「ねえそれで? そのシロエって子、どうなったの?」
生徒たちの噂する声が聞こえてくる。
「さっそくマザーにコールを受けて、今日は講義を休んでるってさ」
キースの、涼しげな眉が軽く顰められた。椅子を引き、がたんと音を立てて席を立つと、キースの長身が注目を集めた。ひそひそ話がぴたりと止まる。
シロエ。
昨日の、レクリエーションルームでの喧嘩。電子弓ゲームでの勝負のあと、シロエの挑発に乗って思わず手を上げた。シロエの軽い身体は吹っ飛んで、壁際にしたたかに打ち付けられた。
シロエは口を切ったのだろう、滲んだ血が唇の端を伝っていた。その鮮明な赤の色が、キースの目に焼きついた。
暴力を、実際に振るうのは初めてだった。エリートとしての実戦の訓練を受けたきースの、その一撃は、ごく自然にもとからキースが兼ねそろえていた資質のように、たやすく繰り出された。その、ナイフのような切れ味がキースを当惑させる。と同時に陶然とさせもする。
これが力……キースの持つ力。
キースは力強い翼を、牙を顎を持つことに気付き、当惑する猛禽の雛だ。ふわりと、イライザの声が耳を擽った。
──ですが、心しなさい。力は、使い方を誤ればあなた自身を滅ぼすでしょう。
私はそのための道しるべ。
シロエは敏捷に跳ね起き、なおもキースに殴りかかろうとしたが、同級生たちに数人がかりで押さえ込まれた。サムに引きずって行かれながら、キースは自分の放った一撃にまだ動揺していた。耳元にシロエの叫びが残っている。
「逃げるのか卑怯者! 戻って僕と勝負しろ、キース……キース!」
なぜシロエは、これほどまでにキースに挑みかかってくるのか。
なぜ、キースを憎むのか。
激しいむき出しの感情を向けられて、キースは揺れる。当惑……だが嫌悪の情より、キースはシロエを知りたいと思う。
興味を持つことは良いことだとイライザは言った。それならば。キースは知りたい、自分自身のことを。何も知らされず、自分自身のことも知らず、ただ培養されるだけの羊ではいられない。なぜならキースは翼と、顎と爪を持つ。
シロエなら、答えを与えてくれるのかもしれない。シロエのような者はほかに居ない。
シロエの強い意志にキースは惹きつけられる。シロエと話をしたい。なぜ、シロエがシロエのようであるのか、それをキースは知りたい。
それで、キースは下級生の居住区エリアまでやってきた。
上級生が、個人的に下級生のコンパートメントを訪れることは禁止されている。禁止はされているが、生徒達の居住区エリアの行き来に、特別な制限はしかれていない。
堂々としていれば誰に見咎められることもない。マザーには、全てお見通しだとしてもだ。
まだ下級生たちは講義のある時間帯で、居住区の廊下には人気がなかった。
キースはシロエの個室の前に立ち、インターホンを鳴らす。
チャイムが響き、反応を待つが応答はない。不在ということはないはずで、それならばシロエは、中で眠っているのかもしれない。もしくは居留守だ。
「──シロエ。僕だ。キース・アニアンだ。話がしたい」
辛抱強く、キースはインターホンに向かって語りかけた。室内で気配が動くのが分かった。やはり居留守を使っている。そんなことだろうと思った。
やがて不機嫌そうなシロエの応えがあり、かすかな電子音と共に扉が細く開かれた。
「……規則違反ですよ、先輩」
ドアの細い隙間からパジャマ姿のシロエが覗く。シロエがいつもの制服姿でないことに、キースはどきりとする。
シロエの態度はいつも通りの小面憎さだったが、声はひどくかすれていた。顔色も、いつもより優れないようだ。
「何しにきたんです。話って何ですか。昨日の喧嘩のことなら僕に話すことはないですよ、あんたを部屋に招きいれたとしてまたコールされるのは、ごめんだ」
シロエは訥々と、投げ捨てるように言葉を繋ぐ。
「コールされたのか」
キースの問いに、されましたとも、とシロエは答えた。
「ついさっきまでね。今日のコールはずいぶん長かった……あれをされると頭が割れるように痛むんだ。あんたらマザーのお人形たちはあれが随分好きみたいだけど、僕は大嫌いだよ、頭の中をむちゃくちゃにかき回されて、勝手に弄り回されて、吐きそうになる。
あんたを侮辱したことは謝らないよ。撤回もしない。だって本当のことだからね! 帰ってくれ、僕は本当に気分が悪い」
そのままぴしゃりと閉じようとする、ドアの隙間にキースはすばやく手を差し入れて、扉のストッパーを上げた。
「何するんだ。あんたもコールを受けるよ……やめてくれ、もう帰ってよ!」
今度は青褪めて怯えの色を見せる。
シロエを押しのけ、半ば強引にキースはシロエの個室へ足を踏み入れた。
どういうわけか、シロエはコールを恐れる。あれほど、何者をも恐れるものはないというポーズを取っているシロエが、マザーのコールを恐れている。
何故だ?
