ブルーには、全て分かっていたに違いない。
ブリッジに立ち、巨大なスクリーンに手を当ててたたずむブルーは物思いに沈んでいる。
スクリーンには雲海の向こう、惑星アタラクシアが映し出されていた。一見して、強化ガラスのように見えるスクリーンだが、もちろん映し出されている宇宙空間は映像に過ぎない。現実の光景ではないが、惑星アタラクシアは雲海の彼方に確かに存在した。
──その存在すら不確かな、地球とは違って。
ほっそりした姿を雄大な惑星映像の前にたたずませているブルーは、一幅の絵画のようように見えた。
美しい銀色の髪、華奢なボディと長いまっすぐな手足を包むソルジャースーツ。銀色のふちどりのある優美なスーツはこの上もなく彼に似合っていた。
特殊な素材のマントを背に流していて、それが翻るとき、いつも息が止まるような気持ちでハーレイは彼を見詰めた。
ミュウの長、ソルジャー・ブルーはこのところずっと気鬱を抱えている。
ブルーの気鬱は、全ミュウの気鬱でもあった。
こうなることは、もう何十年も前から予測できていた。が、何の手を打つことも出来ないまま、手をこまねいていた、そのつけがとうとうやってきたのだ。
ソルジャー・ブルー、人間達の言うところの<タイプ・ブルー>は、並外れて強力なサイオンを操ることができた。
三百年間──ブルーやハーレイら、第一世代のミュウは巧みに人間達から隠れ、身を守りながら惑星に仲間を送りこみ、ミュウである子供達を見つければ保護してきた。同胞を見捨てることは出来ない、そんな思いからの行動だったが、今となってはどうだろう。ミュウの船、シャングリラは巨大な軍事要塞とも言えた。ただし、ハーレイら第一世代を除いて、ほとんどのミュウに実戦経験はない。
自分たちはどこへ向かおうというのだろう。何を為そうというのだろう。
<地球>へ向かえ……
耳を傾ければ分かる。彼らのDNAはそう叫んでいた。
地球、あの蒼い星に向かうのだ。誰が言い出したわけでもなく、ごく自然にその思いはミュウの共通の意識としてそこにあった。
郷愁、憧憬──あるいは他のもっと烈しい何か。地球ならば、呪われ、見捨てられた迷い子の我らをその懐へ受け入れてくれる。地球へ向かえば、何もかもがきっと良くなる……、能天気にそんなことを思う者は誰一人として居なかったが、それでも振り払うことのできない、ある種の妄執。
ブルーの言葉がなくとも、為すべきことは明らかで、疑うべくもなかった。
ブルーの容態は、ここのところ、とみに悪かった。伏せることが多くなり、少しでも楽なように青の間に引きこもり、昏々と眠りについている。
メディカルチームは手を尽くしているが、ハーレイにははっきりと分かりきっている。
もともとブルーは虚弱であった。反比例するように強大な力、燃え尽きるのが早いのは自明の理である。
ハーレイはずっと、三百年間ブルーに付かず離れず、付き従っていた。
うぬぼれてもよいなら、ブルーの右腕だと言っていい。
彼をリーダーにおしいただいた日から、ハーレイの運命はブルーと共にある。
喜びも、悲しみも。苦難も悲哀も全て。ブルーを護る盾であることは、ハーレイにとっての喜びだった。
が、ブルーの感じている重圧、責任、孤独は肩代わりになるものではない。ハーレイはそれを少しでも和らげようと、ひたすら身を粉にして働いてきた。
不満はない。あるとすれば、ブルーがときおり済まなそうな顔で唇を噛むとき。青の間の寝台で、自由のきかない身体に自嘲する表情を見せるとき。あるいは今のように、惑星アタラクシアを見おろして切ないため息をつくとき、だけである。
「ハーレイ」
少し離れた場所からブルーを見ているハーレイの視線に気付いていた、ブルーが声を掛ける。
「アタラクシアは遠いね……」
ハーレイは返事をしなかった。アタラクシアに何があるのかを、長らくブルーは口にしようとしなかった。ハーレイがそれを知ったのは、ごく最近になってからのことである。
腹心の、ハーレイにだけブルーはそっと、大事な秘密を打ち明けるかのように教えてくれた。アタラクシアに生まれ落ちたひとつの命。獅子の目覚め、ミュウが託す未来のことを。
(──どうして泣くのです)
ブルーの玉石の瞳から、はらはらと涙が零れ落ちる。表情は歓喜に満ちているのに、涙が止まらない。
(嬉しいんだ)
なのに、哀しい。
三百年間、待って、待って……やっと生れ落ちたきてくれた、僕の半身。運命の子。
彼に逢うまでには、まだ十四年を待たなくてはならない。それでも、彼が生まれてくるまでの気の遠くなるような月日を考えたら、そんなものは物の数にも入らないじゃないか?
