手にしたキーボードにパスワードを打ち込む。シロエの細い指が踊る。シロエはとても楽しそうだ。
 コンパートメントのセキュリティには、個人認証システムが使われているのだが、シロエにとっては簡単に潜り込める程度のものでしかなかった。
 マザーシステムは絶対のようでいて、それはあくまでシステムに過ぎず、運用するのはあくまで人間である。ステーション中にはびこり、絶対的な存在のように君臨しているイライザも、神秘のベールを脱いでしまえば、それは単なるコンピュータの一プログラムに過ぎない。
 しかし──
 シロエの表情が暗くなった。現実はそんな単純なものではなく、たった一人で、教育ステーションの一学生に過ぎないシロエに、出来る抵抗は知れている。
 ドアに付いたセキュリティシステムが、シロエの個人情報を誤認し、ロックが解除された。ついでに監視カメラのほうへ、あらかしめ仕込んであった映像をコントロールルームへ配信するように細工した。こんなことなら、いつでもシロエは自由に出来る。
「僕は自由だ」と、呟いてみたが、それは思ったほどの高揚をシロエにもたらさなかった。


「何が自由だ」

 室内から聞こえてきた、上級生の声にシロエはにっこり笑った。あまりたちのよくない微笑みだった。
 イライザの可愛い申し子、機械のキースについた悪い虫。それが僕だ。僕が僕として、自由に生きることが出来ないのだとしたら、せめて、この林檎を食い荒らしてやる。
 一寸の虫にも五分の魂で、僕が虫けらみたいに消えたあと、林檎がすでに腐っていることに気付いて愕然とするがいい。シロエは自分がこの先長くは生きないことを知っていた。
「僕は何処にでも出入り自由なんです。僕はそうしていい、選ばれた人間なんです。どこにでも……先輩の心の中にもね」
 不遜な言葉に、キースの眉が顰められる。ほら、こちらのほうが余程高揚する。
 キースの心を自由にするという考えは、悪くなかった。シロエにかかれば、キースなんて楽勝だ。簡単に侵入し、好きなように書き換えられる。機械は与しやすい。機械は愛しい……機械は嫌い。
 シロエはつかつかと部屋の奥に踏み込み、キースが座っている椅子の前、無味乾燥もいいところの簡素なベッドにどかりと腰を下ろした。
 キースは椅子ごと身体をこちらに傾けて、シロエを睨み付ける。
「ねえキース先輩、昨日先輩に僕の徴を付けたから、今日先輩は僕のことばかり考えていたでしょう?」
 挑発的な視線を向ける。二人の視線が交差し、気弱く視線を逸らすキース。シロエの心の中に黒い感情が湧き上がり、シロエは勝った、と思う。が、勝ち負けなんてあるのか、本当のことは何も分からなかった。もとからハンディキャップを負わされた、この見込みのない戦いの中で見つけた敵の唯一の泣き所──はじめは取り付く島もないように思われた機械の申し子の、その類まれなほどの純真無垢さに気付いてからシロエは、あらためてこれは、殺るか殺られるかなのだと思った。キースの純粋さを土足で踏みにじるのは楽しかった。
「──講義中、後ろから先輩の視線がちくちく痛かった。あんな目で見られたら、僕……。気付いてる? すごい目で見てるんだよ、僕のこと」
「……」
 押し黙るキースを横目で見ながら、シロエは自分の靴を脱いだ。それを行儀よく揃え、ベッドの上に脚を投げ出した。誘惑の仕方なら知っている。それは知識の木の実。ほろにがく、罪の味がする……シロエは果実を口にしろと唆す蛇。
 制服の詰まった襟を緩める、シロエの制服は、細い身体にぴったりとは合っていなく、幾分布が余り気味になる。それがシロエの幼さを余計に強調してしまうのだが、こんな場面ではきっと、妙に猥らな感じがするにちがいない。
 シロエはゆっくりと自らの下肢に手を伸ばし、制服の布地の上から自分のものに手を触れた。キースの視線を感じながら目を閉じる。身体の奥から湧き上がってくる熱に身を任せる。
 シロエの身体はまだ本当に幼く、長くS.D体制下に置かれた人類にはままあることなのだったが、年齢の割に未成熟だった。布地の上から手を絡めた性器も同様で、キースはどこか痛々しく、シロエの手の動きを眺めていた。
 はじめは上からなぞるだけだったものが、こらえきれなくなったシロエが、自分でファスナーを下ろし、ズボンの中に直接手を突っ込んで自分のものを刺激し始める。
「……ふっ……ぁ、は、……っ」
 キースは一瞬も目を離せず、乱れる幼いシロエの肢体を凝視している。シロエはちらりとそれを見上げ、制服のジャケットの袖口を噛んだ。
 シロエとそうなるまで、キースは肉体の、そうした一切の欲望自体を感じたことがなかった。それが異常なことだということを、シロエに教えられるまで知らなかった。
 キースは何度も唾を飲み込んで、喉が鳴ってしまうのを抑えようとしている。シロエは白い喉を思い切り反らした。

