それは子供が、子供だったころの物語……。
忘れられてしまった物語。
いい子のところへは、ピーターパンがやってくる。
ピーターパンは、子供達を素晴らしい国へ誘ってくれる。
そこでは子供達は歳を取らず、何もかもが夢のよう。おとぎの国の、妖精や、海賊や、インディアンたちがいて、いつ終わるとも知れない楽しい楽しい冒険の物語。
ピーターパンは子供達のヒーローで、ピンチのときにはかならず助けに現れる。永遠に生き続ける夢の子供。
子供達が妖精を信じ続ける限り、彼は不滅だった。
妖精は、信じる気持ちから生まれる。子供達が妖精の存在を信じていないと、彼女は死に絶えてしまう。だからピーターパンは、瀕死の彼女のために、世界中の子供達に呼びかける。
どうか少しでいいから、妖精の存在を信じてあげて欲しい、と。
本来宇宙の藻屑と消えていたはずのシロエを生かしたのは、誰かの強い思いだ。それからかつてエネルゲイアで、つかのまの短い交流を持ったミュウの長、ジョミー・マーキス・シンの優しい気持ち、そしてシャングリラに乗ったミュウの仲間たちの思いがあったからだ。
ペセトラ宙域、教育ステーションE-1077にほど近い星域での、小規模な追撃戦。撃墜されたのは、小型の練習艇──二機。ソルジャー・シンが思念体で現地に翔け付けたときには、砕けた練習艇、宇宙をただよう瓦礫と、その間にサイオンに包まれて眠るように蹲っているシロエの姿があるだけだった。
何があったのかは、想像するよりほかにない。意識を取り戻したシロエからは、教育ステーション時代の一切の記憶が抜け落ちてしまっていたから、なおのことだった。
シロエはときどき、割り当ててもらった個室の窓の前に立ち、広く果てしのない宇宙空間を眺める。
宇宙空間には上も下もない。幾千、幾万の、宝石箱をひっくりかえしたような星の輝き。砂粒のようなそれは、何万光年という時を超えて、シロエにその光を伝えてくる。今目にしているその輝きが、何万年も前のものだということが信じられない。
この瞬間にも、沢山の星が広い宇宙のどこかで死んだり、生まれたりしている。ミュウたちが目指すテラも、そんな幾億という星たちのひとつで、それでも彼らはそれを目指さずにはいられない。
ガラス窓にシロエ自身の姿が映っている。ほっそりとした手を伸ばして触れると、硬質なガラスの感触だけがかえってくる。
シロエは幼いころに出会ったピーターパン、ミュウの長ジョミー・マーキス・シンのことを覚えていた。
救出され、シャングリラに回収されたシロエは、やがて目を覚ますと驚いた。昔出合った、そのままの姿で彼のピーターパンがその手を差し伸べていた。
──来てくれたんだね! 僕はここだよ!
胸がずきりと痛む。強い喪失感があった。心臓にぽっかりと穴が開いてしまったような、けして忘れてはいけなかった、何か大事なものをそっくり喪ってしまったような。
ジョミーの、手袋に包まれたしなやかな手をシロエは押し抱いた。シロエにとって大切なもの──ジョミーから感じる圧倒的な力。助けに来てくれた。ジョミーが生きろというのなら、そうしたい。僕は彼のために生きたい。
シロエは、しばらくの間は医療カプセルの中で療養した。
シャングリラの最深部に位置する神聖な場所、ミュウにとっての聖域、偉大なる前長ソルジャー・ブルーの眠る青の間へいざなわれたのは、夢の中の出来事だと思っている。
青の間は清らかな水が張られ、ひんやりと澄んだ空気に包まれている。
船の中にこんな場所が……シロエはおそるおそる、一段高い場所に向かって伸びている、青白い回廊を進んでいく。
青の間は、一種の異空間らしく、外界から一切遮蔽され、時の流れからさえ切り離されているように思えるその回廊の先には、白い大きな寝台があった。
寝台にその身を横たえ、永い眠りについているのはソルジャー・ブルー。
ものいわぬ彫像のような端麗な、ブルーはその印象的な瞳を閉ざしていた。
シロエはおっかなびっくり、その寝姿を覗き込む。子供のころ、してはいけないと言われたことを守らず、踏み込んではならないとされた場所へ踏み込んだときの恐ろしい気持ちを思い出す。
ブルーは眠っていても、その存在はあまりにも強烈だった。
青白い瞼、濃い長い睫毛。あまりにも美しい。圧倒的な美とは、こういうもののことを言うのだろう──シロエは息をするのさえ忘れていた。
──おかえり、シロエ。
シロエは大きく目を見開いた。気が遠くなる。頭のなかにいんいんと呼びかけが反響し、シロエは目をぎゅっと閉じた。
目を開くと、紅玉のまなざしがシロエを見上げていて、シロエは息を飲んだ。血の色の宝石がにっこりと微笑んだ。
優しい微笑み。冷たくすら思えるほどの端麗すぎる面立ちが、微笑みが佩かれると包み込むような暖かさに変わった。
伝説のタイプブルー、何もかもが伝説めいた姿。その存在はミュウにとっての神に近い。
伸ばされたブルーの手がシロエの頬に触れる。シロエは自分が涙を流していることに気付いた……
(君の心は傷ついている。とても深く。可哀想なシロエ、僕の子供……辛い記憶は僕が持っていってあげる。勇敢なシロエ、君は充分戦った。かつてジョミーがそうだったように、これからミュウとして生きる君に、この記憶はおそらく不要だ。辛く、君を苦しめるだけ……)
手放すか、否か?
