「暗さの中を旅して」
新約聖書 マタイによる福音書1章18-25節
明るさの中で
 蝋燭の明かりの中で、しばらくご一緒に礼拝をしてきました。このように蝋燭の明かりをじっくりと見つめて過ごす時間というのは、もうだいぶ前から日常生活の中からは消えています。私の子供の頃の記憶では、台風や雷などがあると、よく停電をしまして、そんな時、非常用の蝋燭が家の中に灯されたものです。今は停電するということもほとんどなくなり、スイッチ一つで昼間と変わらない明るさを常に保つことができるというのは、本当に便利な世の中になったものだと思うのです。

 しかし、たまにはこうして蝋燭の明かりをじっくりと見つめて過ごすのもいいものではないでしょうか。今風の言葉で言えば、癒し効果があるとでも言うのでしょうか。何か心の奥底で忘れていたものが、取り戻されていくような気がするのです。

 では、私はいったい何を忘れていたのだろうと考えてみました。色々なことを頭に思い浮かべながら、はっと気づかされたのは、それは光ではなく闇、明るさではなく暗さではないかということです。
 
 人間というのは偉いもので、様々な暗闇を克服してきました。電灯のおかげで、夜も昼と遜色ない明るさの中で、勉強も、細かい仕事も、何でもできるようになりました。女性たちは便利な家電製品のおかげで家事労働から解放され、男性と同じように外に出て働くことができるようになりました。コンビニエンスストアのおかげで、隣の家に醤油や砂糖を借りに行かなくてもいいようになりました。かつては徒歩で何日もかかった旅行も、今は数時間で移動できるようにもなりました。治らなかった病気も治るようになりました。障害者が少しでも健常者と同じ生活ができるようにする技術も目を見張るものがあります。さらに最近は、インターネットや携帯電話が普及し、IT革命と言われていますが、確かにこれは私たちが思っている以上に革命的なことでありまして、私たちの生活が、さらに便利になり、また世界に広がり、さまざまな欲望を満たすことができるようになり、大きな変化を始めています。

 文明の光と言われることがあります。こうして人間はあらゆる叡智を集め、たゆまぬ努力によって技術を習得し、またかつて人々が恐れていたようなものの神秘のベールを剥がし、長い時間をかけて人間のあらゆる暗さを克服してきたのであります。そして、これからも益々そのような方向に、人間は突き進んでいくに違いないことでありましょう。

 そういう意味では、2000年前、イエス様がお生まれになった時代とは大違いの世の中に、私たちは生きているのです。しかし、思うのです。その文明の光の中に生きている人間が、ちっとも幸せそうでないのは、いったいどういうことなのでしょうか。

 小学生の女の子が同級生の親友をカッターナイフで殺してしまうという事件がありました。身も知らぬ人々が集まって集団で自殺するという奇怪な事件も相次いで起こりました。大学生たちによる卑劣きわまりない性犯罪もありました。おそらく皆さんも同じ思いではないかと思いますが、正直に言って、理解出来ない奇妙な犯罪が多いのです。どうしてそんなに短絡的なのか。どうしてそんなに衝動的なのか。もう少し違った方法を考えることはできなかったのだろうか。もう少し後先のことを考えた行動はできなかったのか。

 よくこのような理解不能な事件が起こりますと、「心の闇」の存在ということが言われます。しかし、実はそれは違うのでありまして、それだけの事件を犯すからには必ずあるはずの心の闇が、彼らにはないのです。だから、私たちに理解できない事件になってしまっているのではないでしょうか。

 心の闇というのは、幼い頃に虐待を受けたとか、差別やいじめがあったとか、極貧の生活をしたとか、普通では考えられないような経験をしてきて、それが心の澱となって沈殿し、その人の心の闇を作るのです。その心の闇が、その人を苦しめ続け、何の助けも救いもないままに追い詰めしまった時、非常に歪んだ形でそれが表に噴出し、異常な事件が起こされる、それがこれまでの事件だったように思います。

 30年以上の前の話で、若い方はあまりご存じない事件ですが、二人を殺害し、寸又峡の人質立てこもり事件を起こした金嬉老は、在日朝鮮人として差別されたことが心の闇としてありました。連続射殺事件を起こした永山則夫少年は、幼い頃の極貧の生活の苦労が心の闇としてありました。だからと言って決して許される事件ではないのですが、心の闇があらわにされることによって、私たちがその人がつに事件に至るまでの物語というものを、ある程度知ることができます。そして、それを知ることによって、このような凶悪事件もまた我々と同じ人の子の犯した事件なんだなと思えるのであります。

 しかし、最近の事件の中には、事件を起こした背景にそのような心の闇が見あたらないのです。普通の家に生まれ、何不自由のない生活をし、成績も優秀であるにもかかわらず、ただ「人を殺してみたかった」とか、キレたとか、十代、二十代の若者たちが「もう生きていてもいいことはない」と早々に人生に結論を出したりとか、非常に衝動的、短絡的で、まったく事件にいたるまでの物語というものがまったく見えてきません。心の闇がない、それがこういう事件の本質ではないかと思うのです。