コールとは単なるマザーのメディカルコントロールに過ぎず、畏れるに足るようなものではないはずだ。
見る者が安らぎを感じる姿をとって現れ、生徒の深層心理をチェックし、必要があればカウンセリングを行う。
キースの前には、イライザは黒髪の美しい女性の姿で現れた。いつも爽やかな草原のイメージを伴い、なぜか切ない思いをかきたてられる音楽が流れる。立ち上る水泡、海──夜の海のイメージ。コールが終わると決まって気分が晴れ、すがすがしい思いがした。
しかしシロエにとっては、コールとはそういった性質のものではないらしい。
コールを受けたばかりだというシロエの顔は、紙のように白いし、目も泣き腫らしたあとのようだ。これではまるで──
「キース、キース・アニアン!」
泣き出しそうになっているシロエの肩を押すと、シロエはバランスを崩して倒れそうなった。キースは慌ててそれを支えようとした。
シロエはキースの上着の襟を掴み、引っ張られ、キースはシロエごと転倒した。
もつれ合うように床に倒れこみながら、どうにかシロエを下敷きにしないよう庇うのが精一杯だ。
「シロ……エ……」
組み敷く格好になってしまった、シロエの両目が大きく見開かれる。少女のように大きく睫毛の長いシロエの瞳に、いいようのない色が浮かぶ。
間髪入れず、盛り上がった透明な雫にキースは驚いた。
「シロエ」
あふれ出し、頬を伝う涙。瞬きもしない瞳でシロエはキースを見詰めている……いや、そうではなくて、シロエの視線はキースを通り越して天井を見据えているのだ。
シロエの唇がわなわなと震える。
「コールはいやだ……、コールはいやだよ……」
負けん気の強い、気丈な下級生が、自分の身体の下で肩を震わせて涙を流していることに、キースは動揺する。
組み敷いた身体があまりにもか弱く、か細いことにも。
シロエには、翼も、牙も、顎もない。泣きじゃくるシロエは風に吹かれる草ほどに、儚く弱い。
「落ち着け、シロエ」
シロエを安心させたい、コールは恐れるようなものではない、とそう説きたいのに、どういうわけか舌は喉に張り付いたように上手く動いてくれない。
シロエは両手で顔を覆ってしまい、その指の間からなおも流れ続ける透明な涙が痛々しい。とてもこのまま、見ていることができない。
哀れみがこみ上げ、思わず頬に手を触れると、シロエはびくっとした。
「せん、ぱい……」
なぜか、スローモーションのようにすべての動作がゆっくりと見える。
涙に濡れた大きな群青色の瞳。
頬に当てたキースの手に、ゆるゆるとシロエの手が重ねられた。
至近距離ですべてが靄がかかったようになる。反抗的な後輩、いつも癇に障る言動をし、先日は殴りあう喧嘩までした。それなのに、けしてキースは彼を嫌いではない。
白い滑らかな頬。シロエの動く唇。薄いそれがキースの名前を乗せると、キースの頭の中からすべての事柄が消し飛んだ。
どちらが先にそれをしたのかも判然としない。
何をしているのか、自分でも分かっていない。
心臓が激しく打ち、貧血を起こしたように頭の中が真っ白になる。
喉もカラカラに渇き、ただ柔らかいシロエの唇の暖かさだけを感じている。
はじめは触れ合わせているだけだったものが、シロエがゆっくりと唇を開き、キースの下唇を食むようにしてくると、かっと頭に血がのぼった。
尖らせた舌。滑り込まされるそれに誘われて、キースも舌を差し出す。舌と舌ががゆっくり絡み合い、自分が何をしにやってきたのか、ここが何処であるか、E-1077のシロエの一室であることすら意識の彼方に飛び去ってしまう。
僕……は、シロエ……と、話を──。
「……は、ぁっ、」
夢中で貪るうち、歯がぶつかりあって音を立てた。それでどうにか呪縛からキースは解き放たれ、必死の思いで、キースはシロエの細い肩を掴んで引き離した。
「よせ、シロエ……!」
焦点の合わないシロエの瞳。彼を現実に引き戻そうと、キースは軽くその頬を叩く。シロエは喘いだ。瞬きを繰り返す。ようやく、少しずつ瞳に生気がよみがえってくる。
「キース・アニアン」
シロエの瞳に自嘲の色が浮かぶ。貪ったせいで濡れた、赤い唇が歪められる。
「機械の申し子。イライザのキース……もしかして、こんなキス、はじめてだったかな?」
キースの頬にかっと朱がのぼる。シロエの暖かい、柔らかい唇の感触と、内部の熱さがよみがえって来る。
