「人の世に宿られた神」
新約聖書 ヨハネによる福音書1章1-18節
旧約聖書 イザヤ書40章27-31節
愛の気づき
 クリスマス、おめでとうございます。そして、この良き日に洗礼をお受けになった矢田彩子さん、心からお祝い申し上げます。

 今日の日を迎えるまで、矢田彩子さんが歩んでこられた心の旅路は、決してまっすぐな一本道ではなかったであろうと推測いたします。ああでもない、こうでもないと狭霧の中を堂々巡りすることもあったとでしょう。右に行くべきか、左に行くべきかと、分かれ道に立って一歩も動けなくなってしまうこともあっただろうと思います。

 けれども、どんな時にも、矢田さんの人生は多くの愛に囲まれていたのだということを、どうぞ忘れないでいただきたいと思います。どんな人も、一人ぼっちで人生を生きているのではありません。ある時には、何もかも自分一人で背負い込んでしまっているかのように思えて、無性に心細くなる時もあります。そんな時にも、自分が気づくことができないだけであって、実は自分のことを真剣に思ってくれ、機あらば助けようとしてくれる人がたくさんいるのであります。

 たとえば、今日もこの場に一緒にいてくださるご家族の存在があります。ご両親も妹さんもクリスチャンではありませんけれども、彩子さんの大切な日を見守ろうとして、ここに来てくださっているのです。矢田さんにはアイルランドに大切な男性がいらっしゃると聞いています。彼も、きっと矢田さんの先生を心から喜び、祈っていてくださることでありましょう。他に多くの友達、多くの恩師がいらっしゃることと思います。人生っていうのはたいへんですけれども、決してひとりではない。多くの愛が私たちに与えられている。そこに神様の愛があると、私は信じています。

 神様は、愛するために私たちをお造りくださいました。私たちの人生は神様に愛され、またその愛に私たちの愛をもって応えるために与えられているのです。今日、矢田さんがお受けになった洗礼の一つの意味は、そのことに気づいたということだと思います。これまで辿ってきた道は、神様の愛に気づくための魂の遍歴であったと言ってもいいのではないでしょうか。

 それと共に、もう一つ忘れないでいただきたいことは、今日から始まるのだということであります。洗礼は、決して人生のゴールではありません。やっとスタートラインに立つことができたということなのです。私たちという存在を愛もって創造し、祝福に与らせるために一人一人に特別な人生を与えておられる神様に、やっと感謝し、その愛に応えて生きることができるようになったのです。今まではひたすら「わたしは誰か。何のために生きるのか」ということを追い求める人生でした。これからは神様の愛を信じる信仰者として、神様を愛し、人に仕える人生を追い求めて生きて欲しいと願います。
新しい人生
 しかし、それは、決して安楽な人生ではありません。キリスト教というのはややこしい宗教でありまして、「信じる者は救われる」と言っておきながら、何事もない安楽な人生を追い求めよとは言っていないのです。むしろ、イエス様は、「自分の十字架を背負って、私についてきなさい」と言われました。そして、「あなたがたにはこの世では悩みがある。しかし、勇気を出しなさい」と、弟子たちを励まされたのでした。平たく言えば、これからも色々と辛いことや悲しいことがあるということなのです。

 それなら、いったいイエス様はどんな救いを約束してくださったというのでしょうか? 私流の言い方をゆるしていただくならば、「しっかりした人間になる」ということです。しっかした人間とは、自分の十字架を負いつつも、喜びをもって生きることができる人間ということです。

 人生は楽しいことばかりじゃないと、今申しました。しかし、神様は愛をもって、祝福のうちに、私たちの人生を与えてくださいました。ですから、生きるということは、本来とても楽しく喜ばしいことなのです。けれども、それは享楽という意味ではありません。悲しい時、苦しい時があっても、神様が私に与えてくださった人生はいい人生だなと思える、そういう喜びがあるものなのです。

 ところが、その生きる喜ばしさというものが感じられなくなってしまっている。そこに生きることの苦悩というものが起こってきます。石川啄木は「働けど働けど我が暮らし楽にならざり じっと手を見る」と詠いました。労苦ばかりで人生が過ぎてゆく、いったい何のために生きているのだろう・・・そんな虚無感が、石川啄木を襲ったのかもしれません。しかし、貧しさが問題なのではありません。辛い労働が問題なのでもありません。何のために生きているのだろうと、じっと手を見つめて考え込んでしまう。何のために生きているのかと懐疑的になってしまう。そこに人生の苦悩があるのです。

 お金があっても、才能があっても、名誉があっても、それはまったく同じ事です。中学生か高校生の頃、何か面白い本はないかと思って父の書斎を見てみますと、『世界最強の男』というタイトルの本が目に飛び込んできました。いったい世界最強の男とはどんな男だろうと思って手にしてみますと、アメリカの大富豪ハワード・ヒューズの伝記だったのです。ハワード・ヒューズは、十代の頃に四つの人生の目標を立てました。「世界最大の金持ちになること」、「世界最高の映画プロデューサになること」、「世界最高のパイロットになること」、「世界最高のプロゴルファーになること」です。そして、彼は最後の「世界最高のプロゴルファーになる」という夢以外はすべて実現させたのでした。

