Jesus, Lover Of My Soul
信仰生活の証し
 
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■一人分の足跡
60代 女性

 今日ここで証をとのお話を頂いた時、「何故、今なのだろう」と考えました。夫はこの九月で会社を定年退職いたします。結婚して三十四年、その間、夫の転勤ついてインドネシア二回、マレーシア、タイと合計約十二年半の海外生活を致しました。いろいろ良いことも、楽しいことも、辛いことも海外に住んだことで経験させていただいた事がたくさんありました。この大きな区切りの時期にその海外でのお話をしなさいとの事ではないかと思いました。

■ 信仰への導き

 その前に私が信仰へ導かれたきっかけをすこし話したいと思います。中学受験を決めて、受験勉強をしていた小学校六年生の後半だったと思いますが、突然父から「女子聖学院を受けなさい。」と言われ、友人と同じ別の学校を受けるつもりでいた私は、「嫌」と言いたかったのですが、その頃父親はとても恐い存在で、逆らうことなど出来ず、やっと「何で?」と聞くと、父の仕事の関係で学校へ行った時、廊下ですれ違った生徒たちが一人残らず会釈をして通ったのを見て、ここならお行儀の良い女の子になれると、それだけで決めたといっていました。内心不満を持ちながらの受験でしたが、合格させていただきました。父はキリスト教主義が気に入って受験をきめたのではありませんが、こうして今、私が教会生活をできているのは、両親からの大きなプレゼントだと思っております。ただ父の思っているお行儀の良いお嬢様にはなれませんでしたが・・・

 学校へ行き始めてしばらくすると学校から近くの教会へ行くように勧められました。その頃、妹の小学校の担任の先生がホーリネスの尾久教会のメンバーの方でした。その方や尾久教会のメンバーの方が、田端新町一丁目で教会学校をやって下さっていました。妹も時々行っておりましたので、その教会学校へ数ヶ月通いました。ただ中学生は少なかったと記憶しています。

 学校で知り合いになった友人が、わたしの行っている教会に行かないと誘ってくださったのがきっかっけで、この荒川教会に始めてきましたのがもう四十八年も前になってしまいました。

 中学生だけでも十人近く出席していたのではないでしょうか。決してまじめに教会学校に毎週出席する生徒ではありませんでした。しばらく休んでいると先生からお便りを頂き、又出席するという状態でした。先日受洗なさった高校一年生の赤司さんのお話をきくと、恥ずかしくなってしまいます。同じ高校一年生の時、彼女のように真剣に考えて教会学校へは来ていいなかったのではないかと思います。

 それでも高校三年生の時、受洗を決意させていただく事できました。しかし両親に反対されました。その理由が、クリスチャンになったら、結婚相手がせばまるから、結婚相手が良いというまで、待ちなさいと云う事でした。そんな、とは思いながら、勝野先生に相談しましたら、「両親が判ってくれるまで、少し待ってみたら。そのかわりその間、あなたが、クリスチャンとして自分の人生を送りたいと言う気持ちを、言葉だけではなく、行動でも示して両親にもわかってもらいなさい」とおっしゃってくださったのが、今も心に残っています。

 結局一年後のクリスマス受洗いたしましたが、その前に両親に「やはり洗礼をうけるから。」と話しました。反対もしませんでしたが、何にも言いませんでした。今考えますとあの一年間色々あった中で、どうしたら判ってくれるかしらと、努力もした期間です。時々あの時の思いを忘れてはならないと言いきかせております。

 それから四十年のあまり歩みの中で、神様に誉めて頂けるような熱心なクリスチャンではありませんでした。例えば、聖書の通読をしようと始めるのですが、何回挫折したことでしょう。ちょうど娘が、ピアノの練習の時、間違えると、間違えた所を何度か練習して先へ進めば良いのに、間違えると最初から弾きなおしの繰り返しでなかなか先へ進めなかったように、私の通読もなかなか先へ進みません。娘には怒っていましたのに、自分も同じようなことやっていると、気がつきましたのは大分後のことでした。そんな私ですが、通読のテキストを頂いたり、クリスチャンの姉妹からいろいろアドバイスを受けたりしながら、教会生活も歩ませていただきました。

