「……俺は母さんが好きだった。あの人の周りには、いつも花の匂いがしていた。その母さんを、成人検査は無理矢理取り上げた……わずかに残っていた思い出さえも、マザー・イライザは無理矢理消しにかかってくる」
ベッドに腰掛け、膝を抱えたシロエの細い肩が震えている。だがシロエは次の瞬間には、決然と頭を上げてこう言いはなっていた。
「だが俺は忘れない……! 俺はマザーと戦う」
強い意志をはらんだ言葉、噛み締めた唇。キースは思わずつぶやく。
「無茶だ……」
そうかもしれない。シロエの声色が、今度は湿り気を帯びる。しかしシロエはこみ上げるものを飲み下すように、ぐいと喉をそらした。「でも、俺にとって生きるっていうのは……」
口元に手をあてて咳き込みはじめるシロエの肩をそっと抱き、キースは寝台に横たわらせた。
この、システムに対する思想の違いに関すること以外については、仲の良い友人とも言っていい同級生に対するキースの感情は、ひどく入り組んでいてキース自身にも計り知れない。強い感情を、キースはいつももてあまし気味になる。
「……もう止せ。少し眠ったほうがいい」
横たわらされたシロエが、ベッドの中からキースを見上げてくる。表情のよく変わる茶色の瞳がキースを映し込む。潤んだせいでいつもよりその瞳は大きく見える。
ハードなESPチェックを受けた後で、顔は青褪めて大きく胸を上下させていた。薄く開いた唇からちらりと覗く赤い舌に欲望を感じ、キースは息を詰めた。
つい先ほど、シロエにマザー・イライザに作られたアンドロイドだと指摘されたこと。故郷や、母親に関する記憶を一切持ち合わせていないことから、実のところ、うすうすとは感づいていた。自分が、ステーションで生活する一般生徒たちとは異なっていること。
異なっている、存在を異にしている──
もちろん、目の前のこのシロエとも。人間ではない、アンドロイド、水槽生まれのキース。
違っている……だが人と違うとはどういうことだろう。
キースは感情を抱くことが出来るし、暴かれた真実、侮辱の言葉にかっとなってシロエを殴りつけもする。そして今はこうして、手を伸ばせば抱き締めることの出来る距離にいるシロエに対して、激しい欲求を感じている。
「シロエ……」
掠れたキースの声に、シロエの瞳が揺れた。
シロエとは身体の関係にあった。幾度か重ねたことのあるそれは、ステーションでははみだしものの、不良分子と言えるシロエがシステムに反抗するために、そのシステムの申し子、マザーの寵愛するトップエリートであるキースを貶めるだけの行為だったが、キースはあえてそれに乗ったのだ。
反逆児であるシロエを、キースはけして嫌いではなかった。シロエを嫌いになることは難しい──生き生きと踊る茶色の瞳を見れば、どうしても、キースはシロエに惹かれざるをえない。
ステーションの、群れの羊たちとはシロエはまるで異なっていた。はみだした者同士、心を通わせるのは自然の理といえた。
システムに対する過剰な批判以外のシロエとの会話は、キースにとって有意義であることが多い。シロエはほかの誰とも違う。シロエはその魅力、キースに大してだけ強く働きかける求心力で、キースを虜にしている。
キースはシロエを──こんなことで、失いたくないと思っている。
「止せ、キース……」
弱々しくなったシロエの囁きをさえぎるように、熱っぽく唇をふさいでいった。
何故、こんな風に心が乱れるのかが分からない。シロエとキースの考えはおそらく永遠に平行線を辿るのだろう。けして交差することはない。キースが己を曲げることはないし、シロエにとってもそうだろう──そのことがキースの胸を傷め、同時に昂揚させもする。
強い痛み。マザーのいいなりに生きるくらいならば、死んだほうがマシだ、とシロエは言う。理解できない、分かりえない。
理解し合いたいというのとは違う。あくまで異なった存在であるシロエとぶつかり合うことで、キースは水槽生まれである己の存在を、血のかよった、確かな存在であると認識することが出来るのだ──。