 しかし、彼の最後は実に惨めでした。彼はいつしか病的に細菌を恐れるようになり、ホテル内でほとんどの時間を裸で椅子に座って過ごし、限られた人物としか会わず、ホテルから出ようとせず、乗用車には空気清浄機を取り付けていたと言います。また、指紋を取らなければ判別できない姿に成り果て、廃人となって死んだというのです。

 一方、今日、ぜひみなさんにご紹介したいと思うのは、瞬きの詩人と言われる水野源三さんです。水野さんは九歳の時に赤痢にかかり、その時に出した高熱のせいで脳膜炎にかかり、体の自由をまったく失ってしまったのでした。口を利くこともできなくなり、水野さんに残されたのは見ることと、聞くことだけでした。子どもながらに、どれほどその身の不幸を呪ったことでありましょうか。しかし、それを声に出すことも出来ず、六畳間に伏し、ただただ天井ばかりを見つめて一日中過ごす日が何年も続いたのでした。

 そんな水野さんがやがて神様の愛を知り、イエス・キリストを救い主として受け入れ、洗礼を受けるようになります。その出会いの詳細は省かせていただきますが、宮尾隆邦という牧師が水野さんの家を熱心に、何度も訪れて、聖書を懇切丁寧に説き明かしてくれたのだそうです。水野さんも、お母さんにページをめくってもらいながら、聖書を一生懸命に読んだといいます。

 水野さんの魂は、本当に渇いていたのですね。そこに命の水である神様の言葉が注がれたのです。御言葉は渇いた地に水がしみこむように、水野さんの魂にしみこんでいき、潤していきました。聖書を学び始めた水野さんは、日増しに明るくなり、顔つきも変わり、いつもニコニコしているようになったと言います。そして、水野さんが明るくなると、家中が明るくなったといいます。

 この明るさを水野さんの人生にもたらしたのは、病気が軽くなったとか、家族の苦労が減ったということではなく、イエス様を知るということでした。イエス様を知ることによって、これまた神様が私にくださった特別な人生であると受け入れることができるようになったのです。

 彼が瞬きの詩人と言われるのは、後に、お母さんの手助けを得ながら、五十音表を使い、瞬きで自分の意志を表現したり、神様を讃える詩を作ったり出来るようになったからです。そのような方法で、水野さんは、この時経験したことについて、このように記しています。

 「ただ植物のように生きる私でしたが、主イエス様の十字架に顕された真の神様の愛と救いに触れ、喜びと希望をもって生きることができるようになりました」

 運命を恨んだり、託ったりする人生から、感謝と喜びをもってその運命を背負い、生きていくことができるようになったのです。それがしっかりした人間になるということであり、イエス様が私たちに与えてくださる救いなのです。

 水野さんは「ありがとう」という詩を書いています。

 「ありがとう」

 ものが言えない私は
 ありがとうのかわりにほほえむ
 朝から何回もほほえむ
 苦しいときも 悲しいときも
 心から ほほえむ

 「苦しいときも、悲しいときも、心からほほえむ」そのような感謝と喜びを与えてくださったイエス様が世にお生まれくださった日、それがクリスマスであります。水野さんにとって、クリスマスは、本当に大切で、喜ばしい日であったに違いありません。今日の週報では、そんな水野さんのクリスマスの喜びを詠った詩をご紹介させていただいております。

 一度も高らかに
 クリスマスを喜ぶ賛美歌を歌ったことがない
 一度も声を出して
 クリスマスを祝うあいさつをしたことがない
 一度もカードに
 メリークリスマスと書いたことがない
 だけどだけど
 雪と風がたたく部屋で
 心の中で歌い
 自分自身にあいさつをし
 まぶたのうらに書き
 救いの御子の降誕を
 御神に感謝し喜び祝う

 クリスマスとはいえ、教会に行くこともできない、賛美歌を歌うこともできない、メリークリスマスと挨拶することもできない、そんなクリスマスでありました。それにも関わらず、水野さんはクリスマスを喜んでいる。もしかしたら、今日の私たちよりずっと大きな喜びに溢れて、クリスマスを過ごしておられたかもしれません。

神の言葉、イエス・キリスト
 私は、石川啄木が自分の手をじっと見つめて虚脱感に陥ったのも、ハワード・ヒューズがあらゆるものを手にしながら不幸な人生で幕を閉じたのも、ある意味仕方がないことだと思うのです。私たちは神様から遠く離れて生きています。いくら、神様が祝福のうちに私たちの命を創造し、その人生を多くの愛をもって取り囲んでいてくださると言っても、そのような神様の祝福や愛が、私たちの人生の中にも、この世界の中にも、なかなか見えてこないのです。もっとはっきり言うと、「神の愛」「神の恵み」という言葉よりも「神も仏もあるものか」という言葉の方がずっと説得力のある言葉に聞こえてしまうのです。

