■ エリシャではなく神が救う
ナアマンは死を身にまとった体から救われました。それはエリシャが類い希なる預言者だったからでしょうか。いいえ、エリシャは何もしませんでした。手を置いて祈ることもしませんでした。説教もしなければ、信じるように勧めることもしませんでした。そもそも、ナアマンに会うことすらしなかったのです。
しかし、このようにエリシャが何もしなかったことによって、主こそ神であることが明らかにされました。そして、神のみ救いを経験したナアマンは、今後は他の神々に仕えることはせず、ただ主のみを礼拝して生きるということを誓ったのです。
■ まことの礼拝者になる
「まことの礼拝者」となる。これが神様への感謝の生活です。神様に救われた者の喜びの生活です。
エリシャは、ナアマンがまことの礼拝者に変えられたのをみて、「安心して行きなさい」と祝福しました。安心、平安、平和、安らぎ…、まことの礼拝者には、大いなる安息の祝福が伴います。「神われらと共にいます」という安息です。
それなら、まことの礼拝者となるということは、感謝の生活ばかりでなく、救われた生活をするということになるのではないでしょうか。
神なく、望みなく生きていた者たちが、まこと礼拝者となる。これは父なる神の切なる願いです。イエス様は言われました。「まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ」
父なる神は、失われた子供たちを、もう一度、御腕の中に抱きたいと願っていて下さるお方なのです。
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