■ 海外での生活

 結婚して三年余り過ぎた、一九七五年にインドネシアへの転勤が決まりました。夫より半年遅れて、十一月の始め、当時はまだ直行便が無く、二歳半の娘を連れて、香港・シンガポールと乗り換えて、やっとインドネシアのジャカルタ着きました。初めての海外で緊張していたのでしょう。娘が香港に着陸した時、自分が飛行機に乗っていることがわからなかったのでしょうか、乗っている飛行機の窓から見える隣の大きな飛行機に興奮して、大きな声で「ママ見て、飛行機よ」と大声で叫び、回りの方々に笑われた事だけを良く憶えております。

 着いて次の日から、我が家にはインドネシア人のメイドが二人いて、お料理やら、お掃除等の指示をインドネシア語でしなければなりません。家にいると一日中辞書を片手に、又、台所には野菜やお魚、肉の名前、お料理の蒸す、焼くとか普段良く使うインドネシア語を書いて、壁に貼って憶えました。夜、寝室に入り、辞書をおくとほっとした事を思い出します。半年もすると大分慣れてまいりました。

 そんな思いをするならメイドを雇わなければと思われるかと思いますが、三十年前のインドネシアでは、外国人の所ではなるべくメイドを使って欲しいと云われておりました。地方では、働くところも無く、生活も出来ませんので、親戚を頼って、早い子は十二〜十三歳になるとジャカルタへ出てきます。その当時我が家で働いていたメイドもひとりは十四歳だったと思います。故郷でほとんど小学校も行けず、確か小学校へは一ヶ月だけ行ったといっておりました。ですから字が読めませんし、書けません。買い物は憶えられるだけ頼んだ記憶があります。又年齢を聞いても、はっきり分からない子もいました。日本のように戸籍が無いので、自分の年も判らなかったようです。

 又ほとんどの子が電気の無い生活をしていたので、電気冷蔵庫も知りません。ですからドアの開け方も知りません。ある日無理やり引っ張ったのでしょう、びんが飛び出し、足にけがをしてしまった子もありました。電気の電圧が日本は百ボルトですが、インドネシアは二百二十ボルトでした。日本から持ってきた冷蔵庫は変圧器を使っていました。ある日お掃除の時、床を拭いてくれるのは良いのですが、びちゃびちゃのモップで拭きますので、変圧器が濡れると危ないと思い、下にレンガを引きなさいと言ったつもりが、私のインドネシア語の言い方も足らなかったのでしょう。出かけて帰ってみると、なんと変圧器の上にレンガが上手に乗っているではありませんか。どうしてれんがを敷くかを細かく説明しなかったためもあるのですが、当然分かるだろうと思っていた私は、ショックですぐに言葉が出なかったのを思い出します。今思うとあの光景は笑ってしまうのですが・・・。

 ジャカルタで生活し始めて、やっと二ヶ月を過ぎた頃、泥棒に入られ、台所の電気製品や服など盗まれてしまいました。なによりもショックだったのは、娘がすぐになついてくれたのですが、結婚すると言って数週間前にやめたメイドが、その泥棒の手引きをした事でした。結婚するからというので、日本から持ってきた食器などを持たせてやったのですが、古くからジャカルタに住んでいる日本人の方に「そこまでしてあげても、あなたの気持ちは伝わらない」と言われていただけに、辛かったこと思い出します。

 雨季になりますと、ほとんど毎晩と言っていいほど、スコールがきて、雷がなると、停電になります。灯油ランプをつけて、暑い中、薄暗い中での夕食でした。ひどい時は三日近くも続きました。何時頃復旧するか連絡ありません。冷蔵庫のお肉や魚等、傷んでしまうので、とにかく全部だして火を入れておこうとやりだすと、電気がぱっとついたりして、どっと疲れてしまう事等何度か経験いたしました。ですから、二回目の駐在の時、一番、最初に用意いたしましたものはろうそくでした。ですが、二回目のジャカルタ駐在の四年半の間停電になったのは、ほんの数回で、長い停電ではなく、持っていったたくさんのろうそくはほとんど使わずで、余計な物を持ってきたと、友人にも笑われてしまいました。

 当時、日本の今と明治が混在しているジャカルタだとその云われていました。本当に立派な高いビルの横に、むしろのようなものや、ベニヤ板だけでつくった、家といえないようなところにすんでいる人々もたくさんいました。言葉の違い、国民性の違いからくる、ギャップでのトラブルはかなり経験いたしました。

■ 教会生活

 住んでいたジャカルタには日本語で礼拝している教会は無く、英語かインドネシア語でした。お話がなかなか理解できず何回かしか出席できないうちに、家族も特に夫は、こちらに来たら教会は行かなくても良いと思ったのでしょう。