コールは嫌だと涙を流すシロエ、目の前でこうして憎まれ口を叩くシロエ。か細い身体に圧し掛かったままだったと気付き、キースが身を起こそうとすると、シロエの腕がそれをとどめた。
「先輩。もう一度してください」
「……何を言っている」
「もう一度、さっきのしてください。先輩」
だって気持ち良かったでしょう? 囁かれ、頬に手が添わされる。もうシロエは、いつものシロエに見える。
キースの中で、ざわりと動く不穏な感情。このシロエになら、目覚めたばかりのあの力を振るっても気後れは感じない。シロエはそれを知って挑発しているのではないか。そんなことすら考える。
シロエは目を細めた。ちろりと唇を舐めるその媚態に、思わずキースの喉が鳴った。
「違う……こんなのは」
「何が違うんですか」
「僕を掻き乱して楽しいか」
「楽しいですね、凄く」
にんまりと、シロエの唇がアルカイックな笑みを形作る。
シロエと話をし、シロエを知りたいと思うのに。
──こんなことも知らない、怖くて続きが出来ないなんて、やっぱりあなたは機械の申し子なんだ。
シロエの挑発は単純で、ひどく子供っぽい。それなのにキースはどうしてもかっとなってしまい、自己のコントロールが利かない。
先ほどのコールを受け、紙のように白くなった顔と生気を失った瞳のシロエが、今は生き生きと瞳を躍らせている。その、鮮やかな群青と藍色の色彩に目を奪われる。
シロエのリードで先ほどと同じ口付けを、今度はもっと丹念に繰り返すと、胸の中に不思議な感情が芽生え始める。
暖かい唇。柔らかい舌。熱い口腔に舌を差し入れ、甘い唾液を味わっている。
シロエは後輩で、同性で、反抗的な要注意人物だというのに、こんなふうに触れてしまうと、胸にこみ上げるのはどうしようもない愛しさだった。
この感情は、初めて味わうものだ。
挑発、反抗するシロエ。コールが怖いと泣くシロエ。どちらもシロエで、キースはシロエをもっと知りたい。
「……もっと……」
絡み合う舌。表皮をなぞりあわせ、筋を辿り、根元から強く吸う。
たまらない。ただ粘膜を擦りあわせるだけの行為なのに、頭の芯が痺れたようになってしまう。
至近距離でシロエの睫毛が震える。その濃さと長さに陶然とする。艶やかな群青が隠れてしまうのは、勿体無いと考える。
白すぎる頬が上気して、ピンク色に染まっていることもキースを酔わせた。
シロエの言うとおり、こんなキスをするのは初めてだった。他人と、ここまで距離を縮めること自体、生まれて初めての経験だった。もとよりキースにはステーション以前の記憶がない。
シロエはキースを掻き乱す。シロエは……鮮やか。キースはシロエを知りたい。シロエ……僕の、可愛い。
口腔から溢れてしまった、さらさらした唾液が一筋シロエの口の端を伝った。
キスも初めてなら、それ以上の行為も初めてだ。
場所を変え、シロエのベッドにもつれあうように倒れこむが、二人ともすっかり上がってしまった息を整える余裕がない。
「わからない、シロエ……」
「僕も分からない。自分のことも、先輩のことも。……どうして、こんな、」
気持ちがいいのか。
これ以上、前に進むべきではないと頭では分かっているのに止めようがない。
誘ってきたのはシロエの側ではあったが、それを助長したのはキースだ。そもそも、キースはなぜシロエの部屋に足を運んだのか。シロエと話がしたい、あれほど関係のこじれてしまった下級生のシロエと? 今となってはすべてが言い訳じみている。
腕の中で、シロエの動揺、混乱が伝わってくる。シロエは矛盾している。
体制への憎悪、キースへの挑発……キースを誘惑しておきながら、ベッドに組み敷かれて処女のように身体を硬くしている。
強さと弱さ、しなやかさと融通のきかなさを混在して、その鮮やかさでキースを虜にしている。
知りたい。シロエ──もっと。
はだけたパジャマの、首筋、胸元に唇をつけた。
うやうやしいとさえ言えるほどの丁寧さで、キースはシロエの肌を味わった。
うっすらと汗の浮かんだ甘い肌。震える胸。淡い色の乳首に舌で触れると、シロエの身体がびくんと痙攣した。
噛んだ唇から、鋭い呼気が漏れる。上がりそうになってしまう声を抑えようと、シロエは自分で自分の口を塞ぐようにする。
「こんな……ことして、二人ともコール間違いなし……ですよね」
切れ切れのシロエの呟き。
コール……
「そしたらきっと、これも忘れさせられてしまう。先輩としたこと、キス、それからこれのこと……もっと悪けりゃ、僕は廃棄処分」