 私は、そういう心の闇すらない人たちを生み出しているのは、実はこの文明の光ではないかと思うのです。暗さの中で、それを克服しようと人間が築いてきたのが、現代文明です。色々な犠牲を払いながら、やっとの思いで闇を光に変えてきた人たちにとっては、本当に価値ある文明の光だと思うのです。そういう人たちは、暗闇をしっているからこそ、その光の有り難さが分かるのです。しかし、それはすべての人を照らすまことの光であったのか。それで人間は救われ、幸せになるのだろうか。決して、そうではないということが、明らかになってきているのではないでしょうか。

 今、心の闇すら持てない人たちというのは、生まれた時からまぶしいばかりの文明の明るさの中にいました。苦労をせずに欲しい物を手に入れるのが当たり前の世の中にいました。電話はいつも手の中にある。お店は24時間やっている。お金がなくてもカードがあれば何でも買える。机の上でインターネットにつなげば、世界中の情報が手に入る。お金さえあれば、どんなものでも手に入れることができる。学校にはエアコンが入って、暑さ寒さも知らないのです。

 なんと幸せな子供たちかと思うのは、苦労というものを知っている人たちばかりでありまして、彼らはそのことを少しも幸せだと感じていません。不満もないかわりに、もっと世の中をよくしようとか、もっと幸せになろうという夢や希望もない子供たちになってしまっているのです。

 人間の生活には、明るさだけではなく、暗さも必要なのではないでしょうか。なかなか思うようにならないことがある。体の痛み、心の痛みがある。そういう暗さの中で躓いたり、倒れたりするということも大切なのではないでしょうか。

 そういう暗さの中で、はじめて見えてくる真の光というものがあるのです。その光を見いだすには、とても多くの時間がかかるものであります。お湯を入れて三分とか、電子レンジでチンをしたら出てくる食べ物のようにはいきません。辛く、長いトンネルを歩み続けなければならないことであります。けれども、そういうことを通してでなくては見いだせない、まことの光というものがあるのです。
暗さの中の喜び
 イエス様がお生まれになったとき、遠い東の国からはるばると旅をしてきた占星術の博士たちがいました。彼らは、夜空の星を見て、救い主の誕生を知りました。そして、その星に導かれて、ユダヤのベツレヘムに生まれたイエス様のもとにまでたどり着いたのです。聖書はこのように告げています。

 「東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上にとどまった。学者たちはその星を見て喜びにあふれた」

 「ついに幼子のいる場所の上にとどまった」とあります。「ついに」という言葉から、博士たちの長い長い旅を連想させられるのです。それは夜空の星に導かれて旅でありますから、夜の旅であります。暗さの中の旅であります。彼らは救い主に出会えることを信じて、あえてそのような旅に出たのであります。

 そして、ついにその星が、幼子のいる場所の上にとどまったとき、彼らは「喜びに溢れた」と言われています。この聖書の言葉は、直訳すると「この上ない喜びを喜んだ」と訳せる文章でありまして、彼らの喜びの大きさというものをたいへん強調する文章になっています。

 確かに人生にはいろいろな喜びがありましょう。手軽に手に入る喜びもたくさんあります。しかし、いつまでも変わらない喜び、自分の人生を変えるような喜び、あるいはこれからどんなことが起こるとも、それを乗り越えることができほどの喜び、そのような喜びは、決して手軽に手に入れることはできないのです。それは、暗さの中を旅した者だけが、手に入れることのできる喜びなのです。
ビロードうさぎ
  石井桃子さんが訳されたマージェリー・ウィリアムズの『ビロードうさぎ』というお話があります。

 ある年のクリスマスのこと、男の子がもらったプレゼントの中に、ビロードで出来た一匹のウサギの縫いぐるみがありました。でも、男の子は最初に少しだけこのウサギを相手に遊んだきり、あとはゼンマイで動く機関車や、ほんものそっくりのボートの模型など、新式のおもちゃに夢中になってしまい、ウサギの縫いぐるみのことはすっかり忘れて、長い間戸棚の中にしまわれたままになってしまったのです。

 そんなわけで、このウサギの縫いぐるみは、自分はたいへんつまらない、見栄えのしない存在で、他の新しい機械仕掛けのおもちゃの方がずっと素晴らしい存在なのだと思いこんでいたのです。こんなビロードのウサギにとても親切にしてくれたのは、男の子のお父さんの代からこの家にいる古ぼけた木馬でした。

 ある日、ウサギの縫いぐるみは、木馬のおじいさんに尋ねます。

 「みんな、自分たちはほんものだって、自慢しているけれど、ほんものって、どんなもの? 体の中にブンブンというものが入っていて、外にネジがついているってこと?」

 木馬は、決してそうではないということを、ウサギに教えます。

 「ほんものっていうのは、体がどんなに風にできているか、ということではないんだよ。わたしたちの心と体に、何が起こるってことなのだ。もし、そのおもちゃをもっている子供が、ながいながい間、そのおもちゃをただの遊び相手ではなくて、とても長い間、しんから可愛がっていたとする。すると、そのおもちゃは、ほんものになるのだ」

