281 絶望してはいけない

わたしはすべての山に道をひらき
  広い道を高く通す。

(『イザヤ書』第49章11節)
 人生の行く手に、自分には越えることができないと思える山が、そびえて見えることがあります。そのような時こそ、わたしたちの信仰が試される時なのです。自分の知恵や力、努力や気力によっては、もはや希望をつなぐことができないと思えるとき、けっして絶望してはいけません。「わたしはすべての山に道をひらく」と仰って下さっている神様を信じ、神様の知恵と力によって希望を持つ者となりましょう。試練は、わたしたちを試すだけではありません。わたしたちを清め、鍛え、強くするのです。

282 知恵のはじまり

主を畏れることは知恵の初め。
  無知な者は知恵をも諭しをも侮る。

(『箴言』第1章7節)
 何事につけ、ひとの判断というのは、自分勝手なことが多いものです。信仰に関することも例外ではありません。自分の欲するとことが起これば神の恵みをほめたたえ、欲しないことが起こればサタンの仕業かと怪しむ。ないしは神が信じられなくなったと嘆き出す。そういう判断は、自分の欲する側面しかみようとしない性急さから生じるのであって、はなはだ不正確なものなのです。恵みだと思ったら、実は誘惑であり、サタンの仕業だと思ったら、実は神の祝福だったということがあるのです。性急な判断に頼らず、神ご自身が教えてくださるように祈りましょう。

283 一所懸命な人

まっすぐな人には闇の中にも光が昇る
  憐れみに富み、情け深く、正しい光が。。

(『詩編』112篇4節)
 主の弟子にもいろいろな人がいました。頑固な人、気が短い人、せっかちな人、率直すぎる人、理屈っぽい人、疑り深い人、心配性な人、臆病な人。でも、一つの共通点があったように思います。みな一所懸命でした。一所懸命とは、一つの場所を命がけで守り抜こうとすることです。彼らの一つの場所とは、「イエス様のお側」でした。いつもそこにいる者となりたいという一所懸命さが、ある人には頑固さとなり、ある人には率直さとなり、いろいろな欠点となって現れていたのではないでしょうか。しかし、神様はこのようにまっすぐな人を愛し、憐れんで、用いて下さいます。

284 主に従う

そして、歩いておられるイエスを見つめて、「見よ、神の小羊だ」と言った。

(『ヨハネによる福音書』第1章36節)
 「歩いておられるイエスを見つめて」という言葉にハッとさせられました。私が祈りの中で思い浮かべる御姿は、大抵、立つか座るかして、じっとこちらを見ていてくださるイエス様です。しかし、神の目的に向かって歩いておられるイエス様の背中にむかって「主よ、どこに行かれるのですか」と尋ねつつ、その歩みにつき従って行く・・・このような信仰、祈りが、わたしたちに必要なときがあるのではないでしょうか。

285 人に傷つけられるとき

打つ者に頬を向けよ。十分に懲らしめを味わえ。

(『哀歌』第3章30節)
 愛する人の思いがけない言葉や態度によって深い傷を負うことがあります。理解されない孤独、誤解される悲しさ、不当な仕打ちに対する憤り。このやり切れない思いをいかに晴らそうかと、あなたの心はいっぱいになるでしょう。しかし、そのような時にこそ神の御心を思う信仰が必要です。主は、「剣をさやに納めなさい。父がお与えになった杯は、飲むべきではないか。」と言われました。恨みによって何が解決するでしょうか? しかし、それを神に授けられた苦い杯として、信仰をもって飲み干すならば、神に望みを持つことができます。

286 御心を受け入れる

マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」そこで、天使は去って行った。

(『ルカによる福音書』第1章38節)
 天使ガブリエルがマリアにもたらした御告げは、けっして愉快なものではありませんでした。マリアは、それが自分の人生をまったく違ったものにしてしまうであろうと感じたでしょう。恐れや不安もあったでしょう。できるなら逃げ出したいと思ったに違いありません。しかし、マリアはすべてを受け入れることにしました。神の御旨ならば、どこに逃れることはできないと覚悟したのかもしれません。けれども、その時、マリアの心を騒がせていたあらゆる心配、恐れが消え去り、まったき安らぎが訪れたと確信します。神の御旨は受け入れる前は試練ですが、受け入れるならばまたとなき恵みとなるのです。

287 来たるもの

また、祝福に満ちた希望、すなわち偉大なる神であり、わたしたちの救い主であるイエス・キリストの栄光の現れを待ち望むように教えています。

(『テトスへの手紙』2章13節)
 ここにはクリスチャンとはどのような人なのか、教会とはどのような共同体なのかが語られています。それは、祝福に満ちた未来を希望をもって待ち望みつつ、今という時を生きる者たちであるということです。この時代がどんなに混沌としていても、教会がどのような困難のなかにあろうとも、わたしたちの人生が危機に瀕していようとも、わたしたちに来たるべきものは、神の祝福です。その希望の根拠は、神の偉大さにあり、またイエス様の約束にあるのです。どんな日にあっても、神の偉大さとイエス様の約束を思い起こして、わたしたちの今日を希望あるものにしましょう。