 日曜日にお客様がいらしたりして、増々教会に行けなくなってしました。自分の中でこれではいけないと思いつつ、流れに逆らえない日々に悩んでおりました。そんな中でプロテスタントの方、カトリックの方一緒に聖書の学びをしているからと、カトリックの信者の方が、声をかけてくださり、何回か出席いたしました。

 なかなか教会へ行けないまま二年の月日が流れてしまいました。ある日突然主人から、一緒に働いている若いインドネシア人に多額のお金を持ち逃げされてしまったことをつげられ、本当にびっくりいたしました。夫がまったくその人を信用してしまいまかせてしまったのです。夫もショックだったと思います。その上その人の周りに良くない友達が付いていて、反対に脅しに来たりされてしまい、家族も危ないと云う事で、ホテルへ移って生活をしました。本当に無事に日本へ帰れるかしらと、ホテルの目の前にある海をみながら、この海が日本に続いていると思いながら、なんと遠くに今いるのだと辛い日々でした。無邪気に遊んでいる娘を日本へ無事に連れて帰らねばという思いだけでした。

 何も出来ない、親も兄弟も傍にいない、相談できない中で、祈るしか、その祈りさえも出来ずにいた日々でした。それでもそんな中、コリント信徒への手紙一の一章十三節、あなたがたを耐えられないような試練にあわせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えてくださるというみことばをいただき、どうぞ私の行くべき道をお与えくださいと祈れるようになった事は支えであり、恵みでした。

 この事件を通して、沢山の事を学ばせていただきました。そのひとつに同じような話を聞いたり、見たりする時、一緒に仕事をしていた方、周りの家族の事にどうなのかしらと思いを馳せられる様になりました。

 その後、無事日本に戻ることができましたが、この数年は本当にいろいろなことがあり、父に「教会へ行ってるのに、なぜ次々と辛いことがおきるのだと」言われ、キリスト教はご利益宗教ではないからとしか言えませんでした。

 一九八四年にマレーシアに転勤になりました。夫は転職し、違う会社からの転勤です。静岡に家を建て、やっと一年住んだ所でした。子供の夏休みを待って出発いたしました。

 居間だけで三十畳以上ある百坪近い大きな家でしたが、お隣のマレー人の方が、日本に駐在したことのある方でしたので、あちらからも声をかけてくださり、本当に良くして頂きました。ある時、そこの奥様が「娘がおにぎりを懐かしがって、食べたいから作って欲しいといわれたが、出来ないから教えて欲しい」といらっしゃいました。多分お米がマレーシアのだとパサパサなので丸めること出来ません。当時日本人の多くの方が、カリフォルニア米や、オーストラリア米を使っていましたので、そのお米でおにぎりを作ってお持ちすると、「おーミラクル!」と笑いながらおっしゃってくだり、とても喜んでくださいました。

 クアラルンプールには超教派で日本人クリスチャンの集い、Japanese Chirstian fellowshipがあり、夕方から、月2回でしたが、日本語で礼拝を守っていましたので、そちらに出席させていただき、日本語でお話を伺える恵みをとても感じ感謝でした。婦人会もメンバーの方のお宅を持ち回りでやっていましたので、そのお交わりの中にもいれていただきました。

 四年経った、一九八八年一月始め夫が日本の本社から呼ばれましたので、もうボチボチ日本へ戻れる話かしらと、思っていました日本からの夫の電話で「日本が遠くなったぞ。」と言うので、なんの事かと思いましたら、そのまま日本へ帰らず、インドネシア。ジャカルタ転勤の話がでたということでした。その話を聞いたときは本当にびっくりし、悩みました。正直言って、出来ることなら、ふたたび足を踏み入れたくない所でした。

 神様どうして、あの辛い思いをした地へ、ふたたび行かなければならないのですかと、文句を言っていました。夫はもう一度ジャカルタで仕事をしたいと、思っておりましたので、一緒に行くことを決めました。ただ娘が中学三年生になっていましたので、学校のことでも、悩み、荷物を出してもまだ、迷って、悩んでいた日々でした。ですが、もう一度インドネシアの生活を始めました。