 つまり、本物というのは、はじめからそのようにできているのではなくて、長い時間をかけて愛されることによって、なっていくものなのだと、木馬は答えたのでした。

 ウサギはさらに尋ねます。

 「そうなるとき、くるしい?」

 「ときにはね。でも、ほんものになると、くるしいことなんか、気にしなくなるんだよ」

 「ネジを巻いた時みたいに、急にさっと変われるの? それともだんだんにそうなるの?」

 「きゅうにはならない。だんだんになるんだ。とても長い時間がかかるんだ。だから、すぐに壊れてしまうものや、とんがっているものや、丁寧にさわなくちゃならないものは、めったに本物にはなれない。たいていの場合、おもちゃがほんものになる頃には、そのおもちゃは、それまで、あんまり可愛がられたので、体の毛は抜け落ち、目はとれ、体のふしぶしはゆるんでしまったりして、とてもみっともなくなっているんだ。でも、そんなこと、すこしも気にすることではないんだよ。なぜかと言えば、いったん、本物になってしまえば、もうみっともないなどということは、どうでもよくなるのだ。そういうことがわからないものたちには、みっともなく見えてもね」

 これは、私たちに人間についても言えることなのです。人間が進化した猿ではなく、本当に人間らしい人間になっていくためには、一つには誰かに本気で愛されるということが大事なことなのです。それは長い時間がかかり、痛みや苦しみが伴うことなのです。

 このお話は、この後、男の子がこの縫いぐるみのウサギを愛するようになって、木馬の話の通りに、だんだんこのウサギの縫いぐるみが本物になっていくという物語です。このウサギは、いつも男の子と一緒に寝るようになり、どこに行くにも連れて行かれ、男の愛を受けているうちに、ビロードは汚れ、しっぽはちぎれかけ、鼻先はすり切れてしまいます。しかし、ウサギは幸せで、そんなことはどうでもいいと感じるのです。

 本気で愛されている喜びを知るというのは、このように長い時間をかけて関わることが必要ですし、決して楽なことではなく、相手に自分を与えていく痛みや苦しみを経なければ分からないことなのです。でも、この喜びを知るものでなければ、人間として生きることの本当の喜びを知ったとは言えないのではないでしょうか。

 みなさん、今日は神の御子イエス様がお生まれになったクリスマスです。クリスマスといのは、神様が私たちを本気で愛してくださっているということが、私たちに明らかに示された日です。神様は、ご自分の独り子を与えてくださるほどに、私たちを愛してくださいました。その愛を知るところに、クリスマスのこの上ない喜びがあるのです。

 しかし、その愛を知るためには、私たち自身も神様に自分をささげ、痛みや苦しみを経験することが必要なことです。もっと手軽な喜び、もっと手軽な幸せは、他にもたくさんありましょう。でも、それは、私たちを本物にしてくれるものではないのです。

 どうか、人生の暗さの中を旅することを、痛みや苦しみのプロセスを通過することを恐れないで欲しいと思います。そこを通らなければ、神様が本気で私たちを愛してくださっているということが、わからないのです。そのことを知るために、私たちは生きようではありませんか。もし、それを知ることができるならば、死も恐れることはありません。

 イエス様の弟子となったパウロは、その確信について、このように言いました。

 「わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」

 さて、ビロードうさぎのお話の続きです。ある日、男の子が伝染病の猩紅熱にかかってしまいます。男の子はその病床でもウサギの縫いぐるみをしっかりと抱き続けていました。しかし、そのために、つまりこのウサギの縫いぐるみが男の子に深く愛され、関わったために、消毒されなくてはならなくなり、火の中にくべられることになってしまったのでした。

 それを知ったビロードのウサギは悲しみました。どんなに愛されても、おしまいがこんな風では意味がないじゃないかと思いました。そして、目から涙が、不思議なことですが、本物の涙が一粒はらりとおちるのです。すると、涙が落ちたところからたちまち一輪の花が生まれ、そこから妖精が現れした。そして、ビロードのウサギに「あなたをほんものにしてあげます」と約束をしてくれるのです。「ぼくは、いままで本物ではなかったのですか」と、ビロードのウサギは、妖精に聞きました。すると妖精はこう答えます。

 「ぼうやにとっては、ほんものでした。ぼうやはあなたをだいすきでしたから。でも、これからは、だれがみても本当のウサギになるのです」
こうして、妖精はビロードのウサギを森に連れて行き、一羽の本当の野ウサギにしてくれ、ビロードうさぎはほんものになる旅路を終えたというお話なのです。縫いぐるみのウサギが本当の野ウサギになるというのは、命のないものが命を与えられ、魂のないものが魂をもつようになること、それが本物の人間になるということだと、物語っています。そして、その命というのは、死によっても滅ぼされない命なのです。

 みなさん、それを私たちに与えてくれるのは、子供部屋の妖精ではありません。イエス様を通して、私たちを本気で愛してくださった神様の愛なのです。

 最後にもう一つ、聖書の御言葉を紹介しましょう。

 「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。」(1ヨハネ4:9)
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