マザー・イライザは、確かにキースの母と呼べる人だった。
  ステーション時代のキースを導き、その後のキースの基礎となる人格を形成し、作り上げたのはイライザだ。
  イライザは、巨大なマザーシステムのネットワークにつらなる、ほんの末端に過ぎない。
  だが、キースを育てたイライザの思考パターンは、全てシステムの、プログラムによるものだとはキースには思えない。
  彼女の意思は冷徹で、完璧そのものに見えたが、そこには常に感情のようなものがちらついていた。彼女は感情を持っていた。キースは、そう考えている。

 

 ──忘れるな、キース・アニアン!

 少し甘めの声質。語尾を上げる、わざと人の神経を逆なでするような喋り方。
  その声が、必死に伝えようとしたもの。

 キースは他の生徒達のように記憶操作を受けることがなかった。だから、シロエのことも、シロエが盗み見、キースに伝えようとした秘密のことも、逃亡しようとしたシロエを撃ち落としたのがキース自身だということも、忘れることはないはずだ。
  そう、思っていた。
  だが薄情なもので、記憶というものは月日と共に薄れていく。E-1077卒業後の数年間はまさしく矢のように過ぎ去った。
  E-1077の行程を終え、メンバーズへの選別試験にパスしたキースは順当に昇進を重ね、すべてはマザーの筋書き通りに進み、障害となるべき事象は何もなかった。
  キースが卒業したあと、ステーションが廃校となったことをキースは知らなかった。
  卒業後、ステーションがどうなったかなど、考えたこともなかった。
  スウェナ・ダールトンからその名を聞き、約束の品だとその包みを手渡されるまでは。
  受け取った包みを開いて、キースは容易く動揺した。
  それは一冊の、幼児向けの、ところどころ焼け焦げ擦り切れた古い絵本。
  テーブルに置いたそれにキースは目を注いだ。ゆっくりと、キースの胸の内で、今はすっかり消えうせたと思っていた、だが深い眠りについていただけだったものが呼び覚まされるのを感じてた。強い胸の痛みを感じた。

 ──シロエ。

 私は忘れていた。お前のことを、お前が忘れるなと言ったもののことを私はすっかり忘れていた。
  冒涜や、手酷い暴力か何かのように。
  キースは本の表紙をそっと撫でた。それは何の変哲もない、ただの紙だ。

 よく、焼けてしまわなかったものだ。

 当のシロエは一瞬にして閃光とともに消えてしまったのに。
  何の実感も湧かない。キースはボタンを押しただけだ。照準は勝手に合わせられていた。キースは押した、タイミングよく、一分の狂いもなしに、たった一度だけ。
  もちろんそれは最初で最後の一撃にはならず、その後の人生において、キースが押し続けることになるボタンの最初のひとつとなったに過ぎなかった。
  甦ってくる。
  過去の亡霊にしては生々しい、シロエの白い腕、白い顔、細い頸、大きすぎる瞳。塞き止められていた、過去十四年分の感情が一気に押し寄せてくる。押し流される。
  ぐったりとソファの背もたれに身をあずけ、片腕を上げて目の上に乗せ、キースは喘いだ。
  これは、すいぶんと手の込んだ──

(先輩、僕はミュウだったんですよ)

 E-1077の機密に潜り込んだせいでESP再チェックを受ける破目になったシロエは、そのときになって初めてミュウ因子を持っていたことが発覚したのだった。
  成人検査にうっかりパスしてしまうミュウが、ごくまれにいる。マツカなどもその手合いで、本人の自覚がないだけにやっかいな存在でもある。自分は人間だと思いこみ、自分自身さえもを騙しているために、サイオン反応が検査に表われないのだ。
  今でこそESP検査の精度も上がり、検査ミスなどは考えられないが、当時はときどき起こる事故だった。

(馬鹿だね、僕も。やぶへびもいいところだ。自分で敵にそうと知らせてしまった──敵地に飛び込んでしまった。雉も鳴かずば撃たれまいに……)