「バカな、ありえない」
わかっちゃいないね、とシロエは微笑んだ。
シロエの薄い胸、なめらかな腹、可愛い臍を辿り、腰骨のラインにそって沿わせた手を移動させる。
知識も、経験もない。それなのに、どうすればいいのかをキースはあらかじめ知っていた。シロエに上げた拳の一撃が、ナイフのように鋭い切れ味だったのと同様に。
この力で、シロエを蹂躙したいと思う。けだものめいた情動、シロエへの目覚めたばかりの感情と相反するそれは、行為の上では矛盾することがない。
パジャマの下に手を入れ、熱く高まったシロエの下肢に触れると、そこはしっとりと濡れてキースの手に雫を絡みつかせた。
シロエの、堅く閉じていた瞳が見開かれる。おずおずとその手がキースの下肢に触れる。
「──先輩のも」
ジッパーを下げ、丁重に取り出したそれに、直に手を触れる。熱さ、堅さと濡れた感触に一瞬たじろいだものの、すぐに夢中になってシロエは懸命にそれを擦る。
二人は視線を絡ませあいながら、手だけを動かした。焼き尽くされるような熱と、一心不乱な快楽だけがあった。
濡れた音と荒い息遣いが部屋に響く。
慣れない行為に限界は近かった。シロエの呼吸が鋭く、息を飲むようなものに変わり始め……身体が逃げを打つ。キースはそれを逃がすまいと押さえつけるようにし、ひときわストロークを強く、先端をきついくらいに指先で弄ると、シロエは高い声を上げて達した。
キースの手と、シロエ自身の腹を飛沫が汚す。
全力疾走のあとのような息遣い。ひゅうひゅうと、まるで泣いているかのようなシロエの呼気。
「……っ、はぁ、はぁ……」
痙攣が止まると、シロエは目を開けてキースを見上げた。その瞳の色はぞっとするほどの艶を乗せていた。
シロエは自分の腹に飛び散った、自身の精液を手ですくうと、とろりとしたその液体を指に絡め、てのひら全体を使い、キースのものを擦る行為を再開した。くちゅくちゅという卑猥な音、そして青臭い香り。
シロエはきつくキースの目を見据え、まるで睨みあっているかのように、二人は視線を交わし続けた。
シロエの手の動きが速くなる。キースの引き締まった腹筋が、ひくりと動く。熱い、膨れ上がったキースのものが限界に達する。
「……っく……、シロエ、もう、」
「出して」
僕の手に。
嫣然と微笑む、シロエの手の中にキースは放出した。びゅくんと、一度飛び散らせたあと、余韻のようにゆるゆると扱き続けるシロエの手の中にトロトロと。放出はしばらく続いた。
「……いっぱい出ましたね」
大量の白濁に汚れた手を見下ろしながら、シロエはまるでもう人ごとのように口にする。
キースは、どんな顔をしてシロエを見ればいいか分からない。気まずくシロエから視線をそむける。
シロエを知りたいと思ったのに、却ってシロエの心が遠い。混乱。ひどい混乱。
対するシロエのほうはといえば、逆になぜか落ち着いている。
「シロエ──」
なんて顔してんです、とシロエは笑った。小面憎いシロエ。シロエがわからない。先ほど感じた、シロエを屈服させたい、蹂躙したいという思いが再び押し寄せる。
「たぶん、そのうちコールがありますよ。イライザは全部お見通しなんだ。僕……僕は、早まったことを、してしまったのかも。自分でもよく分からない。でも今は、どうしてだろう──あなたのことが、とても憎い」
こんな行為のあとで。
理不尽だとキースは思う。キースは唇をかみ締める。シロエのきつい目線と、睨みつけるキースのそれが交差する。
直後、キースの手首のリストバンドが点滅し、電子音が鳴り響いた。
マザーの……コールだ。
「ほら、ね」
シロエが笑う。キースは手ひどい敗北感を味わされる。が、これもまた、初めて味わう感情だ。
項垂れながら乱れた服をととのえ、キースはベッドから立ち上がる。
シロエはベッドの中からキースを見上げている。しどけなく、服を乱れさせ、欲望の残滓をその身体にこびつりかせたままで。
「たっぷり絞られてくるといいですよ、キース先輩。
僕は僕で……これからもやりたいようにやらせてもらいます。僕はあなたがキライだ。あなたの秘密を暴いてやる。あなたに屈辱を与えたい。見ているがいい、キース・アニアン、絶対に、僕はそうしてやる!」
理不尽だと思う。シロエを睨みつける。
足音高くキースが去ったあとで、残されたシロエはひとり、膝を抱えた。
華奢な身体を丸め、瘧のように震わせながら、涙を流してしゃくりあげ続けた。