 十年経ちましたインドネシア、ジャカルタの町もびっくりするほど変わっていました。大きな高いビルがふえデパートのような所も増えていましたが、ただちょっと奥へはいると、ベニヤ板だけ使った本当に小さな、家とは云えないような所に住んでいる人も沢山いました。前は車が信号に止まるとまだ小さい子が物を売りに来たり、物乞いがきたりしていたのですが、それが無くなっていたのにはほっとしましたが、ただ貧富の差は相変わらずひどいものでした。日本で言う中流家庭がなく、お金持ちか貧しいかという感じでした。

 その折にはジャカルタにも日本語クリスチャンの集いがあり、毎週日本語で礼拝が守られていました。クリスチャン方々との素晴らしい交わりの中で四年半近く過ごさせていただきました。宣教師の先生に前回来た時はなかなか礼拝にもでられなかったと、お話しましたら、その分今頑張って教会生活してくださいねと、おっしゃられた時もう一度ここで歩みをさせていただいている事は神様のご計画、そして沢山の恵みを頂いたことを気付かされました。

 しばらくして、教会の資料をみていましたら、一九七七年の集まりの資料が出てきて。新来者の欄に私の名前を発見したときは、本当にびっくり致しました。前の駐在の時何回か出ていました、聖書を学ぶ会から日本語クリスチャンの集いへとつながっていましたので、その当時の資料も残っていたのだと思います。

 その後一九九二年マレーシア・インドネシア合わせて八年半の駐在を終え、日本に戻りましたが、又一九九六年、二年近くでしたが、タイバンコクでの生活も経験させていただきました。こちらにもバンコク日本語教会がありましたので、出席させていただき、よき交わりの中で、思い出深い楽しい日々をすごさせていただきました。

■ 背負ってくださる神の恵み

 海外での生活を思い出しますとき、本当に貴重な体験をさせていただいたと思っています。何よりも大変な時は気が付きませんでした、神様の沢山のお恵みとお守りをいただきました。

 今日の準備をしていく中で先程読んでいただいた、イザヤ書四六章一節から十三節が与えられました。ここの所は、イスラエルの人々が滅ぼされ、多くの人がバビロンに連れて行かれ大変な思いをしていた時でした。バビロンには多神教の偶像礼拝をする所で、捕囚され大変な思いをしているイスラエルの人々の中にはそちらに傾いた人もいたかもしれません、そんな中、預言者が、イスラエルの人々に唯一眞の神をイスラエルの人にもう一度解ってもらいたかったのでしょう。どんな時にも何時までも背負って守ってくださる方がいらっしゃることを。

 こんなに神さまは私達を助けてくださり、守ってくださっています。試練の時、苦難の時は気が付かず。「神様、なぜ?」といってしまう事の多いのですが、いままで、海外生活をも含めて、背負ってまで共にいてくださる神様がいらしたことの恵みを今改めておもいます。皆さんもよく耳になさっていらっしゃると思いますが、マーガレット・パワーズという方が書いた「足跡」という詩がございます。最後にこの詩を読ませていただきたいと思います。

 ある夜私は夢をみた
 イエスさまと一緒に砂浜を歩いていた
 私の人生のひとこまひとこまが
 空いっぱいに映しだされた
 どの場面にも二人の足跡が
 砂の上についていた
 ひとつは私のもので
 もうひとつはイエスさまのものだった
 私の人生の最後のシーンが映し出されたとき
 私は砂の上の足跡をふりかえってみた
 なぜか、ところどころ一人分の足跡しかないことに気づいた
 しかもそれは私の人生の
 どん底でいちばん悲しい時だった
 私はどういうことかわからず
 イエスさまにたずねた
 『イエスさま
 私があなたに従うと決心してからいつも一緒に歩いてくださ
 ると
 約束してくださったではありませんか
 それなのに私の人生で一番辛い時、一人分の足跡しかないの
 です
 なぜ私があなたを最も必要とした時
 私をみすてられたのですか 』
 イエスさまはこう言われた
 『私の大切な子よ
 私があなたから離れたことは いちどもなかった
 あなたが試みにあって苦しんでいた時
 一人分の足跡しかないのは
 そのとき私はあなたを背負っていたからだよ』

 これほどまでに私達を愛し、いつも傍らにいてくださっている主イェスキリストをしっかりと心に留め、一人分の足跡の大きな恵みを忘れないで、日々の歩みをしたいと思っています。

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日本キリスト教団 荒川教会 牧師 国府田祐人  電話/FAX 03-3892-9401  Email: yuto@indigo.plala.or.jp