 撃ったのはキースだ。あれほど、キースが停船を呼びかけたのに、シロエが止まらなかったから。

(でも遅かれ早かれいずれはこうなる運命だったのさ、だってあなたはシステムの申し子、マザーの可愛いお人形キース・アニアンだし、僕はもうあのときには半分壊れかけていたんだもの)

 シロエの大きすぎる瞳がキースを覗き込んでくる。キースは自分が深淵を覗き込んでいるかのように感じさせられる。
  シロエの白い腕がキースの頬に触れ、しかしそれは空気のようにすり抜けてしまった。

「亡霊でも嬉しい、シロエ──」

 キースは呟いた。
  ミュウのシロエは、あの追撃をかいくぐり、爆発の一瞬前に無意識下でサイオンバリアを展開したのだ。このタイプのミュウにときおり見られる能力で、限界を超えた時点で協力なサイオンを発揮する。普段は眠っている、隠された能力が目を覚ますのだ。ただし、普段は自分でそれを制御することができない。
  シロエは生き延びて、そして民間船に救出された。
  だから、シロエは、どこかで生きている──のかもしれない。

 違うよ、とシロエが言った。

「僕は死んじゃったんだ。雪のように儚く。最後は星みたいに光って綺麗だった、爆発したんだ。あの光はあなたの船からもきっと見えたはず……後には何も残らなかった」

 シロエの言う通り、閃光は息を飲むほどに美しかった。それに、宇宙空間の波間に漂う残骸を、キースはこの目で見た。
  だが、シロエの本はここに、キースの手の中に残っている。

「逢いたかったシロエ、僕の……お前のことを片時も忘れたことはなかった」

 嘘ばっかり。鈴を鳴らすような声でシロエが笑う。今の今まですっかり忘れていたくせに。思い出しもしなかったくせに。平気な顔で嘘を吐く、イライザのキース。

「薄情な先輩、これ以上僕をがっかりさせないで。……さあ、ショウタイムが始まるよ。行って、自分の目で確かめてくるんだ。キース・アニアン」

 シロエのよく光る瞳。群青色の、表情のくるくる変わる瞳の色を、好きだと言ったことはあっただろうか。それは夜明け前の空の色だ。深い闇色から、すみれ色へだんだんと色彩を変える。
  シロエの腕が首に絡みついた。キースの手が絵本のページを繰る。その指に重ねられるシロエの指。最後のページには、シロエ自身の署名がある。セキ・レイ・シロエ、几帳面な細い字体をキースはなぞり……隠されたマイクロチップに気が付いた。

 

 

 しばらくの間は、キースの側にはつかず離れずシロエが居た。
  色の白い、青褪めた幽霊のようなシロエの姿を、キース以外の誰もが視えないようだ。
  自分は気が触れてしまったのだろうか、とキースは思った。だが今は、シロエの身体に手を触れることが出来る。最初に現れたシロエは空気のように実体がなかった──が、時間が経つにつれ、だんだんと実体をはっきりとさせていくようなのだ。
  もし、このままシロエを側に置き続けることが出来るとしたら。
  ──やがて、シロエは本当に蘇り、その姿を取り戻すのではないだろうか。
  くだらない、馬鹿げていると、キースはその考えを打ち消す。
  シロエは十四年前と全く同じ姿のままだった。痩せた身体に身に付けているのはキースの貸したシャツで、それはシロエには少し大きかった。浮き出した鎖骨、華奢な肩。当時、二人がいかに子供だったかを思い出させる。だが今のキースはもう十八の子供ではない。
  シロエをベッドに横たわらせ、ゆっくりと口付けていくと、シロエがあまりにも子供子供としているために、キースはどうしても、罪悪感を感じざるをえない。
  だが触れるそばから熱を持ち、吐息を熱くして抱き返してくるシロエの身体は蠱惑的だった。
  シロエとは──ただ一度だけ。激情にまかせた、愚直で卑劣きわまりない交わりを、たった一度もっただけだ。
  それなのに、こうして抱けば思い出が甘く胸を疼かせる。シロエは口を開け、キースの口付けを受け入れている。舌を絡めあわせ、強く根元から吸えばきゅっと眉根を寄せて、キースにしがみついてくる。

