「光は暗闇の中に輝いている」
新約聖書 ヨハネによる福音書5章1-5節
旧約聖書 イザヤ書9章1-6節
イエス様は光です
 光は暗闇の中で輝いている! 今日お読みしました『ヨハネによる福音書』は、クリスマスの喜びをこのように表しています。

 イエス様は光です。私たちの心にともし火をともすために来てくださいました。みなさんは、心にそのともし火をもっておりますでしょうか。この世は暗闇に閉ざされています。しかし誰でも、イエス様を救い主として信じて、「よし、イエス様と一緒に生きていこう」と決心するならば、どんな暗闇の中をも、イエス様から戴いたともし火をもって、明るさをもって生きていくことができるのです。
はじめに言があった
 「そうはいうけれども、ちっとも明るくないじゃないか」と不満に思う方があるかもしれません。確かに世の中を見てもいいことはありません。戦争は絶えないし、愛は冷え切っているし、不景気だし、明るい話題は本当に少ないのです。私たちの生活にしても懐は寒いし、体はあちこち悪いし、家族の心配もあるし、あんな問題、こんな問題、複雑な悩みをたくさんかかえている。イエス様が世の光として来てくださったというならば、もっといいことがあってもいいんじゃないだろうか? もっと世の中が明るくなってもいいのではないだろうか? イエス様は、『ともし火をともしてそれを升の下に隠す人はいない』と言われましたけれども、「それをしているのはイエス様、あなたじゃないですか!」と懐疑的になってしまうのです。

 けれども、みなさん、神様の光というのは明るさだけではないのです。聖書にはこう書いてあります。

 「初めに言があった」
 「言のうちに命があった」
 「命は人間を照らす光であった」

 神の光は神の言であり、また神の命であると言われています。どういうことでしょうか。神の言とは、神の意志のことです。「万物は神の言によって成った」とありますが、それはこの世界が神の意志によって作られたということを言っているわけです。

 ある日、イエス様と弟子たちが道を歩いていると、生まれつき目の見えない人がムシロに座って、「右や、左の旦那様、どうぞお恵みを」と、物乞いをしておりました。弟子たちは、この男のことについてイエス様に訊ねました。「この人が生まれつき目がみえないのは、誰のせいですか。本人ですか。それとも両親ですか」

 この男は、生まれながらに不幸を背負っていた。そのことに弟子たちの心が痛んだのだと思います。なぜ、この人はこんな生まれ方をしなければならなかったのか。神様の愛が、何らかの原因で全うされていないから、この人は五体満足な体を戴くことができなかったのだと思ったのです。それで、「その原因は何ですか。本人の罪ですか。両親の罪ですか」と聞いたわけです。

 ところが、イエス様はお答えはまったく意表をつくものでした。「それは本人のせいではありません。両親のせいでもありません。この人に神様の御業が現れるためです。」

 神様の愛を受けないで生まれてくる人など一人もありません。生まれつき不幸な人など一人もありません。人は皆、同じ体、同じ賜物、同じ人生をもって生まれてくるわけではありませんが、神様は一人一人に人とは違う素晴らしいご計画をもっておられ、一人一人に特別な思いをもっていてくださるのです。

 生まれつき目の見えない人も、決して神様の愛を受けていないのではなくて、またこの人に何かが欠けているのではなくて、神様がこの人に特別なご計画を用意してくださっているからだと、イエス様はお答えくださったのでした。私たちもそうです。自分のことを誰よりも素晴らしい人間だとは言えません。しかし、誰とも違う、掛け買いのない人間として神様に愛されているのです。

 今日の聖書の中にも、その大切なことが言われています。

「万物は、言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは、何一つなかった」

 このことを知らしめるために、イエス様は来てくださいまいた。どんな小さく見える自分であっても、どんなに見劣りのする自分であっても、あなたは神様の愛によって作られ、あなたの人生には神様の素晴らしいご計画があるのですよと、イエス様は私たちに教えてくださるのです。 
言は命
 そして、その「言の内に命があった」と、聖書は語っています。それは私たち一人一人の人生にあたえられている神様の御心を知ることが、私たちを神の子として生かす命なのだということです。

 日本にもよくいらして、神様への讃美を歌って活躍しておられるレーナ・マリアさんという歌手の方がおられます。レーナ・マリアさんは生まれつき両手がなく、片足も短いまま成長しないというたいへん重い障害をもって生まれてきました。唯一健康な片足を、まるで手のように器用に使いこなして、なんでも自分でやり遂げてしまう凄い方なのですが、その方は自分の人生についてこんな風に語っておられます。

 「神様が、もし私の体を癒そうと思われるならば、私は癒されると信じています。しかし、私はそれを望んだことがありません。最初は、人は違って一杯の水を飲むのも本当に苦労しましたが、そういう努力をすることによって随分忍耐強い性格になりましたし、水泳の選手としてパラリンピックに出ることもできましたし、日本に来て歌うこともできるようになりました。他にもいろいろと楽しい経験があるのです。『主は羊飼い、私には乏しいことはない』という御言葉を本当にその通りだなと思っています。私はこの体を不幸だと思ったことがないのです。いい人生だと思っています」

