Jesus, Lover Of My Soul
信仰生活の証し
 
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■私を掴まえてくださった神様の愛
30代 女性
 主の御名を讃美します。
 きょうは神様の愛の忍耐強さ、情け深さを自慢させていただきたいと思います。どういう事かと申しますと、今までどんなに私が神さまに対して離れようとしても、心をどこかに向けても、失礼なことを繰り返しても、神さまがしっかりと私をつかまえていてくださったという事です。

 私が初めてこの教会に来たのは母の胎内にある時でした。子どもは無理だと言われていたのに、やっと授かった子だそうで、母はクリスチャンではありませんが、それなりに考え、心を清めたいと思ったらしく、何度か大きなお腹で礼拝に足をはこんだそうです。今、思えば、その時にすでに私は祝福を頂いていたのでしょう。
 その後、十歳の時、生まれて初めてですが、近所のおばあちゃんである教会員のU姉につれられて教会学校に来て通い始めました。星のシールやかわいいカードが欲しく、ただそれだけで熱心に通いました。
 やがて高校生になった時ですが、だいたい高校生になると皆教会から足が遠のくのですが、私の場合、中学生の時、片思いだった人が聖学院高校に入学したと聞き、「もしかしたら、彼は教会に来るかもしれない」そんな期待と言うか、下心で大人の礼拝にしばしば出席するようになりました。

 そんな姿が傍目にはまじめに見えてしまったのでしょうか。高校二年の時、教会学校のお手伝いをするようになり、高校三年の時、前牧師の勝野先生に受洗を勧められました。本当に恥ずかしい話ですが、この時、私はしっかりとした信仰告白も持たず、まったくお気楽な気持ちで洗礼を受けてしまいました。

 その後、日曜日に通うのが億劫な時もありましたが、教会学校の責任があるために通いました。教会学校は楽しかったのですが、辞めたいときもありました。けれども人手が足りないのが目に見えているところへ「辞めたい」という勇気がありませんでした。結局、離れようとしても離れることができませんでした。
 やがて保母になり、子どもたちの命や生活をあずかるようになり、私の祈りやお説教に対する姿勢が変わってきました。しかし、祈りが聞かれると、その時は神さまを讃美し、感謝しますが、またいつの間にか心がそっぽを向く、の繰り返しでした。
 心が離れようとすると神さまは必ず私に見合った課題や試練を与えてくださり、あの手この手で私を教会につなげてくださいました。今思えば本当にありがたいのですが、この時はなんか神さまにつかまってしまったようで「しまったなあ」という気持ちでした。

 そして、これはぐうたらの私への、神さまの最終手段ではないかと思うのですが、神さまは病気を与えてくださいました。今から二年前位から死について考えるようになり、また人間の罪についても考えるようになりました。大きな病気をなさった方なら皆思うようなのですが、「自分の力で生きている」という傲慢さに気づき、何か大きな力によって「生かされている」という思いに変えられるのです。

 私はもちろんその大きな力とは神さまであると確信しました。それからは、毎週、牧師先生に特別に祈りの時を持っていただきました。その祈りの中で、私はどんどん変えられていきました。朝も夜も、また昼も、何回も祈るようになりました。と言うより希望と平安を得るため祈らざるを得なくなりました。また、その日一日、過ごせた喜びを感謝せずにいられなくなりました。私の人生に神さまがなくてならなくなったのです。
 聖書の御言葉もよく分かるようになりました。今までも、もちろん分からなかったわけではないのですが、また私に語られていなかったわけでもないのですが、でもまったく初めてイエス様を知ったような気持ちで御言葉をいただけるようになったのです。
 そして、イエス様がこんな私のために十字架についてくださったありがたさが本当によく分かるようになりました。また、これも聖霊様のお働きであるということも分かるようになりました。

 そこでぶどう園のたとえ話ですが、ここは子どもの頃から何回か読み慣れて親しんでいた箇所です。神さまの愛は、どんな人にも平等だという事で、頭で理解してきました。
 私はかれこれ18年、教会学校をお手伝いしてきました。教会の為にある程度は奉仕しているだろうと言うまったく傲慢な思いで、この話を自分に当てはめるなら、まあ朝とは言えないけど、せいぜい昼頃から働いている者ぐらいにはなるだろうと思っていました。そして受洗してまもない方が立派な信仰告白をされている姿を見ると、いつもこの箇所を思い起こしては「なるほどなぁ」と思っていました。
 ところが、最近のことですが、ここを読んではっとしました。今まで私は何を勘違いしていたのだろうと。私の今までの信仰生活は少しも神さま中心ではなかった。これでどうして昼から働いていたと言えるでしょうか。今でも、今日こそ神さまに従って一日を過ごせますようにと朝祈っても、夜は神さまにあやまる毎日です。ましてや洗礼を受けて十年以上も経っているのに、「神さま中心の生活をしたい」と気づいたのはつい最近です。これでは夕方一時間働いた者よりももっと少ないではないですか。それでも神さまは今日まで守り、つかまえ、そして招いてくださった。なんとありがたいことでしょう。
 この時初めて、この箇所が訓示や教科書ではなく、私に語られた命の御言葉、神さまの愛のメッセージになりました。そして喜びの涙に溢れました。

 私は神さまから病気を頂きました。世の中の人は気の毒がるでしょう。私も癒されたいと思っていますし、祈っています。そして、必要ならば癒されると信じています。けれども健康になってまた神さまから離れようとする私になるよりは、天に召されるまで喜んで神さまに掴まっている方が幸せだと思うようになりました。なんだかお気楽で優柔不断な私にぴったりの神さまの愛のご計画のような気がします。もちろん、体調の悪いときや、辛い時、くじけてしまう事はちょくちょくありますが、牧師先生はじめ祈りの友の皆さんの祈りに支えられて、最後には感謝へと導かれているこの頃です。

 どうか、この神さまの愛の深さを多くの方と共に喜び、讃美したいと思います。また、このつたない私の言葉が、聖霊様のお働きによって、まだイエス様と出逢っている事に気づいていない方々の心に讃美とかえられます事をお祈りいたします。
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日本キリスト教団 荒川教会 牧師 国府田祐人  電話/FAX 03-3892-9401  Email: yuto@indigo.plala.or.jp