 はぁはぁと、上がってしまった息を肩でしながら、シロエは両腕でキースの頭を抱え込んだ。髪に手を差し入れ、掻き回す。
  昔抱いたときは、二人ともお互いに混乱していた。
  シロエの白い首筋に唇を這わせる。唇で肉を挟んで強く吸い上げれば、簡単に赤い跡が残った。

「あぁ……、キース、キース先輩……」

 点々と、跡を残しながら鎖骨から胸へ唇を落とす。シロエはため息のようなか細い声を漏らす。
  ツンと立ち上がったピンク色の乳首を舐めると、ビクンと身体が跳ね、高い声が上がった。

 ──あなたに生きとし生けるもの、すべての生殺与奪権を与えたのはこの私。
  あなたは、私を忘れることで、何度でも私を殺すことさえできる。
  忘れないでキース。私は……あなたの……私は……

 残酷なくらい強く胸を嬲り続けると、ぐったりしてしまったシロエの身体を抱えなおす。目元まで赤く染めた顔で、うるうると瞳を潤ませ、シロエは強く抱き返してきた。

「キース先輩……好き」

 忘れないでキース……。

 濡れ始めている先端を強く擦れば、そこはキースの指先に雫をまとわりつかせた。負けじとシロエの膝がキースの股間を探り当て、昂ぶっているものの状態を確かめると、薄く笑う。
  熱く、逞しく、まるで凶器のようだ、これで何度でも殺してくれと耳に直接囁かれ、頭がおかしくなりそうだ。
  もう、おかしくなりかけているのかもしれない。
  あなたは私、私はあなた、僕は私……
  シロエの意識も相当混濁しているようだった。キースはゆっくりと、だが容赦なくシロエの中に己を押し込んだ。中はくらくらするほど熱く、苦痛と快楽がないまぜになって、まるで地獄のようだ。

 ──地獄って?

「死んだら行くところ」シロエが答えた。

 青白かった頬がばら色に染まり、キースは腕の中にシロエを抱き締め、今は幸せだなどと愚かしい考えをもてあそんだ。
  シロエを上に跨らせ、ほっそりした腰を掴んで深く突き上げるとシロエは仰け反って恍惚とした表情をする。
  こちら側は天国で、あちらは地獄。境界はひどく曖昧で、とらえどころがない。
  シロエと一緒なら、どちらでも構わない、とキースは思う。

 忘れないで……

 ほとんど憎むように激しく腰を叩きつけ、奥深くに熱い奔流を注ぎ込む。シロエはつかのま息を止め、泣き出しそうな顔でキースを見下ろした。

 

 

 本当はキースはとっくに知っていた。
  青白いシロエが途中まで付いてきた。本当はキースはシロエを連れてきたくはなかった。それは、あの時逃亡するシロエに、「停船しろ」と強く心に念じたように。
  本当は、シロエを殺し続けるのではなく、生かし続けたいのに。
  現れたときと同じ、すっかり半透明になってしまったシロエの姿が途中でかき消えた。

「──もう、あなたの導きは不要だ」
「……わかっています」

 行きなさいキース。行ってその目で、確かめなさい。真実を。

 イライザも、シロエと同じことを言う。

 フロア001、ごぼりと立ち上り続ける水泡……立ち並ぶ水槽を見ても、何の感慨も沸かなかった。そう、ずっと抱き続けてきたイメージはこれのせいだ。
  分かっていた、分かっていたからショックは受けなかった。
  イライザの語る、「不完全な」「失敗作」のこと、入学当時の事故、サム・ヒューストン、スウェナ・ダールトンのこと。
  そして、セキ・レイ・シロエ。
  全てはキースを育てるためのプログラムだった。ようやく生まれた理想、テラの子、イライザの最高傑作。それがキースなのだ……と。
  何の感慨も湧かなかった。