──ああでもしかし僕は、その日が来るのが怖い。
泣かないでください、とハーレイは言った。思わず抱え寄せた肩は、思っていたより薄く小さかった。
ブルーは三百年前のあの日、共に惑星ガニメデを脱出したときより、成長することを止めてしまった。
十四歳の少年の姿をした若長には、神話をそのまま切り出したかのようなカリスマがある。
血の色を浮き上がらせた赤い瞳、漂白された銀の髪。ミュウには、生まれついての不具者が多い──美しいが、どこか哀しみを湛えた姿は、ミュウそのものを示しているように思えた。
ガニメデに収容された若者たちはみな、成人検査を控えた年頃だったから、ハーレイとブルーの実年齢はそう変わらないはずだ。
だが時を止めてしまったブルーとは逆に、ハーレイは壮齢の男にまで、自らの外見を成長させた。
そうすることでクルーたち全ミュウに安心感を与え、威厳を保つため。そして何よりブルーのため。長身と見事な体格、広い肩幅、厚い胸板。落ち着きを湛えた表情と叡智の広がる額。すべては、ブルーに安らぎを与えるため。
ブルーのためだ。全部、ブルーの。
分かっているのかいないのか、ブルーはハーレイの肩口にそっと頭をもたせ掛けて泣き腫らした目を閉じる。長い睫毛が、目の下に濃い陰影を作った。
「──近頃、不安でたまらなくなる」
ぽつりとブルーが言う。
ハーレイは不意に、目の前の美しい、ハーレイにとって大切で、愛しくてならない人が、憎らしくて堪らなくなる。
だがそれは一瞬の気の迷いのようなもので、ひとつ瞬きすれば掻き消えた。
「“ジョミー”は僕を受け入れてくれるだろうか? もしも“ジョミー”に拒絶されたとしたら……僕の命はもう残り少ない、ミュウの希望が断たれてしまう」
不安な子供のようなブルー。恋する乙女のように、ひな鳥が母親を求めるように、まるで愛しい恋人の名を囁くように、ブルーは“ジョミー”の名を口にする。
「それに、もしも僕がしくじったら……目覚めの日を、もしも上手くやり過ごせずに、“ジョミー”を喪うことになってしまったら。僕は自分を赦すことが出来ない」
ハーレイは微笑んだ。
「大丈夫ですよ、ブルー。貴方は失敗しない、今まで一度だって、肝心のところでミスなどしなかったじゃないですか。“ジョミー”は貴方を受け入れるでしょう。貴方は“ジョミー”を見出した。誰も、本当のことには抗えないのです。“ジョミー”がやって来たら、きちんとすべて説明してお上げなさい。きっと分かってくれる。私は……私たちミュウは皆、貴方を信じている」
「……有難う、ハーレイ」
不安がすべて取り除かれたわけもないだろうが、じっと瞳を見据えながら心からの言葉を掛ければ、少しだけ安心した顔でブルーは言う。
ブルーの、“ジョミー”への思慕の念はひどく暖かい。優しく、それでいて切なく、くるおしく、側で見ているこちらも幸福になるような恋心。
早く“ジョミー”がやってくればいい。そしてこの人の願いを叶えてあげて欲しい。
“ジョミー”が、三百年誰もなしえなかった、ブルーの心を満たす存在たり得れればよい。
ハーレイにも、成人検査以前──子供のころの記憶というものはまったくなかった。アルタミラ被験者は皆そうだ。
だから、ハーレイも父親と母親を知らない。
おそらくはハーレイにもかつては、イミテイション家族というものが居たはずだ。だがその記憶は失われ、記憶の表層に一度でも浮かび上がってくることはなかった。
しかし、ハーレイは最近思う。
出来ることなら、自分がブルーにとっての、父親のような存在でありたい。
──ブルー。私の幼子。
どうか、笑っていて。
貴方の前に私は道をつくる。
この船は貴方を支える翼。貴方の翼となることで、私は私に報いる。