 キースのものに触れ、「やけどしそうだ」と哂う。
 シロエの指は細く、華奢で、まるで第三階級の出自らしくない。ほっそりした指先だけ、シロエはひどく大人びていた。
 ポケットを探って取り出した小さなチューブの中身は、外傷を負ったとき用の、応急処置用のクリームだった。シロエはそれをてのひらに押し出すと、手早く受け入れる準備を済ませた。
 最初は、キスをしたり、お互いの性器を擦り合って快楽を得るだけの、拙い行為だった。けれどもだんだんエスカレートしていって、一度許してしまえばあとはきりがない。キースは溺れる人のような必死さでシロエの身体を抱きしめている。キースのいつもは冷たい蒼い目が熱っぽく潤み、シロエの姿だけを映す。その余裕のない、切羽詰った色にシロエは満足する。
 まるで熱の塊のような熱い楔が、シロエの狭い場所をこじあけようとしていた。シロエのそこが狭すぎるので、キースは焦れる。が、乱暴にされることで、シロエの頭の中で何かの箍が外れたようになってしまう。
 キースが、無茶苦茶に探り当ててくる。入り口で苦闘していたキースに、先端の、大きいくびれた部分までを飲み込まされて、シロエの喉から掠れた悲鳴が漏れた。そのままずぶずぶと、細い腰いっぱいに全部を埋め込まれて、熱と質量で死にそうだ。

「あ……ぁあ……、お腹の中……、アツイ……」

 熱に浮かされたようなシロエの声。満たされるというよりは、抉りとられるほうに近い。シロエの薄い下腹をキースのものがいっぱいに満たし、限界までぎちぎちと押し上げている様が、見た目でも分かってしまう。
 こんな風に繋がってしまっては、このまま離れがたく、溶け合ってひとつになってしまいそうで怖い。飢えた獣のようなキースが、シロエの身体を折り曲げ、脚を胸につくように抱え上げ、両の手のひらを重ね合わせてシーツに縫いとめる。結合が深くなってシロエは喘いだ。見上げるとキースは眉を顰め、どうしていいか分からないような顔をしている。普段の取り澄ました顔との対比が可笑しくて、シロエの喉をヒステリーのような笑いがつきあげる。が、実際には顔をゆがめ、掠れた悲鳴を上げたにとどまった。
 耐え切れなくなったキースが腰を突き出す。二人を隔てているものは、薄い腸の粘膜と、敏感なヒフ一枚に過ぎない。いつ破れて混ざり合ってしまうとも知れない。ギリギリの行為──まさしく、殺るか殺られるかの。
 キースとのこんなセックスだって、あと何回経験出来るものか分かったものではない。
 死ぬことは怖くない。戦って死ぬなら本望だ。だが、自らの存在が消えうせて、皆の記憶からすっかり忘れ去られることを考えると恐怖を覚える。足元が崩れ落ちるような喪失感……何もかもがおぼつかなくなる感じ。
 勝手に選び出され、大事な記憶を奪われて、こんな足元もおぼつかないステーションへ連れてこられたことがシロエには耐えられない。宇宙空間には踏みしめる大地もなければ昼も夜もないし、心を保つための、晴れた空や明るい太陽や、空気や水や緑の記憶も敵に奪われてしまった……シロエの思考はループする。忘れたくなかった……!
 身体の奥を穿っているキースの熱が、ずるりと引かれる。喪失感に思わず受け入れている場所に力を込める。すると、キースをきつく締め付ける結果になって、シロエは息を飲む。間を入れず再び根元まで突き入れられて仰け反る。
 白い喉をむさぼるようにキースが唇を押し付けて、そのまま歯をあてられる感触にシロエは慄いた。憎んでいるはずの敵に、こうも簡単に急所を晒しているのはなぜだ。噛み破られたら……まさか、そんなことはありえない。
 引き出しては奥を貫かれる。絡みついた内臓まで、一緒にずるずると引き出されていくような切ない喪失感、内壁の一点を擦られるときの、脳髄が痺れるような陶酔がないまぜになって、シロエは恍惚としていく。だがこの感覚さえ、そのうち奪われてしまうのかもしれない。