 パネルを操作し、水槽の接続を切っていく。そうすると水槽の立ち上る水泡が消えて、酸素の供給できなくなったサンプルの素体は死ぬ。
  イライザは悲鳴を上げた。涙ながらにやめてくれと訴える彼女を無視し、キースはすべての水槽から接続を落とした。さらにパネルに数発の弾丸を撃ち込む。
  E-1077のコントロールルームへ向かい、そこでも同様のことを行う。メインパネルいっぱいにエマージェンシーの文字が現れ、キースはそこへも発砲した。アラートが鳴り響き、E-1077の崩壊が始まった。
  壁、天井はもう崩れはじめている。長居は出来ない。

 部屋の真ん中にたたずんでいるのは、先ほどから姿を消していたシロエ。
  もうほとんど、薄れかかって消えてしまいそうになっているシロエは、ちらりとキースを見た。

「あなたの手は血まみれだ」

 キースの両手はイライザの血にまみれている。シロエを撃ち、イライザを撃った。そしてもう一度、そして何度でも、忘却することでシロエを殺そうとしている。

「忘れるの。僕のこと忘れてしまうの」
「忘れはしない……」
「信じられないな、あなた嘘つきだし。ちゃんと言ってもくれないしね」

 キースは瓦礫の降り注ぐ部屋の中、シロエに近づくとか細い身体を抱き締めた。

「──イライザはあんなにあなたを愛していたのに!」
「お前が彼女を殺せと言ったから、殺したんだ」

 するとシロエはするりと抱擁から抜け出し、キースを撃ち殺しそうな目で睨み付けた。「本を返して」
  キースは黙って絵本を差し出した。シロエはそれを受け取り、胸に抱き締めた。

「僕に言わせりゃ、やっぱりあなたがよほど化け物だ。あなたは殺すだけ殺して何も生み出さない……誰より人間らしいキース」

 ……私の愛するキース。

 不意にシロエの顔が歪んだ。

「行って。E-1077はもう落ちるよ。タイムリミット、あと四分で脱出しなきゃ一巻の終わりだ」
「お前を連れて帰りたい」
「バカなことを」
「連れて帰る、そして傍に置く。二度と離さない。閉じ込めてでも……」
「冗談じゃないね」

 とん、とキースの胸を叩く。そして手のひらを返し、そっと押した。

「バイバイ先輩。あんたは、まだ死ねないでしょ。やることが一杯のこってる。待ってる人もいる。一巻の終わりだったのは僕。僕は……まぼろし」

 グランドマザーによろしく。シロエの唇が動いた。キースは、シロエの薄れて消えそうになっている身体を強く引き寄せ、その唇を塞いだ。連れて──行ければよかった。さもなければ身体の中に取り入れて、ひとつになってしまえれば。
  けれどもそうできないのはわかっていた。
  まるでコインの裏表だ。同時に存在は出来ない。

 ──忘れなさい、キース・アニアン。

 慈悲深い声が響いた。

(忘れて……いいよ、キース。覚えてるのは僕だ。大好きだった、大嫌いだった。薄情で優しい先輩。さよならって言って。全部終わりにして。うらみっこなし、どうか僕をもう一度、その手で殺してね)

 キースは目を閉じた。揺れはますます激しくなり、立っているのもやっとだ。

「シロエ──」

 シロエの手から、ばさりと絵本が取り落とされた。
  シロエの群青の瞳が視界いっぱいに広がった。吸い込まれそうな──夜の海。イライザと同じ夜色の瞳。それが幾千もの星を映して瞬いている。波間に揺れる細く長い月は──キース自身かもしれなかった。
  一度も聴いたことがないはずの、潮騒の響きを、キースは確かに耳にしていた。

 

 

 

 行きは三人だった。しかし帰りは二人だ。
 スクリーンに映るE-1077が制御を失い、宇宙空間を振動させながら惑星に落下していく。そのおそろしさ。
  間一髪で脱出したキースは、スーツを脱ぎ、シートに深く深く身を埋める。身体を丸める。抱きしめる腕はもうない。キースが殺したのだ。
  枯れたと思っていたはずの、涙がこぼれた。





end


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