288 イエス様の命と私の命

わたしは道であり、真理であり、命である。

(『ヨハネによる福音書』第14章6節)
 イエス様は、「命をもっている」と言われませんでした。そうではなく、「命である」と言われました。命がイエス様を生かしているのではありません。イエス様が命なのです。イエス様は、すべてのものを生かす命そのものです。ですから、私たちの命もイエス様を切り離して考えることはできません。パウロは「わたしにとって生きるとはキリストである」(フィリピ1:21)といいました。これはキリスト教的な生き方について語っているのではなく、自分を生きるということは、十字架で捧げられたイエス様の命を生きていることだと言っているのです。そこから、私たちはどう生きるべきかという答えが導き出されます。

289 罪の道の始まり

レハブアムは国が固まり、自らも力をつけると、すべてのイスラエル人と共に主の律法を捨てた。

(『歴代誌下』第12章1節)
 ユダの王レハブアムは国が固まり、自らも力をつけると、神様に従う道を捨ててしまったと言われています。これは、人が神様を離れてしまうのがどんな時であるかということを如実に示しています。それは人生の逆風の時ではなく、順風の時です。悩みの日ではなく、成功の日です。自分の弱さに打ちひしがれるときではなく、自信に満ちあふれている時です。そのような時、私たちは傲慢になり、神様ではなく自分を信じて生きようとします。それが罪の道の始まりなのです。


290 苦い杯

打つ者に頬を向けよ。十分に懲らしめを味わえ。

(『哀歌』3章30節)
 愛する人の思いがけない言葉や態度によって深い傷を負うことがあります。理解されない孤独、誤解される悲しさ、不当な仕打ちに対する憤り。このやり切れない思いをいかに晴らそうかと、あなたの心はいっぱいになるでしょう。しかし、そのような時にこそ神の御心を思う信仰が必要です。主は、「剣をさやに納めなさい。父がお与えになった杯は、飲むべきではないか。」と言われました。恨みによって何が解決するでしょうか? しかし、それを神に授けられた苦い杯として、信仰をもって飲み干すならば、神に望みを持つことができます。

291 あなたのなかに神の居場所はありますか

わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。

(『マタイによる福音書』第21章13節)
 神殿が貪欲な者たちの欲しいままにむさぼる場所となっているのをごらんになって、イエス様は激しく憤られました。教会はどうでしょうか。聖霊の宮である私たちの魂はどうでしょうか。「神の家」は、何よりも神様にとって安住できる場所でなければなりません。神様がそこを自分の居場所として喜び、楽しみ、安らかなところでなければなりません。そのために必要なものは、神殿の大きさでも、広さでも、頑丈さでもないでしょう。神様を神様として愛し、慕い、崇める信仰が、そこに満ちていることが必要なのです。悔い改めて、自分を神様に明け渡しましょう。

292 お花を育てるように

そこは土が浅いのですぐ芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。

(『マタイによる福音書』13章5-6節)
 「そこは土が浅いので・・・」と、主は言われました。御言葉を学ぼうとする時、「分かったつもり」とか、「分かりっこない」とか、すぐに結論を出してしまうのは禁物です。このような浅薄な姿勢で、御言葉の真価を知ることはできないのです。御言葉は種子です。私たちの心の土壌に深く根を下ろし、芽を出し、成長し、実を結ぶまでには、しばしば時間がかかります。お花を育てるように根気よく、御言葉を学ぶことが必要です。やがて、あなたの中で豊かな実を結ぶことを信じて、御言葉を学び続けましょう。

293 神を求める祈り

涸れた谷に鹿が水を求めるように
  神よ、わたしの魂はあなたを求める。

(『詩編』第42編2節)
 私は鹿の声を知りません。しかし、水がない時のからだの渇きを知っています。愛が満たされない時の心の渇きを知っています。それがなくては生きていけないのに、求めても得られず、満たされず、求め続けずにはいられない切なさ、苦しさ。それが、渇きです。きっと、涸れた谷に水を慕い求める鹿は、山全体を悲しみに震わせる悲しい声で鳴くのでしょう。それは、生きようとする命が、生きるための必要を求めて絞り出す叫びなのです。主よ、どうか私たちの魂に、あなたを慕い大いなる渇望を起こしてください。あなたこそ、私たちの命の源なるお方なのです。

294 神に従う賢さ

わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい。

(『マタイによる福音書』第10章16節 )
 人間の社会も弱肉強食だと、信じている人は少なくありません。醜いほど自分の欲望に素直に生き、狙った獲物を必ず追い詰めるどう猛な知恵に長けた者こそ、この世の力を持つのです。その中にあって、隣人への思いやりを持ち、人に仕え、共に手をたずさえて歩もうとすることは、自分の気持ちにも素直ではないし、賢い生き方ではないのかもしれません。しかし、正しい素直さ、賢さは、自分に従うことでも、世の力におもねることでもなく、御言葉に従う素直さ、賢さにあるのだと、イエス様は言われているのです。

