シロエはかしこまって、ベッドの上にちょこんと正座している。3Dホログラム立体映像のアクアリウムの、水底の風景とゆらゆら動く魚影が部屋中に薄青い光を投げ掛けている。シロエの頬も青白い。
  シロエの顔の陰影、濃く長い睫毛が目元に作り出す影に、僕は魅了されている。

「……それじゃあ、先輩、僕から」

 シロエは少し緊張しながら言った。シロエのほっそりとした白い指は、舐めると少し甘い。匂い立つような官能をのせた指先が蠢くのを、僕は自失しながら見守った。
  シロエの手のなかにあるのは鋭利なナイフで、果物を剥く用の小ぶりな折りたたみ式のものだったが、シロエは器用にそれを片手で扱い、自らの小さな小指の腹にそっと押し当てた。そして薄く、ほんの皮一枚に傷をつけて、ナイフをベッドの上に戻すと、傷ついた指先を逆の手で軽く圧迫した。
  滲んだ血がぷつりと、まるでルビーのように盛り上がる。
  ステーションにおいて、出血を伴う怪我を僕らはまず経験することがなかった。フィジカルな痛みは、僕たちが培養されているという事実を、容赦なく僕たちに突きつけてくる。
  近頃シロエは新しく知った、このフィジカルな痛みというものに夢中になっていて、シロエの華奢な腕には、僕の知らない真新しい傷痕がいくつか見受けられた。感心は出来ない。いくら清潔で衛生的なこのステーションといえど、宇宙空間には人体に悪影響を及ぼすバクテリアがいくらでも存在する。傷口から悪い風が入りでもしたらどうするつもりなのだろう。
  うっとりと、シロエは盛り上がった小さな血液の粒に見入っている。心ここにあらずといった様子に、僕はわけもなく苛立ってしまう。
「シーツを汚すんじゃない。シロエ」
  わざとつっけんどんにそう言うと、シロエは夢から醒めた人のように僕を見上げてきた。
  とろりと靄がかかったようなシロエの瞳。ゆらゆら揺れる──アクアリウムの魚影が映りこむ。
  ベッドの端に座った僕の身体に、もたれ掛かるようにシロエがしな垂れかかってきた。これは、誰に教わったというわけでもない、シロエがもともと備えていた天性の媚態だ。
  ルビーの粒を乗せた、白いほっそりとした指先が僕の目前に差し出されると、表情を動かさないでいることは難しかった。僕の頬の筋肉は、僕の意思とは関係なく痙攣を繰り返した。
「さあ、キース。僕の血を受け取って。僕を先輩のものにして」
  ささやくようにシロエが言う。僕の胸のうちが知らない感情でざわつく。
  ふたりだけのささやかな儀式、サーヴィス──いけないことをしているという一種の罪悪感が、僕をどうしようもなく昂揚させる。
  誰に対しての罪悪感であるかは、わからなかった。植えつけられた倫理観、S.D体制において人類はこうあるべきだという固定観念。ステーション、マザーシステム、マザー・イライザ……ひいてはテラのシステム全体への疑問。それらに疑問を投げ掛け、考察を促すというやりかたではなく、シロエはまずそれらを頭から否定してかかる。だから僕に提示されるのはいつも、シロエの歪んだ、子供っぽく悪意に満ちたシステム批判でしかなく、僕はいつでも、容易に彼を論破することができた。
  だから僕がこんな風に彼の術中に嵌ってしまったのも、僕が自ら望んでそうしているからに過ぎない。
  なぜそうしているのかといえば、僕もまた、フィジカルな痛みに餓えているからだろう……

 肉体の痛みへの耐性が強いシロエは、反面のように、精神的な苦痛にひどく脆い。
  盛り上がったシロエの血液を、舌の先で舐め取る。
  熱く、苦い、その味。薄く裂かれた皮膚のやぶれめに舌を這わせる。その感触、シロエの微弱な指紋のおうとつ、そのひとつひとつを味わう──
  そのままシロエの指先を口に含んで強く吸い上げると、シロエは目を閉じ、わずかに眉を寄せて静かに息を吐き出していた。
「……これでいいのか、シロエ」
  唇を離すと、シロエは目を開け、赤い顔で僕を見上げてきた。ぐっとくる、僕にはまだそれを上手く言い表すことは出来なかったが、男心をそそる──そんな表現がぴったりと嵌るように思えた。
「……ええ。次は先輩の番です。お互いの血を交換しあったら、ふたりは永遠に一緒。交じり合って、死ぬまで傍に居るよ」
「お前がそうしたいのなら」
  僕は投げ出されたシロエのナイフを見た。これが済んだら、さりげなく、シロエからそれを取り上げておかなければと思いながら。
  たたんでいないナイフの刃には、うっすらとシロエ自身の血が滲んでいる。僕は無造作に、それを自分の皮膚へあてがった──シロエが切ったのと同じ、左手の小指の腹。
  シロエは可愛い、僕のシロエ、どうしたらシロエを失わずに居られる──?
  こんな儀式でシロエを手に入れることができるなら、いくらでもしたいと僕は思う。
「……っ」
  薄く裂くだけのつもりが、思った以上に切れ味のよいナイフの刃が皮膚の上をななめに滑った。裂けた皮膚に付いた赤い線が、圧迫を加えずともみるみる盛り上がって、血液の粒を滲ませた。
  耳元をスクラッチされるような不快感に、僕は背筋を粟立たせた。切り傷には、奇妙な悲しみがあった。
  シロエの顔は紙のように白い。愚かなシロエ、僕はお前を失いたくない。どうしたら僕はお前と、いつまでも一緒に居られる……?

「──機械でも赤いんだ」

 期待に沿えずすまない。そう返せば、シロエはようやくうっすらと口元に笑みをのぼせた。

「僕はあなたが好きだよ、キース・アニアン」

 シロエの側にも多大な問題があるに違いないが、僕にも問題があって、それは僕がシロエをまったく信用していないことだ。
  平気な顔で嘘を吐く憎い唇。僕は、シロエの口から本当のことなど一度も聞いたことがない。
  僕がこれほどの思いをシロエに向けても、思いはシロエの身体を突き抜けてゆく。響いていく気がしない。シロエは空虚──いや、本当は空虚なのは僕で、シロエは映し出す鏡なのだ。
  シロエの瞳にたくさんの星が映る。夜色の瞳が僕の視界いっぱいに膨れ上がり、僕は叫びだしそうになるのを必死で堪えている。
  シロエとは何者なのか、僕にとって何なのか、何を為す者なのか。教えて欲しい、シロエ、お前は一体僕の何だ──!
  シロエが僕の手を恭しく取り、唇をつける。ピンク色の小さな舌が、血液の雫を舐め取る。チロチロと舐め上げる舌先の感触に僕は昂揚する。こんな感情を埋め込んだのもシロエだ。
  顔を上げたシロエが舌先を突き出す。そこへ滲んだ赤い色に強烈な欲を感じる。僕の呼吸が乱れていることに気付き、シロエは嫣然と微笑んだ。





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