シロエの細い手首に巻かれた、リスト・バンドに見るともなく視線を落としていた。
シロエの小柄な身体に少し合っていない制服の袖に、リスト・バンドは見え隠れしている。
リスト・バンドは通時デジタルの時刻を示していた。マザーからのコールを知らせるのも、このリスト・バンドだが、日ごろ、ステーションの生徒達はリスト・バンドの存在を意識することもない。機械的に、彼らはそれを朝の身支度とともに身に付け、ステーションでの抗議を受ける。リスト・バンドの携帯を忘れることは、ステーションにおける数少ないペナルティ対象となった。ステーションは、実のところかなり自由な空間だ……シロエはそうは考えていないらしいが。
シロエの手首にもリスト・バンドが巻かれていることに、キースはなんとなく驚きを覚えた。
この反逆児は、堂々と、規則を破って平気な顔をするのではないかと思っていたのだ。キースの視線に気付いたシロエは眉をひそめ、袖口で手首を隠してしまった。
「なんです。じろじろ見ないで下さい」
「お前にしては殊勝だなと思って」
なんのことだ、と問われるのを想定して言ったのだが、シロエはピンときたのか左腕のリストバンドを見下ろした。
「これのこと。時間、分からないと不便ですよね」
そんなものか、とキースは思う。規則どおりリスト・バンドを着用することは、シロエにとって、体制に従うこととは異なっているらしい。
シロエの基準が分からない。分からないから、ふとしたことで時折逆鱗に触れる。怒った、毛を逆立てた猫のようなシロエは、まさしく青く発光して見える。キースは自分の手の甲を押さえた。まるで火傷の痕のように押さえた場所が疼く。
シロエはどことなく生気を欠いていた。ここ数日はずっとそうだったろうか。
しょげた下級生に同情というわけではないが、何があったのかは気にかかった。
「……何か気がかりなことがあるのなら、僕で良ければ相談に乗るが」
キースとしては真剣に言ったつもりだったのに、シロエは目を丸くしてこちらを見上げてくる。心底驚いた、といわんばかりの態度に、キースは些か気を悪くする。
「……そう、悪気はないんですよね、いつも。悪気は。でも、悪いけどあなたじゃ相談相手にならないよ。僕だって狂人扱いはごめんだし」
「狂人?」
シロエは話題を打ち切るように、目の上に垂れかかった前髪の一房をかきあげた。それがいかにも目の前のキースを小馬鹿にしている動作なのだが、どういうわけかキースは近頃、シロエのそうした一挙一動がまるで憎めない。
間髪あけずに、コールサインが響いた。
シロエのリスト・バンドからだ。
ただでさえ良くないシロエの顔色が、より白くなった気がした。シロエとコール。問題児のシロエとそれは、結びつきそうでキースの中で上手く結びつかなかった。キースは眉をひそめた。
唇を噛み締めて、シロエはリストバンドのボタンを押して呼び出し音を止めると、「それじゃ」と踵を返した。引き止める権利はキースにはない。
遠ざかるシロエの後ろ姿を見遣り、ふと、シロエのマザーはどんな姿をしているのだろうと考えた。
夢にシロエが出てくる。
もう、何度目になるだろう。はじめのころこそ動揺したが、もう慣れてしまった。
夢の中でシロエはいつもの生意気で小面憎いシロエではなく、キースに対してもあどけない笑顔を見せる。それがいつか盗み見た、同級生と楽しげに会話しているシロエの姿だと気付き、キースは自己嫌悪に駆られる。
現実にはありえない、その証拠にキースはシロエと親しげに談笑し、シロエはキースの一言に鈴の音のような声で笑う。
手が触れ合う。夢とは思えないほどリアルな触感だ。シロエの濡れたような紫色の瞳がキースを見上げ、何かを訴えるように瞬く。触れ合った手が自然に熱くなる。
そして気付いてしまう。キースを見上げる、シロエの睫毛が少女のように長いことに。小さな顔、すべてが小作りなパーツの中で、瞳だけが零れ落ちそうに大きい。ふっくらした、柔らかそうな唇に触れたい、と思う。
微笑みながら、顔を寄せてくるシロエと、至近距離で目が合う。これは願望だろうか?
