンバスの中でようやくそれとわかるのは、
日々の糧を集めるための缶ひとつと
失った左腕を覆う縛った袖である。
廃兵が失ったのは若き日々、腕、
そして自分の価値を認めてくれる社会そのものである。
口元を結び、目を伏せ、
しかし残っているのは頑なに守ってきた
自尊心なのだ。

戦争は、たくさんの廃兵を生んだ。
そして私たちは、その上に生きてきた。
たとえ気づいてなくとも。



「ドワはノックされた(アンネの日記より)」1970
何かを表現するとき・・・私は表したい感情と、同じ感覚を身体の内に再現しようとする。
鴨居氏も、人物と同じ精神状態にトランスして絵を描いているとしたら、
どれほど追い詰められていたことだろう。
もう逃げ場のない切迫した恐怖が、ユダヤの人々を襲う。
ドアのノックに耳をすませ、声にならない悲鳴が咽から漏れる。
音のない画面に現れたのは、その恐怖に身を硬くする彼自身なのだ。








「ボリビアインディアンの娘」1970
南米の明るい極彩色も、
鴨居の手にかかると深い業のようなものを滲ませる。
人ひとりの中に、積み重なった人生は、
立ち上る蜃気楼のように、彼の中で膨らんでゆく。





「村の楽隊」1977
人間らしい部分を探すのがむしろ難しいほどに、
見た目は人間らしくなくとも、
伝わってくる感覚は、確かに音に魂をあずける楽隊なのだ。
視覚的に本質をえぐり曝け出す作業とは、
そこに至るまでの思考過程や、
描く瞬間の精神状態にもまた、大きく左右される。






「静止した刻(とき)」1968
ダイスに興じる男たちの含みある表情は、
観るものに深く色濃い腹の中を想像させずにはおかない。
一瞬の刻、それぞれの思惑が緑の盤上に交差する。
「静止した刻」の安井賞受賞は、
玲に自分の進むべき方向性を確かにさせたことだろう。
 常に厭世的、破滅的でいつもどこかに悲愴感を抱いている玲は、当時からしばしば自殺願望を口にしていた。なのに自分が不幸の只中にいる意識が突き詰められる環境でこそ、彼の望む絵が生まれるのだった。
 フランス、スペイン・バルデペーニャス、南米、どこへ行っても酒に溺れ飄々としてるのには変わりなかった。そして常に彼の内部に抱えられていた苦悶は、時折人前で曝け出される。どこか幼さを思わせるそんな時の甘えは、親しい友人やその頃すでに関係が破綻していた妻を困らせた。各国遍歴の中で出会った栄美子も、玲の自殺未遂現場を目の当たりにしている。







「教会」1978
宙に浮く重く堅牢な十字架は、教会という存在の重さ。
開かれた信仰というよりも、有無を言わさぬ絶対の存在。
若くして自らカソリックの洗礼を望んで受けた姉洋子、
一時興味を示すも無神論者であった玲、
誰も彼もがオートマティックに神を持つ異国の生活における違和感。
荒涼たる土地の、はるか頭上に圧倒的な重さを持って存在する十字の塊は、
彼にとっては知らぬ間に人々を支配する、支配者に見えたかもしれない。


「婦人像」1983
いったい生涯に何枚のデッサンを描いたのだろう、
黒の濃淡の、なんと鮮やかなこと。
粋を集めた深淵なる、東洋のモナ・リザかもしれない。


 鴨居氏の絵は自画像であると言われる。実際に自画像そのものも多く残しているが、絵の全ての登場人物は、彼の心の鏡として表れているに過ぎない。1枚の絵に100枚のデッサンを自らに課した画家でもあるが、それを過ぎると対象を観察せずにイメージを極限まで成熟させたのち一気に描いたという。すなわち、心に住まわせている人物=自分の分身である。

 一度描かれた漠然とした下描きは、何ヶ月もそのままになる。イメージが熟成されるまで長い時間を費やし、そして時に一晩で、あっという間に完成までの階段駆け昇る。その瞬間ほとばしるエネルギーと狂気を高めるまでには、常人には考えもよらない苦悩が何日も続くのである。仕上げをする時のやり方が思い出せない、2度と描けないんじゃないかと恐怖にかられ、自分でその姿をビデオに収めたという。それだけ、制作中は無我夢中なのだ。展覧会前に人前に現れる鴨居氏は、げっそりとやつれ、ようやく生きているといった様子であったという。
 画面の中の人物は、業を抱えて嗚咽する。肉は熟れて、心に感応して変化する。そこまでイメージがまとまってゆく過程で、自分の中でひとりもがく時間が、彼にはどうしても必要だった。


「しゃべる」1980
何かを搾り出すように口を開いても、
ことばは虚ろに空に舞う。
吐き出しても、吐き出しても、
人に伝わらないもどかしさは、
いつか絶望感へと続いてゆく。






「望郷」故・高英洋に捧ぐ1981
韓国人・峯洋一こと高英洋を偲んで描いた肖像。
数少ない親しい友人のひとりで実業家だが、
もとは夜遊び仲間として出会ったのだとか。
高氏の最後を看取った玲。
そんな縁に始まったとて、ごく少数の心許せる人間には、
惜しみなく永遠の友情を示していく姿もまた、
鴨居玲の人となりである。


「智恵子婦人像」
神々しいまで美しい。
硬い鉛筆で”刻む”感覚が好きだ、と語っていた鴨居玲。
自身をみとめてくれた日動画廊・長谷川氏との交流を通じて、
長谷川夫人への敬愛の情がうかがえる、麗しき横顔。



 「・・・本当にあれで良かったのかと、翌日アトリエに入るのが怖い。キャンバスを見るのが怖くて、自分のアトリエなのにこっそり忍び込むように入るんだ」

 人生を通じて、何度も自殺未遂をし周囲の人間を慌てさせ、晩期に何枚もの首吊りの絵を描いていた彼は、ついに自宅車庫で酒に酔い車をアイドリングさせたまま、中で死んで発見されるのである。暗いアトリエに残された大きなパレットには、鮮やかな油絵の具がうず高く堆積していた。

 気儘で酒に弱く、怒ったと思えば泣くといった不安定な情緒を持つ子供のようで、思いがけず周囲の微笑みや苦笑を呼ぶ、憎めない人であった。しかし彼は苦しむ自分を嘲る様に、そんな道化を振舞っていたように思える。画家として評価が高まると同時に、極限状態で制作する「絵は苦しみそのもの」と吐露した彼の精神は、より不安定な状態に押しやられたであろう。搾り出しても出しても、体内から溢れ出る業は尽きぬどころか、終には鴨居氏の魂を絡め取っていってしまった。


 「結果の分かってることやるバカいる?分からないから、かけてみるのでしょ?努力だけで解決できるようなものに一生かけるわけにいかない。」あなたはそう言いましたね、鴨居さん。あなたは自分の命をかけて、絵を描いたのでしょう。人に訴えかける絵を。


”憂きも一時 嬉しきも 思ひ覚ませば夢候よ 酔い候え 踊り候え”
   (閑吟集)






「肖像」1985
「さようなら」。
そんな言葉を自嘲の笑みを浮かべながら、投げかける。
闘いにも少々疲れたかな・・・もうこの世での仮面はとらせてもらうよ。
狭心症発作に苦しみ、いよいよ画家としても円熟したころ、
彼の心に訪れたもの。



参考文献:「踊り候え」(風来舎)
「鴨居玲画集」
「一期は夢よ 鴨居玲」(日動出版)


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