ソルジャーは魂深く、そう問いかけた。シロエは手放すことを是とした。ブルーはひとつ頷いた。
それが現実の出来事だったのかどうか、シロエには自信がない。そもそもシロエがシャングリラに救出されたときにはすでに、ソルジャー・ブルーは深い眠りについた後だった。
だから、夢──か、幻。記憶を亡くしていることさえシロエははっきりとは自覚していない。だからぼんやりと──夢の中で、シロエはブルーに会ったことがある、会話を交わしたことがあるようにと思う、というだけの、御伽噺じみた話だった。
それはシロエの心の中だけの秘密だ。
喪われた記憶について、少し気持ちが揺り動かされることもある。こんな風に、ガラス窓に手をあてて、宇宙の彼方に思いを馳せるとき。きらきら光る星の船。魚──水底。ゆらゆら揺れる光の魚。
幾千の星を越えて、一足飛びに到達できたなら。
光の魚──何かを思い出しそうでこわい。シロエは目を閉じた。
ミュウの母船、白い優美なシャングリラはあてのない長い旅の最中で、様々な星間をくぐりぬけ、ときどきは人類が根を下ろしている居住惑星へ何人かの味方を下ろし、そのままではいずれ成人検査に引っかかって処分されてしまうであろう、ミュウの子供達を保護したりしている。
宇宙の波間を漂っている壊れた船を回収することもあった。この巨大な艦を動かすための動力は自給自足でまかなえるにしても、部品や、消耗品の類はそういうわけにはいかないので、こういった廃船をリサイクルするのは効率がよいのだ。古い廃船の部品でも、貴重な資源だった。
幸いシャングリラのクルーには、すぐれたエンジニアが揃っている。シロエもそのひとりで、技術者のエキスパートを多く輩出する惑星エネルゲイア出身のシロエは、ことメカニックの分野には強かった。
サイオンキャノンの改良に携わったのは、シロエのシャングリラでの初仕事で、シロエが改良したサイオンキャノンは精度、威力の点で旧式を大きく凌駕していた。
近頃頻繁に繰り返される人類統合軍との不本意な遭遇戦でも、その成果を上げ、おかげで彼はすっかりミュウの仲間たちに認められていた。
ミュウの、地球、パルテノン議会への思念波送信──シロエがシャングリラへやってくる、少し前の話だ。
思念波送信以降、人類統合軍のシャングリラへの攻撃は熾烈さを増した。当然といえば当然の結果なのだが、人類側に、ミュウはその存在をあきらかにしてしまった。
結論から言えば、ジョミーが提案したのだという、その人類側への問いかけは失敗だったのだが、シロエがもし、その時点でシャングリラのクルーとなっていたとしても、きっとシロエはジョミーに賛同したと思う。
何事も、やってみなければわからない、とシロエは思う。
結果はどうあれ、働きかけることは、座して文句ばかり垂れているよりよほどいい。シロエは、艦内のジョミーに対する不満をとっくに察知していたが、ジョミーには恩がある。出来ることなら、シロエは、シロエだけは、ジョミーの味方であり続けたい。
シロエはもともと、少し高慢なきらいはあったが、てらいのない魅力的な人柄だった。
子供達もシロエにはよく懐き、可愛らしい見た目で、女性クルーにも人気があった。シロエがブリッジに顔を見せると、まだ歳若い、少女といってもいいほどの見た目の彼女たちは、肘をつつきあって噂する。
気難しい機関長のゼルも、どういうわけかシロエに対しては気を許す。シロエの皮肉っぽい、それでいてあけすけな態度が好もしくあるのだろう。
シロエは、シャングリラに来て良かったと思っている。記憶の一部が抜け落ちていることも、とりたてて不自由ではない。
何も不満はない。シャングリラはまさしく、シロエにとっての理想郷だった。
それが八年前──月日は瞬く間に過ぎ去った。
赤い星、ジルベスター7へシャングリラが到達したのは、激しさを増す一方の、テラ側の索敵活動──止むこともない戦いの日々。消耗しきったミュウたちの希望の星。
この星に降り立って、人類とは別の生き物として生きよう。歳若いミュウたちの間にそんな声が起こるのを、シロエは責める気持ちにはなれなかった。
ソルジャー・シン──ジョミーの複雑な思いも、シロエには手に取るように分かった。 しかし、シロエは緩衝材になれるはずだ。
それが、上手くいきそうではあったのだ──あの男が現れるまでは。
「何だって?! 人類の宇宙船がナスカの軌道上に入った?!」
ジョミーの顔は険しい。通常ではない、何かを察知しているのだろう。
シロエも先ほどから胸騒ぎが止まらなかった。おかしい。これほどまでに心を揺さぶられる出来事は、もうずっとなかった。シロエは衣服の、胸を掴んで数歩よろめき歩いた。
「まさか……」
「ジョミー……」」
「ダメだ。この星に、下ろしちゃいけない!!」
シロエは脚をもつれさせ、赤茶けた砂面に足をとられて転倒した。ジョミーはもう赤いマントを翻し、飛び立っている。
もはや肉眼でも、その小型船が確認できた。
(お前は何者だ……! 答えろ!)
(何処から来た。目的は何だ。誰に命じられた。──メンバーズ・エリート。人類統合機構のイヌというわけか……!)
メンバーズ・エリート。
シロエの胸を、鋭い痛みが貫いた。この痛みは一体何だ。
ジョミーとテラの男が、激しい戦闘を繰り広げている。シロエはよろよろと立ち上がり、数歩足を踏み出した。
(ひとりじゃダメだ、ジョミー……その男は……メンバーズ・エリート……!)
男の手にした小ぶりのナイフがジョミーに向かって振り下ろされる──
「ジョミー!」
シロエの悲痛な叫びに、男がはっとなっててこちらを見た。
(シロエ?!)