喉がからからに渇き、それを癒そうと自分の舌で唇を湿していると、不意に生暖かいものが唇にぶつかってきた。シロエのほうからキスしてきたのだ、と気付くのに少し時間がかかった。
理性が一瞬で飛んだ。たまらなくなって腰を抱き、シロエの顎を捉えて唇を割ると、口内に舌を差し入れた。
シロエは抗わない。
抗わないどころか、シロエはキースの首に腕を絡めて「もっと」と甘くささやく。夢だと分かっているから、キースは流れに身を任せる。
シロエの唇を貪り、華奢な身体を余すことなく手を触れ……シロエの鎖骨のあたり、制服の襟に隠されるであろうその部分に赤い吸い跡を残した。子供っぽい征服欲であるが、どうしてもキースはそうしたかった。
求められるままに、最後はシロエとひとつになる。夢にしては生々しすぎる。はっと目が覚めると、汗だくで、ひどい自己嫌悪にさいなまれる。
シャワールームへ直行する羽目になったキースは、今すぐマザーのメディカルチェックがあればいいのにと思いながら、果たして自分は、その身に起こったことをありのままに口にできるものだろうかとも考えた。
シャワーを済ませ、髪を拭きながら室内へ戻ると、モバイルに通信が入っている。
サムからだろうか。通話ボタンを押すと、予想に反してシロエからだった。間の悪さと僅かな後ろめたさを感じる。とっさに通信を切ってしまいたくなったがそうもいかない。つとめて平静を装って通話に出ると、モニターにシロエの姿が映った。
「シロエ、どうした」
開口一番、罵声が飛んできた。
『先輩なんて大嫌い!』
「シロエ」
一体どうしたというのだろう。こんな時間に通信してくるのも変だし、よく見ればシロエはその顔を涙でぐしゃぐしゃにして、歪めている。
シロエは憎々しげに、キースを詰り、会話にもならない。理由も分からず、腹も立ったが、後ろめたさも手伝い、シロエは寝惚けでもしたのだろうと思いなおした。
「落ち着け、シロエ。何があったのか分かるように言え」
『落ち着いてなんていられるもんか。最悪だ、こんなの……イライザもお前も大っ嫌い、みんないなくなってしまえばいい!』
「……切るぞ、シロエ」
ため息をついて通信を切ろうとすると、切羽詰った声が上がる。『待って!』
『……何か、先輩に変わったことはありませんでしたか』
ぎくりとする。シロエの声にも表情にも、怯えがあった。
「たとえば?」
たじろいだことが忌々しくて、逆に鋭く切り返してやると、シロエは口ごもった。
『何か……最近僕絡みで、変わったことが先輩の身に起こったりしませんでしたか?』
見抜かれたかと、思わず動きを止めるキースにシロエは敏感に反応した。
『そうなのか……? まさか……』
「シロエ、何のことか僕には……」
『今からそっちに行きます』
まるで嵐のようだ。キースは当惑しながら、黒いモニターに映った自分自身を眺めた。
十分後。息堰きってコンパートメントに飛び込んできたシロエはいきなり、「見るがいい!」と大声を張り上げて、制服の襟元をくつろげた。
シロエは制服の下に、アンダーシャツを身に着けていなかった。
正直困る。さきほどの夢見のこともあるし、シロエの色の白い、滑らかな肌はコンパートメントの照明の下で蟲惑的だった。ツンと尖った胸の飾りまで見えてしまって、キースは顔を赤らめた。
「その……仕舞ってくれないか」
「違う! 何を赤くなっているんだ。そうじゃなくて、これ」
シロエもぱっと頬を染め、慌てて胸元をかきよせた。かわりに示した、鎖骨のライン。キースははっと目を見開く。それはつい数十分前、夢の中でキース自身がシロエに施したのと同じ、うっ血の跡だった。
キースの顔を見、シロエはがっくりうなだれた。
「やっぱりそうなんだ……」
「ちょっと待て、シロエ、僕には何がなんだか……」
キースの声に、シロエは顔を上げた。勝気な顔立ちに途方にくれたような表情が浮かんでいる。
「先輩、えっちな夢を見たでしょう」
何でもないことのように言われると、どう答えたものか、深く考える前に頷いてしまった。
するとシロエはやはりこともなげに頷いて、さらに驚くべきことを言った。
「僕もです。それもお相手は先輩です。……先輩も、同じ夢を見たんでしょう?」
キースはまじまじと、言い放ったシロエの顔を見た。爆弾発言の内容がじわじわと頭の中に入ってくる。しばらく凝視していると、みるみるシロエの顔が赤く染まり、キースにもそれが伝染した。二人は同時にうろたえた。
「……説明が欲しい。シロエ」
並んでベッドに腰掛けていると、沈黙が重くのしかかってくる。先に口を開いたのはキースだった。
シロエは悄然としていたが、うつむいたまま言った。
「マザー・イライザのメディカルコントロールのせいです」
「……イライザの?」
シロエがこちらを見た。大きな紫の瞳に見詰められて息が詰まる。夢の中の、唇の感触を思い出して我知らず唇を押さえた。
「マザーのメディカルコントロール・システムは優秀です。僕らの脳の周波数に同調して、見る者が心地よい映像を送って寄越してくる」
キースの場合は、それが風そよぐ草原であったり、見知らぬ黒髪の女性の姿であったりする。シロエにとってはどうなのだろうか、と考えたことを思い出した。
「最初は……マザーの姿があなたになって」
「え?」
思いも寄らない言葉だった。シロエはふい、と目を逸らした。
「それから、夜妙な夢を見るようになって……」
「……」
「たぶん、だけど、あなたの挙動見て、僕と同じなんじゃないかと思った。今日のコールでそれを確信して……」
とつとつと言葉を繋ぐシロエが再びうつむくと、ぽたり、と涙がこぼれる。キースは奇妙にふわふわした気分のまま、それをどうしていいか分からない。
小さく鼻をすする音がしばらくコンパートメントの中に響いていた。やがてキースが我に返って、「それは有り得ない」と口にすると、シロエは顔を上げた。
「僕の思い違いってこと?」
「そうじゃないシロエ。僕が見た夢も、お前のものとそう遠くはない。……でも、多分違う。マザーのコントロールは無関係……のはずだ」
「???」
首を傾げるシロエに、たまらなくなって、キースはふと手を伸ばしてシロエの頬に触れた。びくりと身をすくめるのが愛しい。
「……僕がそうしたかったから」
「理由になってないんですが」
「そうかもしれない。でも、僕の、一方的な思いでないことが分かっただけでいい」
腑に落ちない顔で、それでもシロエはどうにか涙をぬぐい、キースを見た。
「キース先輩……」
一方、マザーのメディカル・コントロールシステム室。
「──あれ」
作業員の男が声を上げる。
「どうした?」
同僚の声に男は振り向くと、モニタに映るパラメータの一部を指差す。
「ノイズが混じっているな」
「混線か?」
滅多にないことだが、マザー・システムは完璧ではない。ときおり異常な数値を示し、それが宇宙鯨の接近の影響であるというウワサも絶えない。
基本的に彼らは与えられた任務以上のことをするつもりはなかった。システム異常、それがステーション全体に影響を及ぼすものでなければ、上層部に報告する義務はかならずしもないのである。