 レーナ・マリアさんは重い身体障害者ですが、自分の人生にあたえられている神様の愛というものを知っているのです。だから、「いい人生だ」と言える。まさに神様の御心を知り、それを受け入れることによって、神の命を受けて生きておられるのです。

 楽な人生がいい人生と限りません。辛くてもいい人生があるのです。それは生きている意味を感じられる人生ではないでしょうか。三浦綾子さんの『光あるうちに』という本に、読者からの同じような悩みを書いた二つの手紙が紹介されていました。

 「わたしは三十歳の主婦です。近頃、私は生きるとは何か、と疑問を持つようになりました。朝起きて食事の用意をし、主人を送り出し、子供を幼稚園に送っていきます。そのあとは、掃除、洗濯、買い物、そして夕食の仕事。ある時、わたしは思いました。十年後も、二十年後も、わたしは同じ毎日を繰り返しているのではないか、と。繰り返すだけで老いていく人生。そう思っただけで、わたしは生きていることが、これで良いのかと考えずにはいられませんでした」

 「ぼくは高校三年生です。受験勉強に追われています。たぶん来年の今頃は、二流か三流の大学にのそのそ通っていることでしょう。そして四年過ぎると、また二、三流の会社に通っているにちがいありません。一生平社員か、うまくいっても課長止まりで、定年になるわけです。ぼくと結婚する女性は、どうせ、人がアッと驚くような美人でもなし、才女でもなし、平凡な家庭、退屈な家庭を作るでしょう。そして、ぼくに似た凡々たる子が二人か三人生まれて、ぼくと同じコースをたどるに違いありません。ぼくが定年を迎えると、もう、僕を邪魔者扱いにする子どもたちだと思います。こう考えてくると、生きていることが何なのか、わからなくなるのです」

 二人とも、自分の人生が大切に思えなくなってしまったというので。その理由として、人生の平凡さということを言っておられるます。でも、三浦綾子さんは、ご自身の体験をもって、こんな風に答えておられました。三浦さんは、結核を患い、脊髄カリエスを患い、13年間療養しました。ギブスベットに寝たまま、食事を作ってもらい、便器をとってもらい、洗濯をしてもらい、医療費はかかる、心配はかける、治る見込みはない。自分は廃品同様の人間だ、死んだ方がましだと、つくづく考えたそうです。ところが、クリスチャンになって人のために祈るようになって、また一人一人の友の上に思いを馳せてベットで仰向けになったままたどたどしくハガキを書いて送るようになったそうです。

 祈ることや、ハガキを書くことなど何でもないことのように思われますが、今まで自分の事ばかり考えて、自分が情けない、死にたいとばかり思っていた自分が、少しでも人のことを考えるようになったとき、自分が別人のようになった気がしたといいます。実際、それ以来、たくさんの人が三浦さんを慕って病室に来るようになったそうです。つまり、平凡な毎日だから生きている意味がないのではなくて、自分のことしか考えていないから自分の人生が大切に思えないのだと、三浦さんはこのように言われるわけです。

 来る日も来る日も、食事の支度と洗濯、掃除の繰り返しであってもいいのです。問題はいかなる気持ちでそれを繰り返すかということです。家族が楽しく食事ができ、清潔な服を着ることができ、整頓された部屋に憩い、しみじみと幸せだと思える家庭を作る。それがどんなに大切な仕事であるかと考えたら、自分のしていることが空しいとは思わないで、喜びをもって生きることができるはずだというわけです。

 こうして考えてみますと、イエス様の光に照らされるということは、明るくて楽しいことがたくさんあるという事だとは限りません。どんなに自分が惨めに思えても、実はこの私は神様に愛されている者のだという真実を知ること、それが心にともし火を持つということなのです。どんなに小さな事しかできなくても、どんなに辛いことであっても、それが神様の与えてくださった私の仕事なのだという満足を知ること、それが命に輝きを持つと言うことなのです。それが「光は暗闇の中で輝いている」ということの意味なのです。

 イエス様は、人の光として世に来てくださいました。私たちは、イエス様がともし火を戴いて、どんな暗闇の中をも、神様の愛を信じて、また神様の仕事をしている喜びをもって生きていくことができるのです。私たちは光の子として、光の中を生きることができるのです。
闇は光に勝たなかった
 もう一つ、この御言葉を学びましょう。

 「暗闇は光を理解しなかった」

 これはどういうことなのでしょうか。「理解する」という言葉には、「しっかりと掴まえる、捉える」という意味があります。つまり闇は光を捉えることができないということです。どんなに暗闇が深く底なしに見えても、光がどんなにかすんで見えようとも、イエス様を信じて生きる私たちは、光の子として光を失うことなく、光の中に生き続けることができるのです。

 「世に勝つ者は誰か、イエスを神の子と信じる者ではないか」という御言葉もあります。勝つということは、決して負けないということでもあります。どんな暗闇の力にも負けないこと、耐えること、希望を失わないこと、神の愛を信じ続けること、それが勝利につながるのです。

 どうぞ、クリスマスを告げる天使の言葉をご一緒に聞きましょう。

 「天使は言った。『恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。』」
 
 光は闇の中に輝いている! それは確かにイエス様によってあたえられている恵みなのです。
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