295 狼のなかにいても

わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。

(『マタイによる福音書』第10章16節)
 自分の人生が、自分自身に向かって、牙を剥いてくることがあります。まるで、どう猛な狼が、敵意も露わに取り囲み、様々な攻撃をしかけてくるようです。無力な私たちは、防ぎようにも防げず、逃げようにも逃げられず、恐れ、不安、心細さに、足をすくませるばかりです。そのような中で、私たちは、上記の御言葉を、繰り返し思い起こさなければなりません。狼の群のなかを生きる、無防備な羊のような人生、その時にもなお、あなたの人生の主は、わたしであると、イエス様は言われています。その確かさだけが、私たちの人生を、確かなものとするのです。

296 迫害される御言葉

確かに、主はどもる唇と異国の言葉で
  この民に語られる。

(『イザヤ書』第28章11節)
 言葉が誤解され、ねじ曲げられ、自分の思いが伝わらないもどかしさ、悔しさを経験することがあります。しかし、誰よりも、そういう思いをしてこられたのは、神様ご自身ではないでしょうか。愛を伝えているのに恨まれ、導こうとしているのに反感を買い、救いを与えようとしているのに、疑われる。受肉した神の御言葉であるイエス様が十字架に磔にされたことが物語っているように、御言葉はつねに、自己義認する人間によって、迫害されているのです。それゆえ、御言葉を聞くためには、虚心坦懐をもって、聖霊の導きを祈りつつ、全身全霊を傾けて聞く必要があります。

297 生活の危機と人生の危機

神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。

(『ヨハネの手紙一』4章9節)
 人生の危機は、しばしば生活の危機として襲ってきます。家族の危機、人間関係の軋轢、経済的困窮、病気、仕事上のひざこざ・・・。このような生活の問題が、ついには生きている意味や希望さえもぐらつかせる人生の危機となるのです。しかし、生活の諸問題が解決したら、人生の危機が去るわけではありません。生活の問題は、あなたが内包している人生の危機を浮き彫りにしたに過ぎないのです。痛みが内なる病いを示すように、生活の苦しみが内なる人生の危機を示すのです。救いのメスを入れなければならないのは、人生の危機です。そこにイエス様を、お迎えすることなのです。

298 讃美によってもたらされる豊かさ

詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい。

(『エフェソの信徒への手紙』第5章19節)
 歌をもって語り合うとは、どういうことでしょうか。歌は、言葉に音楽が結びついたものです。リズムや旋律が、言葉に生き生きとした表現を与え、言葉のみで語る以上のことを、言葉に語らせます。歌の素晴らしい点は、声を合わせて歌うことができることです。人々は、斉唱することによって、語り合うこと以上に、心をひとつにすることができます。神の御言葉、信仰告白、祈り、それに音楽をつけ、声を合わせて斉唱すること、それが教会の交わりにふさわしいことはいうまでもありません。讃美歌を心を込めて歌いましょう。そして、教会の交わりを豊かなものにしましょう。

299 あなたは真の王がいる(クリスマス)

今あなたは何ゆえわめき叫ぶのか、あなたのうちに王がないのか。あなたの相談相手は絶えはて、産婦のように激しい痛みがあなたを捕えたのか。

(『ミカ書』第4章9節 口語訳)
 遙かなる天に目をやり、神様にわめき叫ぶ神の民がいます。取り囲む敵、立ちはだかる障害物、自分が持てる力の貧しさに絶望しています。しかし、神様は語られます。「あなたには真の王がいるではないか。霊に満ちた相談相手がいるではないか」と。そうです。私たちにはイエス様がおられます。イエス様が王として、相談相手として、世に来て下さったのです。あらゆる助けと希望が、彼のもとにあります。クリスマスは、その喜びの日です。わたしたちは、もはや救いなき者のようにではなく、救い主を知り、迎え入れた者として、神様を讃美することができるのです。

300 自分に死ぬ

わたしは日々死んでいます。

(『コリントの信徒への手紙1』第15章31節)
 パウロは、自分を献げて、イエス様と人々に仕えました。それは、楽しいことばかりではなく、傷つくことも、悲しいこともったに違いありません。しかし、パウロは、そのような労苦から自分を守ろうとするのではなく、敢えて自分を死に渡すような生き方を選び取ってきました。それが、パウロにとって、生きるということだったのです。イエス様は、「わたしのために命を失う者は、それを得る。」と教えておられます。永遠のいのちは、自分に死ぬことによってのみ、自分のものになり、それによってほんとうに生きることができるようになるのです。キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きるようになると言われているとおりです。


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