 貪り喰われる林檎の僕。
 シロエはキースの肩越しに、手を伸ばす。届かない何かに向けて。
 太陽の金色の林檎。熟しすぎ──腐って地に落ちた。


「──シロエ。もう、システムに対して反抗的な態度を取るのは止めるんだ」

 キースのまなざしも、その口調も真剣そのものだったから、余計に可笑しさが止まらない。
「僕はお前を助けたい、シロエ」
「へえ、じゃ、このまま行くと僕は助からない……先輩はそう思ってるわけ?」
 何処より安全なはずのこの教育ステーションで、どのような決定的で逃れようのない破滅が僕を待ち構えていると? 目で問えば、キースはぎりと奥歯を噛み締めた。
 キースが、他の群れの中の魚と違うのが分かる。飼いならされた羊たち、それを導き、思うがままに操るのがキース。シロエはその群れの中にはいない。
 撲たれた犬のような反応を返すキースに哀れみを感じて、シロエは微笑んだ。
「──じゃあ先輩はどうやって僕を助けてくれるつもりなの」
「……お前がこうまで反抗的な態度を取らなければ、お前の優秀さはマザーも認めていることだ。教育ステーションの過程を終えれば、メンバーズの選抜試験が受けられる。そしてメンバーズに選ばれればいい。そもそも僕たちは、そのためにこのE-1077に居るはずだ」
 まるで自分に言い聞かせるような言い方をしていることに、この申し子は気付いているのだろうか。ますます哀れみがこみ上げ、シロエは手を伸ばしてキースの頬に触れた。
 キースはそれをどう思ったか、ふいに激昂して、シロエをきつく抱き締めてきた。
「シロエ……!」
 ──ああ。やっぱり機械だ。忠実な秩序の徒。シロエはキースの腕の中で暴れ、その身体を突き飛ばした。
「余計なお世話だよ、キース・アニアン。僕は死ぬまで反抗するし、これ以上、僕から何も奪わせはしない。メンバーズにもならない、あなたの助けもいらない」
 ショックを受けた顔のキースに、シロエは哄笑した。
 ──林檎。黄金のりんご。
 たぶん、とシロエは考える。これは、システムの手の内はもう離れている。生憎だが、僕はやりたいようにやっている。たまたま、向かう方向がイライザの思いに適っているというだけで。
 すべて予定調和内なんて、とても癪だ。だがシロエはどうしても、その予定された調和を乱せないのだ。人には役割があり、限界がある。シロエは自分の限界について考えている。
 死ぬことは怖くない──手ひどく跳ねつけはしたものの、キースが優しくしてくれたことも、穿たれる肉の熱さも、悦びも、シロエに力を与える。シロエを自由にする。

「負けは分かってるかもしれない勝負だけど、勝算はないわけじゃないんだ。見ててよね、キース……最後は僕が笑うところを」


 林檎──熟れすぎた虫喰いの……地面に落ちる前にもぎとって。
 口にしたそれは饐えて、ひどい味がした。





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