 今日お読みしました聖書にも、このように書かれています。

 「光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」

 私たちはこのような暗闇の中に生きている人間です。天高く神の光が輝いているのに、地べたばかりを見つめて、神の光が見えないのです。いや、正しくは「見えない」とは書いてありません。見えるところに神の光はあり、それを見ているはずなのだけれども、それを理解していないというのです。

 ここで神の光と言われているのは、具体的に何のことなのでしょうか。聖書にはこのように言われています。

 「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。」

 神と共にあり、神そのものであると言われる「言」について語られています。そして、この「言」によって、すべてのものが、この世界も、私たちも、造られたと書かれています。そして、この「言」の中に、私たちを生かす命があるのだというのです。そして、その言の中にある命こそ、私たちを照らす光であると言われています。

 難しい文章かもしれませんが、端的に言えば、私たちはこの「言」によって創造され、この「言」によって生かされ、この「言」によって生命の明るさを持つのだということなのであります。

 作家の犬養道子さんが幼い頃の体験をもとにこんなことを書いておられます。

 「幼いころ、人生初の手術を受けねばならくなったとき、しかもそれが少々痛くてつらい手術だと医師に告げられたとき、元々医者の娘で医にただならぬ関心を持つ女性であった母は、とくにたのんで手術室に入る許可を得た。いよいよ麻酔の注射がほどこされ担架に私が寝かされたとき、白衣をつけた母はそばによって、ひとこと言った、『ママがついているよ。よくしてあげます』。そして、じっと私の眼を見つめた。ああ、あの眼! 私はいまもなお、見ることが出来る。口ほどにものを言ったあの眼を。
 言葉として『分析』すれば、母の言ったことは極めてあいまいである。医学的には正しくない。『よくしてあげます』と言ったとて、どんな方法で、どう言う経過でよくするのか。それは外科医の仕事である。文体構造としても大変不足な言葉に違いない。が、それをいくら彼女の性格はこれこれで思考論理は時々脱線して、言語のくせはこのようでと『解説』しても、母としての彼女の、その一語にこめた愛と献身の深さをつかむには、距離がありすぎる。
 手術室の異常な雰囲気や、必ず流れるに決まっている血を見るおそろしさなどを、いかに医者の娘といってもわが子のために前以て冷静に受け取って、白衣を身にまとってくれた一時が、私をみつめた眼差や『ママがついているよ』の一語と一緒になって、それまでは恐怖にふるえていた私の中に、めざましいエネルギーを『創造した』のだった。勇気と意欲のエネルギー。私は幼な心にも、ただ大丈夫だと安心したのみならず、この母のために痛さも苦しみも我慢しよう、がまん出来る、母のために養生してよくなろう、と思ったのだった。
 彼女の言葉は、彼女の行動と相まって、私に対する彼女の在り方のすべてを『語り』、語ることによって私をいわば『新しくした』のである。」

 私たちの日常生活にもありそうな話です。この話のポイントは、親子であるということだろうと思うのです。だから、「ママがついているのよ」という一言の中に込められた言葉に尽くせない愛と献身というものを、犬養さんがそっくりそのまま受け止めることができたのです。

 逆に、親子であるにもかかわらず、このような言葉が通じないとしたら、それは本当に不幸なことだと思うのです。実は、神様と私たちに間にはそういうことが起こっていたのであります。私たちはその「言」によって創造され、その「言」によって生かされ、その「言」によって明るさを(希望、喜び、感謝と言ってもよいかもしれません)持つところの「言」が、ぜんぜん私たちに通じていないのです。そして、神の愛を知らず、祝福をしらず、恐れと不安の中に生き続けているのです。暗闇は光を理解しなかったとは、そういうことなのです。

 しかし、聖書はさらに語り続けます。

 「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」

 「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。」と、『ヨハネによる福音書』はこのようにクリスマスの出来事を語ります。天高く輝く光ではなく、私たちの世に人間となって宿られた神の言葉、神の光、それがイエス・キリストだというのであります。このイエス・キリストの中に、「ママがついているのよ。よくしてあげますよ」という神様の言葉、愛、恵み、祝福、神様が人間に与えようとするいっさいのものが込められているのであります。

 クリスマス、それは「恐れるな、わたしが共にいる。」という神様の言葉が、この世界に、私たちの人生に与えられた日なのです。この神の言葉を聞くとき、私たちの人生から恐れや悩みが消え、喜びと感謝が溢れてくるようになるのです。感謝をしましょう。
目次

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988

お問い合せはどうぞお気軽に
日本キリスト教団 荒川教会 牧師 国府田祐人 電話/FAX 03-3892-9401  Email:yuto@indigo.plala.or.jp